クタビレ爺イの廿世紀裏話

人生の大半を廿世紀に生きた爺イの
見聞禄の抜粋

もう一人のイチロー・私の見た凄い奴(1)

2005-08-10 18:38:34 | Weblog
         もう一人のイチロー                            荻村伊智朗・私の見た凄い奴

2001年 7月18日の朝、オールスター以後、21打数無安打であったイチローが、今日の試合で4-2であったとテレビが速報している。伝えるアナウンサーの表情にもホット一安心の色が出て居た。今年は新庄、佐々木、野茂、吉井、大家、伊良部も夫々に話題を提供して居る。しかし今から47年も前に世界を制し、その後も頂点を極めたもう一人のイチローが居たことを日本人はもう忘れて終ったのだろうか?彼が肺癌で亡くなってからもうそろそろ7年も経つ。取り分け彼と親しかったわけではないが、青春の一瞬に出会い、ずっと注目して来ただけに、テレビでマリナーズのイチローの事が伝わると、なぜか風貌も体型も、そして物静かで多少ニヒルな所が彼に似ている『伊智朗』のことが思い出される。夏休みの暑い日、あの西荻窪の西高体育館では皆上半身裸だった。その中で痩せていた彼は、いつも汗まみれの胸をこすってアカを撚り出している変わり者であった。随分昔の事であるのに、年を取ったせいか、あの一夏の顔が懐かしい。
①偶然の出会い
1945年の終戦の年、私は高崎中学の一年生であった。当時の高中には疎開生徒とか幼年学校、予科練、飛行乗員養成所からのいわゆる復員中学生が多かったが、とにかく京浜地区からの疎開者は小学校の高学年から空襲の下を逃げ回ってばかり居て学力は低かった。二年生以上では学力の低いものは転入試験の結果によって一学年下げて転入学を認められたが、、一年生の転入者は下げるところがないので、一クラスに纏められ(F組)ていた。疎開児たちは、なんとなく引け目を感じて居たが、それでも二学期の終りから三学期に掛けては上位に位置する者も多くなり、名誉は回復し、二年になる時は一般並の組み替えになっている。この時の担任は羽鳥先生と言う熱血漢で、いつも涙を流しながら、こんな成績で悔しくないか?負けてはいかんと言って我々を叱咤した。同様の境遇の中で疎開児たちの結束は固かったが、世の中が落ち着くに従って次々と京浜地区に帰っていった。1947年 4月、6:3制の学制改革が成立し、1948年4 月には我々は自動的に新制高校一年となる。尤もこの高校は当初は10年生、11年生、12年生と称して居た。       1948年になるとき、旧制で言えば中学4年生と言う事で進学の事もあって帰京する者が特に多かった。私は翌年、親友であった岡崎真己君が東京に帰ると言うので、江口公男(故人)小此木隆と相談し、既に早大生であった小此木の兄の勧めもあってこの年から復活した早稲田高等学院に入学し、16歳にして東京での下宿生活に入った。岡崎君は都立西高に転入した。この学校は中央線西荻窪駅の南にあった旧制で言えば都立第十中学、進学名門校である。
東京で特に友達も少なかったので、休みになると岡崎の家に遊びに行った。尤も彼を慶応の医学部にいれようとしていた彼の父君と勉強家の姉君には勉強の邪魔をすると言う事で余り歓迎はされなかった。私の下宿は小田急線と井の頭線の交わる下北沢であったので、杉並の和泉町にあった岡崎の家へは、井の頭線で明大前に行き、そこで京王線に乗換えて
一駅新宿寄りの代田橋まで行く事になる。我々は高崎高校で卓球部であったので彼は西高の卓球部、私も早稲田の卓球部に入って居たが、私の場合は練習が大学と一緒で付いて行けずにすぐに落伍してやめて居た。この和泉町には和泉卓球クラブがありここが私達のたまり場になっていたが、荻村が馴染んだのが武蔵野卓球場であったように、都内にはこの種のクラブが多くあり、各種大会が盛んに開催されて居た。私が桐生高校の名選手であった松井さんに再会したのも杉並区民大会である。
そんな時、岡崎が夏休み前半の合宿に私を誘ってくれたので、中央線で西荻まで行き、西高の夏期練習に特別参加した。西高の諸君は余り旨くはない私に安心したのか、当時都立大に入っていたコーチ役の通称人格者の田中さん始め、同期の市川さんなど、下級生たちも気持ちよく迎えてくれた。テレビで1948年の写真として紹介されて居た5人の集合写真では、立っている三人の向かって左が荻村で真中はどう見ても田中さん、前に座っている二人の右側は特徴のある地雷也みたいの頭髪から市川さんとおもう。50年を過ぎても一夏だけの友人逹を写真で識別できて私は一人で喜んだが、テレビに出ていた松井さんというお方は残念ながら記憶に無い。(もしかすると私は田中さんと松井さんを混同して居るかも?)この特別参加では、勿論差別は無く体育館の雑巾掛けも学校周辺約5㌔の長距離走も一緒であった。この仲間の一人にとてつもない強力なロングを引く哲学者のような風貌で痩躯の同期生が居た。それが荻村伊智朗であった。この頃は東京都の高校でやや名前を知られた程度の選手であり、(たしか複でベスト4までいったと聞いた)後に世界に出ていく高千穂の富田選手などのほうが有名選手であった。この程度では同じ高校生レベルでは、私が高崎で見ていた桐生高校の松井、高工の野本、高商の斉藤、高高の片庭の方 (皆、去年全日本70才台で優勝した関川知男氏の教え子)が遥かに上に見えた。一夏の経験はそれとなく終わり、それ以後は進学のためそれぞれの道が分かれて、何気なく時が過ぎた。それから数年後、とんでもないニュースにびっくりさせられる。私には荻村が大化けしたとしか思えなかった。コーチ格の田中さんに誘われて都立大に入った所までは岡崎から聞いて居たが、その後の彼のことを知らなかったからである。でも私は彼はオレの友達だ、あの夏の暑い日の体育館で、同じ上半身裸で白球を打ちあった仲間なんだと自分だけで密かに誇りに思って居た。
今の世の中では62歳と言えばまだ壮年の部類である。その歳で無念の病に倒れた彼の事を自称友人の私は、その偉業を自分だけの為に密かに記録し、私の青春の一㌻としたい。②その男
1950年代、戦後復興の波に乗るように多くのスポーツヒーローが次々と世界に羽ばたいた。筆頭はフジヤマの飛魚と称された水泳の古橋廣之進、日本人初のボクシング世界チャンピオン白井義男、天下無敵の空手チョップ力道山、そして1954年ロンドンでの第21回世界卓球選手権で当時の世界NO1スェーデンのフリスベルクを個人戦決勝で破って団体との二冠に輝いた荻村伊智朗の活躍は名アナウンサー藤村修一によって伝えられた。それが後にミスター卓球と言われた男の最初の栄冠であった。この時の英国の新聞は、東洋の鉛筆のように痩せたチャンピオンと書いた。その後、彼は世界選手権での金メダル12個獲得、団体戦5連覇の偉業を成し遂げ、卓球日本の黄金時代を築いた。彼が世界の荻村と呼ばれたのは、輝かしい選手時代のことだけでなく、一卓球人として世界を繋いだ数々の功績があったからである。
当時の映画『フォレストガンプ』にも登場する1971年のアメリカと中国の卓球親善試合、これこそ敵対関係にあった米国と中国の国交を1972年に復活、それに釣られて日中も同年に国交を回復し、中国の国際舞台復活の切っ掛けとなった。たった2.5 ㌘のピンポン球が国を越えて人と人を繋ぎ、ピンポン外交とも言われた。1987年、彼は日本人で始めて国際卓球連盟の会長に就任すると、朝鮮戦争以来対立を続けていた北朝鮮と韓国を卓球で繋ぎ、1991年の世界選手権で『統一コリアチーム』を結成させたり、45年に亘り中東で民族紛争を続けるイスラエルとパレスチナに対しては、1994年の地球ユース選手権の開会式で、両国代表が一緒に友好を誓う選手宣誓をさせた。彼の良き理解者であったIOCのサマランチ会長も『伊智朗は連盟の会長として飛び抜けて素晴らしい才能を持った人物だった。それは単にスポーツ界のリーダーと言うより外交官と呼ぶに相応しい』と彼への賛辞を惜しまない。地球の隅々まで目を配りネパール、サウジアラビア、パキスタン、中国、コートジボアールを飛び歩き、民族・宗教・人の壁そして歴史の恩讐を越えて人と人、そして心の通うラリーを願って奔走した男である。
③卓球日本の足跡
現在ではオリンピックを始めとして世界選手権も、当然アジア大会も卓球と名が付けば、男女を問わず大方の優勝は中国選手の独占であるが、日本もそれに近い覇権を得て居た時代がある。大方の日本人はもう忘れてしまっているであろうから、その記録を残して置く。大会名 男子団体 女子団体 男子単 女子単    その他
1952大会  三位  優勝  佐藤  ー  男子複・藤井、林 女子複・楢原、西村 1954 〃  優勝  優勝  荻村  ー  ーーーーーーーー
1955 〃  優勝  二位  田中  ー  ーーーーーーーー           1956 〃  優勝  三位  荻村  大川 男子複・荻村、富田
1957 〃  優勝  優勝  田中  江口 混合複・荻村、江口
1959 〃  優勝  優勝  ー   松崎 男子複・荻村、村上 混合複・荻村、江口1961 〃  二位  優勝  ー   ー  男子複・木村、星野 混合複・荻村、松崎1963 〃  二位  優勝  ー   松崎 女子複・松崎、関 混合複・木村、伊藤
1965 〃  二位  二位  ー   深津 混合複・木村、関
1995 〃  六位  八位  ー   ー  ーーーーーーー
後半は中国ばかりであるが、日本の女子も相当なものであったことが伺える。彼の金メダルは団体での5ケ、個人戦(単2ケ、複5ケ)の7ケとなって居る。
④生い立ち
静岡県伊東市、澄んだ山の空気と潮風の香りが漂うこの地で1932年 6月25日、荻村伊智朗は誕生した。私は1933年 3月末の生まれであるから彼は学年は同じでも 9ケ月ばかりの兄貴分と言うことになる。母・美千枝はジャーナリストを目指したこともある自立心の強い
女性、父・素男は東京の実業家の息子であった。運悪く素男が結核に罹り一家はその療養のために伊東に移り住んで居たのである。しかし、伊智朗3歳のとき、父は32歳の若さでこの世を去る。
母は伊智朗を引き取りたいと言う素男の実家の申出を断り、一人で子供を育てるために文房具店を開く。自分を育てるためにひたすら働く母の姿、それが彼の心に残る最初の光景であった。彼が小学校に上がると親子二人は1940年(皇紀2600年式典のあった年)東京武蔵野(現在の三鷹市)に転居する。この時、私は鎌倉で小学生。
1941年には太平洋戦争が勃発し、戦火は日に日に激しくなり、全国民的耐乏生活の中で、一家の家計も次第に苦しくなる。彼は当時雑貨の行商を始めて居た母の仕事を良く助けて手伝った。こうして伊智朗は次第に母思いの芯の強い子に育っていった。学校の勉強では何時もトップ、運動神経も抜群であった。テレビの番組では野球の事が少年野球のユニフォーム姿やスコアブックなどと、再現映像で写し出されていたがあれは間違いであろう。戦時中の小学生時代には戦争の激化でちゃんとした野球など出来なかったろうし、やったとしても普段着の三角ベース野球止まりである。まして子供のユニフォームや子供野球のスコアブックなどは戦後の産物である。(私の経験から)
こうしていつしか彼はクラスのリーダー格になったが、彼が13歳に成った直後の1945年 8月、日本は敗戦を迎える。少年航空隊に入って国のために役立ちたいと思っていた彼は足許が崩れ去っていくのを感じて居た。そんな彼に母は『これからは平和の時代、国と国が協力し交流していかなくてはならない。お前は外交官になりなさい』と諭す。実は母の父親・冨太郎は外国船の船長であり、母は彼が話す世界の国々の様々な様子を聞きながら育ったのでそんな感覚を持っていたのである。彼はこんな母の願いを聞き、外交官になって広い世間を見てみたいと考えるようになる。母が少年に託した夢は、1987年に彼が国際卓球連盟会長に就任したときに適えられた。この時母は既に他界して居たが、彼はその墓前でピンポン外交への専念を誓った。
⑤卓球人生へ
1948年、日本中が戦争の爪痕から立ち直ろうとしていた時代、彼はその前年から施行された6.3制新学制によって都立第十中学生から都立西高校一年生になっていた。テレビでは入学になっているが、実際は新学制によって都立第十中学三年生の彼が四年生になるとき自動的に都立ナンバースクール制の廃止による校名変更も重なって都立西高校一年生なった筈である。都立一中が日比谷高校、四中が戸山高校、六中が新宿高校などとなる。
彼はここで級友のやる卓球に魅せられ、仲間入りをする。テレビでは、西高生の時、空襲で破れた校舎の屋根の下で手製の卓球台でと伝えているが、これは終戦直後との混同である。同時期にやはり卓球少年であった私の経験では、1948年には破れた校舎の屋根の下と言う事はあり得ないし、この頃、私の居た高崎高校では既に国際規格であったかは定かではないが、キチンとした卓球台を使って居たから、彼が卓球に出会ったのは、西高生の時でなく、もっと以前の第十中学に入って間もなくの時であろう。それに1949夏に会った彼は、とても一年半の経験の腕ではなかった。しかしロンドンの優勝のとき卓球を始めて5
年半の快挙とテレビで言って居たのが分らない。
こうして彼の卓球漬けの毎日が始まった。足腰を鍛えるために毎日早朝に登校して体育館の雑巾掛けをやり、少しの休みにはランニングに精を出した。修学旅行中も学校に残って練習したという。こんな状況に母は、卓球をやって何になるのか?と嘆いた。こんな母の心配に彼は勉学にも励み、外交官になる為の英会話も磨いて行った。
1952年、彼は都立大に入学する。多分尊敬する先輩でもありコーチ役でもあった田中さんが都立大であったから、その影響かと思われる。但し私の大学入学は1951年であるので、彼は浪人したか、これまたテレビの間違いかも知れない。

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Unknown (読者です)
2016-11-08 21:47:19
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タイトル:「クタビレ爺イの廿世紀裏話」
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2005/08/03
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