おもろの島々

沖縄諸島の歴史 生活文化 自然 祭り 伝統工芸や音楽などを見聞します.

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沖縄空手

2011-06-13 | 沖縄の文化
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像; 沖縄空手 )
沖縄空手
【 沖縄の文化 】
『 沖縄空手 』を見聞しましょう。

沖縄空手普及の契機
沖縄古来の武術「 (ティ) 」と中国伝来の「 拳法 」が融合して体系化されたのが沖縄空手の原型とされる。

沖縄に空手がひろまった契機は 琉球王国/尚 真王 の『 刀狩政策 』 と 薩摩藩が琉球侵攻(1609年)後に執った『 禁武政策 』(1613年)に拠ると伝わる。 琉球王府の武将達は武器を持たずに護身をはかる技として空手術を身につけた。

◎ 長期体制が続いた琉球王国
各地の豪族達が群雄割拠にあった沖縄本島を尚 巴志が平定した。
尚 巴志(しょうはっし)は統一琉球王国を創設して王朝体制を敷設した。
そして自らが琉球王國の初代国王に就任した。(1429年即位)
以後、25代目国王:尚 泰(しょうたい/1848~1879年)までの約450年間もの長期にわたって琉球王国が続いた。(明治12年終焉)

☆ 尚 真王が築いた全島統一の中央集権国家
それまでは沖縄本島統一のみに止まっていた国家体制であった。
9代目国王:尚 真(しょうしん/1477~1526年)によって、沖縄本島周辺離島及び宮古・八重山諸島までの平定を成し遂げて、全島を統治する完全な中央集権国家体制を敷設した。

◇ 尚 真王の執った「 刀狩施策
即位まもなく「 刀狩施策 」を執行した。「 武器禁止令 」とも称される。
全島から武器類を取り上げて王府に集め管理し、有事の際にはその多量の武器類の使用をもって護国を図ることを目的としていた。
実情は全島平定を遂げるも未だ各地には対抗に燃える豪族達の残党があり、それらの戦意を削ぐため及び国内から己に反逆者を出さないために執った施策であったとも伝わる。

◎ 王府士族の空手修練
王府は武術に秀でた者を招聘して空手術の研鑽に勤しませた。
士族武将達にも漏れなく空手術の習得を推奨した。
王府庇護のもとで基本体系(首里手)が確立されたと伝わる。

☆ 薩摩藩による琉球王国占拠
13代目国王;尚 寧(しょうねい/1589~1620年)の代になって琉球王国は薩摩藩と江戸幕府の共謀軍に侵攻・占拠された。 (1609年)
以後、明治政府の廃藩置県施行に伴う「 沖縄県設置 」までの約270年間を薩摩藩の支配下に置かれた。

◇ 薩摩藩の執った「 禁武政策
薩摩藩は反乱からの防御を図る意図で王族士族の武器保持を禁止する「 禁武政策 」を施行した。

王府の刀狩施策 と 薩摩藩の禁武政策 が合致して、その後の空手普及に拍車をかけたとも伝わる。

沖縄空手の体系的基盤
☆ 沖縄空手の原型
古来から琉球各地には武術者が修練を積んだ 古武術 が存在した。
時代変遷を経て研鑽が積まれ個別的特長を持った武術として進化した。
なかんずく武術が盛んであった首里、那覇、泊の三地域では地名を冠して首里手那覇手泊手 と称する地域的武術が体系的に形成された。
古武術では術のことを「 (ティ) 」と呼称した。
以後においても首里手、那覇手、泊手は沖縄空手の原型とされる。

◇ 三地域の特徴
その昔から首里、那覇、泊は沖縄本島の中心街地であり個別の村を形成するも連坦域であった。
琉球王朝時代には何れの村も中国との冊封史や進貢船また江戸幕府との慶賀使や謝恩使が往来する賑わいの地域であった。
数ヶ月に及ぶ旅程のなかでの人員的交流も盛んで、旅団に随行している武術家と村の武術家との交流もあったと伝わる。
・ 首里村
長期に亘り琉球王国の王府が置かれていた。
海外交易に伴う多数の賓客が訪れて歓待儀典が頻繁であった。
※ 首里手は琉球王府の士族武将達に嗜まれていた。
・ 那覇村
那覇港は海外交易港であった。
とりわけ中国交易に係わる人員往来で賑わっていた。
※ 那覇手は中国南派少林拳の影響を強く受けているとされる。
・ 泊村
泊港には海外交易船乗務員の宿舎があった。
泊の人々は外国人との交流が盛んであったと伝わる。
※ 泊手は首里手と那覇手の折衷で組み立てられたとされる。

沖縄の武術家は中国武術家との交流を得て多くの術を体得した。
中国大陸に渡って武術の習得に精錬した者も多くある。
それを伝来の古武術に採り入れてオリジナリティな術を創造した。

☆ 沖縄武術の呼称変遷
(ティ) ⇒ 唐手空手 と呼名が変わってきた。
その時期・事由については諸説あって定かでない。
「 空手 」の呼称が用いられたのが明治38年頃との説がある。

沖縄空手の歩み
琉球王国時代には流派と称される形態は存在しなかった。
空手が盛んな地域の地名を冠して区分呼称していた。
その代表例が首里手、那覇手、泊手の呼び方である。
琉球王国崩壊(明治12)から時を経て空手活動に勤しむ者が多くなった。

☆ 沖縄空手の流派
空手界では沖縄空手の原型である首里手、那覇手、泊手を基にして
更なる術の研鑽に精進する活動家達の広がりがあった。
然る後、各手のなかから武術性・理論性に秀でた空手家が出現した。 
首里手⇒松村宗棍 那覇手⇒東恩納寛量 泊手⇒松茂良興作である。
3氏は近代沖縄空手の礎を体系的に創造した「 中興の祖 」とされる。

◇ 流派の派生
松村、東恩納、松茂良の3氏をそれぞれに祖として鍛錬に励む門下生が数多く誕生した。 その中からは体得した術に独自性を加えて新流派を打ち立てる者も出現した。
首里手の流儀を汲む小林流、那覇手の流儀を汲む剛柔流、泊手の流儀を汲む松林流に代表される。
上地流 開祖の上地寛文のように自ら中国福建省に渡って17年間も武術を学んで帰り中国南派少林拳が源流となる流派を興した武術家もある。

大正期には「 流派 」の設立がまだ胎動期であったと伝わる。
昭和期になって流派の細分化が顕著となり、現在では60以上の流・会派を数えるまでになっている。

沖縄空手の特長
☆ 沖縄空手は「 型 」の修練
伝来の沖縄空手は『 型に始まり型に終わる 』と評された。
精錬され磨き澄まされた「 型 」には 一撃必殺の強烈な攻撃と万全の防御が内包されているとされる。
「 型 」は各流派独自に体系化され攻撃や暴力に対して心・技・体を調えた武術道が完璧なまでに収歛されているとされる。
それ故に修行の命題は「 型 」を習得し鍛錬する事にあった。

☆ 「 型と組手 」の修練へ変化
「 型 」のみの修行形態が時代の波を受けて変化してきた。
武闘を指向する人達には「 型 」の鍛錬だけでは物足りなくなってきた。
新たに「 組手 」を創造して「 型 」と合わせた体形を構築した。
現代では「 型と組手 」を合わせた修行形態を採るのが一般的である。

沖縄空手の広がり
◎ 学校教育で空手教練を採用
明治後期(1908年)から学校体育の現場に採りいれたことに因って子供達や一般市民も手軽な武術として履修するようになったと伝わる。
◎ 国内外での修練所設立が広範囲
近年では海外での普及度の伸びが顕著である。
なかんづく沖縄駐留米軍隊員やご家族の多くが熱心に習得して移動後の外地でサークル的に修練活動されている。

武術道としての独自性、合理性、理論性を遺憾なく兼ね添えた沖縄空手が世界の人々に支持され愛されて耀き続ける事は確かである。
素晴らしき文化を醸成した故郷を誇る!
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沖縄音楽の心

2011-05-21 | 沖縄の文化
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像;オキナワン・ロック )
オキナワン・ロック
【 沖縄の文化 】
『 沖縄音楽の心 』を見聞しましょう。

〓 沖縄音楽の根源 〓
★ 祭祀歌謡
沖縄音楽の基本思想は祭祀歌謡に源を成すと云われる。
人々は五穀豊穣、無病息災、航海安全の懇願を神へ祈り崇めた。
また、生活の喜怒哀楽を神へ告げることでご加護を乞うた。
祭祀では神女が御嶽や拝所の庭で声楽的抑揚を付しながら感謝と祈願の詞を興じた。その時々の音楽的調べが集約され修練されて継承された。
それらが 地唄 と呼ばれて伝承されている。
琉歌
生活の喜怒哀楽を八・八・八・六形式で詠む歌謡。 和歌に似ている。
庶民の中には琉歌詠みに優れた才を発揚する者がいた。

★ 宮廷音楽
琉球王国時代は海外交易が盛んであった。
王府には交易に係わる賓客や使節団などが度々訪れるようになった。
王府は来訪者を歓待する用に音楽・舞踊などの創作活動を推奨した。
王府周辺に音楽、舞踊の創作者や役者を居住させて活動に専念させた。
その活動で宮廷音楽の基本形態が修練され数多くのオリジナル作品が生まれた。

宮廷音楽のあらまし
代表例 : 御座楽 と 路次楽 の概説
使節団や謝恩使を壮行する時に奏でられた。
室内で座って合奏するスタイルの御座楽と屋外で行列して歩きながら合奏するスタイルの路次楽があった。
御座楽は荘重・優雅な雅楽、路次楽はチャルメラや太鼓などを用いた荘厳な鼓吹楽である。
・ 演奏スタイルの特徴
基本的には唄と三線の絃声一体で奏でる弾き語りの音楽である。
なかには筝、笛、胡弓、太鼓等を添えて音色の和を構成した演目もある。
・ 音階
基本的に5音(ドミファソシ)で構成される。
それを通称 琉球音階 と称している。
三線楽譜は『工工四:クンクンシ』と称される記譜法を用いる。
記譜は基本的に音程表示ではなく、弦の押さえ処を記号表示している。

宮廷音楽 と 地唄・琉歌
宮廷音楽には村々で興じられていた地唄や琉歌が採用された。
それらを音楽形式的に磨いた演目が多くある。
宮廷音楽の旋律はサンパチロク(八八八六)・三十音の歌形式、音階は5音スタイルで修練され、三線楽器の音色を付けて囃されるようになったと伝わる。

★ 沖縄音楽は伝統的に癒し感の響きあり
沖縄音楽の基本形は宮廷の音楽活動に拠って創造された。
宮廷で修練された旋律・音階は後にても沖縄音楽の基盤となっている。
その響きには五穀豊穣、無病息災、航海安全を祈願する心底からの語りが聴く者に伝わる。
二次大戦の戦渦で街や野山が焦土と化して打ちひしがれてた心に癒しの響きを注いでくれたのが三線の音に揺られる民謡の数々であった。

〓 現代沖縄音楽とベトナム戦争 〓
1965年から激化して1975年まで続いたベトナム戦争は沖縄の音楽活動に少なからぬ影響を及ぼした。
米軍統治下にあって極東最大の米軍基地が張り付いた沖縄である。
その基地全体がベトナム戦争の後方基地化していた。
特に、コザ市(現:沖縄市)と周辺地域は基地中枢機能が集積している。
コザの街は米軍人・軍属や諸外国から商いで訪れる人々が通りを闊歩する姿に溢れていた。
街影は夜明けまで色とりどりのネオンライトが賑やかに塗しジューク・ボックスやライブ・バンドが轟き続ける日常でした。
米本国から送られてくる多くの兵士達は、直近に下される軍命令に従って沖縄から直で激戦地に入り生死を彷徨う任務を負うていた。
彼等の荒む心に束の間の癒しが酒と音楽と女であった。
兵士達は米本国で流行中のミュージック、ドリンク、ファッションを沖縄に持ち込んだ。

★ オキナワン・ロック
沖縄駐留の米軍を慰問すべく本国から人気バンドが度々来沖した。
当時の米国音楽界ではハードロックミュージックが流行の主役であった。
来沖するエンターテイナーもハードロック系が多かった。
多くの沖縄の若者達はそれらの人気バンドに敏感な反応を示した。
若者達の間ではバンドを結成して処々で演奏する機会が多くなった。
なかには米兵を相手にしたハードロックやR&Bを演奏して彼等の欲求に答える者もあった。
セッションの場は何時にでも戦場に投入される緊張感を内包した若い米兵達の心が吐けるスポットである。
激しい息吹の渦が湧き起こる夜な夜なであった。

当時を代表するオキナワン・ロックバンド
ハードロックバンド 【 】がある。
コザに住む若者達が結成したロックバンドである。
その奏法は将にハードであり米兵達から絶大な人気を博した。
米本国や東京のミュージックチャートで話題になった。
メンバーは『 団塊世代 』である。
暫らくお休み状態であったが最近から再稼動している。
その他の人気グループに 『 コンディション・グリーン 』がある。
当時の世相の中から醸成された個性的なロックサウンドをオキナワン・ロックと称している。
彼等は1970年代の沖縄の若者達の雄叫びを発揚していた。
コザ暴動
1969年、日米両国は「 沖縄の72年返還 」に合意した。
1970年、コザ市で米軍車両及び施設に対する焼き討ち事件が発生した。
該事件の契機は米軍人が県民を撥ねた交通事故に対する怒りであった。
米軍統治下での圧政、人権侵害に対する不満の爆発でもあった。
コザの若者達が鬱積していた感情を吐き出したのである。
なかんずく音楽活動に係わる若者達が自発的行動を起こしたのである。
若者達は米軍兵士達とフレンドリーなリレーションを形成しつも政治的統治に対しては不快感を呈した。
この事件は当時の「 祖国復帰運動の前進 」に大きな弾みをつけた。

〓 沖縄が輩出する若きミュージッシャン達 〓
二次大戦の戦渦・米軍統治下・ベトナム戦争後方基地化・祖国復帰と時代の変遷に遭遇しつも沖縄は『 音楽アーティスト 』を次々と輩出している。
代表的なアーティストとして
ディアマンテス、オレンジレンジ、ビギン、夏川りみ などなど。
沖縄マインドを磨りこんだサウンドを奏でることで全国へ世界へとメッセージを送り続けている。

個々に手にする楽器や語るテンポは違えども沖縄リズムに滲みる温故知新の心は聴く人々の鼓動を揺らす。
祭祀歌謡に源を成す沖縄音楽はブル-ス、ジャズ、ロック、レゲエ、ラテンなどのテイストを摂りこんで時空を超えた響きを放し続けている。

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沖縄民謡と三線

2011-05-07 | 沖縄の文化
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像;沖縄三線 )
沖縄三線
【 沖縄の文化 】
『 沖縄民謡と三線 』を見聞しましょう。

〓 三線の呼称 〓
従来は 三味線 または 三線 と呼称が混在していた。
最近からは統一表記として 三線(方言:さんしん)を用いるようになった。

〓 三線の起源 〓
その起源は遠く三千年も前のエジプトにまで遡るとされる。
エジプトから西方に伝わって弓で弾く ヴァイオリン型 になり、東方に伝わって撥で弾く 三絃型 になったとされる。

〓 沖縄への伝来 〓
★ 三絃型が中国から伝来
エジプトから中国を経て14世紀末頃に沖縄へ伝来したとされる。
当初は庶民の間に広まって村々の祭りや祝い事の場で地唄等の伴奏用楽器とされてきたのではなかろうかとの説がある。
各地の豪族達の間にも三線を奏でつ楽しむ広がりがあったとされる。

★ 三線の造型・音楽性は琉球王府によって高められた
琉球王国創設(1429年)以後に王府の執った『芸能活動推奨施策』に伴い
王府内で三線楽器の製作を施すようになり、材質・型等に工夫を凝らした名器が誕生したと伝わる。
当代に改良を重ねて仕上げられた数種類の名器が現存する。
それらの型が現代でも伝統的に継承されて沖縄三線の模範とされる。
また、演奏用の記譜法『工工四:クンクンシ』も創案された。

宮廷楽器としての音楽性を磨かれて宮廷芸能の主座に位置づけられた。
時を経て次第に庶民にも普及し隆盛を極めて行く事になった。
現代では沖縄の伝統楽器として重宝される。
三線が無かったらば、沖縄の芸能は異なる様相を呈していたかも知れないとも云われる。

★ 沖縄から大阪へ
16世紀半頃に沖縄(琉球)から大阪へ伝導され全国的な普及をみた。
本土各地の名工によって改良を重ねた末に創造されたのが『本土三味線』との説がある。

〓 沖縄音楽(民謡)の特性 〓
★ 絃声一体の演奏 
沖縄民謡は【 唄三線の音楽 】とされ、唄と三線が絃声一体になって奏じられる 弾き語り の音楽である。
沖縄民謡を修得するには、唄を覚え 三線を覚える事が必須である。

★ 沖縄音楽の楽譜
基本音階は5音( ドミファソシ ) で構成される。
それを通称 沖縄音階 と称している。
三線楽譜は『工工四:クンクンシ』と称される記譜法を用いる。
その記譜は基本的に音程の表示ではなく、弦の押さえ処を表示している。
最近では声楽譜を工工四記号で表現して併記した版もある。
また、旋律を五線譜で編集した出版物も数多くある。
民謡演奏では三線が主幹をなし、筝 胡弓 笛 三板 太鼓などを伴奏楽器として用いることが多くある。

★ 各種楽器の特性
筝 胡弓 笛 三板 太鼓などの各楽器も中国から伝導されたが、時を経るなかで改良を重ねた琉球スタイルの造型を成している。
琉球固有の音色を醸すそれらの楽器が現代まで伝授されている。
は三線に慎ましやかに寄り添いながら細やかな音の綾を醸し、胡弓は切なげに、は伸びやかに艶音を添え、又 哀愁を漂わせる音色で和ませる。三板(さんぱ)はテンポのよい華やかさを加えて、太鼓は音の鼓動を間の良さで刻むなど個の楽器が和して全音の魅力を高めている。

★ 沖縄民謡の楽風
島嶼県の沖縄諸島にあっては、島々で伝承される民謡に音の運び節まわしなど多少の楽風的な違いがある。
それらは概して 沖縄本島風 宮古諸島風 八重山諸島風3タイプに大分類される。
通常、沖縄民謡 宮古民謡 八重山民謡 の括りで呼称される。

〓 三線愛好者の広がり 〓
今や三線愛好者は十数万人あると云われ、年々増加傾向にある。
県内三線販売店の売上げ高が年々増大傾向にあり、他府県から訪れる顧客(若者達)が漸増しているそうです。

★ 教習活動が活発
県内には数多くの民謡教習所がある。
それらの諸所は沖縄民謡 宮古民謡 八重山民謡で区分された3系統の協会組織がある。
各協会はお弟子さんの習熟度を計るためコンテストを開催する。
評価段位は「新人賞・優秀賞・最高賞・教師・師範・最高師範」が一般的である。
師匠の下で三ヵ年間の稽古を積まないと、新人賞への挑戦資格を手にする事ができないと云われるほどお弟子さんには厳しい稽古が求められる。

★ 県外へ広まる沖縄民謡
最近では各賞の取得者に他府県在住の方々が多くなっているそうです。
普段は教習所発信のネット映像を活用しての稽古を重ね、要所では来沖して師匠との対面修練に励むそうです。
なかには、数年程沖縄に住み着いて修練されている方々も居ます。
沖縄の唄三線が県外へ伝播して行く姿には、新たな誇りが湧きいでるとともに故郷文化を再認識する契機にもなっている。

〓 日常生活 と 三線 〓
沖縄では 床の間に三線を飾る 家庭が多くある。
三線は触れ合いの楽器 として重宝される。
結婚 出産 成年祝い 季節の祭事 新年恭賀 諸懇親会 社会的諸式典などなど人々の集まる場に三線の登場は欠かせない。
集まれば三線の如く で生活の場に密着した楽器である。
例えば、家庭に友人知人をお招きする場合など『語らいの間をとって唄三線の音色を入れる』と、場の雰囲気が厳かにもなり和やかにもなる。
将に 唄三線の響きは 輪の絆 を醸す

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琉球舞踊

2011-04-25 | 沖縄の文化
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像;琉球太鼓 )
琉球太鼓
【 沖縄の文化 】
『 琉球舞踊 』を見聞しましょう。

〓 琉球舞踊の創生 〓
琉球王国時代は海外交易が盛んであった。
王府には交易に係わる賓客や使節団などが度々訪れるようになった。
王府は来訪者を歓待する用に音楽・舞踊などの創作活動を推奨した。
王府周辺に舞踊、音楽の創作者や役者を居住させて活動に専念させた。
然る後にオリジナリティな作品が数多く生まれた。
その時代に琉球舞踊の基本形が創生されたと伝わる。

〓 琉球舞踊の分類 〓
概ね 祭祀舞踊古典舞踊雑踊創作舞踊 の四つに分類される。
★ 祭祀舞踊
王国創設以前から琉球各地の村落では年中祭祀や農耕儀礼等が執り行なわれてきた。
祭祀では神女達が御嶽や拝所の庭で手振り・身振りの振る舞いで神への感謝と祈願の奉納をとりなした。
それらの振る舞いには 拝み手こねり手押す手 と云われる舞の型 があった。その所作と祈りの姿勢が後々に修練されて琉球舞踊の基本形になったと云われる。
祭祀では 神遊び綱引きエイサー などの諸興もあったと云われる。
それらを総称して民俗芸能 と呼び、うち舞を 祭祀舞踊 と称される。
祭祀舞踊の基本思想が琉球舞踊の源を成すと云われている。

★ 古典舞踊
王国時代に王府の庇護を受けた役者達によって創作された舞踊は宮廷内で披露されることが専らであった。
それらを総称して宮廷舞踊 または 古典舞踊 と呼ぶ。
祭祀舞踊の「基本思想」や「舞の型」を採り入れて、芸術性豊かな舞台芸能として再創造したと云われる。
齢久しい夫婦の姿で踊る老人踊、元服前の少年の仕度で踊る若衆踊、女の情念を象徴的に表現する女踊、元服した青年の凛々しさを表現する 二才踊、美女醜女の生き方を表現した 打組み踊 がある。
祭祀舞踊の「基本思想」や「舞の型」を採り入れて、芸術性豊かな舞台芸能として再創造したと云われる。

★ 雑踊
1879年(明治12)に廃藩置県制の施行によって琉球王府は幕を閉じた。
王府の庇護を受けて活動してきた役者達は、生活の糧を得るべく活動の場を庶民社会の中に求めて行った。
木戸銭をとって宮廷芸能を披露する活動を展開した。
芸能を好む庶民達との交わりで宮廷舞踊の様式や振りを指導した。
また、宮廷舞踊に加えて、庶民の間に流布する民謡や風俗を採り入れた新しいスタイルの舞踊を創り出した。
宮廷舞踊の格調の高さに替えて、振りの様式、構成、衣裳などに新たな庶民感性のエネルギーが注がれた。
その活動が多くの庶民からの賞賛を得て広がりを見せ定着して行った。
それらを総称して雑踊 または 庶民舞踊 と呼ぶ。

★ 創作舞踊
戦後になって、役者や舞踊師匠等の研究活動が盛んになった。
市井には数多くの舞踊研究所が設けられるようになった。
在来の宮廷舞踊や庶民舞踊をベースにしながら現代感覚を巧みに採り入れて表現する優れた作品が多く創出されている。
それらを総称して創作舞踊 と呼ぶ。

〓 舞踊スタイルの根源 〓
古来から庶民の間で演じられてきた「 振る舞い 」にあると云える。
その舞いが王朝時代になって宮中で格調高く磨かれて仕上げられた。
それが王国閉幕に因って市井に戻って来たと云えよう。
現代では数多くの舞踊教室や研究所が活動に勤しんでいる。
何等かの祝い・祭り・イベント行事などでは演じられるカルチャー文化の基盤を呈している。
息遣いは現代沖縄の文化活動において凛々しき鼓動を刻んでいる。

〓お知らせ〓
此の欄では関連動画を掲載して来ましたが当該サーバー閉鎖のため今後の掲載が困難になりました.  ご了承くださいませ.

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沖縄の組踊

2011-03-21 | 沖縄の文化
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像;国立おきなわ劇場 )
国立おきなわ劇場
【 沖縄の文化 】
『 沖縄の組踊 』を見聞しましょう。

組踊 (くみおどり) とは 〓
台詞、音楽、舞踊によって構成される歌舞劇
一般的に 舞踊劇 または 音楽劇 とも称される。
19代琉球国王:尚 敬(1713~1752年)の代に王府の踊奉行の任にあった玉城 朝薫によって創始された。

組踊の特徴
造詣的には日本芸能の狂言にやや似ている。
学術的に「」と比較検証されるケースもある。
能、狂言、歌舞伎や中国戯曲などを参考にして、琉球古来の史実、故事、説話や芸能を織り込んだ脚本構成で創作されたのが始まりである。
台詞に琉球方言、音楽に琉球音楽、舞踊に琉球舞踊で構成される。
音響は三味線、箏、笛、胡弓、太鼓、銅鑼などの琉球楽器が用いられる。

組踊の生誕
琉球王国は1429~1879年までの約450年間存続した。
歴代国王の国家運営は中国、日本、朝鮮、タイなど東南アジア諸国との仲継交易を展開して得る経済的収益で国体維持を図った。
交易が拡大されるに伴い賓客や使節団などが度々訪れるようになった。
なかでも、中国の冊封使を歓待する儀典は重要な政治的課題であった。
琉球王国の19代目国王:尚 敬 (1713~1752年)は、王府の踊奉行職にあった玉城 朝薫に歓待用演目の創作を命じた。
その取り組みで誕生したのが組踊である。

組踊の初演と朝薫の作品
朝薫の初作品は『 二童敵討 』と『 執心鐘入 』の二番であった。
該作品を中国からの冊封使歓待の宴席で初めて上演した。(1719年)
初演ながらも、その演舞が冊封使から大好評を博した。

朝薫は意を強くして次作品の創作に取り組んだ。
その作品が『 銘苅子 』 『 女物狂 』 『 孝行の巻 』の三番である。
それらの演舞も冊封使からの大喝采を浴びた。

朝薫の作品は、いずれも完成度が高いと評価された。
これらを総じて【 朝薫の五番 】と称される。
以後、冊封使歓待の踊番組は組踊を中心にして構成されたと伝わる。

玉城 朝薫 (たまぐすく ちょうくん)
組踊の創始者
1684~1734年
首里に生まれ、地頭職の家庭で育った。
幼い頃から芸妓的才能に富んでいたと伝わる。

幼少期の朝薫は薩摩や江戸の芸能を鑑賞する環境に恵まれた。
中国戯曲に付いても然りであった。
青年期に官吏職に就き、度々公務で薩摩や江戸へ上る機会を得た。
行く先々では能、狂言、歌舞伎などの公演を鑑賞して造詣を深めた。
薩摩藩主の御前で薩摩に伝わる仕舞を自らが舞う事もあったと伝わる。
朝薫の芸妓的才能は歳を重ねる毎に深化した。

34歳で王府の踊奉行に任命される。(1718年)
国王から新しい演舞の創作を命ぜられる。
オリジナリティ豊かな組踊を創始した。
【 朝薫の五番 】と称される作品
『 二童敵討、執心鐘入、銘苅子、女物狂、孝行の巻 』の五番
格調高く磨かれた完成度の高さは
組踊は朝薫に始まり 朝薫に終わると云わしめた。

朝薫退役後の踊奉行らに因る組踊創作の規範とされたと伝わる。
琉球王国時代に創作された組踊は70番程が確認されている。
現代においても幾多の新作組踊が発表されるが、【 朝薫の五番 】は威光を放ち続けている存在である。

〓 組踊は沖縄芸能の基盤を成す 〓
沖縄諸島では組踊、沖縄芝居、三味線音楽、琉球舞踊、獅子舞、棒踊り、エイサーなどの伝統芸能が脈々と伝承されている。
組踊は沖縄芸能の基本形であると云われる。
沖縄芸能の脚本・脚色の造形、振り様式、衣裳などが組踊の基本仕様を模範としている。

〓 組踊は国指定の重要無形文化財 〓
琉球王府の援護を受けて創作された芸能は観覧する者から賞賛を得た。
王国滅亡後(1879年/明治12)は宮廷役者達が禄を求めて庶民社会に溶け込んで宮廷芸能の流布活動を始めた。
庶民に伝聞する説話や喜怒哀楽感を織り込むなどの編集工夫を凝らした公演を続けることで庶民の賛同を得て芸能愛好者の裾野を広げた。
組踊とて然りである。
当初は、格調高い芸妓が庶民に馴染めない状態にあった。
庶民感覚を織り交ぜての試行錯誤を繰り返す公演であった。
ところが、時代的変遷を経るなかで組踊本来の芸妓を求める人々が漸増する状況となった。 熱烈で力強い愛好者の広がりが顕著であった。
沖縄芸能の根幹を成す組踊愛好者の広がりは、現代においても根強い。

1972年(昭和47)沖縄が本土復帰するとともに組踊は能、歌舞伎、文楽などと同じく我が国の優れた芸能の一つであるとして国定重要無形文化財に認定された。

沖縄文化の後継者育成と流布活動
県内には種々多々の芸能教室や工房が活動している。
県が先頭になって沖縄文化を県外にも広める活動が活発化している。

国立劇場おきなわ
2004年 浦添市勢理客に創設
組踊をはじめとする沖縄伝統芸能の保存振興を図るとともに、沖縄の地理的、歴史的な特性を活かし、伝統文化を通じたアジア・太平洋地域の交流の拠点となることを目的とする。 icon 国立劇場おきなわ

沖縄県立芸術大学
1986年 那覇市首里に開校
教育ビジョンの一つに
沖縄文化を研究発展させ活躍できる人材育成を掲げている。
織物 焼物 染物 舞踊 音楽などの沖縄文化研究の専科を設置。

各芸能の公演状況
・エイサーは、毎年のお盆期に各集落や地域で舞われる。
・獅子舞や棒踊りは、毎年の豊年際に各集落や地域で舞われる。
・三味線音楽や琉球舞踊は、祈願祭・祝事・儀典などで演じられる。
  公民館や市民会館などで観劇料をとって公演されるケースもある。
・沖縄芝居は、公民館や市民会館などで観劇料をとって公演される。
・組踊は、『 国立劇場おきなわ 』で公演される。
  宮古・八重山諸島では朝薫スタイルを真似た短編版が伝承されていて
  村祭りなどに仮設の露天舞台で演じられる。
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◇沖縄の組踊
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沖縄芝居の風

2011-03-09 | 沖縄の文化
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像;アザミ )
アザミ
【 沖縄の文化 】
『 沖縄芝居 』を見聞しましょう。

〓 廃藩置県と琉球王国の滅亡 〓
琉球王国は1429年に創設され、25代の国王を経て1879年までの約450年間存続した。
明治政府は藩制度を廃止して府・県制を導入する中央集権化政策を執った。(1871年:明治4)
明治政府の発令で琉球は、先ず琉球藩とされた。(1872年:明治5)
時の国王;尚 泰は政府の施策に反発して度重なる勧告を無視し続けた。
然る後に、明治政府は強権をもって施策の実行に踏み切った。
国王と王族や主だった士族達を琉球から東京へ連れ出した。
それにて王国体制は崩壊する事態となり、廃藩置県施策に則った沖縄県が設置された。(1879年)

〓 王国滅亡と役者や職人達の歩み 〓
琉球王国の基幹政策は中国、日本、朝鮮、タイなど東南アジア諸国との仲継交易を遂行拡大することにあった。
交易から得る莫大な公益を基にして国家の安泰運営を図った。
交易拡大に伴って海外からの賓客や使節団が度々訪れるようになった。
王府には来訪者を歓待する用意が多くなった。
ついては、歓待の儀式・宴での出し物の準備を要した。

王国時代の役者・職人達の処世
王府の執った施策は、腕利きの芸や術を持つ者を琉球各地から首里の町に呼び寄せることであった。
首里城周辺には王府の庇護を受けた舞踊・音楽・美術・工芸などの腕利き者が居住を構えて創作活動に専念するようになった。
海外文化情報に触れる機会も多くなった故、それらの情報を採り入れたオリジナル性に富んだ作品が多岐のジャンルに亘り数多く創出された。

王国滅亡後の役者・職人達の処世
王府の庇護を受けながら職責を果たしてきた役者や職人達は居場所を失って路頭に放り出された。
その方々は自力で生活の糧を得る手段として、一般庶民に溶け込んで宮廷で培われた芸や技を披露する機会に活路を求めた。
首里、那覇などの賑わう町で芝居興行をする者や各地方に散って活動を始める人達もいた。
一般庶民にとっては遠い存在であった宮廷文化に直に触れる事のできる存在となった。
なかには宮廷帰りの役者・職人から手解きを受けながら一緒に活動する人達もあった。 特に、若者達の間では宮廷手法を採り入れた芸や技の修練活動に広がりをみせた。

〓 庶民の文化活動への参加と芽生え 〓
多岐にある文化活動のなかでも芸能分野での広がりは目覚しかった。
従来から各集落で季節毎に執り行なわれてきた祭事の催物のスタイルに宮廷仕様の手法が採り入れられるようになった。
首里や那覇の町では、当初、野外で始めた演芸催行が大反響を呼んで多くの観客を寄せるようになった。
その反響の好さに意を強くした主催者は、囲い枠を設けて入場料を徴収する露天劇場の設営をした。
然る後には、本格的な常設の演芸場が次々と建立された。
その裾野の広がりは沖縄本島全域や宮古、八重山諸島まで延びた。

〓 沖縄芝居 〓
演芸場で催行される演芸を総じて 沖縄芝居 と称する。
芝居形式は セリフ劇歌劇 に大分類される。
歌 踊り 台詞 の三要素を重視して演じられる。
効果音は三味線、太鼓、胡弓、筝、笛などを用いる。
主として用いられるのが三味線である。
セリフは専ら沖縄本島方言で詠まれる。
演目は琉球史、故事、伝聞などに因んだ題材を基にして脚色された物語が多い。 筋立ての多くは勧善懲悪をテーマにしている。
物語を沖縄方言、琉球音楽、琉球舞踊で織り成して構成する。

庶民参加の芸能活動
初めの頃の演舞内容は荘重で高尚過ぎた故に庶民が理解するに戸惑いがあったと伝わる。
試行錯誤のうち、庶民の中から演舞構成に参加する人達が出てきた。
その結果、郷土の風俗習慣や日常生活の喜怒哀楽感を上手に織り込んだ題材が脚本に反映されるようになったと伝わる。
テンポの早い民謡や俗曲を加えた創作舞踊も採用されたと伝わる。
その甲斐あって芝居が本格的な大衆娯楽として根付くようになった。

県民に愛され続ける沖縄芝居
沖縄芝居の発祥は1879年(明治12)と伝わる。
1882年(明治15)に露天形式の芝居小屋が設営され、1886年(明治19)に本格的な常設の演芸場が建立された。
130年以上経った今日でも脈々と伝承されている。
脚本構成は地元素材に専化して長期に亘り興行として息づいてる地方芝居の存在は稀ではなかろうか。
個性豊かな脚色で演じる沖縄芝居は県民の心の支えとして愛され続けられている。

戦後の沖縄芝居の歩み
第二次大戦によって各劇場は日本軍に接収されてしまい、劇団員は皇軍慰問団として部隊を巡回興行する役目を負わされた。
1944年(昭和19)には米軍に因る大砲撃で全ての劇場が焼失した。

1945年(昭和20)終戦。
沖縄本島の南部一帯は戦禍によって焼け野が原となった。
沖縄は敗戦に因って米軍支配下に置かれた。
沖縄を統治する事になった米国民政府は、難民収容所を慰問して巡るために公営の劇団を組織すべく動いた。
戦禍で各地に分散してしまった沖縄芝居の役者達を集めた。
結成された劇団は各処で収容されている住民を演芸で慰めた。

情勢も一段落して、米国民政府は民営の劇団結成を許可した。
この機に新しい劇団が40以上も誕生した。
営利目的で結成された各劇団は全島巡業を始めた。
行く先々の地では露天劇場を設けて催行し、住民達と泣き笑いをともにする日々を過ごした。
戦後の沖縄芝居は幾多の苦難を乗り越えながら力強く歩んでいる。
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◇沖縄芝居(1)◇沖縄芝居(2)
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沖縄の王朝文化

2011-02-08 | 沖縄の文化
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像;琉球舞踊 )
琉舞
【 沖縄の文化 】
『 琉球王国の王朝文化 』を見聞しましょう。

〓 琉球王国の隆盛期 〓
琉球王国は1429年に創設され、25代の国王を経て1879年までの約450年間存続した。
なかんずく、初代国王;尚 巴志から12代国王;尚 永(1573~1588年)までの約160年間が隆盛期であったと伝わる。
13代国王;尚 寧(しょうねい/1589~1620年)の代になって薩摩藩と江戸幕府の共謀軍に侵攻・占拠された。(1609年)
以後の琉球王国は、明治政府の廃藩置県施行に伴う「沖縄県設置」まで、約270年間を薩摩藩の支配下にあった。

〓 琉球王国の経済基盤 〓
王国創設以前から各処の豪族達によって海外交易が行われてきた。
統一王国になってからは、その交易を一層拡大強化した。
中国、日本、朝鮮、タイなど東南アジア諸国との仲継交易を展開して海洋王国構築への道を推進した。
交易からは莫大な財益を生む事に成功して、経済的・政治的に安定した国体維持を図り続けた。
中国へは冊封史や進貢船、幕府には慶賀使や謝恩使を派遣するなどして王国の安寧を保った。
薩摩藩に占拠されてからは、交易からの捻出財源を藩に収奪されたうえに税上納を求められるに至り、王府財政は困窮の一途を辿る事になった。

〓 最盛期に醸成された王朝文化 〓
1429~1588年間の隆盛期に王朝文化の基盤が醸成されたと伝わる。
王府には交易に係わる賓客や使節団などが度々訪れるようになった。
王府は来訪者を歓待する用に、音楽・舞踊などの創作活動を推奨した。
首里城周辺に舞踊、音楽の創作者や役者、美術、工芸の職人を数多く居住させて創作活動に専念させた。
海外諸国との交流機会が多くなることによって海外文化の情報に触れる機会も多くなった。
その修練あって、海外の文化情報を採り入れながらもオリジナリティな作品が多種多岐のジャンルに亘り創出されるようになった。
交易蓄財に支えられた文化活動の謳歌を極める華やかな時代であった。

★ その代表的な創作種目
・ 文芸⇒ 歌謡集、琉歌 ・舞踊⇒ 宮廷舞踊 ・音楽⇒ 宮廷音楽
・ 工芸⇒ 紅型、漆器、焼物 ・武芸⇒ 琉球空手 etc.
それらの作品は宮廷内で催行される儀式や宴の場で活用され披露されるのが専らであった。
今日では、その宮廷文化を総じて王朝文化と称している。
うち、舞踊・音楽部門では古典芸能と称している。
この期に醸成された王朝文化の仕様が現代沖縄文化の基盤になっていると云われる。
その王朝文化を継承すべく、数多くの修練所が県内外に存在して活動している。
王朝文化の息遣いは現代沖縄の文化活動に脈々と鼓動を刻んでいる。

◆ 主だった種目と作品の概説
◎ 文芸
≪おもろさうし、琉歌≫
◇ おもろさうし
1531~1623年に王府によって編纂された歌謡集。
古代から伝わる歌謡(1554首)が集録されてある。
王、神女、航海者などを称え、自然、天象、神話について詠われている。
古代琉球の民俗的動態を窺い知る事のできる古典書である。
◇ 琉歌
短詩型の叙情歌謡。
8・8・8・6の30音形式が代表的である。

◎ 舞踊
≪宮廷舞踊≫
王府の儀式や来訪者を歓待する際に宮廷で舞われた踊り。
数百もの演目が存在していると云われる。
なかには貴族の子弟のみによって踊られる演目がある。
宮廷舞踊を総じて、今日では古典舞踊と称される。

◎ 音楽
≪宮廷音楽≫
◇ 御座楽、路次楽
使節団や謝恩使を壮行する時に奏でられる宮廷音楽。
室内で座って合奏するスタイルが御座楽、屋外で行列して歩きながら合奏するスタイルを路次楽と称する。
御座楽は荘重・優雅な雅楽、路次楽はチャルメラや太鼓などを用いた荘厳な鼓吹楽である。
・ 演奏スタイルの特徴
基本的には唄と三線の絃声一体で奏でる弾き語りの音楽である。
なかには筝、笛、胡弓、太鼓等を添えて音色の和を構成した演目もある。
・ 音階
基本的に5音(ドミファソシ)で構成される。
それを通称琉球音階と称している。
三線楽譜は「工工四:クンクンシ」と称される記譜法を用いる。
記譜は基本的に音程表示ではなく、弦の押さえ処を表示している。

※声楽譜の無い音楽であったが、最近では声楽譜を工工四記号で表現するようになった。
※混在していた三線と三味線の表記が三線に統一された。

宮廷音楽を総じて、今日では古典音楽と称される。

◎ 工芸
≪紅型、漆器、焼物≫
◇ 紅型
王族や貴族の衣装として染められた染織物。
は色全般を、は型絵染めの型紙を指す。
染織技法には型染め、筒描き、藍染めがある。
型染めでの特徴は型の上から色を挿すのではなく糊を置いて両面染めにする技法を用いたところにある。

◇ 漆器
宮廷での装飾品や配膳器などに用いられた塗り物。
堆錦 沈金 螺鈿 箔絵 蒔絵などの装飾技法を用いている。
料理用の器は螺鈿や堆錦などの細工で豪華な装飾が施された。
代表的な物に「東道盆(とぅんだーぶん)」の器がある。
盛付け用で六角形の盆状の漆塗器である。

◇ 焼物
荒焼と呼ばれる南蛮焼の系統を汲む物と上焼と呼ばれる朝鮮系の絵付がある。荒焼は14~16世紀頃にベトナム方面から伝わったとされる。
水や酒を貯蔵する甕や魔除けの獅子像などが造作された。
上焼は来訪した朝鮮陶工から修得したと伝わる。
用途は酒器、茶碗、皿、鉢などが造作された。

◎ 武芸
≪琉球空手≫
琉球古来の武術「(ティー)」と、中国伝来の「拳法」が融合して発展したものが琉球空手の原型と云われる。
15~16世紀に施行された「禁武政策」に因り空手の普及が推進された。
武器を持たずに外敵から身を守る武術の規範として空手の推進が図られたと伝わる。

〓 琉球王国崩壊に伴う庶民文化の胎動 〓
明治政府は「琉球の王国制度を解体して、日本国に属する沖縄県を設置する」旨の宣言を発令した。(1875年)
政治制度が日本の府県制度にならって改められることになった。
間も無くの1879年に琉球王国は廃止されて、廃藩置県制度施行に伴う
沖縄県」が設置された。
それまで王府の庇護を受けてきた役者・職人達は生活の糧を得るべく
一般庶民に溶け込んで宮廷文化を伝道する活動を広めるようになった。
宮廷文化に直に触れる機会を得た庶民達の中から、
私生活の喜怒哀楽感を織り込んだ作品を創出するようになった。
それらを総じて庶民文化と区分呼称している。
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◇古典舞踊
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