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マイ・ルーム 3

2005-06-03 | マイ・ルーム
PROLOGUE

'00年の春に私はJBLのスビーカー、4312B MK 2と
型番は忘れたがサンスイのアンプを手に入れた。

欲しいものは全てが揃った。
その時点での音響設備は6畳程度の部屋にしては
申し分のないスペックだった。

当時、大滝詠一の『ア・ロング・ウ゛ァケーション』
をヘビーローテーションで流していた。
部屋を意識しだしてから、狂ったように模様替え
を繰り返した私だったが今回の配置はある意味
非常に落ちつく空間になっていた。

大学3年の夏を迎え就職活動の準備もその部屋で
行なった。前の模様替えから実に1年がたち、
'01年3月私は旅行へでた。中国シルクロード。

約2週間半程の日程であったと思う。
帰国し、家に着いた私は呟いた。
「部屋を壊そう」

マイ・ルーム 3

すっきりしたかったのだ。
そして大学の最後の年、学生のノリとともに
こだわりも捨て去ろうとした。
第一段、「音楽断ち」
部屋から全てのCD、レコードを出し遠く離れた
両親の経営する店の倉庫にしまった。

JBLのスピーカー、アンプもその店に譲った。
ここから部屋の解体作業は始まった。
私の部屋にはベッドしか置かないと決めた。
机、本等は屋根裏のスットッカーへ。
もちろんブチ込むのではなくそこを部屋として
使おうという計画だった。

旧来の私の部屋は、瞑想の間。
屋根裏は作業部屋。この明確なコンセプト
を忠実に再現しようと決めた。

部屋の中身を出す作業はまさに自分と
向き合うものだった。
新しさを求める私にとって、その作業は
ワクワクする程に新しかった。

約1ヶ月でその部屋は完成した。
まるで僧侶が佇むような空気があった。
頭が冴え渡るような気がした。

屋根裏部屋は、中腰でないといられない
天井の低さであったが、その空間に
本が溢れている光景はまさに
「籠るための部屋」だった。

新たな新境地で心弾んでいた私だったが
その直後の5月にとんでもないことが起こった。
大学の健康診断から、「肺の影」を指摘され
大きな病院で再検査をした。

「結核の疑い」とのことだった。青天の霹靂。
中国か?それともその前行ったニュー・オリンズか?
何はともあれ病気が病気なだけに私は即隔離された。
結局、検査の結果なにも出なかったが予防法で定められた
治療を1年間続けるハメになった。

強いクスリをのみはじめ、私の気分は徐々に
すさみはじめる。
検査入院から戻った時、自分の部屋がまるで
病院の一室のように思えた。

スッキリさせるはずの部屋は病んだ私を
狂気へと誘った。
大好きだった北の窓からの光も只寒々しく
ベッドしかない部屋で横たわる日々が続いた。

そして夏、私は音楽を求めレコード屋の
試聴コーナーにいた。
アンクル・クラッカーの『フォロー・ミー』
乾ききった体に音楽を注入していたその時
肺に激痛が走る。

翌日病院にいくと「肺気胸」と診断された。
即入院、すぐに胸に管を通されベッドから
動けない体となってしまった。
ここにきて私は両親にCDウォークマンを
運んで欲しいと頼む。音楽解禁だ。
そうでないとやっていけなかった。
欲しいアルバム名を列記し、妹に託す。

大滝詠一の『ゴー・ゴー・ナイアガラ』
を久々に聞いて驚く程興奮した。それが
病室だったからかもしれないが、とにかく
音楽が嬉しかった。
タワー・レコードは正しい。
ノー・ミュージック、ノー・ライフだ。
逆らった私は愚かだった。

一週間半程で退院し、私は部屋に
Technicsのコンポを戻し、最低限の音楽を運んだ。
「全てどかす」ことに必死だった
私の頭はシンプルではなくねじ曲がって
いたのだと気付く。

この後も再び「肺気胸」になり手術を経験したり
結核治療のために等で、病院通いの日々だった。
しかし、病室でのノーマルな暮らし新鮮
だった。終盤には献立表の裏に絵を描くゆとり
もでてきた。そしてこんな生活の中でも就職は
内定をもらい、卒論も病室で仕上げられた。

'02年2月、病を克服した私はシルクロード帰り
にも増してふっ切れていた。
そんなさなか父から一言。
「家を安くで借りれるけど、一人暮らしするか?」

一人暮らし。
唐突に出てきた話に驚きつつも
未知なるものへの好奇心が
ふつふつと沸き上がった。

つづく

マイ・ルーム 2

2005-05-29 | マイ・ルーム
PROLOGUE

'98年の夏に私の部屋はひとまず満足のいく空間となっていた。
北に面して左端が机。机自体は小学生時代より使い続けてきた
ものだが、付属物を全て取り払いなかなかシンプルないい机となった。
机上にはPower Mac。

その横にはアナログ、CD等のソフトが前者は「バナナ・レコード」の
ロゴ入り段ボール。後者は「無印良品」のスチール・フレームの棚に
入れられていた。

その横に「Technics」製、ショッキング・ピンクのミニ・コンポ。
そこで壁に突き当たり、そこから西向きに洋服ダンスと本棚が置かれた。
西枕の形でベッドが横たわり、これで部屋一巡。

立付けのタンスも中を整理し、機能的なストッカーにあらためた。
私は椅子に腰掛け、正面の幼稚園のエメラルド・グリーンの壁を
望みつつ満足感を噛み締めた。

マイ・ルーム 2

満足感マックスの状態は、実に短かった。
次に私を襲ったのは、アイテム個々の質の低さに対する不満だった。
まずはレコード・プレーヤー。
そもそもがミニ・コンポの付属であったため
音トビが気になる。
すぐさまヨドバシカメラへ。
そこで私を待っていたのは、めくるめくオーディオ・ワンダランドであった。
レコード・プレーヤーではなく、ターン・テーブル。
SL-1200MK3Dに一目惚れだった。

一旦そのモードにはいってしまうともう駄目である。
「あれが来る迄、この部屋は完成しない」
当然、金銭的にもすぐ買えるような代物ではない。
1ヶ月そこいら悶々とした日々が続く。
こうして手に入れた時の感動は凄かった。
しばらくの間はアナログばかり買っていた。
ビードルズのアルバムが多かったように思う。
音トビを気にせず中古レコードを買い漁るのは
心地よかった。

だが、この平安もすぐに終わる。
先のヨドバシに毎週のように通うことになった私は
もう次の、更に次のアイテムまでターゲットにしていた。
ミキサー。CDJ。アンプ。そしてCD、アナログのソフトの数々。
Bianchiのシティ・サイクルを見つけたのもこの時期だった。
部屋をデザインすることから始まった改革は
それを形成するアイテムのクオリティーを求めるようになっていた。
物欲は拡大し、また手に入れる迄の時間は空虚になった。

まさに私にとっての'99年は物欲に溺れる日々であった。
もともと世紀末思想に犯されていたために
貯蓄など考えたことはなかった。大学生活のゆとりのなかで
収入の限界でものを買う。スリリングな時代だった。

服装面では、'97年夏以降ハリウッド・ランチ・マーケット
寄りであったのから、'98年後半にはバーニーズ・ニューヨークの
扱うブランド群に魅せられるようになっていた。といっても
買える範囲のジーンズ程度であるが。ただ、奥行きは一気に
広がっていた。こういった所も、洋服棚を飾る大切な部屋の
構成要素だったのだ。

バーニーズ横浜店の6階はちょうど私が出入りしだした頃
から、私が欲しいような商品が激増した。それまで
ハイ・ブランドのスポーツ・ラインがフロアの中心だったが
ヘルムート・ラングのデニムを皮切りにストリート感覚に
目覚めはじめる。その後につづくリーバイス・レッド、
グリフィン、フェイク・ロンドン、マハリシ等々の台頭は
刺激的だった。

当時を振り返ってみて、やはりあの感動は忘れられない。
次のものが待ちどうしくてたまらない感覚を。
こうして徐々にハイ・レベルなモノが溢れ出したとき
部屋はすでに限界を迎えていた。抜本的な改革が必要
となったのである。
私は屋根裏も部屋として使う構想をたてるようになった。
父も挫折した危険な空間に挑もうと考えたのだ。

つづく




マイ・ルーム

2005-05-16 | マイ・ルーム
PROLOGUE

一人部屋を与えられた時、私は12歳であった。

前には駐車場が広がっており
正面には幼稚園が建っている。
幼稚園の壁はエメラルド・グリーンがかった
オフ・ホワイトで、光は反射し私の部屋を
照らした。北向きとは思えぬ明るさだ。

私は一つの概念として
「部屋から外は戦いの場」
と思っている。
自営業を営む実家であるために
居間はビジネスの場であったし
そこに隣接するキッチン、トイレ
全てが安住の地ではなかった。
風呂をも含めて。

部屋で机に向かっている時
私は自由を得ることができた。
絵を描いている時が幸せだった。

マイ・ルーム

1997年12月、突如私は部屋で圧迫感に襲われる。
安らぎの場が、焼け野原のように見えた。
「なんだこのダサさは」

服に関してこだわりはあった。
絵はどこまでもこだわった。
だが、部屋自体はただの空間だった。
部屋をデザインすることなど考えなかったのだ。
おそらくジャズを聴きはじめ
脳が変化したのだろう。

元来コレクター体質の私は細かいもの迄とっていた。
そして整理下手であるため押し入れ、机の中は
カオスの世界であった。
洋服ダンス、机どれも両親が買いそろえた
オールディーズだった。

まず全て捨てようと考えた。
こんなタンスだったら段ボールに入れて山積みに
した方がかっこいい。
だが運ぶ途中で家族の反対にあい挫折する。
そこで、家全体をコントロールし私の部屋を
改造する計画を立てた。

私の家には屋根裏部屋がある。
父が事務所を造ろうと、屋根と部屋との
間にもう一室無理矢理生み出したのだった。
空調設備、机、棚は完備された。
ところが窓も無く、立つこともできない
その部屋で事務仕事等できる訳なはく
父は挫折した。
それ以降そこは開かずの間として
これまたカオスの世界となっていた。
私はまずこの空間に目を付けた。

屋根裏部屋を開拓し、私のストック・ヤードにする。
私の部屋にある家具は空にして、家のどこかに
配置する。私の部屋はシンプルになり
そこからデザインするという明確な目標ができた。
ウォーホールのファクトリーが最初の理想だった。

計画は順調に進み、私は空間を手に入れた。
ベッドはダサい。ライフスタイルにもメスをいれた。
蛍光灯はダサい。
レースのカーテンはダサい。
あらゆるものをデザインする、それに夢中だった。

'98年の夏頃、私の部屋はとりあえずの完成形にいたる。
窓に面した机の横にコンポが続いた。
ちょうどその頃Power Machintosh G3を手に入れた。
椅子に座り「んー。かっこいい」
と思えるようになった。

だが、当時の私は重大な問題に気づいていなかった。
部屋を作品として捉えることの危険を。
その後私は幾多の模様替えを繰り替えることとなる。
「んー。いい」といえるのはせいぜい1週間。
それいこう徐々に気になるものが増えて行く。
一瞬の安堵の後には圧迫感が待っていたのだ。
私はたった一つの安住の地を失っていた。

つづく