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マイ・ルーム 予感

2006-05-28 | マイ・ルーム

ここは私の店の一角

今私の脳内ではこの隅っこに

プライベイト空間を
出現させようとしている

もし、
完成させられれば

マイ・ルーム史上最強の
空間となるだろう

なぜなら、この店は
稼げる店なのである

つまり、私の部屋が
稼げる空間となる

老若男女を私が
もてなす場所


ファンタスティック。


皆さんはこれから
リアルタイムで部屋造りを
見ることになるでしょう


現に私は最近東急ハンズ通い

部屋造りの基本パーツを
そろえつつある




今の私の目には

この隅っこが理想の空間に見える・・・



ドン・ミッスィッ!

悪夢の始まり!?
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マイ・ルーム 7

2005-08-21 | マイ・ルーム
PROLOGUE

9ヶ月間、私は狂いに狂った。
洞窟のような部屋で暮らし夢をかなえた。
誰にも邪魔をされない部屋で。
大音響、映像。
一寸歩けば山下埠頭。

だがもう満足である。
色々な嗜好錯誤ももう沢山だ。

'05年、1月、私は実家へ戻った。
妹は就職し、その会社の寮に住むため
家をでていた。かつての北側の部屋
に再び佇む。

このマイ・ルーム・シリーズが始まった
'97年の自分がいた。
まっさらな部屋、そこにかつての
自分を感じた。
カッコ良さを求め、また自分の可能性を
求め苦闘してきたのだ。

もうじき26歳となる私は
自分の限界を知っている。
嘆きは分厚い壁となり
その中で私は固まった。

ジ・エンド・オブ・マイ・ルーム

マイ・ルーム 7

部屋造りのコンセプトはいたってシンプル。
最初に戻す。これだけだった。
只、音響系の機材がかなり増えているので
その配置等は若干悩んだがその他は
何も考えなかった。

ソフト(CD、DVD)のストッカーは新に
購入した。東急ハンズにて壁に打ち付けるタイプの
ラック。300枚はゆうに入る。

完成迄にかかった時間は一週間。
だが、ここで書き記すほどの興奮もなく
淡々と部屋は整っていった。
最後に椅子が来て出来上がった。

窓から外を見る。
エメラルド・グリーンの幼稚園の壁は
そのままだった。

何も感じない。

机の左にはフラットにCDJに繋がっている。
その横にはアナログ・ターン・テーブル。
その下と奥には全てのアナログ・音源。
部屋のコーナーにテレビ。その後ろから
天井まではデジタル音源が壁一面を埋めている。
その横にスピーカー。

もしかつての私だったらそこで何日でも
ミックス・テープ造りに没頭したことであろう。
しかも、今はそれをCDに焼けるのだ。
約10年前には夢のような話。

垂唾ものの音源達にため息をついただろう。
だが、今は何も思わない。
何も造る気にならない。

音楽面のみを考えた場合、それはアイ・チューン
とアイ・ポッドのせいかも分からない。
圧倒的な利便性。
その前には音をつなぐ遊び心など
消え失せてしまう。

無理矢理ミックス・テープを造ろう
とするが、途中で「もういいや」となる。
ある意味でかつて失敗した「音楽断ち」
が出来ているのかもしれない。

また、屋根裏は書庫として復活させた。
マンガのアイデアのモトを集めた。
「狂った9ヶ月」の間に私は可能な
限りアイデア、デザインのモトを集めた。
服を買わなくなり、本ばかりを買った。

参孝・文献のカテゴリーで一部紹介しているが
本当に色々と集めた。
環境は整った。

仕事も無くした私は「ニート」となった。
そのまったくの空白の時間で造られたのが
本ブログであり、デビュー・シングル・コミックである。

創作意欲が急速に失われていく中で
今迄の軌跡を記したかった。
思想を文にしたかった。

実際それらの作業を進めるのに
現在のこの部屋は非常によく機能してくれた。
心の底迄が静けさに包まれた中での作業。

カテゴリーの「マイ・ルーム」と「ポエム」
は私の良心、ジキル・サイドを書いている。
「思想」と「ギャグ」は狂気のハイド・サイド。
静けさの中でその芯を表したつもりである。

後者が私の中から消えることはないだろう。
だが、もうメインに立つことはない。
9ヶ月の生活で分かった。また、そんな狂気
にすがることもないだろう。もうブレたくはない。

ニート生活中に旅にでた。
熊野大社、伊勢神宮を巡る旅。
静けさのマスター・ピース。
今迄に経験したどの旅よりも衝撃的
であった。ここでは書きにくい
神秘体験もあった。

ボロッ、ボロッと色々なものが
落ちていく。少し前まで大事に
していたものでも今の私なら
捨てられる。

※7回に渡ってお届けしてきました
「マイ・ルーム」はこれをもって
終了させて頂きます。

ご覧頂きありがとうございました。
さよなら




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マイ・ルーム 6

2005-08-01 | マイ・ルーム
PROLOGUE

'04年、5月。
私は会社を辞めた。
翌月より、山下埠頭たもとにある
喫茶室を運営することになる。

私がそこで何をしたかったか。

狂いたかった。
何にも邪魔されずに伸びきりたかった。
その生活を始める前の決意表明として
断食をした。

サラリーマン末期の怠惰な自分との
決別だった。水すら飲まずにがんばった。
力石トオルへの憧れも一寸あった。

私の性格の中の歪んだ部分を爆発させる
為に、できることは全てしようと思った。
マイ・ルーム、クライマックスである。

マイ・ルーム 6

店の責任者となる、すなわち一日の大半を
店で過ごす。そうなると、店は私の部屋となる。

再び大移動が始まった。しかも、以前の私の
持ち物JBLのスピーカーとも再会を果たす。
店は二階にあったが一階には開かずの倉庫があった。
ひどく汚いため長らく放置された部屋だった。
私はそこに目を付ける。

店をいくら部屋化するといっても、客席は
どうにもならない。自分用にできるのは
ほんの一部分である。そこで、究極パーソナル
ルームとして一階倉庫を捉えることにした。

そこから死闘が始まる。
予想以上に汚かった。入った瞬間天井にゴキブリ
の卵。まるで、インディー・ジョーンズの世界。
普通なら怯んだだろうが、当時の私はそこに
理想郷を見ていた。
何故か。

厚さ20cm以上あるコンクリートに覆われたその
倉庫はまさに大音響を可能にする夢の空間だった。
屋根裏の挫折をそこで成就しようとした。
年代物の生ゴミ、山のような電化製品。
店の業務そっちのけで私は戦っていた。
ちょっとの掃除では居れる場所になるはずが無く
結局3ヶ月を要した。

パーティーも開いた。
今迄音信不通だった友人達も呼び、賑わった。
前に登場したビッグ・スルーももちろん呼んだ。
マイ・ルームに人を呼ぶのは元来好きである。
店に人が沢山入っている様子を外から眺め
私は満足していた。そういう絵が見たかった。

当時好きだった活動としては
通勤中のサラリーマンを見ながらお茶をすること。
友人の コトワリ君と一緒に早朝集合し
駅のドトールでお茶をたのしんだ。
私は朝からサングラスをかけ、ニヤニヤしていた。
止まった時間の中で自分達だけが動いている
ような気がしていた。

絵の活動も始めようと、チームで雑誌を
創ることにした。雑誌名は『ゼウス』。
創刊予定は昨年の11月6日であったが
未だに試作品を練っている状況である。
メンバーのコトワリ君とセイント・ワンには
ご迷惑掛けて申し訳ない。

これ以外にも沢山変なことをした。
ジキル的な良識を持った私は魔封婆により
消し去られた。

朝、市民プールで開店迄泳ぎ(開店の準備は
パートさん任せ)ぷらぷら出勤。
途中の老舗パン屋で朝食を購入。パートさん
の分も。で、スターバックスでジュースを買って
店入り。売り上げはほぼ無い店だったので
部屋造りに励んでいた。
ふと見上げると、そこにはマリン・タワー。
自由が溢れていた。

レジ台がアンティーク家具だったので、その横
に置くサイド・テーブルもアンティークでそろえた。
山下の静けさ。アンティーク家具の中で私は
居眠りしていた。たまに起きてはマンガを書いた。
デビュー作で発表した「カフェ・maerchen」は
そんな中で描かれた作品である。「モヘ・ロック」
もそうで、当時のユルサを物語っている。

完成した一階プライベイト・ルーム。
素晴らしかった。屈辱的な撤退をした一人暮らし。
あの部屋をこえるものになった。
マイ・ルーム史上最強の部屋が誕生する。
誰からも干渉を受けない部屋。
音響設備もバッチリだった。テレビもつなげた。
間接照明をはり巡らしコンクリートの壁を
演出した。

セッティングが終了してまず最初にかけた曲。
大滝詠一の「ペパー・ミントブルー」。
音量はほぼマックス。
とんでもなかった。まさに音の洪水で溺れる
快感。曲が終わっても暫く放心状態であった。
映像で最初に観たのはベニ・ケイのサンライズ
のプロモだった。そのすぐ後に
マーロン・ブランドの「ワイルド・ワン」
「アン・アメリカン・バンド」
のブライアンが歌う「サーフ’ズ・アップ」
は毎日のように観ていた。
もういうことは無かった。

まさに理想を実現することができた。
だが、私は本当の恐怖を知らなかった。

倉庫での滞在時間が日に日に増える中
私はあることに気づく。吐いたタンが
真っ黒だったのだ。
血の気が引いた。
部屋をよく見ると小さい
埃が恐ろしく舞っていた。
それ以降、床を濡れぞうきんで拭くようにした。

空気がやや浄化されてくると、私はそこで
寝泊まりしようと考えはじめる。
初日の朝、起きると鼻から蚊の死骸が出てきた。
さすがにこたえた。
「ここは人間のいる場所ではないのか・・・]

極めつけは、いつも何となく臭かった原因である。
入り口にいつも砂の山があった。
変だなとは思っていたがほっておいた。
ある時それを間違えて崩すと中にはクソがあった。
焦ったが、犬だろうと思った。
だが、次に発見した時それが人糞であることが
証明された。紙があったのである。
「ふざけんなよ・・・」
と呟いた。
よくみると扉には立ちションの後があった。
私の倉庫はかなり窪んだところにある。
面している通り自体が裏路地であるため
そこは誰にも気付かれない場所であった。
後で知ったが、タクシー・運転手ご用達の
トイレであった。

私の理想郷への入り口はトイレであった。
アメリカ産超強力洗浄剤で毎日のように
洗うが、それも空しいだけであった。

続いて大雨の後。コンクリを通して
水がしみ出し、私のコレクション
を襲った。

そんな中、急遽私の勤める店の
大家さんが建物全て改装する
という話がやってきた。
店も一度閉店になるのだそうだ。

また挫折だったのかもしれない。
私は再び実家へ帰ることとなった。
未だに思うが、あそこが
一番過激であった。
また、私の人生であの時期程狂う
ことはもうないだろう。

店が閉店したら、私はニートに
なろうと決めた。
ちょうど、私が実家へ帰ると
妹が就職先で寮生活となるため
北の部屋が空いていた。

結局、スタートに戻ってきた。
幼稚園のエメラルド・グリーン。
だが、今迄とは違っていた。
人間が住むために創られた
部屋はやはりいい。根本を
見つめ直していた。

つづく




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マイ・ルーム 5

2005-07-26 | マイ・ルーム
PROLOGUE

一人暮らしで挫折した私は着の身着のまま
実家へ帰った。

元の部屋は妹に明け渡されており
私は南向きの小さな部屋を使うことになる。

小さすぎる。
どうすることもできない面積。
ここでどう過ごそうか。

マイ・ルーム 5

まずは、音響設備を屋根裏部屋へ配置した。
その頃徐々に増えはじめたDVDコレクションを並べ
その他にもCD、レコード等棚に並べた。
以前そこは「籠る部屋」だった。
基本的にはそうだが、今回は「浸る部屋」でもあった。

戻って最初にそこで見た映画は
ジョニー・デップの『ラスベガスをやっつけろ』だった。
空気の薄い部屋で私もトリップしていた。

下の部屋は洋服ダンスとベッドで終わりだった。
配置にしても大きさの都合上かっこ良くはできなかった。
キマらないともうどうでも良くなる。
散らかし放題。投げやり。
さらにつらかったのは机が不在だったことだ。
集中することがほとんどなかった。
会社でもソワソワ、家でもソワソワ。
落ち着きのない状況が続く。

そして問題が発生する。
屋根裏部屋でがんがん聞いていた音が
天井づたえに近所に響いていたのだ。
苦情がきて、びっくりした。
これで、「浸る部屋」もなくなり
何の楽しみもなくなってしまった。

ジキル的なノーマル・ライフが
生活のほぼすべてをしめて行き
ハイド的な屈折した面は蓋を閉められた。
だが、私自身後者をプライドにしている。
ノーマルな表層面ではとことん薄い私は
内側にもう一人の自分がいて初めて
成り立つのだ。こだわり、思想どれもが
屈折した私のものであった。

私生活も何も掴みどころがなくなり
会社での仕事もうつろになっていった。
2年目にして窓際族の心境だった。

意気込んで望んだ初年度、スーツ
カバン、靴どれもかなり気合いを入れていた。
だが、ノーマル生活にそれらはトゥー・マッチ
であり重苦しいだけになる。
全身無印製品になっていった。

以前書いた「堕落の道」を転げ落ちていたのは
この頃である。食への執着が増え、昼は並んで
ラーメン。夜は肉山盛り「キッチン・バーグ」
のスタミナ・生。5倍。もたれた胃にトドメの
ゲータレード一気飲み。でパチンコ。
当時のフルコースである。パチンコ屋で
ピロピロなる中、私の心は妙に静かだった。

荒れ果てた部屋で、しかも両親に寄生する
生活。非常に心地悪い気分。今考えると
ハイド的な自分はこの当時怒りを
貯えていたのだろう。蓋の中で。

当時通勤中に聞いていた音楽は
ビーチ・ボーイズの「レット・ヒム・ラン・ワイルド」
「英雄と悪漢」「イン・マイ・ルーム」
くるりの「ハイ・ウェイ」である。

フッとしたころからリーバイスの
T-シャツ・デザインに応募するが
全くの駄作となる。集中力の欠如
が如実に現れていた。

「このままではいかん」
私は思った。

会社を辞めた理由は諸説色々あるが
このままではいかんというのがかなり
大きな原因であった。

またそれは屈折した私のエネルギー
が溢れ出した結果でもあり
表層の薄っぺらな自分を殺す
準備が整ったことを意味していた。

辞表提出。
2年間半という中途半端な勤めとなったが
その生活を続けることはできなかった。

食への欲望に惑う自分へのアッパー・カット
断食が始まった。

そして、実生活では山下埠頭のたもとにある
実家の店で働きはじめる。実際その店の責任者
となった。両親がそこへ来ることはほぼ無く
まさにハイドな私が爆発する時がやってきていた。

一年間のノーマル・ライフの反動。
様々なプランが頭を駆け巡っていた。
約1年前、2004年6月1日。

つづく

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マイ・ルーム 4

2005-07-17 | マイ・ルーム
PROLOGUE

結核の疑いをかけられた私は一年間の投薬生活を続けてた。
中でも「リトマイシン」という赤い錠剤は激しかった。

就職が決まった最後の夏、私は病人だった。

'03年の2月、春から始まる新社会人生活
で生まれて初めての一人暮らしをすること
が決まっていた。

私が肺気胸の為に手術台で横たわっている
間に、荷物達は新居へ運ばれた。

マイ・ルーム 4

肺気胸の手術は極簡単である。
終わって一週間程度ですぐ退院できる。
只、私の場合は薬付けの体であったのと
ちょうど生活の変わり目というのが重なり
退院直後の精神状態は不安定極まっていた。

新居が気になっていたので病院から
新居へ直行する。入った瞬間に入り口の
床が少しうき上がっているのに過剰に反応。
その瞬間で心は真っ暗になってしまう。

キッチンに得体の知れない棚が置いてある。
しかも中には皿がまんべんなく入っていた。
押し入れをあければ、意味不明の照明器具
の山。

どうやらそのマンションは物置きも兼ねている
様だった。それもそのはずで男の一人で
2DK、しかもリビングと一部屋は6畳。もう一つ
は8畳。京浜急行の駅前で5万円。あり得ない話。

父が倉庫として使おうと購入していた
マンションだった。大家は父親。
まともに考えれば決して悪い話ではない。
しかしそれを受け入れられる状況ではなかった。

高く積み上げられた百科事典。天体望遠鏡。
掛け軸。何の脈略もないものが溢れていた。
そして私はノイローゼになる。

部屋こそが思考回路の縮図である私にとって
あの状況はまさに混沌の宇宙だった。

社会人になりたての不安にも増して
部屋が心を不安にした。だが、帰りたくない
と思ったことは無かった。
徐々に薬の影響が薄れていく中でそこを
自分の部屋として作り替えようという
意欲が湧いてきた。

完全な部屋を。

やはり北向きの部屋を選ぶ。6畳の方だ。
そこの壁面を本棚で埋める。本も溢れていたが
その中で読むであろうものを厳選。飾った。
天井まで本を積めるようにした。
「大学教授のようだ」とは友人の感想。

そして机、そこにも棚をはり巡らした。
雑多な荷物の中にあった宝物。
オンキョウのスピーカーと、ウ゛ィクターの
アンプ。再びCD、アナログを運び込む。
机に座りながらDJプレイを楽しめる配置。
そして、本棚と反対の壁は洋服ダンス
を置いた。

半分を創作の場。残りを飾る場とした。
照明器具も使えるものもあった。
3ヶ月かかり、徐々に空間が出来上がってきた。

そういった中、色々雑誌も見た。
部屋大改装。今は余り見ないが、当時はそんな
タイトルが目立っていた。参考になったものは
一つもない。

形や雰囲気を決めつけ過ぎると嫌になった瞬間
窒息する。今迄の経験から悟ったことだ。
自分を知った上で、自分がそこでどういるか。
また、シンプルすぎてもダメ。そんな結論を下に
私は新居を改造していった。

会社へ通うサラリーマン生活と、帰った後の
偏執狂的潔癖男。ジキルとハイド氏のように
なりたかった。その差は日に日にかけ離れていった。
友人達とも疎遠になってき、心の闇は増す一方。
会社へ出発する前に聴いていたニッポン放送の
「おはよう中年探偵団」の時間が唯一のまともで
いられる時間だった。

香辛料を販売する会社につとめた私は
スパイス・フューチャリング・カップ・ラーメン
という計画をもっていた。そしてそのセットを
創作の現場へ届ける。これが夢だった。

創作活動に没頭する人たちは食事に
煩わされたくない。手塚・治虫はコンビニおにぎり
博士だった。

ただ、カップ・ラーメンの方がカッコいいと思った。
パッケージ的に。ただ、一方的な味付けでいいのと
疑問を投げかけたかった。

ある人が言った。
「食事する時が唯一リラック・スタイムですから」
私の提案するのは
「ノー・リラックス ジャスト・スパイス」
切り替えの休息など必要ない。
刺激的なスパイスで食事中もインスパイア
湧きっぱなしの方がいいではないか。

アトリエや事務所にカップ・ラーメンと
スパイスが積み上げられる風景。
それらが創作用の道具と同じように並ぶ。
それが理想だった。
カップ・ラーメンにアーティスト達が
スパイスを大量に振りかけている風景
を想像した。

三谷コウキの作品「みんなの家」で
唐沢トシアキが何かの料理に塩かコショウを
大量に振りかけているシーンがあった。
ラーメン屋でも莫迦のようにかけている男性
をよく見る。実際に花月ラーメン・チェーン
では「それくらいかけろ」と謳う。
クラフト・マン・シップ。大好きだ。

私は建築学科の大学院に進んだ友人を通じて
その研究室で「スパイス・パーティー」
を企画したこともあった。会社のカバン
一杯にスパイスを詰め込み大学へ運んだものだ。

また、食品の展示会では日清のブースに通い
話をした。やはり、カップ・ラーメンは日清しかない。
もっと言えばカップ・ヌードルしかない。
おいしいものは他にもあるがあの強烈インパクト
は圧倒的である。「それとうちの青缶が組めば」
「日本の食文化の究極だ」と信じていた。

運良く、日清の人が面白がってくれて「麺職人」
という商品とのタイアップとなったが、その
新商品が余りかっこ良くなかったので私は
面白くなかった。カップ・ヌードルとの距離
は遠すぎた。

話がかなりそれたが、そんな仕事をしていた
結果私の部屋はまさにその理想郷となっていた。
積み上げられたカップ・ヌードルとスパイスの山。
アトリエまがいの部屋。

お湯を湧かすためだけにガス・コンロとやかんだけ買った。
生活臭のないキッチンだった。栄養面か精神的なものか
当時鼻血がよく出ていた。気付くと鼻血が出ていた。

仕事中は別としてプライベートでほとんど人と接しない
生活であったため奇行が目立ちはじめる。
徐々に崩壊は始まっていた。

夜中、すぐ下で交通事故があった。
なぜか急に恐怖感に襲われる。
翌日、両親が訪ねてきた時白いランニングと
白いブリーフで体育座りをしていた私を見て
絶句していた。

ゴミを外にだすタイミングも見失い
家はゴミ袋だらけ。私のファッションの師
リトル・ベアー氏からも「汚いよ」と言われた。

あの部屋から出たかった。
そして実家に帰った。部屋の片づけもなにもせず。
脱出と言う言葉がピッタリだ。
あそこにいると頭がおかしくなる、と思った。
ボロボロだった。結局、父親もそこを手放す
ことになり売った。

オープン・ルームとなる直前、片づけは
引っ越しやと父親にまかしてしまった。
どうしようもない息子となった。
どうしようもない一人暮らし。
どうしようもない社会人生活。
この間に私は何度会社の車で事故を起こしただろう。
申し訳が立つはずがない。深く反省している。
1年弱で挫折した。

実家では元、私の部屋を妹が使っていた。
今度は南の小さい部屋を使うことになる。
敗残兵の気持ちだった。
すみませんと家に置いてもらっている心情。

だが家族のホスピタリティーにふれ
まともに戻っていった。
病み上がりだった私には療養が必要だったのだ。
「さあ、この小さな部屋でどう過ごそうか」

つづく


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