クタビレ爺イの廿世紀裏話

人生の大半を廿世紀に生きた爺イの
見聞禄の抜粋

報道被害・松本サリン事件

2005-08-03 14:16:18 | Weblog
        報道被害・松本サリン事件
                    河野義行の闘い

1994年 6月27日、長野県松本市、静かな住宅街の一角でその事件は起こった。猛毒のサリン・ガスが罪無き人達7人の命を瞬時にして奪ったのである。松本サリン事件の発生、負傷者も600名に達し、住民を恐怖のどん底に突き落としたこの事件は、一人の会社員の人生をも一変させることになる。彼を知る極く一部の人を除く報道・警察・国民などの日本中を敵として闘ったのは、河野義行である。
警察は第一通報者の河野氏を極めて有力な容疑者と見ていた。マスコミも事件に深く関わる人物として彼に的を絞った。そして運命のドラマが始まった。
松本事件の被害者名簿の78番目に『乾高弘』と言う事件記者がいる。皮肉にも彼のペンは、無実の隣人を報道被害へと導いていく。乾は河野氏が犯人であると確信していた。依頼を受けた弁護士でさえ、この瞬間は潔白の確信は無かった。弁護士は河野義行犯人説を検証するため、駆けずり回ることになる。だれもが彼を疑っていた。そして河野家の人々の壮絶な反撃が始まる。
①第一通報者
1994年 6月27日午後 10 時 40 分頃、河野家の裏庭にある犬小屋のほうで物音がした。何事かと河野氏が廊下に出て犬小屋のほうを見ると愛犬が不自然な格好で横たわっていた。そばに行くと犬は白い泡を吹きながら激しく痙攣していた。すぐそばには、子犬も倒れている。尋常ではないと直感した彼は、警察に連絡した方が良いと、家の中の妻に声を掛ける。しかし返事がない。妻はそのとき既に泡を吹いて悶え苦しんでいた。すぐさま救急車を呼ぶ。午後 11 時 9分である。こうして河野家の平和な暮らしは一瞬にして崩壊する。原因不明のガスによって人は次々と倒れ、近所は怒号と悲鳴に包まれる。この凄惨な現場に一番乗りで駆け付けた新聞記者がいた。中日新聞松本支局・乾高弘である。偶然にも彼のマンションは、河野家とは通りを挟んでの向かい合いであった。乾高弘も取材の際にガスを吸い込んで78番目の被害者となり、8日間の加療となる。何が起きたか分からないまま恐怖で取材したことは、翌日そのまま紙面になった。
一方河野氏は、一命は取り止めたものの危険な状態にあり、松本協立病院に収容されていた。妻も重体であったが、子供たちが無事であった事が唯一の救いであった。一夜明けると百人を越える報道陣が毒ガスの発生源と言われた河野家に押しかけた。長野県警は捜査員250名を投入、原因究明に乗り出したが、この時既に県警の疑いの目ははっきり河野氏に向けられていた。捜査当局は家族への事情聴取をすると共に、河野家に保管されていた薬品類の存在を知った。そして事情聴取から4時間後、捜査当局は河野家に対する家宅捜索に踏み切った。この時テレビはそれが『殺人容疑』であることを全国に伝えた。夜更けまで掛かった家宅捜索で警察は、20点に及ぶ薬品類を押収する。その中には河野氏が写真の現像に使おうとしていた劇薬・シアン化合物も含まれていた。午後10時、捜査当局は記者会見し、発表の第一声に『殺人容疑で河野宅を家宅捜索した…』と述べる。この発表を聞いて記者たちはもう犯人は決まった、事件は解決したと感じて興奮した。   
新聞もテレビも一斉に河野義行を犯人として追うことになり、全ての報道は河野氏が犯人であると言う事を繰り返して流した。『庭の雑草を取るために、除草剤を作ろうとして薬品を調合していたら、有毒ガスが発生した』と本人が告げたと言うのである。
家宅捜索の夜、河野氏は度々襲ってくる痙攣と必死で戦っていた。その生と死の狭間で綴った日記がある。その時の刑事の事情聴取の第一番は『河野さん、何があったのですか?本当の事を話して下さい』と言う、被害者河野氏にとっては、余りにも唐突な質問であった。それでも河野氏は事実だけをできるだけ細かく説明することにした。そして刑事が去った後、ふと気が付くと病室の隅に見知らぬ男が座っていた。それは河野氏を監視するための刑事であった。
②疑惑
河野氏が病院で意識朦朧としている頃、マスコミは既に『松本の毒ガスは、薬品調合中に発生…』として、事件当夜、妻と作業中、白い煙が上がったなどと、河野氏犯人説を報道していた。そして危険な隣人の正体と言う見出しは、河野氏のプライバシーを徹底的に暴いて行く。事件の第一通報者は、危険物取扱有機溶剤作業の資格を持つ怪しげな会社員となった。そんな報道に誰よりも驚いたのは河野家に残された子供たちである。事件から三日後に、長男・仁志は父親に面会し、殺人者扱いを受けていることを告げる。
しかし、河野氏はマスコミのいい加減さに呆れはしたが、ここまで疑われようとは想像もでき無かった。
その日のこと、松本市の永田法律事務所に一本の電話が入る。入院中の河野氏から知人を介しての弁護の依頼であった。後に最強の支援者となる弁護士・永田恒治も自分が弁護依頼を受ける言う実感がなかったので、戸惑い躊躇する。しかし会って見るしかないと考えて病室を訪ねる。河野氏は『私はテレビで犯人扱いされている』と涙ながらに訴えた。
その日は病室の異常さや、河野氏の興奮状態から、弁護士の選任届用紙を置いただけで引き上げる。その頃、病院の外では凄まじい取材合戦が繰り広げられていた。河野氏の職場や友人の所に取材陣が押しかけ私生活や過去を探った。河野氏を絶対的に信じて救援活動をすることになる友人の『清水澄男』は、その狂乱の有様が情けなかった。
乾記者も、地元の取材に奔走していた。マスコミの報道は世間に、あいつは悪い奴だ、と言う固定観念を植え付けてしまった。近所の人達も、暴走マスコミをイケイケで後押しした。永田弁護士でさえ、河野氏を信ずる事ができずに、何度も農薬を使った事がないか?を本人にテープを採りながら確認している。それでも永田弁護士は未だ白とも黒とも断じ兼ねていた。
こんな時、捜査当局は衝撃的な事実を明らかにした。1991年 7月 3日の事である。発表されたのは、毒物が『サリン』と言うことであった。謎の毒ガスは、第二次大戦中にナチスが開発したサリンであった。この事実は、河野氏の農薬調合説を覆すはずであった。河野氏の日記にも『サリンは始めて耳にする物質…』と書かれる。河野氏はこのサリンとは一体何なのか?を息子に調査させる。息子の仁志は、調査の結果、この物質の一般的ではない特異生を知って、もう父親に対する疑念は晴れると確信した。しかし捜査当局は、河野氏のサリン製造の可能性を探っていたのである。押収した薬品の中に有機燐系の薬品があ
ったことが、捜査当局が河野氏を疑う唯一の根拠であった。危機感を抱いた永田弁護士は病室で採った『救急隊員に農薬の調合を間違えたなどと言った覚えはない…』と言うテープをマスコミに公開する。録音テープの公開は、病室からの最初の反撃であったが、潔白の証明のためにはやることが沢山有り過ぎた。
③確信
被害者の自分が何故犯人扱いされるのか?河野氏のやり場のない怒りがあったが、なぞのガスがサリンと判明した後も、河野犯人説は覆らなかった。サリンと発表された段階で、記者たちは一様にオヤッと思ってはいたが、それ以上には進展しないし、本人には会えないし、どうしたら良いか?迷いも出ていた。
永田弁護士は、潔白の証明のため捜査当局が疑う根拠を徹底的に調べ始める。先ず農薬調合説の出所は『調合に失敗した』と言うことを聞いたとする消防隊員の証言からである。弁護士は出所を調べたが、そんな事を聞いた救急隊員など存在しなかった。更に弁護士は有機化学の専門家・田坂興亜に河野氏の持っていたものでサリンが作れるのか?との化学的な検証を依頼する。田坂氏は警察の発表した薬品リストを調査し、河野氏の自宅の現場検証を実施した上で、『河野氏は絶対にサリンを作ることは出来ない』と結論した。
弁護士は田坂氏を伴って病室の河野氏に伝えた。田坂氏は病室での面談での河野氏の態度から益々これは冤罪であると確信する。しかしこの時期、河野氏の無実を信じていたのは家族、弁護士、田坂氏、友人の清水氏など、ごく一握りの人達であった。
こうしているうちに河野氏の病状は快方に向かったが、妻の意識は戻らず依然として生死の境をさ迷っていた。
④信頼
事件から一週間後、妻の容体が悪化し、病院は長男の仁志さんを呼び、病状を説明する。それは脳が膨らんでしまう『脳浮腫』であり、極めて危険な状態であった。殺人犯と疑われる父、意識の戻らない母、これが仁志の前にある現実であったが、この若年の青年は、驚異的な精神力で耐え抜いていく。河野家へは昼夜を問わず電話が鳴る。嫌がらせ、無言電話、脅迫の手紙にも必死で耐えた。
七月の中旬、河野氏は再び警察の事情聴取を受ける。サリンの発生場所が自宅の庭周辺であったこと、自宅にシアン化合物があったこと、自らが化学薬品の専門家であったこと、などの幾つかの偶然が彼を苦しめる原因であった。しかし彼はもう直ぐ真実は明らかになると信じていた。
事件から一か月後の 7月 30 日、河野氏は退院する。彼は疑惑を報道するマスコミの前に出て自ら疑惑の一切を否定することを実行した。そして又事情聴取が始まる。証拠を持たない捜査当局は、河野氏の自白を必要としていたのである。
⑤真実
7 月 30 日の事情聴取には、嘘発見機までが用意されていた。河野氏はこれを受けて立つた。一時間もの当局の様々なひっ掛け質問が続く。そして二日目、河野氏は『犯人はお前しかいない』と言う言葉を根拠も何も示されないままに浴びせられる。この時、河野氏は自分のおかれている立場をはっきりと悟り、逮捕に備える覚悟をした。
彼は自宅に戻ったが、逮捕される危険は去らなかった。弁護士も対応を準備する。友人の清水氏の心配は、河野氏の体力であり、本人には生活費、会社の事、妻の治療費が重くのしかかった。やがて河野家の本格的反撃が始まる。
逃げれば追いかけて来るマスコミなので、全てをオープンにして、本人自身からの情報をマスコミに伝える作戦に出た。多くの人に捜査の間違いを悟らせるため、次々と各社の取材をこなしていった。その結果、マスコミの反応に僅かに変化が現れた。県警は何をしているのか?とかの批判めいたものが出てきたのである。事件発生から取材してきた乾記者もこの頃から疑問を持つようになる。しかし抗議の意味で河野氏は、乾記者には絶対に会わなかった。                                   9月27日、読売新聞に河野犯人説を根本から疑う記事が出た。乾記者も 10 月の末に、河野犯人説を捨て、紙面から犯人に自首を呼び掛ける。しかし捜査当局は動かず、河野氏は依然として容疑者であり続けた。
1995年 3月 20 日、地下鉄サリン事件が起き、サリンが東京の地下鉄でばらまかれた。 そして二か月後、取り調べの警察から河野氏の元に犯人逮捕の電話が入る。事件から323 日も経っていた。事件から一年、マスコミ各社は河野氏に対して一斉に謝罪する。乾記者の心境も複雑であった。河野家にも再び静かな日が訪れたが、そこに妻の姿はない。
弁護士は、市民の誰もがマスコミの一斉横並び扇動で、何時でも加害者になったり、河野氏のような被害者になり得る世情に戦慄する。今、河野氏は裁判の行方を静かに見守っているが、あれ程の失態で個人を踏みにじった警察は、遺憾の意を表しただけで済ませてしまった。昨今の警察不祥事、失態追及の厳しくなったときなら、彼等は全員処分されているはずである。松本にも又暑い夏がやってくる。

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