クタビレ爺イの廿世紀裏話

人生の大半を廿世紀に生きた爺イの
見聞禄の抜粋

アイヌ天才少女の悲劇

2005-08-03 14:29:44 | Weblog
             アイヌ天才少女
                 知里幸恵の悲劇
[尊い萌(メ)]
1923年、『アイヌ神謡集』という一冊の本が出版された。アイヌ民族の叙事詩・ユーカラを初めて日本語に訳すという偉業を成し遂げたのは、学者でも研究者でもなかった。何よりも世間を驚かせたのは、その著者が 19 歳のアイヌの少女であった事である。彼女の名は『知里幸恵』、アイヌの天才少女であった。だが幸恵は、自らの著書の完成を待たずにその生涯を閉じていた。その死には、想像を絶する悲劇が秘められている。
アイヌの無名の少女の才能を愛し、出版の実現に奔走した男がいた。言語学者・金田一京助(国語学者・金田一春彦の父)である。当時は誰も見向きもしなかったアイヌ語研究に生涯を捧げた男である。幸恵の死後、彼女の日記からその心の葛藤を知った彼は、その墓石に縋り悔恨の涙を流したと云う。『アイヌ神謡集』の出版のため、命すら顧みなかった彼女の東京での暮し、その僅か四か月の日々は、『私はアイヌだ、どこまでもアイヌだ』と綴られた心の叫びとして、残された彼女の手記に取り纏められていた。       これは宿命を背負い、屈辱を凌ぎ、悩み苦しみながら生きた一人のアイヌ少女の悲劇であるが、単一民族と奢り高ぶる日本人が忘れてはいけない事の一つであろう。
彼女はアイヌの神々が遣わしたアイヌの神の子ではなかったか?

アイヌ民族の叙事詩・ユーカラ。文字を持たない民族・アイヌは、知恵や掟、暮しに根差した戒めを、口伝えによって子々孫々に語り継いできた。だが、ユーカラを語る者も、耳を傾けようとする者も次第にその数を減らしていた。
1918年夏、北海道は祝典に沸いていた。蝦夷から北海道と呼ばれるようになってから50周年、『シサム(和人)』にとっては記念すべき、アイヌにとっては屈辱の年であった。
この年、一人の和人が旭川の或るアイヌの集落を訪ねて来た。アイヌ語の研究者・金田一京助である。彼の目的は、この地に住むアイヌの老女『モナシノウク』からユーカラを聞くことである。漸く辿り着いたその家は、キリスト教の伝導所であった。その玄関に立ったとき彼は後ろから声を掛けられた。そこに佇んでいたのは未だあどけなさの残るアイヌの少女である。少女は金田一の訪ねる老女の孫であった。金田一と幸恵の運命の出会いである。
当時この伝導所で暮していたのは、幸恵の祖母モナシノウクと叔母の『金成(カンナリ)マツ』そして幸恵の三人である。金田一は彼女たちを前にしてアイヌ語とアイヌの人達の素晴らしさを熱心に説いた。幸恵にはこんなシサムが居ること自体、信じられない事であった。その夜、金田一とアイヌの女達は、モナシノウクのユーカラを時を忘れて聞いた。この時、金田一は幸恵の通う和人の女学校の成績表を見せられる。驚くべき才媛であり、特に彼女の書いた作文には天賦の才が溢れていた。こうしてモナシノウクのユーカラを全て理解し、日本語を完璧に操る天才少女が彼の目の前に現れたのである。金田一は、後年その『故・知里幸恵さんの追憶』と言う一文の中で『本当にアイヌ民族最後の誇りとして神様が育てていてくれた尊い萌だと思って、どのくらい伸びるものか?東京へ出して勉強
させて上げたいものだと、そのとき直ぐに思ったのでした。…』と述懐している。
金田一が、幸恵の家を辞する時、『アイヌのユーカラは本当に値打ちのあるものなのですか?』と問い掛ける彼女に対して金田一は『アイヌは誇り高い民族だ。それはこのユーカラによって保たれて来たのだ。その様な文学は世界中探してもこのユーカラ以外には見つからない。文字も持たずに大自然の中で生きてきたアイヌこそは、誇り高き民族、何一つ自らを蔑む事も恥じる事もない』と答える。幸恵の胸に、この言葉が強く刻まれる。

明治の初め、この北の大地に住むアイヌの人口は、シサムのそれを凌駕していた。しかし本土からの移住が進むにつれ、アイヌの生活はどん底へと追いやらていく。かってアイヌが獲物を追って駆け巡った大地は、シサムの土地所有によって、切り刻まれて行った。それはアイヌの神に対する冒涜ではあったが、彼等はそれに従うより他に道は無かった。
登別市、かってこの地はアイヌの大地であった。1903年、知里幸恵はここの海と山に囲まれた小さな村に生まれる。父の知里高吉は、独学で読み書きソロバンを会得し、この地で牧場を経営、母のナミは、ローマ字を操る才媛であった。当時のアイヌとしては、とてつもない文化度の高さである。幸恵は大自然が好きであったが、生まれながらの心臓の疾患のため、海辺で静かに過ごすほうが多かったと云う。
しかし、ある日、知里家の運命は、一発の銃声によって突然暗転する。熊猟の最中の不慮の事故、倒れていたのはシサム、撃ってしまったのは父の知里高吉であった。シサムはこの怪我が元で命を落とす。高吉は、残されたシサムの家族の経済的面倒を見る事を申し出る。突如として知里家を襲った困窮、四人の子供を抱えた高吉とナミは途方に暮れる。
やがて幸恵は、旭川の叔母の家に引き取られて登別を去る。そして和人と交わることになったアイヌの少女の、理由れ無き差別との戦いが始まる。
[孤独]
1899年に『北海道旧土人保護法』が制定されている。この日本で『土人』なる表現が、公式文書の中に存在していたことは、廿世紀の後半を生きた者にとっては、まさに驚きであり、それ故に、尚更知っておかなくてはならない事である。
この保護法の制定は、アイヌからアイヌ語と土地を奪うと同時に、その風習さえも抹殺するという屈辱的な法律であった。旭川に市制が施かれた頃の記録に、驚愕するような表現があったことが、『旭川回顧録』に載っている。
『……蒙昧無智ニシテ不潔ナル旧土人ヲ、市街ノ中央ニ介在居住セシムルハ、衛生上極メテ危険ナリ。彼等ハ生存競争上、次第ニ和人ノタメ亡滅駆逐セラレルベシ。……』これが幸恵の生きた時代であった。
彼女は、その人生の大半をこの旭川で過ごしている。住居は、シサムによって強制的に移住させられたアイヌ集落『旭川近文(チカブミ)コタン』である。彼女を引き取ったのは母の知里ナミの妹『金成(カンナリ)マツ』である。金成マツは熱心なキリスト教信者であった。生涯独身であったマツは、幸恵をわが子のように可愛がって育てる。
1910年、幸恵は『上川第五尋常小学校』に入学するが、そこは政府がアイヌのために用意した『土人学校』と呼ばれたものである。この小学校で教えることは、算数と国語だけで
ある。蔑まれ、卑しめられて生きるアイヌの子供たちは、近文コタンの伝導所に集った。幸恵のオルガンと美しい歌声が、彼等の傷ついた心を慰めていた。
1917年、彼女は地元の優秀な子女が通う旭川区立女子職業学校に114 名中、第 4位と言う成績で入学する。彼女、14才の時である。彼女はここで生まれて始めてシサムと机を並べて勉学に励むが、勿論全校生徒の中でアイヌは彼女一人である。彼女はシサムに比べて、毛深い自分を恥じて、毎朝、腕の産毛を剃って学校に行ったと云う。
勉強をすれば未来は開けると信じて、彼女は片道 6㌔の道を通った。しかしそんな彼女の前に差別が立ち塞がる。職業学校にアイヌが入学することすら、シサムにとっては承服できないことであった。しかも彼女の成績は抜群であり、和人に比べて知能が劣っていると思われていたこのアイヌの娘の成績は、何時も学年のトップであった。皮肉にもこの事実が彼女を更に孤独にした。話し掛ける者もいなく、彼女は何時も教室の片隅にいた。
心の安らぎは、近文コタンの伝導所である。彼女はここで毎晩のように、祖母モナシノウクのユーカラを聞いたのである。こうして何時しか彼女は、日本語とアイヌ語を完璧に使いこなす少女になっていた。
この頃、言語学者の金田一京助が、ユーカラを求めて北の大地を駆け巡っていた。
[北の大地に]
東京帝国大学の学生であった金田一京助は、未知なる言語・アイヌ語と出会った。その切っ掛けは、『アイヌ語の研究は、日本の言語学者の責任である』と説いた帝大教授の『上田万年(カズトシ)』の言葉である。そして金田一は、アイヌ語の研究に没頭する。中でも口から口へと語り継がれたユーカラの不思議な魅力にとり付かれた。
そして大学卒業後も寝食を忘れてアイヌ語の研究に没頭する。彼はユーカラを求めて、北海道の全土を歩いた。しかし研究は進まなかった。ユーカラは長い語りであり、一晩二晩語り明かしても終わらない物もある。それを書き留め和訳する事は、至難の技であった。こんな時、金田一は日本語とアイヌ語を完璧に操り、驚異的な記憶力を備えた幸恵に巡り会ったのである。そしてこの出会いが、差別の中で打ちひしがれて居た少女を奮い立たせる。やがて彼女は、ユーカラの記録・翻訳に、その短い全人生を捧げる事になる。
[ノートブック]
1920年、幸恵が職業学校を卒業する春、金田一は期待を込めて彼女に上京を勧める葉書を書き送っている。しかしこの時の幸恵は既に長旅や大きな環境の変化に耐え得る躯では無かった。先天的な心臓病が、日に日に悪化の一途を辿っていたのである。そんな幸恵に、今度は金田一から小包が届いた。中から出てきたのは、三冊のノート、金田一は幸恵の病気を見舞った上で『このノートブックをあなたのアイヌ語雑記の料として、何でも構わず気の向くままに書き付けなさい。…』と助言の手紙も添えてあった。
彼女はこのノートを得て、祖母や叔母の語るユーカラを筆録するようになった。文字のないアイヌ語は、ローマ字で記録し、それを日本語に翻訳すると言う途方もない作業にとり掛かったのである。それは双方の言葉を操れる少女、知里幸恵の宿命であった。
東京の金田一にとっては、幸恵は研究に欠かせない少女、そして旭川の幸恵にとってのユーカラの翻訳は、アイヌを卑しめるシサムに民族の誇りを示す事であった。
1921年の春、金田一の許に幸恵からノートが送り返されてきた。標題は『アイヌ伝説集其の一』、ノートは小さな文字で埋め尽くされていた。左側には幸恵が聞いたユーカラが、ローマ字で書かれ、反対側のページには幸恵が訳した和文が記されていた。金田一はその和文の美しさに胸を打たれた。その一言一句に幸恵の文学的才能が綺羅めいていたからである。金田一は、やはり彼女はアイヌの神がこの世に遣わした少女であると思った。
このノートは、アイヌ神謡集として世に出すべきであると確信した金田一は、出版のために奔走する。彼はそのことを幸恵に伝え、毎週のように励ましの手紙を書き送った。そして幸恵からは、真っ黒になるほど書き連ねられたノートが次々と送り返されて来た。
『アイヌ伝説集』は其の二、其の三と続く。しかしこれらを一冊の本とするには、細かな校正作業が必要であった。彼は再び上京を促す。しかし彼女はこれを断り続けている。
このとき彼女の家では、祖母と叔母の二人共が病に倒れていたからである。そんな中でのユーカラの筆録、彼女の疲労はもう限界に達していた。そしてその疲労は、彼女の命を確実に縮めていた。幸恵自身も自分に残された時間は少ない事を知っていたのである。
1922年 5月、幸恵はアイヌの伝承・ユーカラを世に問うために東京に旅立った。
[追憶]
『東京の人は、皆キビキビと動作が機敏で、目がキョロキョロして忙しそうな所が、都会人の特徴らしい…』とは、彼女の都会の印象である。                文京区本郷、金田一は二人の子供を抱えて一軒の借家に住んでいた。1922年 5月 13 日、幸恵の東京での暮らしは始まった。彼女の仕事は、出版に向けた校正作業とアイヌ語の研究の手助けである。金田一にとってこれほど優秀な助手はいなかったのである。彼が 10 年間の研究でも分からなかった事が、幸恵の一言で次々と氷解して行くのである。又、幸恵は金田一家に直ぐ溶け込んで行ったらしい。当時 9歳であった息子の春彦の良き遊び相手となり、赤ん坊の子守までした。それは幸恵が始めて体験する和人のごく普通の暮しであった。しかしアイヌの幸恵は東京でもやはり特別な存在であり、一歩外に出れば、毎日のように好奇の目に晒された。見せ物でも見るような視線が、容赦なく 19 歳の少女に注がれたのである。幸恵はそれらを顔に出さずに、平然と振る舞ってはいたが、それはあくまで表の顔で、上京してから書き続けていた日誌帳には『自分を顧みるとき、余りに自分が醜いのでついつい、どうしてか、過去幾千年の昔を偲び、追憶しては涙ぐみ、後ろめたい気持ちになるのが常でした。美しい天女のような、何の苦もなく、ピンポン、テニスにと遊ぶこともなく、孤独な感じはひしひしと迫って、涙なしではいられないのです』と記している。                                   こうして悲しみ打ちひしがれる一方で、アイヌとしての誇りが頭を擡げ『私はアイヌだ。どこまでもアイヌだ。どこにシサムの様なところがある?シサムになればなんだ?アイヌだから、それで人間ではないと云う事もない。同じ人間ではないか?私はアイヌであったことを喜ぶ』とも書いている。
東京に暑い夏が近付いていた。それは幸恵の心臓にとって最悪の季節ではあったが、校正作業を止めるわけにはいかなかった。
この年の 9月 7日、遂に幸恵は倒れた。駆け付けた医師は絶対安静を告げる。その時、彼女が盗み見た診断書には『結婚不可』と書いてあった。余りにも辛い宣告であった。この時期、彼女には婚約者がいたのである。北海道名寄郊外に住むアイヌ青年『村井宗太郎』である。周囲も彼等は結婚すると思っていたし、何よりも本人たちがそれを望んでいた。しかし、宗太郎が農家の跡取りのため、心臓の悪い幸恵には無理だと母のナミだけが反対であった。
当時、登別にいた父母に対する手紙にも『私は体が弱いことは誰よりも一番良く知っていました。又この体で結婚などする資格のない事も良く知っていました。それでもやはり私は人間でした。人の子が持つであろう色々な空想や理想を胸に描き、家庭生活に対する憧憬に似た物を持っていました。自分では不可能と知りつつも…』と書き送っている。
体の調子が良い時、幸恵は庭に出て、ぼんやりと北の空を眺めるようになった。彼女の胸に去来したのは、故郷・登別の懐かしき風景、無邪気でいることが許されたあの頃のことであろう。手紙は続く『ご両親様、神様は私に何をなさせようとしてこの病を与え給うたのでしょうか?私の罪深い故か?全ての哀楽、喜怒、愛欲を超脱しうる死。今一度、幼い子にかえってご両親様のお膝元に帰りとうございます。……』
医者に絶対安静を言い渡された幸恵は、寝たり起きたりの生活が続く中、アイヌ神謡集の出版に向けて校正作業は大詰めを迎えていた。何としてもやり遂げなくては、たとえ命を削ってもと言う思いで、金田一と幸恵は時を惜しむように、机に向かった。そして漸く全てが終る。幸恵が上京してから四か月後のアイヌ神謡集の完成である。しかし幸恵の心臓は既に限界を越えていた。
その夜の事である。幸恵の容体は急変、アイヌの天才少女は、金田一の家族に看取られて帰らぬ旅に出た。1922年(大正 11 年)9 月 18 日のこと、19歳 3か月の余りに短い生涯であった。彼女の死から一年後の1923年 8月、『アイヌ神謡集』は『知里幸恵編』として出版される。
幸恵が自分の命と引き換えに完成させたアイヌ民族の魂の叫びである。その中の一つ、
『梟の神の自ら歌った謡』…(銀の滴 降る降る まわりに 金の滴 降る降る まわりに)と言う歌を私は歌いながら、流れに沿って下り、人間の村の上を通りながら下を眺めると、昔の貧乏人が今はお金持ちになっていて、昔のお金持ちが、今の貧乏人に成っているようです。……』
彼女との共同作業は、金田一のアイヌ語の研究にも大きく貢献した。彼女の死から10年ののち、1931年、ユーカラの研究に金字塔を打ち立てた『アイヌ叙事詩・ユーカラの研究』全八巻を発表した金田一は、その功績によって恩賜賞を受賞し、合わせて博士号も得た。後年、彼は幸恵との四か月の共同作業を振り返り『私のアイヌ研究の犠牲になっても顧みないと言う決心をしたらしいと言う事が、後になって分かるのであります。どんなことをしても私のこの罪業は贖う由が無いのであります……』と告白し、幸恵の墓を訪れた彼はその墓石に縋り涙を流し続けた。
幸恵は、アイヌ神謡集の序文を『その昔、この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されて、のんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、何と言う幸福な人達であったでしょう。時は絶えず流れる、世は限りなく進展して行く。激しい競争場裡に敗残の醜を晒ている今の私たちの中からも、何時かは二人、三人でも強い者が出てきたら、進み行く世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。それは本当に私たちの切なる望み、明け暮れ祈っていることでございます……』と書き出している。彼女の思いの凝縮である。

しかし、幸恵の思いは純粋なものとしても、どうも私はこの話には納得いかない。金田一が後に悔恨の念を表明していることと合わせると、幸恵は金田一の野望の犠牲者であると思えて来ている。いかに学術のためとはいえ、学者の実績への執念は、並の物ではない。それに比べたら、被迫害民族の幸恵の命などは、彼にとって軽い存在ではなかったのか?彼が認められるのは、彼女の死後 10 年であるから、神謡集を作っている頃は無名に近い筈である。その彼にとって出版を約束した期日の大切さは、幸恵の命の重みを越えていたのではないだろうか?だとすれば、彼は自分の功名心のために、ユーカラ発掘の美名に隠れて、幸恵を酷使しまくって死に至らしめたのではないか?             幸恵の功績は偉大とするが、私は、金田一の採った行動はアイヌに対する和人の、形を変えた迫害以外の何ものでもないと断言したい。                                   

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