クタビレ爺イの廿世紀裏話

人生の大半を廿世紀に生きた爺イの
見聞禄の抜粋

日本赤軍の終焉

2005-08-03 14:23:47 | Weblog
  日本赤軍の終焉か?
                   重信房子の逮捕
①突然の逮捕劇
日本中が呆気にとられたとは、この事であろう。中東で潜伏中とばかり思っていた重信容疑者が大阪の高槻市内で逮捕されたとのニュースが入ったのは、平成12年11月8日の午前中である。それから各テレビ局は、新幹線で東京の警視庁に移されるまで延々と彼女が連行されるところを追っていた。加藤派の造反劇もふっ飛びそうであった。途中で女のレポーターなど『重信サーン』と金切り声を挙げて居た。そのレポーターなど彼女がどんな非道なことをし、多くの人命を奪った容疑者であるのか知らないのではないか?まるで政治犯もタレントも区別できないようであった。それに重信容疑者が連行中に終始見せて居たポーズは、55歳と言う年齢並に衰えた容貌と共に、何か時代にとり残されたことを、一人で必死に振払おうとしているようで哀れでもあった。
それにしても、数々の国際テロ事件を指揮したと伝えられるこの女性闘士は、何時日本に舞い戻って居たのであろうか?目的は組織の再編か?何かのテロ実行のためか?単なる里心か?                                     かって世界中の公安関係者からJRA(JAPAN RED ARMY) と警戒された日本赤軍は、報道のように、冷戦崩壊と中東情勢の変化の中で、守護者と居場所を失い、北朝鮮で揺れて居る『よど号グループ』と共に時代の波に飲み込まれようとしているのであろうか?確かに彼等が拠点にしたレバノンの民衆は、反イスラエル闘争を繰り広げた日本赤軍に対して連帯意識は高い。しかし、レバノンに影響力を持つシリアは、冷戦の終結で後ろ盾の旧ソ連の支援を失い次第に米国寄りになって居るし、中東和平交渉が進んでくると、日本赤軍はベカー高原のキャンプも閉鎖し、その他の中東地域、南米、東欧、アジアに散らばっていっている。確かに現在もパレスチナ地域では紛争が続いているが、それらは極右・極左の起こしていることで中東諸国は確実に和平を模索して居る。日本赤軍は、既にアラブの諸国にとってはイメージを悪くする邪魔な存在として捨てられたのであろう。最もそれがはっきり出たのが、平成9年に日本赤軍の幹部たちのうち『和光晴生』『岡本公三』『足立正夫』『山本万里子』『戸平和夫』の五人をレバノン政府が不法滞在・旅券偽造・公印偽造の容疑で身柄を拘束して裁判に掛け、ロッド空港で100人を殺傷してアラブの英雄と言われた岡本だけの亡命を認めたが、その他の四人を平成12年に国外追放にし、日本領空で何なく日本側に逮捕させたことである。
重信容疑者の名前には常に、日本赤軍最高幹部と言う肩書きが付き纏うが、実際のところ、どういう役割をしていたのか?は分かっていない筈である。若しかすると、マスコミの作り上げた虚像であるかも知れない。レバノンで武器を持っている写真の多さにも何か宣伝用の匂いがするし、本人談で日々コマンドとしての鍛練に励んでいると言う割りにはテロ現場に居たことはない。偽装結婚の相手がロッド空港で爆死した時も、遠い安全地帯で、『彼等は死ぬために行った』と嘯いて居た。また極端に臆病で、支援者からの差し入れも、毒入りかもしれないとして手を触れなかったと言う。極め付きは、逮捕された西川や戸平たちが『彼女は金を奪うことにのみ執着し、その金でどんな行動を進めて行くかと言う展望は皆無であった』と証言した事であり、そんな者が実質のリーダーであるはずがない。彼女は学生時代と同じく単なる利用されたマスコットだったのでは無いだろうか?
②生い立ち
彼女は昭和20年9月に東京・世田谷に生まれる。父親は『血盟団』に所属していたと称する右翼の活動家である。テレビではこの血盟団の事を『5.15事件で時の犬養首相を暗殺した…』と説明して居たが、それは間違いである。5.15事件は昭和7年5月、政党・財閥の在り方に不満を持つ海軍の青年将校が、大川周明らの右翼と結託して、首相官邸・政友会本部・警視庁・日銀を襲って犬養首相を殺害したクーデターであり、この血盟団とは、井上日召が主催した一人一殺主義の右翼暗殺団であって、この年の2月に前・蔵相井上準之助、3月に三井財閥の団琢磨を殺害し、血盟団事件と言われたものである。
終戦直後の混乱の中、両親は食料店を営んで居た、生活は極めて困窮状態であった。こんな中で、彼女は父親の正義感を社会の窓口として受け継ぎ、彼女の生き方の始まりとする。貧乏のため、普通高校を諦めた彼女は、アルバイトしながら都立第一商業に進学している。私の記憶では、都立第一商業はレベルが高い実業高校として有名であったが、それにも増して夜間部があって働く者に人気があった。若しかすると彼女も働きながら夜間部に入ったのかも知れない。世の中では既にいわゆる60年安保の後、学生運動がうねり始めては居たが、この時代の彼女は、ただ活発で目立ちたがりの少女にすぎなかった。但し生活の苦しさから差別と言う事には、敏感であったようである。
高校を卒業すると、ごく平凡に醤油製造会社に就職するが、一年で退社する。理由は大卒社員との格差に差別を感じて、嫌気がさしたと言われる。そしてこの格差を埋めたかった事と文学をやりたいと思って一念発起して明治大学文学部(夜間)に入学する。昭和40年、彼女20歳のときである。しかし、今はどうか知らないが私の経験では、当時の『夜間』には厳然たる差別があった。高校夜間卒業生は、就職後の待遇は『中卒』であったし、大学の夜間(第二部と称した)もその処遇は大卒扱いではなかったから、格差を埋めるために大学夜間に入学したなどのことはその資格で就職の経験ない彼女の幻想・勘違いか、後からマスコミが作り出したストーリーにすぎないと思う。
彼女は登校最初の日に、折からの授業料値上げ反対集会のアジ演説を聴いて共鳴し、ごく自然に過激闘争の中に歩み出して行く…
③その時代…彼女の時代の学生運動を理解するには、もう少し溯らなくてはならないので、時代を手繰ってみる。
昭和25年…朝鮮動乱が始まり特需景気が起こってきた中、マッカーサーの指令による共産党員追放指令、つまりレッドパージは放送・新聞関係にも波及する。総評も結成されるが、これは産別会議・全労連が左派系であるのに反して、GHQの援助の下に反共的統一体として総同盟・日教組・新産別・炭労が参加して結成したもので後に再分裂する。
その他・金閣寺消失・警察予備隊設置・中尊寺藤原三代ミイラの調査         昭和26年…日本にとっても、左翼運動にとっても大事な年であった。対日講和条約と日米安全保障条約が締結されたからである。対日講和条約は、米国による日本の反共防波堤化の意味で社会主義国は外され、いわゆる単独講和となる。調印国は48ケ国、中国は招かれずインド・ビルマ・ユーゴは参加拒否、ソ連・ポーランド・チェコは調印拒否をした。一方の日米安全保障条約により講和条約締結後も米軍が日本に駐留する事となる。この条約は『日本の希望により米軍は日本に駐留を続け、極東の平和維持、国内の内乱の場合、出兵できる』としていて後々までも騒乱の種となる。60年安保闘争の幕開けはこの安保の改定を、1960年(昭和35年)にやった時である。
その他・ラジオ民間放送の開始・羅生門グランプリ受賞・ユネスコ加入・児童憲章制定 昭和27年…『血のメーデー』が起きる。この年のメーデーの日、講和条約・安保反対を叫ぶ革新団体や労働者群が、皇居前広場の使用を禁じられたのに怒って、集会後、機動隊に突入し、死者2名・重軽傷者多数を出す騒乱となる。樺さんが死んだのはこの時ではなく、後の安保闘争である。また、講和条約成立に伴い占領下での治安立法が失効するので、代わって破壊活動防止法が成立するが、共産主義的運動抑圧のためであった。
その他・韓国が李承晩ラインを宣言、警察予備隊が保安隊に改称、ヘルシンキ大会参加。昭和28年…内灘基地問題激化・スト規制法が成立、スターリン死去、NHKテレビ放送開始、朝鮮戦争終結。
昭和29年…この年、MSA協定ができる。これは米国と日本との相互防衛援助協定であり、米国は非共産圏諸国に経済的・軍事的援助を与え相互に安全保障するもので、これによって日本は米国の援助の下で防衛力を強化する義務を負った。国内では自衛隊が成立し警察法も強化された。その他では、青函連絡船洞爺丸が沈没。
昭和30年…左右社会党は統一、保守合同により自由民主党が成立し、昭和30年が1955年のため今でもよく言う『55年体制』と言われるものになる。鳩山内閣。
昭和31年…ソ連は鳩山一郎の訪ソによって対日講和条約に調印したが、領土問題ではハボマイ・シコタンが将来日本に引き渡されると取り決めた。石橋湛山内閣の成立、スターリン批判が起きる。神武景気の年。
昭和32年…第一次岸内閣で国連安保理の非常任理事国に当選、南極に昭和基地、ソ連の人工衛星成功。小生も就職し新潟加茂工場へ勤務開始。
昭和33年…勤務評定反対闘争の激化で日教祖が目立つ活動をする。安保改定の交渉が始まり、不穏の幕開けとなる。この年、一万円札が発行された。
昭和34年…伊勢湾台風により東海地方に甚大な被害が出たが、神武景気に続く岩戸景気となる。皇太子婚礼。
昭和35年…岸内閣によって新日米安保条約と同時に新日米行政協定が調印される。この新安保の改訂点は米国の日本防衛義務をより明確化し、日本は自助と相互援助の義務を負ったこと、事前協議を定めた事、期限を10年とすると言うものであるが、日米の軍事的
結び付けを強化するものとして、左翼陣営からの格好の闘争目標となる。
反対運動は、前年から盛り上がりつつあったが、この年に入ってから社会党・共産党・総評などが統一行動を取り、条約批准の6/15日に11万人のデモ隊が国会を取囲んだ。国会では自民党が単独強行採決をやり、国会外では全学連デモ隊が国会構内に乱入し、機動隊や右翼とぶつかり、東大生の樺美智子さんが圧死した。このため、アイゼンハワーの訪日も中止となり、岸首相刺傷事件もあって第一次池田内閣となる。三池争議もこの年。
昭和36年…やや落ち着いて池田勇人が所得倍増計画を発表したり、ソ連は人間衛星の打ち上げに成功する。
昭和37年・38年…キューバ封鎖事件で米ソの核対決を防ぎ(37年)、米英ソ部分的核実験停止条約を纏めたケネディー大統領がダラスで暗殺(38年)される。
昭和39年…新幹線開通、東京オリンピックの年。ソ連ではフルシチョフが解任され、中国が初の核実験を成功させる。
昭和40年…高度成長は終り、倒産企業数は戦後最大になり、初めての赤字国債が発行された。米軍は北爆を開始し、日韓基本条約が調印され又もや、強行採決となる。この条約の予備交渉は昭和27年から始まっており、漁業の基本水域の設定・経済協力関係の樹立在日韓国人の法的地位と待遇改善の設定・文化財の韓国への返還などであったが、韓国ののみとの締結は、朝鮮半島の南北対立に拍車を掛ける事、実質は軍事協定の疑いがあることなどを理由にして、左翼が反発し全学連デモ隊が国会に突入した。この年は、学園紛争も激しく慶応大学では授業料大幅値上げが学園ストになり、早大では学生会館の管理問題で学生の座り込み、ベ平連によるベトナム戦争反対運動、原潜寄港反対、日韓条約粉砕などの材料によって、新左翼のセクトが続々誕生して、全学連・全共闘と言う言葉が新聞に載らない日は無かった。重信房子明大入学。
昭和41年…隣の中国では文化大革命がスタートし混乱期を迎えるが、早大の学費値上げ反対運動で機動隊が学内に入り、大浜信泉学長が辞任、各大学とも新左翼が暴れ回り、高崎経済大学学生も市庁舎に突入し大量の検挙者を出し、重信の明大も学費値上げ反対の全学ストに入った。学外ではベトナム戦争反対、原潜寄港反対、日韓条約粉砕などである。昭和42年…従来のテーマに、砂川基地拡張阻止・成田新空港反対・沖縄祖国復帰がくわわってより混迷の度を深め、各新左翼間・新左翼と右翼・新左翼と共産党系の民青との抗争も激しくなる。全学連があっても各大学の主導権は、その大学で力のあるセクトがリードするところに勢力争いが絶えず、後にはセクト同志の殺し合いにまで発展すると言う無軌道ぶりであった。小笠原諸島日本復帰。
昭和43年…この年は、佐世保エンタープライズ寄港反対で明け、メインは王子野戦病院設置反対、成田三里塚闘争などに明け暮れた。川端康成ノーベル賞。
昭和44年…この年は東大紛争である。年初めから日共=民青と全共闘が学内で抗争し、東大・右翼学生・民青連合が6学部でスト解除をするが、全共闘が反発し安田講堂に立て籠もる。学内に機動隊が入ったが解決せず、入試が中止された。この入試問題は、京大で
は、入試粉砕として運動されたほか、日大・中央大・早大で学生の占拠が続き、遂に破防法が適用され、安田講堂は陥落する。この事態を見た各過激派は、火炎瓶とゲバ棒だけの闘争の無力を感じ武装化を始めるのである。そして新しく結成された『共産主義者同盟赤軍派』の中に尖鋭化され、ジャンヌダルクと祭り上げられ得意満面の重信房子がいた。
肩書きは、中央委員兼中央組織局副局長。                     昭和45年…大阪万博で太平ムードの中、三月によど号ハイジャック事件発生、赤軍派の9人が北朝鮮に脱出する。日米安保が自動延長され、騒然の時、三島由紀夫割腹事件がおき緊張が走る。                                 昭和46年…京浜安保共闘の3人が真岡市の銃砲店を襲撃し、散弾銃と実弾を奪う。成田闘争も盛り上がり少年行動隊などが出現。赤軍派が団地の銀行支店を襲撃しM作戦を始める。沖縄返還協定が調印されたが国会の採決に反対する革新派の気勢は凄まじく、各地で大規模集会が開催。重信らレバノンへ脱出。                    昭和47年…あさま山荘事件勃発、国内赤軍派の壊滅。岡本公三ら3人がイスラエルの空港で銃を乱射し100人を殺傷する。早大紛争で各セクト対立が激しく個人テロにエスカレートする。                                  ④乱立する新左翼…この時代は多数の新左翼が乱立し、しかもそれらが分裂・合体を繰り返し、夫々を呼ぶのに略称を使ったので、なかなか区別が付かない。世の中の常識感覚と少しずれているのは、彼等は共産党とは一線を画し共産党も彼等と同一視される事を極度に嫌って居た事である。日本共産党の下部学生組織は唯一つ『日本民主青年同盟・民青』であり、一般学生と同じファッションと言うことを信条としていたので、ヘルメットを被らずゲバ棒を持つこともなく、機動隊とは衝突を避ける比較的おとなしい集団である。 どちらかと言うと早大事件でも右翼学生と組んでスト解除に手を貸しているので、他の新左翼との抗争は激しく、他のセクトとかなり戦って居る。
現実に『しんぶん赤旗』は、この新左翼の事を『ニセ左翼暴力集団』と表現し、特に日本赤軍に対しては、『日本共産党打倒、転覆を叫ぶなど、反共を最大の目的とするブント赤軍派から生まれてきた彼等は、テロ活動を革命と言う言葉で飾り立てているが、こんなテロ行動は日本共産党や科学的社会主義とは縁も所縁もない』と突き放している。以下、記憶に残るセクトの幾つかを並べて見る。     
(1)全学連…最も多く聞かされた言葉であるが、『全国学生自治会総連合』が正式名称。各大学にあった学生自治会の全国組織であるが、実質的には各大学の自治会の主流派を各セクトが握っていたので、党派闘争が全学連主導権争いに発展し、各党派が独自に全学連を名乗るようになった。例えば革マル派は『革マル全学連』。
(2)全共闘…上記全学連と混同し易いが、『全学共闘会議』が正式名称。全国連合的組織ではなく、安保闘争とか、個別大学紛争に勝利するために学部やセクトを超えた連合体として各大学に作られたもの。代表的なのは日大闘争全共闘と東大闘争全共闘である。 従ってその中身はマルクス主義あり、リベラルあり、実存主義ありで、セクトの指導で唯
それに従うと言うよりは個人の思想や行動が意識の中心にあった。この動きは昭和44年頃が頂点でそれ以後は、『セクトの時代』に突入する。
(3)共産同…『共産主義者同盟』が正式であるが、『ブント』とも言われる。ブントとはドイツ語で連盟・同盟の意味である。昭和35年の60年安保の前に、共産党はその党大会で武装闘争の方針を放棄した。これに反発して離党あるいは除名された学生党員が、昭和33年末に結成したもので『社学同』の上部組織でもある。安保闘争の主役を演じ、60年安保で圧死した樺美智子もこの派閥に属する。彼等はレーニン主義の復権を基調として、大衆闘争主義と世界革命論を主張したが、発足当初から派閥が多く、大ブント構想で昭和41年に一度は統一をしたが、昭和44に再分裂している。赤軍派の出身セクト。(4)社学同…『社会主義学生同盟』の事であり『共産同』の下部学生組織でこれも通称はブントであった。学生セクトの中では最も大衆的なエネルギーを結集できたセクトである。それだけにノンセクトの過激学生の大衆結集が衰退すると、組織は崩壊する。   昭和45年の70年安保以後は、ほとんど解体に近かった。 
(5)社青同…『社会主義青年同盟』の事。日本社会党の青年組織であり、60年安保や三池争議の後に、社会党が組織の若返りを目的として結成した。昭和40年に『解放派』などの過激派閥が生まれるが、それらは組織から追放され、後に九州大学への米軍機墜落事件で活躍して居る。
(6)革マル派…通称は『革共同革マル派』であるが、正式には『日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派』でありこの学生組織が通称『マル学同革マル派』と言われた『日本マルクス主義学生同盟革命的マルクス主義派』である。一般的にはこちらを『革マル派』と言っていた。本来はこのマル学同は『革共同』の学生組織であったが、これが
革マル派と中核派に分裂し、以後この両派は流血の反目をすることになる。
(7)革共同…『革命的共産主義者同盟』が正式名称であり、昭和32年に結成されていた『日本トロッキスト連盟』を改称したもの。しかし昭和34年には、反帝国主義・反スターリン主義を掲げた『全国委員会派』とトロッキズムを掲げる『第四インター系』に分裂、さらに昭和38年には全国委員会派が『主流派』と『革マル派』に分裂、この主流派が『中核派』を名乗る。
(8)第四インター…正しくはダイシインターと読む。『日本革命的共産主義者同盟第四インターナショナル日本支部』が正式名称。『革共同』からの分裂派閥で全共闘時代にはデモにも参加せず、評論活動を主として居たが昭和45年以降は、成田管制室破壊などの過激闘争に転じている。
(9)中核派…通称『革共同中核派』で正式には『革命的共産主義者同盟全国委員会』。少々混乱するが一般的に中核派と言っていたのは、『革マル派』のマル学同中核派のことであり、上記全国委員会の学生組織。正式には『日本マルクス主義学生同盟中核派』。
(10)京浜安保共闘…もともとは、日本共産党左派グループの中で、毛沢東の野戦理論を信奉する労働者中心の一派であったが、大菩薩峠事件以後に体力の弱まった共産同赤軍
派と合体、連合赤軍を結成し、あさま山荘事件で壊滅する。
(11)赤軍派…元来、京大生を中心とする共産同の一派閥であったが、全共闘運動が終息するにしたがって、内部対立によって関東派と関西派に分かれ、その内の関西派が独立して赤軍派を形成する。当初は『共産同赤軍派』を名乗っていたが、昭和44年の鉄パイプ爆弾事件から赤軍派と名乗る。後に大菩薩峠の軍事訓練で53名が検挙され壊滅状態となるが、マネー作戦を展開し、ここで資金を得た残党が武器略奪の京浜安保共闘と合体して連合赤軍事件を引起す。
(12)日本赤軍…元は共産同赤軍派であるが、昭和44年の大菩薩峠の大量検挙などで国内活動に行き詰まった赤軍派は、田宮などが昭和45年に『よど号』を乗っ取り北朝鮮に拠点を求め、重信房子・奥平剛士が、偽装結婚をして昭和46年にレバノンへ脱出、翌年の5月にロッド空港で銃乱射事件を引き起こし日本赤軍を名乗る。現在6名が国際手配中。                                      ⑤日本赤軍の爪痕…昭和44年になると、過激派のシンボルであった東大安田講堂立て籠もりも排除され、各大学も過激派の排除のために機動隊をドンドン学内にいれるようになる。こんな状況から過激派は、機動隊に立ち向かうのに火炎ビンとゲバ棒だけの力の限界を思い知らされ、密かに武装化を図る。この年の9月に新たに結成の『共産同赤軍派』は11月になると、首相官邸占拠を計画して山梨県大菩薩峠で鉄パイプ爆弾などの武闘軍事訓練を行おうとしたが、警察に察知され山荘『福ちゃん荘』に宿泊して居た53名の学生労働者全員が『凶器準備集合罪』の現行犯で逮捕され、赤軍派の壊滅の端緒となった。この時の逮捕者の中には、今は18年の刑期を終えて出所し、重信逮捕時にはテレビでもインタビューを受けていた、当時の赤軍派議長『塩見孝也』も含まれて居る。
昭和45年の1月に、赤軍派は『国際根拠地建設』をスローガンの一つとして発表する。これは、革命を達成するために北朝鮮・キューバ等の社会主義国に国際根拠地を作り、そこに赤軍派の活動家を送り込んで軍事訓練を受けさせ、再び日本に逆上陸して武装蜂起を行うと言うものである。しかし3月からは、大阪万博が開催され世の中は次第に平和路線を辿って居た。そしてこれ以後、赤軍派は路線が分裂し、よど号での北朝鮮脱出組・レバノン脱出組・国内連合組に分かれることになる。
そして3月末、赤軍派は羽田発福岡行きの日航ジャンボ機『よど号』を乗っ取り、福岡空港・韓国金浦経由で北朝鮮の平壌に脱出した。犯人は大阪市大・田村高麿、東大・小西隆祐、明大・田中義三、関西大・阿部公博、同志社大・若林盛亮、京大・岡本武(公三兄)大阪市大・赤木志郎、高校生・柴田勝弘、工員・吉田金太郎の九人である。それから30年、彼等の運命は過酷である。田村、吉田はすでに病死、岡本も事故死、田中は平成8年にタイで贋ドル事件で逮捕され、この件では無罪になったものの、日本に移送されて逮捕され公判中、柴田は偽造パスポートで日本入国をしようとして逮捕され、現在北朝鮮に残って居るのは、4人であり最近家族共々の帰国を模索している。
                                        

コメントを投稿