クタビレ爺イの廿世紀裏話

人生の大半を廿世紀に生きた爺イの
見聞禄の抜粋

杉浦千畝と命のビザ

2005-08-03 13:40:17 | Weblog
           杉浦千畝と命のビザ

1995年 11 月、杉浦幸子さんはニューヨークのベニーさんの自宅で、大勢のベニー一族にかこまれていた。この杉浦さんは『命のビザ』で有名な杉浦千畝氏の夫人であり、ベニーさんは彼の助けたユダヤ人の中の一人である。
ベニー氏は『私への一通のビザが妻や子供・孫へと 37 人もの命を育んでくれた。各地にいる彼に助けられた人達のその後を考えれば、彼は 20 万人以上のユダヤ人の命を救ったことになる……』と自分の激動の半生を語り始めた。ベニーとは、マンハッタンで家電製品輸入会社を営むベンジャミン・フィショフ氏のことである。
戦争は生活を破壊し、生命を脅かし、難民を生む。当時、迫り来るナチス・ドイツの迫害の手に怯えて、多くのユダヤ人が難民となった。その中には、リトアニアの日本人外交官『杉浦千畝』が一存で発給したビザで命を救われたユダヤ人が多数いたのである。
1939年 9月 1日、ナチス・ドイツはポーランドに電撃的に侵攻し、瞬く間に領土の西半分を占領し、東半分はソ連の支配下に入った。ベニー氏は、乾燥フルーツの輸入会社を営んでいた両親の下で兄弟三人、姉妹二人と共にワルシャワに近いウッジで育てられた。ここではドイツ軍が進駐し、ユダヤ人の逮捕、殺害が相次いで起こった。両親は当時 16 歳で体力のあるベニーだけでも逃がそうと決断する。1939年12月、ユダヤ教の祭りの夜、ベニーは金で雇った小船に乗り込み、ドイツ・ソ連占領地域を隔てる川を渡る。ワルシャワの対岸ビアリストクに着いた彼は、ユダヤ教神学校の生徒と合流して列車でリトアニアの
ビリニュスに着いた。しかし、1940年 6月にソ連がバルト三国(リトアニア・ラトビア・エストニア)に進駐しここも緊張が高まってきた。彼は英国委任統治下のイスラエルか、米国に脱出したかったが、英国がユダヤ人のイスラエルへの流入を規制し始めたし、米国には知人がいなかった。
そうしているうちに、神学校の仲間がリトアニアのカナウスにある日本領事館で日本のビザが貰えるかもしれないと言う情報を持ち込んできた。日本に行くと言う事は、独・伊枢軸軍の急進撃で欧州は、リトアニア国境から黒海・地中海迄、西も南も塞がれていたために、シベリア経由で日本に向かい、そこから最終の受入れ地を探すと言う事である。
その日本領事館にたった一人いた外交官が『杉浦千畝』であった。ベニーの様に、最終受入れ国の決まらない者を含めて、多数のユダヤ人が頼みの綱の日本領事館に縋った。誰かが数十人分のパスポートや身分証明書を集めて領事館に並びビザを貰うのである。彼はパスポートが無かったが、面接などもなく、写真と出生国が書かれているだけの身分証明書の裏側にビザを出してもらったと言う。彼は多くのユダヤ人の仲間と先ずモスクワに行きシベリヤ鉄道で極東のウラジオストクに着いたのは、1941年 1月のことである。ここから船で日本の敦賀に向かったが、最終受入れ国の決まっていない彼は追い返される。冬の日本海を往復すること三回でやっと上陸を認められ、神戸に辿り着いた時、ポーランドを出てから丁度一年が経っていた。ここで彼は米国ユダヤ資金の援助で住む家にも恵まれる。しかしこの年の夏には、米国・インド・オーストラリア行きなどの外国航路は全て欠航となり、最終受入れ国の決まっているユダヤ人も一旦は上海に出国することになった。彼も上海に渡り、リトアニアから一緒の仲間たちとユダヤ神学校を興す。ここでも生活は苦し
く、虹口のユダヤ人ゲットーの悲惨さも目にしたし、ビタミン不足での苦しみもあったがここには、ホロコーストの恐怖は無かった。
1947年 1月、彼は漸く米国の地を踏む。しかしこの頃、分かれた家族がトレプリンカの強制収容所で全員死亡した事を知る。
彼は、杉原との出会いでその後は、すっかり日本贔屓になり、米国で人生再出発の基盤を固めると、一年後には日本に戻って対日ビジネスに乗り出し、日本製オーディオ・家電製品の輸入業を始めた。そして半世紀、家宝として壁に貼られた『命のビザ』は、ベニーの下で発展したフィショフの一族の歴史を見守っている。
当の『千畝』氏は、1986年に既に他界している。しかし歌人でもある夫人は、今も鎌倉の自宅で健在であり、今回ベニーに招待されて米国に渡った。その歌集『白夜』には
 『ナチスに追われ逃れ来し ユダヤ難民の 幾百の目が 我を凝視める』とある。
彼女の証言……1940年 7月になって、日本の通過ビザが欲しいというユダヤ人が目立つようになった。初めは数が少なかったので問題なく発給して居たが、やがて一日に数百人が領事館を取り囲む様になる。その頃、既にソ連がバルト三国を併合し、ドイツ軍の動きもあって各国の領事館は相次いで閉鎖されつつあった。杉原夫妻も本省からの訓令で国外退去の準備を進めて居た。日頃から情報活動を進めていた杉原氏は、世界的に絶大な影響力を持つユダヤ人に反発されることは得策ではないと判断して、対応策に苦慮した。夫人も生まれたばかりの息子がいたが、心労から母乳も出なくなる。雇っているコックやお手伝いが外出しようとするとユダヤ人が侵入してくるので、まるで籠城のようであった。しかし殺されるかもしれない人を前にして、杉原氏は見過ごすことは出来なかった。いずれドイツに逮捕されることになる事態となるかも知れないが、責任は彼一人で負うとして夫人には手伝いをさせなかった。
領事館には、リトアニア国内を初め、ポーランド・チェコスロバキア等から戦火を逃れてきた難民が押しかけ、杉原氏の発給したビザは、登録されているものだけでも 2,139件に上り、このうち彼がユダヤ人と認定した者は.1.500人である。彼はビザの発給のため、ソ連当局に依頼して退去を一か月延期したが、遂にリトアニアから出なくてはならなくなった。彼が領事館を閉館してから移ったホテルにも駅にも難民は追いかけて来た。彼は列車に乗ってからも必死でビザを書き続けた。研究者によると、彼の発給したビザは、家族単位の物が多いので、彼の尽力で日本に辿り着いたユダヤ人は 6.000人に及ぶと言う。  杉原夫妻が脱出した直後、ナチスが侵攻し数万人のユダヤ人が殺害される。
杉原氏のビザ発給の決断の舞台裏での日本政府の対応が、外交資料で明確になった。ソ連の進駐により、リトアニア国内でユダヤ人・白系ロシア人に対する締め付けが強化され、ビザ発給を求める難民が急増したのは、1940年 7月頃からであるが、この時、ビザ発給の可否を巡って杉原と本省の間には二回の公電が交わされている。杉原の手記に因ると、本省からの回答はいずれも拒否と言う内容であったが、苦慮、煩悶の揚げ句に人道博愛精神第一と言う結論に達したと言うことである。しかし、 8月 16 日の松岡外相からの公電は『行き先国の入国手続きが完了し、且つ旅費・滞在費など相当の携帯金のない者に付いては発給しないように』と指示している。ここにはヤダヤ人だからと言っての発給制限はないが、あくまで事務手続き上の原則論のようである。杉原氏はこの条件を満たしていない
場合にも目をつぶって発給したらしい。
このような本省への抵抗は杉原氏だけではない。ウラジオストック総領事代理の根井三郎氏は、1941年 3月の本省への公電で、日本通過ビザを持っている難民を、単に最終受入れ国が決まっていないと言うだけの理由で日本への上陸を拒否するのは発給国としての威信を損なうとして、善処を求めている。外務省もこの公電には肯定的に行動しており、三回の日本海の往復の後に、ベニーの敦賀上陸が許可になったのも、根井三郎の信念のお陰である。

2 コメント

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世情に反した人道優先行為 (iwachaninchina)
2011-06-13 17:12:23
リトアニアで本国から指示に反し、自らの危険を顧みず出国を延期してパスポート発給した杉原千畝氏、ウラジオで日本上陸拒否撤回を求めた根井三郎氏、二人の英断に感激します。長期間の努力による功績は評価されやすいですが、短期間の、それも業務に直結の功績は評価されないことが非常にさびしいです。私は根井三郎氏については今回初めて知りました。詳細な情報を記述していただき大変ありがとうございます。世情に反する行動は損はあっても得はないと思います。あの時期に人道優先で行動した二人を一日本人として大変誇りに思います。
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弊社製品の販売 (トサキヨシカズ)
2022-03-03 22:07:46
ベニーは1970年代にアイワの商品を中南米で販売してくれた。杉浦千畝のビザで助かり日本、上海経由で
アメリカに渡り電気機器販売で成功した。その後
ファイナンスで弊社の代理店などに協力してくれた。
いつも杉浦千畝の話をしており、アメリカで杉浦夫人
を招待して記念会を開催した一人だ。NYタイムスの
切り抜きをいただいた事があった。
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