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沖縄空手

2011-06-13 | 沖縄の文化
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像; 沖縄空手 )
沖縄空手
【 沖縄の文化 】
『 沖縄空手 』を見聞しましょう。

沖縄空手普及の契機
沖縄古来の武術「 (ティ) 」と中国伝来の「 拳法 」が融合して体系化されたのが沖縄空手の原型とされる。

沖縄に空手がひろまった契機は 琉球王国/尚 真王 の『 刀狩政策 』 と 薩摩藩が琉球侵攻(1609年)後に執った『 禁武政策 』(1613年)に拠ると伝わる。 琉球王府の武将達は武器を持たずに護身をはかる技として空手術を身につけた。

◎ 長期体制が続いた琉球王国
各地の豪族達が群雄割拠にあった沖縄本島を尚 巴志が平定した。
尚 巴志(しょうはっし)は統一琉球王国を創設して王朝体制を敷設した。
そして自らが琉球王國の初代国王に就任した。(1429年即位)
以後、25代目国王:尚 泰(しょうたい/1848~1879年)までの約450年間もの長期にわたって琉球王国が続いた。(明治12年終焉)

☆ 尚 真王が築いた全島統一の中央集権国家
それまでは沖縄本島統一のみに止まっていた国家体制であった。
9代目国王:尚 真(しょうしん/1477~1526年)によって、沖縄本島周辺離島及び宮古・八重山諸島までの平定を成し遂げて、全島を統治する完全な中央集権国家体制を敷設した。

◇ 尚 真王の執った「 刀狩施策
即位まもなく「 刀狩施策 」を執行した。「 武器禁止令 」とも称される。
全島から武器類を取り上げて王府に集め管理し、有事の際にはその多量の武器類の使用をもって護国を図ることを目的としていた。
実情は全島平定を遂げるも未だ各地には対抗に燃える豪族達の残党があり、それらの戦意を削ぐため及び国内から己に反逆者を出さないために執った施策であったとも伝わる。

◎ 王府士族の空手修練
王府は武術に秀でた者を招聘して空手術の研鑽に勤しませた。
士族武将達にも漏れなく空手術の習得を推奨した。
王府庇護のもとで基本体系(首里手)が確立されたと伝わる。

☆ 薩摩藩による琉球王国占拠
13代目国王;尚 寧(しょうねい/1589~1620年)の代になって琉球王国は薩摩藩と江戸幕府の共謀軍に侵攻・占拠された。 (1609年)
以後、明治政府の廃藩置県施行に伴う「 沖縄県設置 」までの約270年間を薩摩藩の支配下に置かれた。

◇ 薩摩藩の執った「 禁武政策
薩摩藩は反乱からの防御を図る意図で王族士族の武器保持を禁止する「 禁武政策 」を施行した。

王府の刀狩施策 と 薩摩藩の禁武政策 が合致して、その後の空手普及に拍車をかけたとも伝わる。

沖縄空手の体系的基盤
☆ 沖縄空手の原型
古来から琉球各地には武術者が修練を積んだ 古武術 が存在した。
時代変遷を経て研鑽が積まれ個別的特長を持った武術として進化した。
なかんずく武術が盛んであった首里、那覇、泊の三地域では地名を冠して首里手那覇手泊手 と称する地域的武術が体系的に形成された。
古武術では術のことを「 (ティ) 」と呼称した。
以後においても首里手、那覇手、泊手は沖縄空手の原型とされる。

◇ 三地域の特徴
その昔から首里、那覇、泊は沖縄本島の中心街地であり個別の村を形成するも連坦域であった。
琉球王朝時代には何れの村も中国との冊封史や進貢船また江戸幕府との慶賀使や謝恩使が往来する賑わいの地域であった。
数ヶ月に及ぶ旅程のなかでの人員的交流も盛んで、旅団に随行している武術家と村の武術家との交流もあったと伝わる。
・ 首里村
長期に亘り琉球王国の王府が置かれていた。
海外交易に伴う多数の賓客が訪れて歓待儀典が頻繁であった。
※ 首里手は琉球王府の士族武将達に嗜まれていた。
・ 那覇村
那覇港は海外交易港であった。
とりわけ中国交易に係わる人員往来で賑わっていた。
※ 那覇手は中国南派少林拳の影響を強く受けているとされる。
・ 泊村
泊港には海外交易船乗務員の宿舎があった。
泊の人々は外国人との交流が盛んであったと伝わる。
※ 泊手は首里手と那覇手の折衷で組み立てられたとされる。

沖縄の武術家は中国武術家との交流を得て多くの術を体得した。
中国大陸に渡って武術の習得に精錬した者も多くある。
それを伝来の古武術に採り入れてオリジナリティな術を創造した。

☆ 沖縄武術の呼称変遷
(ティ) ⇒ 唐手空手 と呼名が変わってきた。
その時期・事由については諸説あって定かでない。
「 空手 」の呼称が用いられたのが明治38年頃との説がある。

沖縄空手の歩み
琉球王国時代には流派と称される形態は存在しなかった。
空手が盛んな地域の地名を冠して区分呼称していた。
その代表例が首里手、那覇手、泊手の呼び方である。
琉球王国崩壊(明治12)から時を経て空手活動に勤しむ者が多くなった。

☆ 沖縄空手の流派
空手界では沖縄空手の原型である首里手、那覇手、泊手を基にして
更なる術の研鑽に精進する活動家達の広がりがあった。
然る後、各手のなかから武術性・理論性に秀でた空手家が出現した。 
首里手⇒松村宗棍 那覇手⇒東恩納寛量 泊手⇒松茂良興作である。
3氏は近代沖縄空手の礎を体系的に創造した「 中興の祖 」とされる。

◇ 流派の派生
松村、東恩納、松茂良の3氏をそれぞれに祖として鍛錬に励む門下生が数多く誕生した。 その中からは体得した術に独自性を加えて新流派を打ち立てる者も出現した。
首里手の流儀を汲む小林流、那覇手の流儀を汲む剛柔流、泊手の流儀を汲む松林流に代表される。
上地流 開祖の上地寛文のように自ら中国福建省に渡って17年間も武術を学んで帰り中国南派少林拳が源流となる流派を興した武術家もある。

大正期には「 流派 」の設立がまだ胎動期であったと伝わる。
昭和期になって流派の細分化が顕著となり、現在では60以上の流・会派を数えるまでになっている。

沖縄空手の特長
☆ 沖縄空手は「 型 」の修練
伝来の沖縄空手は『 型に始まり型に終わる 』と評された。
精錬され磨き澄まされた「 型 」には 一撃必殺の強烈な攻撃と万全の防御が内包されているとされる。
「 型 」は各流派独自に体系化され攻撃や暴力に対して心・技・体を調えた武術道が完璧なまでに収歛されているとされる。
それ故に修行の命題は「 型 」を習得し鍛錬する事にあった。

☆ 「 型と組手 」の修練へ変化
「 型 」のみの修行形態が時代の波を受けて変化してきた。
武闘を指向する人達には「 型 」の鍛錬だけでは物足りなくなってきた。
新たに「 組手 」を創造して「 型 」と合わせた体形を構築した。
現代では「 型と組手 」を合わせた修行形態を採るのが一般的である。

沖縄空手の広がり
◎ 学校教育で空手教練を採用
明治後期(1908年)から学校体育の現場に採りいれたことに因って子供達や一般市民も手軽な武術として履修するようになったと伝わる。
◎ 国内外での修練所設立が広範囲
近年では海外での普及度の伸びが顕著である。
なかんづく沖縄駐留米軍隊員やご家族の多くが熱心に習得して移動後の外地でサークル的に修練活動されている。

武術道としての独自性、合理性、理論性を遺憾なく兼ね添えた沖縄空手が世界の人々に支持され愛されて耀き続ける事は確かである。
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1 コメント

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Unknown (末裔)
2012-03-16 14:18:08
写真は佐久本嗣男氏ですね。
私の高校時代に体育の教師してましたw
今検索したらこんな事になってて笑った
http://www.okigei.ac.jp/sougou/aisatsu-sakumoto.html
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