クタビレ爺イの廿世紀裏話

人生の大半を廿世紀に生きた爺イの
見聞禄の抜粋

シベリアの奇跡・届けられた遺書

2005-08-03 14:05:28 | Weblog
          シベリヤの奇跡
                収容所から届いた遺書
                                       
数十年に亘って、厚い鉄のカーテンに覆われていた国があった。その国、ロシア共和国モスクワの国立軍事古文書保管所で、その資料が公開されたのは、1991年の事である。敗戦直後、ソ連軍に捕らえられた 47 万とも 60 万とも言われるシベリヤ強制抑留者の膨大なデーターの中に、一人の男の記録が眠っている。
『山本幡男(ハタオ)、眼鏡を掛け、下顎2歯に銀歯冠あり、口髭あり。職業通訳、スパイ罪で強制労働 20 年』
寒い日には、零下 40 度を越え、すべての物を凍て付かせる大地・シベリヤ、彼等の送り込まれたのは、この白い地獄であった。何時帰国できるのか?何の罪なのか?それさえ分からない中での強制労働、想像を絶する寒さ、飢え、望郷の思い、そして異国の丘で次々と死んでいく戦友たち、何も彼もが死に絶えたような冬、たった一つツララだけが生長していく。病床での彼は、窓辺から見えるツララに小さい順に四人の子供の名前を付けて、話し掛けていた。
シベリヤから最後の引上げ者が帰ってくるのは、1956年 12 月 26 日に舞鶴に入港した 『興安丸』によってであり、抑留から実に 11 年後の事である。彼等は、もう見る事が出来ないと思っていた祖国に、もう会えないと思っていた家族の待つ日本に帰り着いた。 これで本当に戦争は終わったと、新聞は書き立て、彼等は日本各地に消えていったが、その中の六人の男達にとっての戦争は未だ終わっていなかった。伝えなければ、何としても彼の家族にそれを伝えない限り、自分の戦争は終わらないと心に誓っていた。
帰国から一年の間に、その家を次々と尋ねて来た男達、この男達は、彼の妻と四人の子供たちに、彼の最後の言葉を伝えた。死の間際、彼が六人の男達に託した遺書、だが収容所の中では、日本語を書いてあるものを持っているだけで、罰せられる。密告者の目を逃れながら、六人は必死でそれを暗記した。ある者は引上げ船の中で、記憶した文章を書き出す時に、その字体まで似せたと言う。句読点の一つ一つにまで、彼と男達の心が籠る。
お母さんへ、妻へ、子供らへと遺書は全部で四通、ノートにして 15 ㌻分もあった。
敗戦後に抑留された者のうち、6 万の命が故国の土を踏めぬまま、酷寒の地で果てた。
シベリヤから届いた遺書、それは故国が復興する中で、忘れ去られたように遥かシベリヤで散った男の最後の叫びであった。

[収容所]
西のタイチェク、東のカタール海峡を結ぶ全長 4.300㌔のバム鉄道、この鉄道を完成させるために、その枕木の数だけ作業員の命が奪われたと言う。緯度にすれば、北海道の最北端よりも更に北、それがシベリヤの大地である。酷い時は零下 40 度を超える白い地獄である。日本人の捕虜収容所は、シベリヤのほぼ全土、二千か所にあった。その収容所の周りは高さ 3㍍の板塀と鉄条網で囲まれ、見張り台には常に機関銃を持ったソ連兵がいた。午前六時、レールの切れ端をハンマーで叩く音で、ラーゲリと呼ばれた収容所の朝は始まる。曠野に出ての労働は、およそ 10 時間、酷寒の中での作業では、吐く息は忽ち凍り付き、露出していた鼻は凍傷に襲われる。しかし、最大の敵は、寒さでは無く飢えである。一日に支給される食料は、黒パン 350㌘、辛うじて野菜の切れ端が浮かんでいる薄いスープだけである。シベリヤでの死亡者 6万人の多くは最初の冬が越せなかった人達である。命が爆発するような一瞬の夏、しかし夏には辛い作業があった。9 月になると地面が凍り付くので、あらかじめ収容所の側に穴を掘る。ソ連兵が指示する穴の数は、冬に死亡するであろう日本兵の死者の数を予想しているのであった。
辛いだけで、明日をも知れぬ毎日の中で、彼等がただ待ち望んでいた一つのロシア語があった。それは帰国を意味する『ダモイ』である。落ち込んでいる仲間を見ると、山本は、ダモイを口にして励ました。ロシア語に通じていた彼が言うと、どこか説得力があった。山本は『僕らは皆で帰国するんです。生きて帰るんだと言う希望を捨てたら、直に死んでしまう』と言い続けた。
ソ連の捕虜返還が始まったのは、1946年である。何時かきっとやってくるダモイ、しかし一年が過ぎ、五年が過ぎ、十年が過ぎても、山本にダモイの順番は、回って来なかった。この頃、日本では既に戦後の復興が始まっている。最も早かったのは歌である。敗戦の二か月後には、並木路子の『りんごの唄』がヒットし、五か月後には、NHKの『のど自慢素人演芸大会』も始り、人気番組となる。そこで歌われる歌もドンドン明るくなっていった。
その男がのど自慢に登場したのは、復興の兆しと自由に、三年前の戦争の事を人々が忘れようとしていた頃である。その男は『中村耕造』と自己紹介し『シベリヤの抑留生活で故国を思い、励ましにしてきた唄を歌います。題名は我々は(昨日も今日も)と呼んでいました』と前置きし、哀切を帯びた軍歌調のメロディーで歌い出す。人々は未だに、遥か北の大地で戦う人がいることを思い出した。
1948年夏、ラジオののど自慢から流れて来たメロディー、シベリヤに抑留されている日本人捕虜たちが、口ずさんでいた歌だと言う。そこに込められたやるせない思いは、多くの者の心を振るわせた。重労働と飢えの中でひたすらダモイを待つ毎日、この歌は、何時しかある収容所での作業の行き帰りに歌われる様になったものであると言う。それがやがてシベリヤ中の収容所で歌われるようになり、そして歌は国境を越えて故国に辿り着いたのである。1948年 9月、その歌は『異国の丘』としてビクターから発売された。歌手も作詞家も、作曲家もシベリヤ帰りであった。作詞・増田幸治、補作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正、歌・竹山逸郎、中村耕造である。彼等の願いは唯一つ、未だシベリヤに抑留されている者逹が何万人も居ることを世間の人達に知ってもらう事だった。
歌は人々にまだ戦争が終わっていないことを訴え、引上げ擁護の『愛の運動』の切っ掛けになる。しかしこの運動は、残された者に、肉親が生きているのか?何時まで待てば帰ってくるのか?と悲しみと焦りを浮き上がらせただけであった。そしてシベリヤの抑留生活は、内地の人間の想像を遥かに越えた悲惨さであった。飢えと寒さだけではない、次第に収容所で流行した密告と恨み、ソ連兵による尋問、それは『異国の丘』からは決して窺えぬ修羅場であった。
何時ダモイになるのか?今度は誰の番だ?収容所に渦巻く疑心暗鬼、通訳をしていた山本もアカのスパイとして、恨みの対象になっていた。収容所の中は、何を、誰を信じていいのか?皆分からなくなっていた。
[理想の国]
山本幡男、1908年 9月 10 日島根県生れ、レーニンの下にソビエトに社会主義共和国が成立するのは、彼が 14 才の時である。誰もが平等で、誰もが飢えない理想の社会、共産主義は大正モダニズムの中、山本少年の理想となった。1926年、東京外国語学校ロシア語科に進学、群を抜いたロシア語力は際立っていた。しかし二学年のとき、共産党一斉検挙に巻き込まれて除籍され、故郷に帰る。結婚は、失意のまま故郷の島根県・隠岐に帰っていた1933年 1月、相手は地元で小学校の教師をしていた『是津モジミ』である。     そして1941年 12 月、太平洋戦争勃発、山本一家はこのとき大連にいた。彼はそのロシア語能力を買われて、南満州鉄道でソ連の工業・農業の文献を翻訳する仕事に就いていた。一家は子供たちにも恵まれ、最も平和の時を過ごすが、この頃の山本には少し困った性癖もあった。山本は酔うと『何が八紘一宇だ。世界を一つの家にするなどは、これはどう見ても、日本の侵略戦争だ。日本は必ず負ける』と大声で喚くのである。彼はあくまでも、ソ連派であった。
1944年から1945年に掛けて、彼は招集されハルビンにあった関東軍特務機関に入る。任務は相変わらずソ連の書籍の翻訳であったが、たとえ僅かでも、この特務機関に所属したと言うこの事実が、後の彼の運命に影を落とすことになる。
1945年日本の敗戦、ハルビンにいた山本は、ソ連軍に抑留される。しかし彼は抑留の当初は何の心配もしていなかった。何しろソ連は彼の理想の国であったからである。彼は収容所内で自分が中心となって、ソ連共産党の勉強会を開いたりもしている。船の都合が付けば、ソ連は、直ぐに帰してくれる筈と思っていたが、彼の幻想が打ち砕かれるのに時間は掛からなかった。
1946年の米ソ協定で、日本人捕虜は毎月 5万人のペースで帰国させる事が決められたが、始まって見れば、帰されたのは僅か一万人のみであった。冬の間、港が凍結するためと主張したソ連であったが、米軍が砕氷船を差し向けると申し出てもこれを拒否する。
ソ連の腹積もりは、一人も帰したくなかったのである。それで世界も日本も黙っていれば永久に帰さないで酷使しようとして居たのである。そして日本人捕虜に対しては、日本に船がないから、日本政府が船を派遣しないから帰れないと説明し、捕虜たちの大半がこれを信じた。ソ連は、捕虜たちに祖国に対する恨みを持たせる事を目的としていた。
ダモイと言う言葉で、何十万人の抑留者の運命を弄び、捕虜たちの洗脳が始まっていた。そして早くダモイを勝ち取るために、ソ連軍の言いなりになる者逹が現れ、彼等はかっての日本軍将校逹を『反動』と呼び、事あるごとにリンチで吊るし上げた。       私もこの頃『アクティブ』『吊し上げ』と言う言葉を聞いた記憶があるが、多分ここからきていると思う。特務機関に在籍していた山本もその吊し上げの被害者となる。彼への非難は、山本らをファシストととらえ、そのお陰で抑留されていると言うものである。
飢え、寒さ、重労働に加わった粛清の嵐、だが彼はどんな悲惨な状況になっても、決して希望を捨てなかった。それ所か、必ずダモイはあると、友人たちを励まし続けた。
そうしている内に、遅々として進まなかったダモイは、1948年から1949に掛けて加速し、多くの者が帰国している。巨人の水原の帰国もこの時期である。
1923年 9月、山本も念願のダモイ組に加わり、ナホトカに向かう帰還列車に乗っている。三年前に絶望の思いで見たバイカル湖も、この時は確かに日本海に近付いている証しであった。その事件が起きるのは、ナホトカ迄あと一昼夜と言う地点迄、来た時きであった。突然列車が止まる。扉を開けて入ってきたソ連兵が通訳を探した。ソ連兵は手を挙げた山本に名簿を渡し、ここに記載された者は直ぐ列車から降りるように伝えろと指示する。 何名かの名前を読み上げた山本が一瞬口ごもったのは、ページの中ほどに来た時である。彼はそこに自分の名前を見出だした。
その後の山本の消息は、暫く跡切れる。しかし、1949年の裁判記録が残っていた。弁護士も反証も許されない一方的な軍事裁判、その記録には『被告・山本幡男は、南満州鉄道及び関東軍に於いてソ連に対して謀略諜報行為を行った。よって資本主義援助罪とスパイ罪で強制労働 20 年の刑に処する』と記されている。彼はこの日から戦犯となった。
私がソ連を許せないのは、自国民を取り締まるためのソ連刑法 58 条をそのまま外国人に適用したことである。しかも起きたのがソ連国内でなく、ソ連にとっては外国の満州である。こんなのは法律の常識外である。
1950年 4月、ソ連のタス通信が『日本人捕虜の引上げ完了』を発表し、残っているものは戦犯、及びその容疑者であると付け加えた。ここに鉄のカーテンは閉められたのである。この時、捕虜から戦犯となって残されたのは、凡そ三千人である。
人気のなくなったハバロフスクの収容所で、山本の抑留生活は五年目に入る。41歳。
そして又、アムール川が凍り、シベリヤに冬がやってくる。あと何度冬を耐えれば故国に帰れるのか?シベリヤの冬は希望さえ凍り付く。
[アムール句会]
『ちさきおば 子供と思う 軒つらら』、引上げは打ち切りと言うソ連政府の公式見解を知った頃の山本の句である。この頃、彼は絶望している仲間たちを誘って、俳句の会を作っている。それはアムール句会と呼ばれる。日本に帰るまでは日本の文化を大事にしようと言うのが、彼の信念であった。
アムール川の氷が溶け、シベリヤに短い夏がやって来ようとした頃この句会は生まれた。日本語を書くことも、書いた物を持っているだけで、見つかれば罰せられる。だから最初は、地面に古釘で書いては消しの句会であった。だがそれが妙に懐かしく楽しい。やがて彼等は、セメント袋の切れ端で短冊を作り、ロープをほぐして筆を作り、墨は煙突の煤を利用するようになる。句会が終われば短冊は小さく千切られて埋められた。そこには絶望を忘れたかのように、シベリヤの美しい自然が歌われていた。
この句会からの生存者は、今でも『夏雲の 無より湧立つ 白さかな』『日の恩や 真っ直ぐに玻璃の 雪雫』と山本の句を口ずさんで、あれは楽しかったと述懐する。
しかし、六度目の夏が過ぎ、七度目の冬がやってきても、彼らにはダモイはなかった。 一人又一人と仲間たちが、櫛の歯が欠けるように異国の土となり、凍土に土饅頭の数が増えていく。
実はソ連の論理から言うと、特務機関に関係していた者は、即刻、無条件で抹殺すべき存在なのである。所が丁度たまたまこの時期に、数年間ではあるが死刑が廃止の期間であったので、死刑が出来なかった。したがって無理やりこじつけて、山本たちに 20 年とか、25年の強制労働としたのである。つまり残された三千人は普通ならソ連流で即刻死刑になっていたのである。但し特務機関の幹部の多くのは、それ以前に秘密処刑されている。 それも何時、何処でと言うことさえ、全く不明である。ソ連の得意とする粛清は、外国人にとっても例外ではなかった。これより以前に、ロシア戦線で捕虜になってシベリヤに送られたドイツ兵 315万のうち、帰れたのはたったの150 万である。
1951年、吉田首相が国連に対してソ連批判の書簡を送る。国連議長宛ての、ソ連が捕虜に対する国際条約に違反していると言う告発状である。ソ連との国交も無く、国連加盟も許されていなかった敗戦国日本は、捕虜の返還を国際世論に訴えるしか方法が無かった。
ソ連の分厚いカーテンに、僅かな隙間ができるのは、その翌年である。
ソ連政府が、収容所内の抑留者に祖国に葉書を出す事を許したのである。いわゆる『俘虜郵便』である。たった一枚渡された葉書、しかし収容所の事を在りのままに書けば、没収される。それでも七年振りの家族への手紙であった。
しかし、返事はなかなか来なかった。山本は家族に何かあったかと不安になった。

『妻』
『生きていた』、その葉書を受けとった妻は、大声で叫んでいた。『先ズ私ガ元気ニ暮ラシテイルコトヲオ知ラセシマス。ゴ安心下サイ。……』
大陸で夫が招集されてからの山本モジミの七年間も地獄であった。彼女が大陸(新京)で家財道具の一切を売り払い、子供四人を連れて故郷の隠岐に辿り着いたのは、敗戦から一年後である。更にそこに年老いた夫の母まで身を寄せる。一家六人の生活の重荷がモジミ一人の肩にのし掛かってきた。男一人でも生きていくのが難しかった敗戦直後、彼女は毎日ガムシャラに働く。かって小学校の教師をしていた村で、魚の行商をした。
長男の顕一(現在大学教授)が松江高校に入学すると、モジミは松江の小学校に教師として赴任、一家全員で松江に移り住む。夫が帰ってきたら何よりも子供たちの教育の事を言うに決まっていると彼女には分かっていたからである。だから七年振りの夫の手紙を読み返しそこに『顕一はじめ子供たちは、一人前の教育を受けているか?』と言う文字を見つけたとき、彼女には良かったと言う微笑みがこぼれた。
ソ連が検閲をしているためか、郵便は半年も掛かることがあった。それでも1953年には、小包までが許可になる。『着いた、着いた小包が着いた。一家揃っての写真を見てどんなに嬉しかったか?……』44歳になった夫の喜ぶ様子が目に浮かぶような返事の葉書であった。
しかし最後の行迄きた時、モジミの心臓に、鷲掴みされたような戦慄が走る。『臥床中』と言う文字がそこにあったからである。山本は病に倒れていたのである。
1953年 3月、彼等を地獄に追いやったスターリンが死去し、フルシチョフの時代になってソ連の体勢が変わり最後のダモイがやってくると言う噂が立ち始めた頃である。
[約束]
1954年春、山本はハバロフスク収容所内の病院にいた。収容所の医師は、中耳炎と診断しろくな手当てもしなかった。しかし山本がロシア語で書いた嘆願書が残されている。
『63㌔あった体重が43㌔しか有りません。骨と皮ばかりです。どうか私の命を助けて下さい。この病院に権威ある耳鼻咽喉科の医師を呼んで下さい。…』。彼の仲間たちも必死で運動し、漸く市民病院に運び込まれたが、彼は翌日には収容所に帰されてしまう。もう遅すぎたのである。当時の診断書には『咽頭悪性肉腫・化膿性の癌細胞転移』とある。
山本を生きて帰したい、あれほどダモイを待っていた山本をどうにかして生きて帰したいと仲間たちも必死に看病した。しかし、仲間逹の目の前で、山本の癌は進行を続ける。
そのことを切り出したのは収容所の団長『瀬島龍三』、山本に遺書を書かせてはどうか?と言うのである。辛い役目を引受けたのは、山本と親交のあった『佐藤建雄』であった。佐藤は、山本に『ダモイはきっと来る。日本に帰ればもっと良い医者に掛かれるが、それが、何時になるか分からない。だから、誠に言い難くいことだか、遺書を書いてくれないか?』とつたえるが、佐藤の目から涙は止まらなかった。そこまで聞くと山本は、静かに頷き、もう出なくなっていた声の代わりに側の紙切れに『明日』と書いて目を閉じた。
翌日作業の終わった佐藤が病室を訪ねると、山本はそっとソ連製のノートを差し出した。そこには、15㌻に亘る遺書が『本文』『お母さんへ』『妻へ』『子供らへ』と四つの項目に分かれて書いてあった。最後の力を振り絞って書いた遺書である。抑留生活九年目の夏作業で皆が出払った収容所で彼は一人逝った。1954年 8月 29 日、享年45歳。
佐藤には重い約束が残された。かってダモイの時、遺族に知らせようと眼鏡のフレームに仕込んだ死亡者の名簿を隠し持っていた帰還者が、引上げ船に乗る直前に見つかり、再びシベリヤ奥地に送られたことがあった。だから彼の遺書をそのまま届けようとしても見つかれば没収、下手をすれば自らのダモイさえ取り消される。佐藤が頼ったのは山本と親しかった六人の男達である。佐藤は彼等にそれぞれの担当箇所を渡し、何時か来るダモイの時、この遺書を暗記して遺族に届けてほしいと頼む。
ソ連兵の目を避け、その日から六人の男達は、時間さえあれば遺書を広げて暗唱した。彼等を励まし続けてくれた人の遺書、一言一句も疎かには出来なかった。自らのダモイが駄目になるかもしれない危険を冒し参加した男達は『山村昌雄』『野本貞夫』『新見此助』『森田市雄』『瀬崎清』『後藤孝敏』の六人、これが山本の残した遺産でもあった。
彼等六人を含めて収容所にいた全員にダモイが許されたのは、二年後の1956年12月 26 日の最終帰還船『興安丸』である。       
山本の妻も、興安丸の話を聞いて舞鶴に行く準備をしていた。しかし丁度その時、役所から黒枠の通知が届く。山本の死亡通知である。死亡日には二年も前の日付が入っていた。こればかりを支えに苦闘して来た妻は、大声で泣き叫んだ。そして彼等がやってくるのはそれから間もなくのことである。
[遺書]
1957年 1月、大宮に移り住んでいた山本モジミの家をその男は訪ねてきた。『山村昌雄』である。山村は『私の記憶してきました山本幡男さんの遺書をお届けに上がりました』と挨拶する。モジミが不審そうな顔をすると、どうやら私が一番のようですね、と言って微笑んだ。この瞬間、山村昌雄の長かった戦争は終わった。彼の担当部分は本文であった。続いて 10 日ぐらい後、『野本貞夫』から分厚い封書が届く。彼はダモイのドサクサで、遺書のほとんどを忘れてしまったと言うことで、彼の思い出せる限りの山本の句作を書き出してきた。三番目にやってきたのは、愛知県の『後藤孝敏』、彼の担当は、子供への部分であり、一字一句伝えて呉れと言う山本の意思を守った。
『子供らへ、君達に会えずに死ぬる事が一番悲しい。成長した姿を写真ではなく実際に一目、見たかった。これから人生の荒波と戦って生きて行くのであるが、君達はどんな辛い日があろうとも、光輝ある日本民族の一人として生まれた事を、忘れてはならない。日本民族こそは、将来東洋・西洋の文化を融合する唯一の媒介者、人道主義を以て世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならない。どこまでも真面目な人道に基ずく自由・博愛・幸福・正義の道を進んでくれ。最後に勝つ者は、道義であり、誠であり、真心である』、どんなに辛くても決して信念を捨てなかった男の言葉であった。
四番目は、兵庫県の『森田市雄』から届いた『妻へ』の部分であった。『妻よ、良くやった。これはもう過言ではなく殊勲甲である。四人の子供と母とを養ってきただけでなく、大学、高校、中学、小学校とそれぞれ教育していったその辛苦、その君を幸福にしてやるため、生まれ変わった立派な夫になるために、どれだけ帰国の日を待ち焦がれてきたことか?一目でも君に会って胸一杯の感謝の言葉を掛けたかった。22年に亘る夫婦生活ではあったが、私は君の愛情と刻苦奮闘と意思の逞しさ、旺盛なる生活力に感激し、感謝し、信頼し、実に良き妻を持ったと言う喜びに溢れている。さようなら』
五番目は、福岡からやって来た『瀬崎清』である。彼は山本の字体まで似せたノートを足にくくり付け、ズボンの下に隠して運んできたという。
六番目は、小包であった。差し出し人は島根県の『新見此助』、病床の山本の世話を最後までしていた男である。小包の中には、彼が書き写した遺書と、ズボンの折り目に隠し持って来た山本の最後のメモが入っていた。『死のうと思っても、死ねない。全ては天命です。遺書は万一の場合の事、小生勿論生きんとして闘争している。希みはあるのですから決して 100% 悲観せずやっていきましょう』彼は最後の最後まで、希望を捨ててはいなかったのである。

ハバロフスク郊外にある日本人墓地、ここにモジミが立ったのは、1961年の墓参団に参加したときである。モジミは夫の墓に、好きだった酒とタバコ、そして友情の証しであった遺書を供えた。エリツィン・ロシア大統領が、シベリヤ抑留の謝罪を行ったのは、1993年の事である。余りに遅すぎた謝罪であった。
                           

コメントを投稿