クタビレ爺イの廿世紀裏話

人生の大半を廿世紀に生きた爺イの
見聞禄の抜粋

英雄「マレーの虎」の真実

2005-08-03 14:28:58 | Weblog
         『ハリマオ』の真実
                                        小学生時代の記憶から気にかかる事が一つあった。それは戦後の情報公開によって戦時中の情報には作為的なものが多いと知らされ、特に軍部の戦果発表等は開戦半年も過ぎると真実を伝えた物は何一つない事も承知はしているが、小学生時代つまり私の戦時記憶の多くが虚像であると分ったとしてもでは真相は?というとはっきりしないものがある。数年前教育テレビのETV特集がその中の一つを解明してくれた。ある人物に関する伝説の解明である。その名は『谷 豊』、『マライの虎』として戦時中の少年たちの英雄であった。本当の事が分かったところでこの件もけじめをつけておきたい。もしかすると私と同じ世代の会員の中でも思い当る方もおられるかもしれない。
『谷豊』明治四十四年福岡市生まれ、その生家は今も現地にある。番組では彼の弟の  谷繁樹さんに『豊』の足跡を探るマレー半島への旅をさせて狂言回しとする。
驚いたことに今でも谷家には豊の武勲を称えて国から贈られた品物が残って居る。幾つかの勲章の他に何と『皇后陛下下賜』なるものまで有る。虚像であるのにこれは一体どういう事なのか?多分戦時中は虚像ではなかった、つまり国民全部が騙されたのであろう。
『皇后陛下下賜』なるものは『皇后宮御歌』であり、「安らかに眠れとぞ思う君のため
いのち捧げしますらおのとも」とある。
弟の繁樹さんにとっての兄豊は、マレーが好きなだけの気の良い兄であった。本当に手下三千人を従えた大盗賊であったのか?本当にマライの虎と呼ばれていたのか?救国の英雄だったと言うのは本当のことなのか?戦後五十年、繁樹さんはずっと疑問を持ち続けてきたという。
マレーシヤ北部の街クアラ・トレンガヌ、そこはタイ南部に近い。大正二年、谷一家はこの街にやってきて、床屋を開業した。当時の日本政府は膨脹する人口対策と、外貨獲得を目的として盛んに移民を呼掛けており、英国領であったマレーシヤにも、一攫千金を夢見た人達が続々と進出して行った時代である。幼児の頃からこの地にきた豊は、マレーの子として負けん気の強い子に育っていった。
時は移り昭和六年、十九歳になった豊は徴兵検査のため単身日本へ帰って居る。結果は丙種、事実上は不合格であるが、マレーに帰る金もなくそのまま福岡の工場に就職してしまい、親兄弟と別れ別れの生活となる。ここからこの一家に不運がついて回る。此年の終りに父親は病のためトレンガヌで没する。同じ年、中国大陸では満州事変が起き、昭和七年には上海事変により日本軍による中国侵攻が本格化して行った。そして中国大陸全土に反日運動が広まり、これは海外にいる華僑を通じて東南アジア全体に拡大した。
昭和八年、谷一家に飛んでもない不幸が降り懸かる。日本軍に恨みを持つ華僑の一人が谷家を襲ったのである。一家は逃げたが二階にいた末娘のシズ子が掴まり首を切り取られるという惨殺に会う。彼女の福岡にある墓には昭和八年十一月六日没 行年八歳と刻まれて居る。
昭和九年益々不穏になる世情にトレンガヌの生活を諦め一家は日本へ引上げて来た。勿論一人日本に残っていた豊も家族に合流して福岡で暮すことになる。
しかし既に十八歳の時、イスラムに改宗していたほどの豊はマレーへの思い絶ち難くまたトレンガヌに舞い戻り床屋をはじめた。床屋は結構繁盛していたらしいが、この頃から現地の日本人の間には豊は強盗をした金で大盡遊びをしていると言う風聞が立ったと言う。★繁樹さんが探し当てた豊の少年の頃からの親友『アリ・ビン・ダウ』さんの証言。
(豊のことは『ママ[マレー語オッサンの事]』と呼んでいた。ママは皆から好かれ店は繁昌していた。その頃泥棒の話など無かったし、彼は床屋の収入で十分暮らしていた。 勿論ハリマオ等と言うのは聞いたことがない。)
間もなく豊はトレンガヌから忽然と姿を消したが、彼が強盗をやっていると言う噂は消えること無く一人歩きしていた。
昭和十三年の頃、マレーシヤから国境を越えたタイの町『スンガイゴロク』で金塊八十キロが盗まれる事件が有った。日本人の間では犯人は豊ではないかと言われ、この事が後に手下三千人の大盗賊と言う話の根拠に成ったようである。
★番組が探し出した、当時の事件を担当した警官『ロンポーリエン・チャイカワット』さんの証言。
(結局あの事件の犯人は分らなかった。当時『ナイ・サーイ』と言う一人のマレー人が疑われていた。その男しか金庫の合鍵を作れるものがいなかったからである。日本人が疑われたことはなかったし、ハリマオと言う名前は聞いたことがない。)
と言う町にいる『カミモト』と言う人のところへ行くようになった。)
ここで少し見えてきた。この『カミモト』こそ日本陸軍諜報機関の藤原機関で辣腕家として知られた『神本利男』である。この藤原機関とは陸軍中野学校出身者で組織されたF機関と言われる組織で東南アジアでインド人、中国人、マレー人を使ってイギリスやオランダに対して反乱を起こさせる秘密工作を仕掛けて居た。機関長は大本営参謀『藤原岩市』少佐である。この藤原機関でマレーでの工作に当たっていたのが民間から抜擢された軍属『神本利男』であった。戦後陸上自衛隊で陸将にまでなった『藤原岩市』はこのF機関の記録を出版して居る。この本の中で始めてハリマオの名前が登場する。日本人谷豊を利用する工作がマレーのハリマオと名付けられて居た。彼がトレンガヌで育った事、妹を華僑に虐殺された事など詳細が調べられて居る。この地でもし戦闘が開始されればマレー人の反乱やイギリスに対する諜報活動に利用できるとされていたと記録されている。豊がバンプー村にいる時の不思議な金はこのF機関からの工作資金であったのである。
★元F機関に所属した『石川義吉』の証言
(神本利男がまず豊かにした事は豊の頭を全くの白紙にしてしまい、何の疑いも無くお国のために死ねる人間に仕立てることであった。)
いよいよ昭和十六年十二月八日、開戦と同時に日本軍は豊の居た南タイに上陸し、シンガポールを目指して進撃を開始した。その開戦の直前、豊は親友のチェカデさんにアラーの神にかけて二人が永遠の友であることを誓い、日本軍のマレー侵攻が近い事を告げた。
開戦と同時に豊はチェカデさんを含んで五人を金で雇い軍と一緒にシンガポールを目指した。しかし五人のうちチェカデさん達三人は怪我や疲労で途中脱落、村へ送り返され、豊と『ウエ・ダメ』と言う青年がシンガポールまで行けた。
『藤原岩市』の著書に因れば豊のハリマオはイギリス軍によるダム破壊の阻止、通信ケーブルの切断、イギリスマレー部隊の武装解除に縦横の活躍をした後、マラリヤに罹り開戦後僅か三か月の昭和十七年三月十七日に死亡したという。
彼の死後、一通の手紙が福岡の谷家に届いた。死の直前の三月一日の日付で豊が母親に当てた手紙である。これは今も保存されているが素晴らしい達筆で書かれている。
「母上様、今回はからずも命に依り皇国の為の工作に従事する機会を得、一死奉公の誠を尽くす覚悟にております…………」しかしこの手紙はF機関の副官『山口源等』中尉が文案を作り部下に清書させた物であるという。今脳梗塞で京都の病院にいる山口源等はこの手紙を見せられ、物言えぬ体で唯々涙を流すばかりであったと言う。
豊の死亡した時、軍務で東京に帰っていた藤原機関長は自ら陸軍省の記者クラブに赴き
『救国の英雄ハリマオの死』として発表した。勿論現地でもこの意向を汲んで同様に発表がされた。
当時の新聞の見出しを少し拾って見ると愛国の志士としての雰囲気が解る。
●狭児散って靖国の神、翻然祖国愛に目覚めて挺身。
●軍事探偵マレーの虎の死、部下三千決死の諜報、妹の虐殺に沸く大和魂。
●今ぞ、日本一の男、マレーの虎奇しき運命、数奇の運命の主は九州生れの谷豊氏。
●殉国の華、マレーの虎。英へ復仇の日本青年。     
こうしてハリマオの話はあらゆるメディアに波及していった。当時の少年倶楽部と言う
少年雑誌にも愛国熱血事実物語として載せられている。多分私の読んだのはこの雑誌であらう。著者は大林清。谷豊はこうしてハリマオになったのである。昭和十八年、当然のこととして戦意高揚の映画となった。この頃は『ハワイマレー沖海戦』とか『轟沈』とか
勇ましい映画は学校から連れていったような気がする。ハリマオも多分見ていると思うがはっきりとした記憶はない。
時代は経過して昭和三十五年、ハリマオは再び呼び起こされてテレビドラマとして登場する。日本初のカラー、初の海外ロケと宣伝された『快傑ハリマオ』はスポンサーの薬品会社が丁度東南アジアを重要な市場としており、全面的な支援をした。此年は安保闘争の年であり、岸内閣の後を受けた池田勇人が、国民の目を海外に向させていたときである。
このドラマの製作者である小林利男氏は当時を振り返って『日本人は東南アジアを制覇したのだ、大東亜共栄圏の思想は意味が有る、そのために努力したのであるし、そのために多くの人が死んだのである。あの頃は占領軍に押さえられていたので余計、東南アジアは日本が助けた、強い日本人の象徴としてハリマオを作った。』と述懐する。
平成元年、ハリマオは映画として三度目の復活する。この時日本は円高が進み、アジアに生産拠点を求めて進出した時期である。何と監督は和田勉氏。
こうしてハリマオは何時も時代の都合で大衆の前に現われる。戦後の藤原岩市の著書にしても偶像を作った張本人の書いたものであるので、軍部が本当に評価していたのかはそのまま鵜呑みには出来ない。私には軍部に使い捨てにされた豊の姿が浮かんで来る。しかし祭り上げられた本人は意外に満足だったのかもしれない。
後日談…豊がマレーで結婚した女性には男の子の連れ子がいたが、その連れ子の奥さん、豊にとっては息子の嫁が今もバンプー村に健在であり、繁樹さんの豊の足跡を辿る旅行中にも会う事ができた。                                       

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