クタビレ爺イの廿世紀裏話

人生の大半を廿世紀に生きた爺イの
見聞禄の抜粋

もう一人のイチロー・私の見た凄い奴(2)

2005-08-10 18:33:45 | Weblog
⑥世界に挑む                                  この年の 2月、インドのボンベイで開催された世界卓球選手権に初めて参加した日本は、佐藤・藤井・林・楢原・西村などの活躍で、団体で男子三位・女子優勝、個人では佐藤が男子単、藤井・林が男子複、女子複で楢原・西村が夫々優勝する快挙をやってのける。
私の微かな記憶では、テレビに出ていた藤井氏は多分当時、『関学の藤井』として国内無敵、我々卓球少年には神様の様な存在のカットマンであった人では無かろうか?    日本卓球が世界を制したニュースは、伊智朗を勇気付け、益々練習に身が入るようになる。しかし、当時の都立大には彼の練習を満足させる環境はなかった。彼は授業が終わると、練習相手を求めて日大、早大の卓球部を巡り歩いたり、自宅近くの武蔵野卓球場に足を運んだ。当時の武蔵野卓球場主の上原久枝さんは、この頃の彼の練習ぶりを良く覚えて居るし、彼がこの卓球場を自宅のようにしていた事を懐かしむ。
1953年、彼は強豪選手の集まっている日大に転学、芸術学部映画学科に在籍しながら、練習にも身が入って行った。この間、『日本の卓球・実技と練習法』という映画も作って居る。彼はこの脚本を担当すると共に実演者としても出演し、イタリア国際スポーツ映画際で『銀の大賞』を受賞して居る。
1953年 11 月、日大二年生の彼は、この年の全日本選手権決勝で、その後、好敵手となる田中利明を破り初出場で優勝し、翌年のロンドン世界選手権代表候補となる。しかし、当時は遠征費の大部分を自己負担しなくてはならなかった。当時の80万円、今では一千万円にも相当する額である。彼の家にはそんな金はなく、やむなく出場を断念する。落ち込む彼に意外な情報がもたらされた。彼の夢を助けようと武蔵野卓球場時代の仲間たちが、街頭に立って遠征費の募金を始めたというのである。別の友人たちは地元の有力者を訪ね歩き寄付を要請した。
こうしてその三か月後、無事に遠征費を納めた彼は、正式に代表となりロンドンに飛び立つ。1954年 3月25日の事である。憧れのロンドンへは、55時間も要した。大会が始まると巨躯の外国人選手が彼の前に立ちはだかる。しかし敵はそれだけではなかった。共に出場し、2年後の大会に彼とダブルスに優勝した富田氏の話では、審判の判定や日本選手に対するブーイングや試合の妨害があったと言う。難しい判定は全て日本選手の失点、ヨシと掛け声掛けて気合いを入れても威嚇したとして失点、スマッシュしようとすればその直前でクラッカーを鳴らし一瞬の逡巡をさせる等、枚挙に暇もなかったという。これは第二次
大戦中に日本軍が英国兵捕虜を虐待、殺害した恨みのためである。特に日本軍がタイとミャンマー(当時はビルマ)間に設置した鉄道(泰緬鉄道)建設には多くの英国人捕虜が酷使され12.000人以上が死んだと言う戦時記憶は英国人の中に生々しく残って居たのである。この史実は映画『戦場に架ける橋』でも有名である。監督はデビット・リーン、ホールデンとアレック・ギネスそれに早川雪州が出演して居る。               観衆の野次と怒号は目の前の選手よりも日本選手を悩ませた。しかし、彼はそれをバネにするかのように活躍した。選手たちを支えたのは、仲間たちの故国からの声援であり何としても勝つと言う執念であった。そして彼は単決勝でフリスベルグを破って優勝する。この大会では女子団体も優勝したが、彼は男子団体と合わせて金メダル2個を持ち帰った。卓球を始めて僅か5年半の快挙であった。(但し高校一年から始めたとして)
日本の新聞は、喜ぶ母親と仲間たちの姿をこぞって報じ、彼は一躍時代の寵児となった。しかし、祝勝パレードの華々しさの影で彼は、ロンドンで浴びせられた現地の反感を思い出し、スポーツに国境はないと言うのは間違いであったと言う思いが、大きなしこりとして残った。
⑦新しい道                                   このロンドン大会から始まった卓球日本の快進撃は1955年ユトレヒト大会、1956年東京大会、1957年ストックホルム大会、1959年ドルトムント大会と男子団体は5連覇を達成、個人では荻村と日大後輩・田中利明が1954年から1957年まで交互にシングル王座を奪い合って日本人による男子単四連覇となり国民を熱狂させた。
1957年 5月10日、彼は実業団の選手であった森田時美さんと恋愛結婚する。世界のチャンピオンとなった彼の許には世界の各国からコーチの依頼が来た。しかし、日本の強化を放り出して他国をコーチするには反対の声が強かったが、初代世界卓球連盟会長のアイボアー・モンタギュー氏の『卓球を世界に広め国際文化として自立させたい。選手間にある国や民族の壁を取り除きたい』という言葉に動かされる。モンタギュー氏の理想は、ロンドン大会から持ち続けた彼の心のしこりを取り除いたようであった。
こうして1959年、彼はコーチとしてスェーデンに旅立ち、情熱をコーチの仕事に傾けるようになる。サウジ、中国など二十数か国にコーチとして出向き、その中から後に10人もの世界チャンピオンが誕生した。
1962年、彼は中国に招かれ、時の首相・周恩来から『中国は貧しい国だ。金の掛かるスポーツは採用出来ない。しかし、卓球台なら自給自足できる。どうか我々に力を貸してくれ』と依頼される。まだ日中戦争の傷跡の残る中国に日本人として責任を感じていた彼は、その申出によって中国卓球の後押しを始める。かって彼の作った映画を中国選手たちはフィルムが擦り切れるほど研究し、荻村流技術、トレーニング法の全てを取り入れた。
1959年大会の日本は女子単・男子複・混合複・男子団体・女子団体を制覇したが、男子単では中国の『容国団』がその天才ぶりで優勝する。そしてこれ以後の日本は入賞から全く遠ざかり、中国は荘則棟が1961.1963.1965と連覇し、その全盛を迎える。ところが1966年には中国全土を10年間の闇に引きずりこんだ文化大革命が始まる。毛沢東の思想の下、も波及し、彼は中国を去った。その一年後、彼の元に或る知らせが届く。中国で苦労を共権威も歴史も全てが溝に捨てられた、まさに狂気の暴走であった。この波はスポーツ界ににした中国代表チーム監督の『傅基芳』がスポーツ界から追放され、それに抗議して自殺したという。その後も、共に汗を流したコーチや選手の悲報が相次いだ。だが彼には為す術もなかった。中国は完全に国際的に孤立、卓球界でも1967年大会以降世界の舞台から姿を消す。
1971年3 月、名古屋での第31回世界選手権に日本卓球協会の粘り強い働きかけが功を奏し、中国チームが6年振りに復活し、4種目に優勝した。国際舞台への復帰を願う周恩来がその切っ掛けに卓球を選んだのである。その後、中国政府は大会直後の 4月に国交が断絶して居た米国チームを招待し、米中親善卓球大会を開催、翌年の1972年 2月、米中国交正常化にまで漕ぎ着けた。国と国の壁を卓球が崩したと感動に身を振るわせた荻村に新しい卓球人生が開けた。
⑨外交官
国際派の卓球コーチとして世界を巡る荻村の目に写って居たのは、国際紛争の犠牲となるスポーツ選手たちである。1972年ミュンヘンオリンピックでのイスラエル選手役員11名が死亡したテロ事件、柔道選手涙の訴えで有名になったモスクワ五輪不参加事件、東欧諸国のロス五輪ボイコットをみて、何とかしたいと言う思いが彼の中に強くなっていた。
1973年、荻村は国際卓球連盟の理事になると、スポーツに国境はあってはならないと言う願いを卓球に託して紛争の絶えない中東諸国を始め、日本と国交のない北朝鮮など、世界十数か国を飛び回った。さらに日本に卓球留学にきている選手を自宅に招いたり、忙しい時間を割いて指導に専念した。そこには一人のピンポン外交官として奮闘する荻村の姿があった。
1984年、母・美千枝さんは、奮闘する息子の姿に満足しながら永眠する。77歳であった。彼が国際卓球連名会長になったのは、1987年であるが、この時、大事件が起きる。12月の大韓航空機爆破事件である。北朝鮮と韓国の緊張は俄かに高まった。1950年の朝鮮戦争以来、38度線を挟んで敵対してきた両国同志の試合は啀み合いの塊であった。この事件から僅か半年後、新潟で第9回アジア卓球選手権が開催された。この大会には両国が参加したが、大会の最中に団体戦で韓国に破れた北朝鮮は、本国からの指令によって個人戦を放棄して帰国してしまう。荻村は懸命に説得してボイコットを思いとどまらせようとしたが実らなかった。彼は『今回の事はスポーツと政治の関わりがいかに難しいかと言う事、我々が越えなくてはならないハードルがどんな物かと言う事を鮮明にした。唯人と人とを結び付けると言うスポーツの役割を果たすように努力して行くしかない。いつかこんな世の中がなくなると信じて延々と続けるしかない』と述べて居る。
彼は1991年千葉で開催の世界選手権に向けて30回も北朝鮮に足を運び、説得を続けた。そして1991年 2月、板門店での南北スポーツ会談まで漕ぎ着ける。世界中の注目の中、4 月の大会には彼の願った『統一コリアチーム』の姿があった。実は両国では合同練習がで
きないので、彼は一か月も前から長野・新潟・千葉に練習場を用意していたのである。統一チームは快進撃を続け、生みの親・荻村の目の前で、女子団体王者・中国を破って優勝した。表彰式では朝鮮半島を青一色で染め抜いた旗が国歌ではなく代表的な民謡アリランの調べと共に掲げられた。在日の朝鮮人も韓国人も選手たちも初めての統一と言う文字に感激して泣いた。彼の外交が一つの花を咲かせた瞬間であった。統一チームの話は、過去に何回もあって全て潰れていた。彼の努力がこの壁を破ったのである。
1989年にベルリンの壁崩壊で東西冷戦は終わっていたが、1991年湾岸戦争、ロシア内戦など止む事を知らない国際紛争を見ながら、彼の思いは募り、南アフリカ共和国など2年間で実に80か国を訪れ卓球の普及に力を注いだ。アパルトヘイト政策で国際社会から締め出された南アフリカ共和国の黒人シェリル・ロバーツ選手をオリンピックに出場させ、 1994年のユース選手権ではパレスチナとイスラエルの選手の合同宣誓も演出した。
スポーツに国境はあってはならないとの彼の理想は少しづつ実現して居た。また彼は卓球を生涯スポーツとして老人のレクリェイションとなるように、ラージホールを考案したりコシノ・ジュンコにユニフォームのデザインを依頼したりしている。更に卓球の盛んでない国には卓球台を寄付して回った。そうすることが自分を育ててくれた卓球への恩返しだったのである。
こうして彼は前だけを見て全力で走り続けた。60歳を過ぎて彼の体には癌が取り付いて居た。しかし、彼は休まなかった。1998年長野五輪誘致にも積極的に動き、大阪大会決定にも力を尽くしたり、母の郷里・長野県楢川村にインターナショナル・テーブルテニス・トレーニングセンターを建設した。1994年 1月、彼は末期の肺癌で倒れて入院するが、その病室でも仕事を止めなかった。しかも療養中の10月には広島のアジア大会で中国・台湾の間が拗れると自由の利かない体に鞭打って駆け付けたりした。その一週間後に意識不明になる。その意識不明の中で彼がつぶやいた言葉は『EXCELLENT 素晴らしい』であった。その時彼の脳裏には世界中の人が心を通わせながらラリーを打ち続ける姿であったのだろうか?1994年12月4 日、荻村伊智朗永眠。その名は男子単覇者に贈られる荻村杯に永遠に残った。この一文を一夏の友人に捧げるため、日本卓球協会を通じて時美夫人に贈ったら
お礼の手紙に添えて、彼の著書を戴き恐縮している。


コメントを投稿