クタビレ爺イの廿世紀裏話

人生の大半を廿世紀に生きた爺イの
見聞禄の抜粋

人間の条件・知床食人事件

2005-08-03 14:25:15 | Weblog
            人間の条件
                   知床・食人事件

今から 55 年の昔、1944年 8月28日、釧路区裁判所である男の判決が下された。『右ノ者ニ対スル死体損壊被告事件ニ付キ、当裁判所ハ判決スルコト左ノ如シ。被告ヲ懲役一年ニ処ス……』これがその男に対する判決であり、事件の結末となった。罪名は死体損壊、単なる死体損壊なら男の心を苛むことはなかったであろう。しかし彼は人間が犯す筈はないと言われた或るタブーを犯してしまったのである。男自身が望んだ刑罰は死刑であった。そして男は、己の犯した罪の重さと国家に依って課せられた刑罰の軽さの狭間で困惑し、苦しみ続けることになる。彼は『食人』をやってしまったのである。
この事件は太平洋戦争末期の、真冬の知床半島で起きた。生と死の極限の中で人はどう生きるのか?果たして人間であると言う事は、一体何なのか?この事件は驚くべき真実を携えて、今もその事を問い続けている。

北海道・知床半島、この 65 粁に及ぶ半島の中央部には、1.000 ㍍級の火山が連なり、その厳しい傾斜は、断崖となって海に至っている。知床の冬は、猛烈な地吹雪と氷に閉ざされ、決して人を寄せ付けようとはしない。だが、55年前にこの氷雪の大地を歩く一人の男がいた。1944年 2月の始め頃のことである。この時期の気温は、体感温度で零下 30 度を下回っていた筈である。この男は海岸線を歩いて行けば、助かるかも知れないと言う望みを頼りに歩き続けた。異様な姿の男であった。軍から支給されたらしい軍服と外套を身に纏い、その上に寒さを防ぐために筵を巻き付けていた。そして腰には何かの生き物の干し肉がくくり付けられている。それが唯一の食料であり、男はそれを少しずつ食べながら飢えを凌いだ。凍り付いた岩や断崖が男の行く手を阻み続け、一日に 3㌔も歩けなかった。もうどれだけ歩いたか分からなくなっていた。全身がこわ張り疲労困憊し、凍て付く寒さは確実に男の体力を奪っていく。歩き始めて 4日経った頃、男は遂に力尽いて倒れ込み、死を覚悟した瞬間、民家の明りが見えた。そこは羅臼の北の『岬町ルシャ』と言う村であった。ルシャの漁師・野坂宅の玄関に倒れ込んだのは1944年 2月 3日、午後 4時である。男は、陸軍の徴用船の船長であるが、難破してしまい、他の乗組員は全員死亡し、自分だけが無人の番屋で生き残り、ここまで歩いて来た、と名乗った。
野坂初蔵はこの話に驚く。真冬の知床で難破すれば生き延びる事は奇跡に近い、その寒さの凄まじさは、身に染みるほど知っていたからである。野坂初蔵からこの話を聞いた村長は、警察に届けるために羅臼の村に向かう。この時、村長は船長の記した書面を携えていたことが、1968年発行の『北海道警察史・昭和編』に記録されていた。
その概略は『昨年(1943 年)12 月 4日、暁部隊の回航命令により、小樽に向かって航行途中、機関に故障が生じて漂流していたが、暗礁に乗り上げてしまい、船体は二つに割れてしまった。5 人の乗組員は死亡し、生き残ったもう一人の乗組員と『ペキンの鼻』の昆布番屋で露命を繋いでいたが、その乗組員も崖から転落し死亡してしまった。漸くルシャの村まで辿り着いたが、栄養失調のために一歩も歩けないので救助して頂きたい』とある。
この書面を受けとったのは、羅臼派出所の山口光雄・巡査部長である。山口は直ちに救援隊を組織し、船長を16㌔離れた羅臼の村に運び込み、旅館に収容した。
当時この旅館の従業員であった堺せつ子(当時 18 歳)は、船長から紙に包まれた動物の肉を見せられている。彼はこの時、それはトッカリ(アザラシの方言)の肉の味噌漬けだと言ったという。
羅臼の村では、徴用船の船長が救助されたという朗報に沸き上がり、村の人達は続々と船長の許に押しかけた。どうして船長は冬の知床で生き延びられたのか?が皆の興味であり知りたい所であった。この質問に船長はその都度、トッカリの肉を食べて飢えを凌いだと説明した。
この最中、山口・巡査部長は船長に対してある疑惑を抱いていた。捜査に協力した警防団員の菅原照治(当時23歳)、羅臼村役場の志賀謙治(当時 20 歳)も同じように腑に落ちない物を感じていた。トッカリ等、そんなに簡単に捕れる物ではないと分かっているし、役場の健康診断では栄養状態は悪くないと判定されたりしたので、或いは?と言う恐ろしい憶測が、村の中を一人歩きした。夜になると、旅館の人々は船長がうなされる声を度々聞いている。一体何があったのか?周囲の人の疑惑は、益々膨らんで行った。
1944年 2月 16 日、山口・巡査部長は、警防団と共に事故の調査を開始し、船が難破したペキンの鼻と言われる岬に向かった。船長が避難したという『片山番屋』に辿り着いたのは、2 月 18 日の事である。そこで彼等が見たものは、番屋に残された血痕であり、疑惑は、ここで或る確信へと変っていった。そこには、人が生きると言う事の恐ろしい答えの一つが秘められていたのである。

裁判での判決文には、この事件の経過が詳細に記載されている。若しこの事件が、戦争中で無かったら、若し厳冬の知床半島でなかったら、そして誰も生き残らなかったなら、この事件などは起きなかったかも知れない。
1941年に始まった太平洋戦争は、農業や漁業に従事する人々の生活をも大きく変えていった。戦争が長引くに連れ、農民たちは食料増産に駆り出され、漁師たちの船の多くは、軍の輸送部隊に徴用されたのである。                        『被告人ハ元実父ノ所有ニ拘ル木造機帆船・第五精神丸約三十噸ノ船長ニシテ、鮭・鱒ソノ他ノ漁獲及ビ積取ニ従事シ来タリシガ、昭和18年4 月中、右船体ト共ニ軍ニ徴用セラレ…』
北海道のとある町で漁師をしていた船長は、陸軍の輸送部隊に徴用された一人であった。軍属となった船長は、弾薬や軍需物資の海上輸送に従事したのである。
『同年 12 月 3日、船体ノ中間修理ヲ命ゼラレ、僚船 5隻ト共ニ、同日午後一時過ぎ頃、根室港ヲ出帆シ小樽港ニ向ケ回航中……』
これは、徴用から8か月経ったときであった。一時帰郷を許された船長と六人の乗組員は小樽に向かって出港したのである。この日、天候は曇り気温はマイナス 4.2度、しかし、根室海峡を越えた頃から天候は激変する。海は大時化となり猛烈な吹雪に襲われた。この時エンジンの故障という不測の事態にぶつかる。第五精神丸は荒波の中で漂流を始める。
必死でエンジンの修復を試みるが無駄であった。そして翌日の午前 6時頃、ペキンの鼻と言われる岬で坐礁し、船体は二つに折れてしまう。乗組員全員は船から逃れ、陸を目指した。船長は最後に脱出し陸に上がるが、そこには他の乗組員の姿はなかった。彼は必死になって雪を掻き分け、浜に建っていた番屋に辿り着く。幸運な事に番屋の神棚にはマッチが置かれていた。船長が古新聞や木片を掻き集め、ストーブに火を付けると、厳冬の海で味わった恐怖は漸く溶けていく。船長にとっては、他の乗組員の安否が一番の気掛かりであった。少し経った頃、番屋の外で物音がして、シゲと言われていた 18 歳の乗組員が倒れ込んで来た。シゲの全身は氷りつき、ぐったりしていたが、他の乗組員のことは分からないと言う。
『機関長鈴木金松以下 5名ハ凍死シ、前記繁市ト只二人、佐々木多次郎所有ノ空番屋ニ
辿リ着キ焚キ火シテ採煖……』
しかしこの番屋には何の食料もなく、猛烈な空腹が襲いかかる。翌日、船長とシゲは食料を探すために、猛吹雪の中を別の番屋に移動する。彼等が辿り着いた別の番屋には、味噌と塩、それに僅か計りの蕗の味噌漬けが残されていた。二人はこれらを貪り食い、吹雪の合間を縫って浜で昆布を採取し、味噌汁にして飲んだ。これが唯一の食料であったが、とても餓を満たすものではなかった。やがて二人は身動きする事さえ、億劫になっていく。勿論、二人は幾度かここからの脱出を企てたが、何時も吹雪がその行く手を拒む。一歩でも外に出ると、そこには死の世界が待っていたのである。考える事は食い物の事ばかりであった。二人はこんな飢餓状態を一か月間も耐えていた。
やがて二人の意識が混濁し始める。救援の幻影も幻覚もしばしば見る事になる。こうして二人は自分たちが生きているのか?死んでいるのかも分からなくなっていた。
『遭難カラ 40 数日、両名トモ極度ノ飢餓ニ迫ラレ、衰弱甚ダシク昭和 19 年 1月 18 日頃、遂ニ東川繁一ガ衰弱ノ結果……』
それは明け方頃の事であった。シゲは『暗い、見えない、目が見えない』と呟きながら息をしなくなった。しかし船長もその方を向く気力もなくなっていたのである。船長は寂しくは無かった。ずっと一緒にいたシゲが側に横たわっているからである。死んだと言えば死んでいる、寝ていると言えば寝ているのだと言う感覚であった。
船長は時々、起きろと言ってシゲを揺り動かす。返事をしてくれないのが少し不満であった。
『同月 20 日頃、飢餓ト衰弱ニ加エコノママニ推移セバ、自己モ又、繁一ト同様ノ運命ヲ辿ルベキニ想到シ煩悶煩悩ノ極、一時精神錯乱シ深ク人理ヲ解スルノ能力減退シ……』 それからのことを船長は良く覚えていない。番屋には包丁と薪割り用のマサカリが置いてあった。不穏なざわめきが自分の頭の中を駆け巡り、自分でもない、他人でもない何者かが、突き動かしているような奇妙な感覚の中にいた。食べなければ駄目だと繰り返し思いながら船長は食べた。船長の体力は次第に回復していったが、彼の意識も正常に戻り始めていた。彼はどうしてオレは生きているのだと、猛烈な後悔と慙愧の念に襲われる。目の前には流氷が広がるばかりであった。
『同月 31 日、同所ヲ出発シ海氷ヲ渉リテ、 2月 3日、野坂初蔵方ニ辿リ着キ漸ク救助セラレタルモノナリ……』
雪と氷は大自然の中で起きた人間の罪深き所業の全てを覆い隠してしまう。だが、季節は北の大地にも巡ってくる。春の訪れと共に船長の犯した罪は、白日の下に晒し出される。春が来ると、知床半島には漁師たちが一斉にウニ漁に集まってくる。その磯の浜辺で、奇妙なリンゴ箱が発見されたのは、1944年 5月 14 日である。この箱を発見したのは、番屋の所有者の孫に当たる三船シナ(当時 24 歳)である。人骨の発見は派出所の山口巡査部長に伝えられる。以前から山口は、船長に対してある疑惑を持っていたが、船長が軍属のため、軍からの圧力で捜査が中断していたのである。しかし決定的な証拠の発見によって捜査は再び開始された。そして 5月 21 日、釧路地方裁判所検事局によって大々的な現場検証が行われる。肝心のリンゴ箱の中には、頭骸骨から足の骨までの人骨が収められていた。そして検証の一行は『船長は乗組員一人を殺害したうえ、その肉を食べ、死体を遺棄した』と結論付けた。
その頃、船長は既に、北海道の日本海側にある故郷の町に帰っていた。捜査当局が逮捕に及んだのは、6 月初めの頃である。船長は丸でこの日を待っていたかのように静かに、刑事たちに同行した。この時の家宅捜査で、船長が肌身離さず所持していた肉の塊が押収された。彼は自分を救ってくれた肉片をどうしても捨てることは出来なかったのである。 取り調べが始まると、船長はあっさりと食人に付いて告白しているが、殺人と死体遺棄に就いては認めようとしなかった。リンゴ箱は少年の骨壷であったのである。事件の発覚に北の町は震えた。
船長にとっては、時間は何も解決してくれなかった。あの冬の日の忌まわしい記憶は、薄らぐどころか、益々船長の心の中を苛み続ける。誰もが思うように、船長自身も人間の犯
そんな馬鹿なことがあるか?おかしい、この裁判どこか間違っている、としか思えなかった。1944年 9月 3日、網走刑務所に収監された彼の様子は、当初おかしかった。看守たちは常に彼に監視の目を光らせていた。彼には自殺の恐れありと申し送られていたからである。獄中でも船長は悪夢に悩まされていた。冬の記憶が幻聴となって襲いかかる。昼間は警務作業を熱心に続けている。作業の間は、少なくても罪を償っていると言う思いが、船長に平安を与えていたのである。しかし、それも長くは続かなかった。模範囚と認められて、たった一年の刑期は更に短くされてしまったからである。            彼は家族のいる故郷の町に帰る。彼にとっては、刑期を務めている間が最も穏やかな日々であった。周囲の目が新しい刑罰となったのである。法廷で裁かなかったことを人々が 『人喰い』と裁いているようであった。彼は何度も自殺を試みている。睡眠薬を飲み、身を投げた事もあった。しかし目が覚めると、海で鍛えた強靭な体が勝手に薬を吐き出していた。猛烈な後悔が彼に襲いかかる。あのシゲから貰った命、死んでは申し訳がないとも思った。自分では命を絶つことも許されなかったのである。船長は問い続ける、あの日シゲを食べなかったら、生きられ無かった、では生きると言う事は善なのか?悪なのか?
そして、1954年、武田泰淳の書いた一冊の本『ひかりごけ』が彼に複雑な影を落とすことになる。この本は、熊井啓の脚本・監督で映画化され、大きな反響を呼ぶ。それは難破船の船長が飢餓に襲われ食人すると言う物語である。実際の事件との違いは、物語では船長が三人の乗組員の肉を食べることと、最後の一人は船長自身が殺害する事である。1952年に羅臼を訪れた武田泰淳は、船長の事件から着想して『ひかりごけ』を発表した。この小説が出てから、船長の周囲の目の色が、再び変わり、『ひかりごけの船長』と言われる。しかし、彼は『悔しいけど、食ったと言うことだよ。誰のせいでもない、わし自身のせいだ』と言いながら最後まで一切の弁解はしなかった。彼が最後まで持っていた供養の布には、亡くなった乗組員全員の名が記されている。
彼は昭和が終わると同時に、1989年に 76 歳で苦難の一生を終えた。彼は誰にも裁けない罪がこの世にあることを知った人である。裁けるものは自分以外にはいなかった。そして彼はその罪を背負い続けることで、人間である事を極めて残酷な形で証明し続けたのである。
知床半島、オホーツクの海を切り裂く氷雪の大地、慰霊のために一度は出かけて見たいと願っていた船長であったが、二度とここへ足を踏み入れることはなかった。その東海岸にある岬『ペキンの鼻』のペキンとは、アイヌ語の『裂けた岬』と言う意味のペレケゴに由来する。

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