遥かなる旅路(心臓バイパス手術手記)+(糖尿病日記)

実名で語る心臓バイパス手術手記+匿名で公開する糖尿病日記

後書きによせて・・・・・・・

2007年03月25日 | Weblog
 今、手術後6年目が経過し、主治医も、「心臓が強くなってき
ています」と云ってくれる。私のこの「心臓バイパス手術手記」
を読み返しながら、公開しようと考えて始めたが、手からとった
血管が6から7年という文字に心が凍ってしまった。私自身、心臓
バイパス手術後既に6年目をむかえている。

 担当医は、「心臓の動きが普通に戻ってきている」と3ヶ月に
1回の受信日には云ってくれるが、この文字の意味が恐ろしい。

 これとて、私が尋ねた事に対する。その時点での、主治医の
知識を私に伝えてくれた事として、感謝をしている。それに、
この事自体、症例は余りないが・・・・・・・と医師は付け加
えているし、また、確かな事として私
に伝えた事ではない。少ない症例から、あえて言えば・・・・
・・・の領域である。

 しかし、その部分を、現在、読むことに多少の恐怖心を覚えた。
 だから、この公開する時の気持ちに少し揺らぎが生じて、しっ
かりと校正ができず、そのまま、以前の文面を公開することとな
ってしまった。

 また、私の質問に誠意を持って答えてくれた医師は、「カテイ
テルで十分に対応できますから」とも答えてくれている。

 人生、必ず終わりがある。これは、どの人々であろうとも、生
を受けたものすべてにある。しかし、少しでも長く生きたい!と
いうのも真実のところである。

 人生、長く生きるばかりが幸せではない。いかに充実した人生
を過ごせるかということが大切であるのだろう。

 充実した人生。それは、他人から見て、充実している人生を送
っているという事であろうか?私自身は、そうとは思わない。

 自分が満足できる人生を送る事。それは、私にとって一番大切
なことである。

        平成1年4月25日
                後書きに代えて・・・・・・・

- 第7章 -

2007年03月25日 | Weblog
7章 身勝手な信者、そして退院


 私は、入院してから夜はほとんど眠っていない。ラジオの深夜放
送を朝の5時過ぎまで聞き、6時頃になると当直看護婦さんが廊下
を消毒液や色々な物を積んだ台車(名前を知らない)を押して回る
けたたましい音がせわしげに走り去る。

7時になると体重測定、毎日、歩ける患者はナースステーション
前で、歩けない患者はベッド脇で計測される。その後、検温、血圧
測定、その前後に採血をされて本日のスケジュールを言い渡される。

例えば、

「Aさん、今日は午前中に心電図、午後にレントゲン検査をします。
時間はわかりませんが、電話がかかりましたらお迎えにきます」

という具合である。

 8時になると朝食が各自のテーブルの上に置かれ、食事が始まる。
食事前、姫大王が夜勤明けの疲れた顔で現れた。

その時私は手術後でまだベッドの上に居ることがほとんどであった。

「姫大王、窓際まで行きたいのだが、いいかい」

と尋ねた。しばらく考えて姫大王は言った。

「いいよ。私がついていてあげる」

こうして窓際まで姫大王に連れられて行った。

外を眺め、それから6階下にある病院の前の通路に目を移した。
その時、突然に私の目に托鉢に出かける40歳前後のお坊さん
が黒い衣で身を包み、傘をかぶった姿で颯爽と路地を私に背を向
けて駆け足のように走り去った。私はそれをみて、

「坊さんはまだ早いよ」

とつぶやいた。



 しばらくその場で立っていたのであるがその後、姫大王に付
き添われてベッドに戻った。そして、心の中で私は、こうつぶ
やいたのである。「父さん、母さん、久三ちゃん(私がフイジ
ーに赴任していた時、癌で倒れ56歳の若さで世を去った兄)
有り難う。今まで側について守っていてくれたのだね。もう大
丈夫と思ったから今、あの若い坊さんに連れられてあの世へ戻
って行ったのだね。有り難う」



42日間入院していたが、お坊さんを見たのはこれが最初で最
後であった。近くにお寺があるのかも知れない。また、病院の
前の路地を通っていつも坊さんが托鉢に出かけていたのかも知
れない。

でも私にとってそんな事はどうでもいい事なのである。私には
父や、母、兄が私の状態が安心できるまで見守っていてくれて、
今日安心して戻って行った。

そしてその事を今、路地を私から遠ざかる方向に急いで立ち去
った坊さんに託して私に知らせてくれたのだと思っている。

(もし、そのお坊さんが私の方向に向かって来たら・・・!!)
その考えがどんなに非科学的な事であっても私にはそのことは関
係ないのである。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 宗教についてもうひとつ私には信じるものがある。それは私が
小学校に入学したばかりの頃だったろうか、髄膜炎という病気に
かかり意識不明の日々が続いたという。母は「山の神様」といわ
れる小さな山の中腹に社がある氏神様に、私が成人するまで月の
7日を命日として願をかけてくれた。

そして私の病気が治るように一心にお願いをしてくれたのである。
私にはもう1人神様がいる。それは「私の守り神様」という名の
神様である。この神様は、すでにこの世を去った兄が私に教えてく
れた神様で、兄の生前、父が中風にかかり72歳でこの世を去るま
での10数年間、兄は深夜に山深くこもり、滝にうたれて修行して
いた。

そして半身不随になった父の手足を一心に揉みほぐしていた姿を
思い出すが、その兄が修行で得た霊感で私に、「‘わたちゃん’
(私は家族にそう呼ばれていた)の背中には神様がついている。

その神様は自分が出来なかった事を‘わたちゃん’にしてもらお
うと背中からはなれない。この神様よりさらに力のある神様が
‘わたちゃん’についたらこの神様は離れるけどそれまでは離れな
い」と教えてくれた。

そして兄は言った。「‘わたちゃん’の背中から後光がさして
いるよ」(後光とは、神様が背中から出す強烈な光らしい)。

 私は占いにすごく興味があるので、兄に尋ねた。

「どんな人?」

 兄はそれに対しては答えるのを嫌がった為なかなか答えても
らえなかったが、何度も尋ねる私にある日その人のことを話し
てくれた。

「背の高い大柄な、ヨーロッパ人風の人で・・・ロシア人のよ
うだ。彫りの深い端正な顔をしている。
相当に身分が高い人だ」

 生前の兄から聞いた「私の守り神さん」はこのような人であった。



 それ以来、私は山の神様と私の守り神様の信者である。思い出し
た時と毎月7日の命日(母がすでに命日は解除してくれている)だ
けは手を合わせる。私のような信者は勝手なもので、命日を忘れる
事もあるし普段はその存在すら忘れている。

でも、困った時など私の都合でいつでも信者になり手を合わせて
お願いするのである。

お願いする時は必ず、‘山の神さん、父さん、母さん、久三ちゃ
ん、それに私の守り神さん’をセットにしてお願いをする。今回
も入院してから心の動揺が出てきたとき、不安になった時、人知
れず手を合わせていたのである。

不思議な事に、真中先生が家族に私の病状を手術後に話された日
が7月7日、私の手術日が6月27日に決定されて、私が618号
室から617号室に移動した。

7の数字が付きまとうのであるが思い過ごしだろうか。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

私の手術の結果を調べる通称‘卒業試験’と呼ばれるカテーテ
ル検査が7月10日に真中先生が行うとの予定が、私に知らされ
た。これに合格すれば1週間くらいリハビリ訓練をして退院にな
るとのことであった。

手術直後の状態は長男が私に説明している。6月27日午後1
時過ぎ、予定時間より少し早く手術室に入った私は、約5時間後、
本田先生、維田先生それに真中先生とスタッフ総勢9人ぐらいの
医療グループに3階の集中治療室入り口にあるパソコンの置かれ
た部屋へ通されそこで、本田先生から、

「手術は成功しました」

と報告を受け、その後私のいるベッドに通され1分ほどの会話
の無い面会が許された。その時の私は、人工呼吸装置をパイプ
でつながれてそれが口の中から出ていたという。血色のよい顔
をしていたとも言った。

 長男が付け加えた。

「本田先生はその説明中、自信に満ちた態度で説明された」

と。それを聞いた私は、私の心臓バイパス手術が成功している
事を確信した。

最先端の心臓血管外科の先生と私とを比較するのはあまりに
も無謀で本田先生、維田先生には申し訳ないと思うが、以前、
私も電子回路、無線技術・通信の第1線の技術者であった。
(現在はもう役に立たないと思うが・・・) 

技術者の仕草はよく私には理解できる。自分が納得できる仕
事をした時、その時が最高の幸せを感じる時でもある。これは
当人にとって世の中にあるどのような高価な物とも代えること
の出来ない価値のある物である。そして、その態度がにじみ出
て来るのである。

血管のバイパス手術を行う心臓血管外科の先生は恐らく私の
ような無線・電子の技術者と通じるところがあると思う。そこ
には我々普通の技術者に通じる精神と同じものが宿っていると
私は考えるのである。

 回診時に見せる本田先生の仕草にも、私はそれを感じていた。
私の質問に、口を軽く一文字に少しゆがめて、2回コックリと
うなずき、そのまま去っていかれる姿にそれを見ていたのである。

 7月10日午後1時30分、計画時間通り、私は4階のカテー
テル室に入った。最初のカテーテル検査はストレッチャーで運ば
れてきたが、今回は看護婦さんに付き添われ歩いて4階まで移動
したのである。待遇は前と大違いであるが、歩いてこられる
事は幸せな事でもあった。

 前回同様の光景でベッドの上に横たわった私は、

「モニターを見せてください」

と、モニター画面が見えるように頭の位置を上げてもらうよう
要求したが、真中先生にたしなまれた。

「今回は無理です。後でご説明しますから」

このようにして私は天上を見たままカテーテル検査を受けた。
今回の検査が前回と違った点は、撮影された写真の枚数が前回
より多かった事。また、時間も前回より長かった事、カテーテル
を挿入した傷口から検査後、その場で管を外し、止血処理を受け
たことであろうか。

真中先生が、

「バイパス手術は完全に成功しています」

と言われた。その時別のモニター室で見ておられた先生、浅野
竜太先生でしょうか?仰向けのまま天井を見ていた私はその先
生を識別で切る状態ではなかった。

「成功です。2日で退院できるでしょう」

と声をかけてくださったのである。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 カテーテルの修了試験に合格してから部屋に戻り、ベッドで
の5時間の絶対安静と排尿による造影剤を排出する為の準備に
入った。 

今回は妻をベッドの側におき5時間ばかりの間の絶対安静の準
備に入った。今回も、看護婦さんに右足をベッドに縛ってもらっ
た。今度は一般病棟で、担当は‘りーさん’

であった。

「最近は足を縛らなくてもいいのよ」

と言いながら苦労して縛っていた姿を思い出す。

妻を横に待機させての排尿はすごくスムーズにいった。予定の
水も全部の飲み干し、3回ばかり妻の助けを借りて排尿をした。

この病院の看護婦さんはじめ、スタッフの皆さんはすごく親切
でよくしてくれることはすでに書いたが、やはり看護婦さんにお
願いすると尿の出が悪いのである。



 5時間の安静時間が経過して、本田先生が現れた。そして、

「階段を1階昇降して問題がなければすぐに退院していいよ」

といわれた。



カテーテルの最後の検査を受ける前、実はリハビリ室から私が救
急車で運ばれてきた時日勤で、私の担当をしてくれた看護婦さん
が、リハビリ室の担当になったと言って、今後のリハビリのスケ
ジュールを持って私を尋ねてくれていたのである。

彼女いわく、私のことは良く覚えていると、

「とても印象深い患者さんと思ったので私の名前を忘れなかった」

と彼女はいった。そして、「あなたの好きなようにリハビリをし
てください。看護婦の私はアドバイスをあなたにするだけです」
と言われた。また、維田先生が、「リハビリを始めるように」指
示されたとのことであった。

その時、我々の間で、リハビリの計画は次のように決まった。明
日1日で、最初に洗面所に行ったとき、廊下を一周する(一周7
5m)。2回目に洗面所に行った時は、廊下を二周、3回目の時は、
廊下を三周する。4回まで行くとして四周することになるので6階
でのリハビリ訓練はそれで終わりその後は、2階のリハビリ室で訓
練する。

そのように訓練を計画していた為、先生に次のようにお願いした。

「先生、この病院は手術を待っておられる患者さんが多いから無
理は言えないのですが、しばらく置いていただけないでしょうか」

先生は、

「相談してみます」

と言われて例の仕草をして部屋を出て行かれた。その後、維田
先生が回診にこられた。

例の笑顔で優しい声である。

「何時退院してもいいですよ」

と本田先生と同じ事を言われた。私は本田先生にお話したこと
を維田先生に告げた。

しばらくして、先生は、

「12日を退院の日に決めましょう」

と言われた。このようにして、私は12日に退院と決まったの
である。



 次の日、計画どおりに廊下で訓練をしていると、2回目が終
わった時、6階の看護婦さんが声をかけて来た。

「何回まわっているのですか?」

私は、

「2回目です」

と返事をした。その後、部屋に引き戻されてしまった。

「1日に何回訓練してもいいですが、1回に一周にして下さい。
毎日1ずつ増やしていくのです、焦らないでください」

と・・・。

こうして私の計画された歩行訓練は目的を達成せずに終わって
しまったのである。

リハビリも又、他の患者さんとは違った形で終了した事になっ
てしまった。



退院当日、7月12日午後1時より真中先生から、家族と私へ
手術に関しての説明があった。 

 モニター画面と針金で出来た模型を手に先ず、モニターを使っ
て説明された。

「右側の冠状動脈はここでつまり、ここから消えています。左側
はここで閉塞し

ています。左側にある他の1つの血管は、ここで90%閉塞して
いて、この血管から辛うじてちょろちょろと血液を送っています。
左側の冠状血管の先からいくつもの細い白い線が見えますね。こ
れらの細い血管を自分で伸ばして100%閉塞した右側冠状血管
を助けています。

バイパスはこれとこれで(モニターの写真に白く太い線が見える)
この冠状血管につながっています」

更に、モニターに写る心臓の写真の右端を示しながら、

「ここは以前に心筋梗塞がおきた場所です」

さらに画面を左下の方に移動させ心臓の写真の底部を示し、

「ここが心筋梗塞を起したところです」

その説明で、心臓の収縮時の範囲が正常の心筋に比べて狭いよ
うな説明の感触を受けた。最後に先生は、

「3ヶ月で閉塞する場合もあります。発作がおきたら、病院に
至急連絡をとってください。間に合わない場合は近くの病院
に救急車で入院してください。また、食べ物は塩分を7g以
下にして油ものは避けてください」

と説明された。

私の延命を図ってくださった先生のお1人として、循環器内科
グループの主治医である真中先生に心より感謝のお礼の言葉を
のべて4階、説明室の部屋を出た。

その後、維田先生から私の退院にあたり注意事項をかねて2階
の会議室で妻、二男とともに説明を受けた。説明図の載った用紙
をだされ、「真中先生にお聞きになっておられますか?」と尋ね
られた。

私は真中先生から説明を受けたことをお話した。その後、説明
が重複しないような配慮がなされたと思う。

血液検査の結果、血糖値は範囲を超えているが、その他の値は
正常の人とあまり変わらないことを話された。

 私はその話題を更に突っ込んでお尋ねした。

「正常値とどれぐらいの差がありますか?」

先生は、

「正常の範囲にすべて入っています」

と答えられた。心筋梗塞の話になり、維田先生は次のように説
明されたと思う。

「残念ながら、この場所に心筋梗塞を起しました」

とその指は、先ほど取り出したA4の用紙に描かれている心臓
の右底を指していた。

私は間をおかず尋ね返した。

「心筋梗塞を起した場所、その範囲は心臓の動作、機能に影響
を与えますか?」

先生は、

「幸いな事に心筋梗塞を起した範囲は狭くてほとんど心臓に影
響は与えません」

強く確信を持った返事として私の耳に響いた。家族も同じ思い
であったと思う。話題

は変わり、

「車の運転は何時頃から出来ますか?」と私は尋ねた。  

「今日(7月12日から)1ヶ月後には運転が出来ます。事故
などで胸をハンドルで打つと危険です」

リハビリの話になり私が、

「退院後1週間で千葉から東京までリハビリに通うのは少し酷
ではないですか?」

と尋ねてみた。先生はいとも簡単に、

「通う事がリハビリになりますね」

と・・・。

 その後、私の仕事の話になり、私が、

「私は、これから5年を単位に生きます。命を助けていただい
たのだから仕事はもう

しなくてもいいんですよ」

と話したら、若いのに、そんなに早くは死にませんよと言う
態度を示され、

「体も頭も、使わないと駄目になりますよ」

と答えられた。

 循環器内科の真中先生は、慎重に慎重に最悪の状態を想定さ
れて何時も説明されたと感じている。心臓血管外科の先生は比
較的楽観的に患者に接しておられたような気がして私にはなら
ないのである。

退院当日の朝、循環器内科の先生方が回診された後、本田先生
が珍しく朝早く私の回診に来て下さった。

「すぐに手術にはいるので・・・」

 例の仕草で言葉少なく話された。私は、心のそこから感謝の
言葉を述べ両手を合わせて合掌した。先生は例の照れた表情で
一字形に口を曲げ、2度ほど前後に首を振られた。その時、先
生の目に少し涙が浮かんでいた気がする。

 いやそれは、私の目にうかんだ涙が先生の顔を私の目に写し、
それが曇って見えたのかも知れない。

そして、本田先生は617号室を出て行かれたのであった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

午後3時前に病院を妻、二男とともに後にした。それから新宿
駅でJR総武線の千葉行きに乗り、津田沼駅で下車、私鉄、新京
成電鉄に乗り換え習志野駅で下車をした。

乗車時間以外は二男の肩からかけられたカバンの紐にぶら下
がって歩行した。宿舎の近くのレストランで軽い退院祝いを兼
ねた夕食をし、家に帰った頃は、すでに空は暗くなっていた。


さあ!明日から新しい人生の出発だ・・・。



注1:Guide for Patient 狭心症・心筋梗塞 (監修:東京女子医
科大学循環器内科学教授 細田瑳一



注2:バルーン治療とは、カテーテル検査の段階で冠状動脈の閉塞
が認められた場合、バルーン(風船)の付いたカテーテルを
狭窄部分に挿入しバルーンを高圧で膨らませる事により狭窄
部分を拡張し冠状動脈の血流の増加を図る治療である。

             

             終わり 後書きへ続く