おもろの島々

沖縄諸島の歴史 生活文化 自然 祭り 伝統工芸や音楽などを見聞します.

首里城の復元

2010-12-23 | 首里城
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像;守礼之門 )
守礼之門

【 首里城 】
『 首里城の創建と復元の歩み 』を見聞しましょう。

首里城の創建年代は明らかでない
歴史上で琉球諸島に一定の政治的勢力が現れ始めたのは12世紀後半からとされる。(日本史の鎌倉時代)
各地に豪族が多数現れて、それぞれの占有領地を統括していた。
陣地拡大を意図して互いに対立と興亡を繰り返えす時代が長期に亘り続いた。 群雄割拠を繰り返えすなかで、やがては沖縄本島が3大勢力に収束されるようになった。
※その3大勢力の統治域
・北部域(北山/本拠:今帰仁城)
・中部域(中山/本拠:浦添城)
・南部域(南山/本拠:大里城)
統治領域の呼称を北山、中山、南山と云う。 
琉球史の時代区分で「三山時代」と称している。
1322年頃から1429年まで三山時代が続いたと伝わる。
なかでも「中山」は強大勢力であったと伝わる。

その中山の豪族:尚 巴志が1416年に北山を、1429年には南山をも手中に収めて沖縄本島の平定に成功した。
そして、想い描いていた統一琉球王國を創設した。
王位を頂天とする王朝統治体制を布設して、初代国王には尚 巴志自らが即位した。(1429年)
尚 巴志は間もなく王府を浦添城(現:浦添市)から首里城(現:那覇市首里)に移転した。
以後の琉球王國は首里城を王府として1879年までの約450年間もの長期に亘る琉球統治を続けた。

首里城は三山時代の中山領域に既に建立されていたと伝わるも、城主や創建年代は未だ明らかになっていない。
おそらく、13世紀末から14世紀初頭に建立されたのではと伝わる。

首里城の度重なる焼失と再建
首里城は過去4度も全焼し、再建されてきた事が明らかになっている。
1度目は1453年に全焼
4代国王:尚 金福 (1449~1453年)死去後の王位継承をめぐる内紛
その数年後には再建されたとされる。
2度目は1660年に全焼
失火に因るものと伝わる。 1671年に再建されたとされる。
3度目は1709年に正殿、南殿、北殿が全焼
失火に因るものと伝わる。 1715年に再建されたとされる。
4度目は1945年に全焼
第二次世界大戦に起きた沖縄戦の戦禍に因る。
日本軍は首里城に地下壕を設けて総司令部を置いた。
重要な要塞とされたため、アメリカ軍から攻撃の最大目標にされて猛烈な集中砲火をあびることになった。
城と周辺の町並みの殆んどが焼失して廃墟と化してしまった。
王國時代の財宝や古文書など多くの文化財が破壊され焼失された。

戦前の首里地域には首里城を含む27もの国宝指定の築造物が存在したと伝わる。 これは京都や奈良に次ぐ数であったとされる。
狭い首里の地域に国宝級の財宝が集中していたことを想うに、在りし日の古都首里が際立ちます。
多くの国宝と貴重な遺産が地上からその姿をほぼ完全に消してしまった。
戦渦に打ちのめされた県民は此の上も無い喪失感を負うた。


廃藩置県施行(1879年)によって琉球王国が解体され、沖縄県が設置された。
戦前の首里城は首里自治区に払い下げられて学校などの公共施設として供用された。
戦後は壊滅状態になった跡地に公立大学が建立された。


現在の首里城復元への歩み
県民の切なる想いが復元実施へと導いた。
戦後間もなくから首里城に寄せる県民の想いが高まり、「沖縄文化の象徴を再建しよう」の合言葉のもと、再建に向けての運動が起きた。
その尽力が実り、1958年に「守礼之門」が復元された。
続いて「円覚寺総門」「弁財天堂」「天女橋」などの復元・修理工事が次々と竣工された。

1972年の祖国復帰を機に県民の気運は更なる盛り上がりを見せた。
1979年、城跡に建立していた公立大学が移転した。
1986年、県と政府策定の「首里城跡復元計画」が閣議決定された。
1989年には「首里城正殿復元工事」が着手された。
引き続き「南殿」「番所」「北殿」「奉神門」等の復元工事も着手された。
1992年11月に正殿を初めとする築造物群及び城郭が竣工されて一帯を
首里城公園として開園のはこびとなった。

戦火に散って、47年間も幻となっていた首里城の雄姿が丘の上に悠然と蘇った歓喜は県民こぞっての「心の御旗の掲揚」であった。

復元された首里城は、3度目の火災後に築造された(1715年)様式をモデルにしていると云われる。
門や各種の建築物は朱塗りの漆、屋根は赤瓦で敷かれ、各部の装飾には国王の象徴である龍が多用されている。
城郭は琉球石灰岩で積み上げられている。
軍事目的よりも政治の政所としての役割がフォームになっているとされる。

2000年7月に開催された「九州・沖縄サミット世界主要国首脳会合の晩餐会」は首里城を会場にして琉球古典芸能を鑑賞しながらの厳かな雰囲気で催行された。

2000年12月に首里城跡,他8つの遺産群が『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に認定された。  
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◇守礼之門復元
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琉球王府の行政機構

2010-11-30 | 首里城
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像;首里城 )
首里城
【 首里城 】
『 琉球王府の行政機構 』を見聞しましょう。

琉球王府の行政機構
初代国王:尚 巴志(しょうはっし/1429年即位)から25代国王;尚 泰
(しょうたい/1879年退位)までの約450年間もの長期に亘って続いた
琉球王國の行政機構は次の通りであったと伝わる。
その間の統治行政を司る最高王府は変わることなく首里城であった。

      琉球王府の行政機構図
宝座国王
評定所御座摂政
三司官
下御座表十五人
中央政庁物奉行所申口方
用意方物奉行所給地方物奉行所所帯方物奉行所平等方泊地頭双紙庫理鎖之側
物奉行物奉行物奉行平等之側泊地頭双紙庫理鎖之側
吟味役吟味役吟味役吟味役吟味役吟味役日帳主取日帳主取
役座
(役所)
山奉行所
砂糖蔵
用意蔵
大台所
料理座
催促方
船手蔵
高所
勘定座
用物座
給地座
救助蔵
道具当
田地方
取納座
座検者方
諸製方
米蔵
仕上世座
宮古蔵
銭蔵
賦方
蘇鉄方
紙座
櫨垂方
請地方
玉陵殿
寺社座
大与座
総横目
泊村方
普請奉行所
鍛冶奉行所
亙奉行所総与力
下庫理
書院
納殿
小細工奉行所
貝摺奉行所
厩方
御系図座
久米村方
那覇里主所
国学
久米村明倫堂
首里三平等学校所
那覇四町学校所
泊村学校所
首里各村学校所
諸浦在番


〓主だった部署の管掌〓

評定所
評定所は国政を司る王府最高機関である。
摂政および三司官が執務する場所は御座もしくは上御座と呼ばれ、表十五人が控える場所は下御座と呼ばれた。

摂政
摂政は日本の摂政職に近いが、ほぼ常設の官職である。
国王を補佐し、三司官に助言を与える役目だが、辣腕をふるった羽地王子朝秀などを例外にすれば、通常は儀礼的な閑職であった。
王子や按司など、王族から選ばれた。

三司官
三司官は実質的な行政の最高責任者であり、宰相に相当する。
三人制で投票により親方の中から選ばれた。選挙権を持つ者は王族、上級士族ら200余名であった。王族には選挙権はあるが、被選挙権は無かった。
職掌は、用地方、給地方、所帯方に分かれ、3人がそれぞれを分担した。
品位は正一品から従二品で、士族が昇進できる最高の位階であった。

表十五人
表十五人は摂政・三司官の下に位置する、物奉行3人、その下の次官級の吟味役3人、申口方の長官4人、その下の次官級の吟味役3人・日帳主取2人を合わせた計15名からなる協議機関である。
国政の重要課題を協議し、摂政・三司官に上申するなどした。十五人衆、奉行衆とも言う。現在の国務大臣に相当する。
尚賢王の治世の1643年に置かれたが、表十五人は正式な官職名というよりは通称であり、普段はそれぞれの役所の長官および次官として働き、必要があれば集まって協議した。それゆえ、評定所の常設官職には含まれない。

中央政庁
物奉行所
物奉行所は用意方、給地方、所帯方の3つの物奉行所からなり、それぞれに物奉行が一人いた。各物奉行は、同じく各物奉行所を担当するそれぞれの三司官の監督のもとで職務を行った。物奉行は今日の大臣・長官に相当し、その下に次官級の吟味役が置かれた。主に物奉行は親方(従二品)が、吟味役は親雲上(ペークミー・正四品)がその任に就いた。

☆用意方物奉行所
用意方(よういほう)は国有財産の管理・山川保全などを職掌とする官庁である。山奉行所、砂糖蔵、用意蔵、大台所、料理座、催促方の各役所を管轄した。

☆給地方物奉行所
給地方(きゅうちほう)は役人の給与・旅費などを職掌とする官庁である。船手蔵、高所、勘定座、用物座、給地座、救助蔵、道具当の各役所を管轄した。

☆所帯方物奉行所
所帯方(しょたいほう)は租税・国庫の出納などを職掌とする官庁である。田地方、取納座、座検者方、諸製方、米蔵、仕上世座、宮古蔵、銭蔵、賦方、蘇鉄方、紙座、櫨垂方、請地方の各役所を管轄した。

申口方
申口方(もうしぐちほう)は平等方、泊地頭、双紙庫理、鎖之側の四官庁からなる。平等方を除いて、それぞれ官庁名であると同時にその長官名を指した。各長官の下には次官級の吟味役か日帳主取が置かれた。申口方の長官は親雲上(正三品)が、その下の次官級は親雲上(正四品)がその任に就いた。従って、申口方の長官は物奉行よりも品位が下に位置する。

☆平等方
平等方(ひらほう)は司法(裁判所・警察署)と首里の土地山林を職掌とする官庁である。平等所とも言う。長官名は平等の側(ひらのそば)と言った。他に王家陵墓玉陵の警備なども管轄した。

☆泊地頭
泊地頭(とまりじとう)は戸籍、民事、公安、消防、宗教、建設および琉球第二の貿易港のある泊村を職掌とする官庁およびその長官名である。寺社座、大与座、総横目、泊村方、普請奉行所、鍛冶奉行所、亙奉行所、総与力の各役所を管轄した。

☆双紙庫理
双紙庫理(そうしこり)は知行、褒賞、工芸や宮中のことを職掌とする官庁およびその長官名である。下庫理、書院、納殿、小細工奉行所、貝摺奉行所、厩方の各役所を管轄した。

☆鎖之側
鎖之側(さすのそば)は外交、文教などを職掌とする官庁およびその長官名である。御系図座、久米村方、那覇里主所、国学、久米村明倫堂、首里三平等学校所、那覇四町学校所、泊村学校所、首里各村学校所、、諸浦在番の各役所を管轄した。

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◇首里王府
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本編の構成及び説明文は Wikipedia-琉球王国 からの引用です。

琉球王國の文化活動

2010-11-14 | 首里城
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像;デイゴの花 )
デイゴの花

【 首里城 】
『 琉球王國の文化活動 』を見聞しましょう。

琉球王國の安寧期と文化活動
15世紀中期から16世紀末期までが琉球王國の安寧期と伝わる。
中国、日本、朝鮮、タイなど東南アジア諸国との仲継交易で莫大
な蓄財を得たのが国家基盤となった。

王府には賓客や使節団などが度々訪れるようになって、来訪者を
歓待する機会が多くなった。
その儀式・宴での出し物を模索した王府は、首里城周辺に舞踊
音楽の創作者や役者、美術・工芸の職人を数多く居住させて創作
活動に専念させた。
そこから多岐のジャンルに亘る創造的スタイルの作品が創出され
るようになった。

海外との交流機会が多くなって海外文化の情報に触れる機会も多
くなった故に、海外の文化情報を採り入れながらのオリジナリティ
に富んだ作品も数多く創出された。
文化芸能の創作活動が謳歌を極める華やかな時代である。
創作品は宮廷内の儀式や宴で披露されることが専らであった。

当期に王府によって創出された作品やソサエティが現代沖縄文化
の基盤になっていると伝わる。
芸能部門においては宮廷芸能または古典芸能と称されている。
その息遣いは、今なお沖縄の文化芸術活動において脈々と鼓動を
刻んでいる。

◆創出された文芸類
王府で創作された文芸類は多種多岐に亘る。
その代表的なジャンルとして
・文学⇒ 歌謡集、琉歌/・舞踊⇒かぎやで風etc/・音楽⇒御座楽、
路次楽etc/・工芸⇒紅型、漆器、焼物etc/・武芸⇒琉球空手など。

◎個別文芸の概要
・文学 ⇒ 歌謡集、琉歌
≪歌謡集≫
代表的な歌集が「おもろそうし」である。
1531~1623年にかけて首里王府によって編纂された琉球最古の歌集
と伝わる。1554首が収録されてある。
「おもろ」の語源は(思い)、「そうし」は(草紙)とされる。
祭祀における祝詞だったと伝わる。
≪琉歌≫
島々に伝承される叙情短詩形の歌謡である。
詠むための歌であるとともに謳うための歌でもあるところは和歌と似
ている。
短歌形式(八八,八六の三十音)と長歌形式(七五の連続音)がある。
宮廷音楽の多くが短歌形式で歌われる。

・舞踊 ⇒ 宮廷舞踊
≪宮廷舞踊≫
王府の儀式や来訪者を歓待する際に宮廷内で舞われた踊りである。
なかには貴族の子弟のみによって踊られる演目がある。
今日では宮廷舞踊のことを古典舞踊と称される。

琉球王國滅亡(1879年)後に一般庶民の間から生活の喜怒哀楽感を織り込んだ舞踊が
誕生するようになった。それらを民間舞踊または雑踊り(ぞうおどり)と称される。


・音楽 ⇒ 御座楽、路次楽
≪御座楽、路次楽≫
使節団や謝恩使を壮行する時に奏でられる宮廷音楽である。
室内で座って合奏するスタイルが御座楽で、屋外で行列して歩き
ながら合奏するスタイルを路次楽と呼ばれる。
御座楽は荘重・優雅な雅楽であり、路次楽もチャルメラや太鼓など
による荘厳な鼓吹楽であったと伝わる。

琉球音楽は唄と三線が絃声一体になって奏でられるので、
別称「唄三線」と呼ばれる。
なかには筝、笛、胡弓、太鼓等の楽器も添えられて音色の和が構成
された曲種もある。
今日では宮廷内で演じられた音楽を総じて古典音楽と称される。

三線の起源は遠く3000年も前のエジプトにまで遡ると云われる。
それが西方に伝わって弓で弾くヴァイオリン類になり、東方に
伝わって撥で弾く三絃になったと云われる。
沖縄三線は中国から伝来したと伝わる。
幾度かの改良を重ねて現型に定着したとされる。

琉球王國成立以前から三線楽器が庶民の間に広まって村々の祭り
や祝い事の場で地唄等の伴奏用楽器とされてきたのではなかろうか
とも伝わる。

廃藩置県後は庶民の間から風俗、伝説または時代を反映した唄三線が次々と生まれた。
これらを総じて民謡と称される。

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◇朝拝御規式
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琉球王国の隆盛期

2010-10-21 | 首里城
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像;ハイビスカス )
ハイビスカス

【 首里城 】
『 琉球王國の隆盛期 』を見聞しましょう。

琉球王國の隆盛期
初代国王;尚 巴志(1429年即位)から12代目国王;尚 永(1573~1588年)
の治世までの約160年間が隆盛期であったと伝わる。
うち、9代目国王;尚 真(1477~1526年)の代は最盛であったと伝わる。
13代目国王;尚 寧(1589~1620年)の代から薩摩藩の支配下に置かれ
るや王府財政並びに文化が衰退の一途をたどることになる。

※最盛期の経済活動
琉球は統一王國創設以前から各処の豪族達によって海外交易が行わ
れてきた。
統一王國になって、初代国王;尚 巴志は、その交易を一層強化した。
中国、日本、朝鮮、タイなど東南アジア諸国との仲継交易を展開して
海洋王国構築への道を推進した。
交易は莫大な財力を生む事に成功し、経済的・政治的に安定した
国体維持を図り続けた。
中国には冊封史や進貢船を、幕府には慶賀使や謝恩使を派遣する
などして関係維持を保ち王国の安寧を保った。

※最盛期の文化活動
王府には交易に係わる賓客や使節団などが度々訪れるようになった。
王府は来訪者を歓待する用に音楽・舞踊などの創作活動を推奨した。
蓄財に支えられた文芸活動の謳歌を極める華やかな時代創出である。
また、海外との交流機会が多くなることによって海外文化の情報に触
れる機会も多くなった。

首里城周辺に舞踊・音楽の創作者や役者、美術・工芸の職人を数多
く居住させて創作活動に専念させた。
海外の文化情報を採り入れながらもオリジナリティな創造的スタイル
の作品が多岐のジャンルに亘り創出されるようになった。

◇琉球文化の創成期
創作品は宮廷内で催される儀式や宴で披露されることが専らであった。
この期に創出された作品やソサエティが現代沖縄文化の基盤となって
いると伝わる。
創出し伝播された文化は文学・芸能・工芸から宗教まで多岐にわたる。

※ジャンル別の主な科目
・文学 ⇒歌謡集(おもろさうし)、琉歌
・舞踊 ⇒宮廷舞踊
・音楽 ⇒御座楽、路次楽、宮廷音楽
・工芸 ⇒紅型、琉球漆器、焼物
・宗教 ⇒神道、仏教、道教、キスト教、琉球固有の宗教
・武芸 ⇒琉球空手などなど。

宮廷内で演じられた芸能を総じて古典芸能と称している。
その息遣いは現代沖縄の文化活動に脈々と鼓動を刻んでいる。

廃藩置県施策(1879年)に伴い首里王府が閉鎖される事になる。
それまで王府の庇護を受けてきた役者達が生活の糧を得るべく
一般庶民に溶け込んで宮廷文化を伝道する活動に努めた。

然る後に庶民の間から生活の喜怒哀楽感を織り込んだ新しい作品が
生まれるようになった。 それらを総じて民間芸能と称している。
次回に続く ・・・
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◇絵巻行列
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薩摩藩の琉球王国占拠

2010-10-03 | 首里城
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル

 ( 画像;識名園 )
識名園

【 首里城 】
『 琉球王國と首里王府の変遷 』を見聞しましょう。

琉球王國は450年間存続した
長期に亘り群雄割拠の治世にあった沖縄本島を尚 巴志が平定して
統一琉球王國を創設し、王朝体制を敷設、王府を首里城に構えた。
その初代国王:尚 巴志(しょうはっし/1429年即位)から25代目国王
尚 泰(しょうたい/1848年即位)の治世が続いた1879年(明治12)まで
約450年間もの長期にわたって琉球王國は続いた。
その間の統治行政を司る最高王府は変わることなく首里城であった。

450年間における統治事情の変遷
12代目国王:尚 永(しょうえい/1573~1588年)までの治世は海外交易
から得る莫大な財力を基にして、経済的・政治的に豊かで安定した国体
維持を図っていた。
独自の国家的一体化を進めながら中国をはじめ、日本、朝鮮、タイなど
東南アジア諸国との交易を推進して海洋王国構築への道を展開した。
中国へ進貢船を派遣したり、幕府には慶賀使や謝恩使を派遣するなど
して関係維持を保ち王国の安寧を図った。

財政基盤が豊かになるなか、城内では舞踊・音楽の創作活動が活発化
して演じられる機会も多くなった。
また、城郭周辺に美術・工芸の職人を数多く居住させて創作に専念させ
た。 王府を中心とした文化芸術芸能活動の隆盛を迎えたのである。

9代目国王:尚 真(しょうしん/1477~1526年)の代には、本島周辺離島
及び宮古・八重山諸島をも平定して、中央集権国家を完成させた。
ところが、13代目国王;尚 寧(しょうねい/1589~1620年)の代になって
琉球王國に大きな激震が起きた。
薩摩藩と江戸幕府の共謀軍に侵攻・占拠されたのである。 (1609年)

薩摩藩の侵攻
薩摩軍は三千の軍勢と多量の武器・軍艦を持って急襲してきた。
武器を持たない琉球王府は瞬く間に制圧され占拠された。
侵攻目的は琉球國からの蓄財吸い上げと琉球國を介しての中国交易
の展開にあった。
琉球王國は国家体制を体面的に存続させながら、薩摩藩の指図の下に
中国との交易など諸施策を遂行させられる事になった。
この侵攻は薩摩藩と徳川幕府の内密によって実行された事が歴史検証
によって明らかにされている。

当時の薩摩藩は中国から交易を断絶されて財政困窮状態にあった。
琉球王府は拠所としてきた海外交易からの捻出財源を収奪されたうえに
薩摩藩への税上納を求められるに至った。
以後、薩摩藩の琉球王國支配が廃藩置県までの270年間も続いた。

※財政困窮に陥った琉球王府
蓄財を収奪されたうえに重税の上納を課せられた琉球王國は、然る後に
王府財政が困窮状態に陥った。

※王府財政の逼迫化と人頭税制度施行
14代目国王;尚 豊(しょうほう/1621~1640年)は、宮古・八重山諸島及
び周辺離島在民に対して人頭税納付を施行した。 (1637年執行)
その制度の税納は穀物でもって行われたが、後に反物も付加された。
村落の収穫量や住民の身分、性別、年齢によって税の細則等級が決め
られた。 課税対象者は、15歳から50歳までの全男女に課された。

住民は過重な税負担に苦しむ日常生活に陥り、特に貧民・病人にとって
は余りにも過酷な負担となる重税であった。
この制度は1903年(明治36年)までの約267年間も続くことになる。
納税に苦しんだ島民の悲哀を記した史書・史跡が数多く現存する。

≪廃藩置県と王国体制崩壊≫
明治政府は「琉球の王国制度を解体して、日本国に属する沖縄県を設置
する」旨の宣言を発令した。(1875年)
政治制度が日本の府県制度にならって改められることになった。

1879年(明治12)春
琉球王國最後の国王:尚 泰(しょうたい)が首里城から追放された。
ここにおいて、尚 巴志国王(1429年)から数えて約450年間に亘り治世し
てきた統一琉球王國と王統の歴史が幕を降ろし、首里城は王宮の地位
を閉じることになった。
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◇聖なる都城 (3)
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統一琉球王國の王統

2010-02-04 | 首里城
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル
 ( 画像;守礼之門 )
守礼之門
【 首里城 】
『 統一琉球王國の王統 』を見聞しましょう。

〓統一琉球王國の王統〓
尚 巴志が長期にわたり群雄割拠の治世にあった沖縄本島を平定した。
そして、統一琉球王國として王朝体制を敷設し王府を首里城に構えた。
統一琉球王國は、初代国王:尚 巴志(1429年即位)から25代目国王:尚 泰(しょうたい)の治世1879年(明治12)まで約450年間もの長期にわたって続いた。
その間の統治行政を司る最高王府は、変わることなく首里城であった。
郷土史研究者の一部に、初代琉球国王は尚 思紹(しょう ししょう/尚 巴志の父)であると論述している方がある。 尚 思紹は三山時代の中山領主の位に労じたのであって、統一琉球王國の国王の位には就いていないとする論述が有力説である。
したがって、ここでは尚 巴志を初代国王として記述します。
※統一琉球王國の国王一覧
統一琉球王國の王統一覧は下表の通りである。
統一琉球王國王統の一覧 と 在位期間
(1)尚 巴志 1429~1439年(2)尚 忠 1439~1444年
(3)尚 思達 1444~1449年(4)尚 金福 1449~1453年
(5)尚 泰久 1453~1460年(6)尚 徳 1460~1469年
(7)尚 円 1469~1476年(8)尚 宣威 1477年
(9)尚 真 1477~1526年(10)尚 清 1527~1555年
(11)尚 元 1556~1572年(12)尚 永 1573~1588年
(13)尚 寧 1589~1620年(14)尚 豊 1621~1640年
(15)尚 賢 1641~1647年(16)尚 質 1648~1668年
(17)尚 貞 1669~1709年(18)尚 益 1710~1712年
(19)尚 敬 1713~1752年(20)尚 穆 1752~1794年
(21)尚 温 1795~1802年(22)尚 成 1803年
(23)尚 灝 1804~1834年(24)尚 育 1835~1847年
(25)尚 泰 1848~1879年以上 25代の国王

◆第一尚氏王統 と 第二尚氏王統
琉球王朝を綴る史書では
初代国王;尚 巴志から6代国王;尚 徳(しようとく)までを第一尚氏王統
7代国王;尚 円(しょうえん)から25代国王;尚 泰までを第二尚氏王統
と区分呼称している。
6代目国王;尚 徳までの王位は、尚家の血族が継承即位してきたが、
7代目以降は、尚家と血族関係の無い者が継承即位してきた事に因る。
◆7代目国王;尚 円(金丸)の権力奪取
~尚 円王は地方の平民出身~
尚 円王は、伊是名島で農家の長男として生まれた。
その名を金丸(かなまる)と呼ばれていた。
幼少の頃から父を助けて農業を手伝い、両親亡き後も農業に励んだ。
ところが、時の天候に左右される耕作はままならず、島を後にして沖縄本島へ出る事になった。 その時の金丸は20代半ばであったと伝わる。
本島の村々を転居するも最後には首里の街に辿り着き、そこを暮らし場所として定めるに至ったと伝わる。
~金丸と王府の縁~
首里の街で暮らし始めた金丸は、とある機会に未だ王位ではなかった尚 泰久に見い出されて家来となった。
英知に富んだ金丸は、下役ながらも任用の役目を卒なくこなした。
その役裁きが尚 泰久から絶大な信頼を得て順風漫歩に頭角を現した。
尚 泰久の仕官になって数年後には家来内の最高位に昇格した。
~尚 泰久の5代目国王即位と金丸の処遇~
然る後、尚 泰久が5代目国王に即位した。
尚 泰久王の在位後期には、金丸が王側付けの重臣として抜擢された。
周りの高官達からの信望も厚く、その才覚を存分に発揮した。
その活躍ぶりも束の間、尚 泰久王が逝去してしまった。
~6代目国王;尚 徳と金丸の処世~
6代目国王には、尚 泰久王の子息である尚 徳が即位した。
あにはからんや、金丸は尚 徳王と折りが合わず諍い事が多くなった。
金丸は諸般を鑑み、王府を出て下野の身で処する事にした。
その時の尚 徳王は20代後半、金丸が50代半ばであったと伝わる。
ところが、その約1年後に若き尚 徳王が急遽する事態になった。
尚 徳王は若気の至りで無謀な施策を重ね、周りからの信頼を失っていたと伝わる。
~王府組織の弱体化~
尚家においては、王位継承の機会毎に内紛が絶えなかった。
その争いのしこりが後々まで尾を引く事となり、尚 徳王の代には王府組織が著しく弱体化した。 また、統一後にあっても未だ地方の諸豪族の勢力が強く残っていた。
~金丸が王位奪取に登場~
此度の尚家における王位継承内紛に乗じて登場したのが金丸である。
金丸は王府内の高官達にも信望が厚く、王位奪取の争いに成功をおさめた。 その戦略・戦術が合議ともクーデターともの説あれど定かではない。
~7代目国王;尚 円の誕生~
金丸は、尚家と血縁関係の全く無い地方の平民出であるが、統一琉球王國の7代目国王に就任した。(1469年)
金丸は、自らが尚家を継承する者と宣言して尚姓を名乗るとした。
そして、国王名を尚 円と称した。
政治的には、従来の王統が進めてきた諸施策を継承し、首里城を拠点とする王朝体制を堅持するとした。
以降の王位継承は、従前の尚家血族関係者と係わり無く行われた。
尚 円王の即位は第一尚氏王統の終焉であり、第二尚氏王統の始まりである。 第二尚氏王統は25代目国王;尚 泰(しょうたい)迄の約410年間続く事になる。
☆伊是名島(いぜな)
沖縄本島の地域区分では、北部地域を国頭郡(くにがみ)、中部地域を中頭郡(なかがみ)、南部地域を島尻郡(しまじり)と呼称される。
首里城は島尻郡(那覇市首里)に建立している。
伊是名島は沖縄本島北部海域に位置する離島である。
ところが、地理上では国頭郡に包含される伊是名島が島尻郡に組み込まれている。 つまり、島尻郡の「飛び地」として設定されている。
現在でも住所表示が沖縄県島尻郡伊是名村字xxxである。
その事由は、伊是名島が尚 円王(金丸)生誕の地である事に因る。
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◇聖なる都城 (2)
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首里城と琉球王國

2010-01-23 | 首里城
~ 気ままに歩く 沖縄 ~
タイトル
 ( 画像;首里城 正殿 )
首里城
【 首里城 】
『 首里城 と 統一琉球王國 』を見聞しましょう。

〓 統一琉球王國成立までの沿革〓
歴史上で琉球諸島に一定の政治的勢力が現れ始めたのは12世紀後半からとされる。(日本史の鎌倉時代頃)
琉球各地に按司(アジ)と呼ばれる豪族達が現れて、互いに対立と興亡を繰り返えす時代が続いた。
長期にわたる群雄割拠を繰り返えすなかで、その勢力は3大勢力に収束されるようになった。
※その3大勢力の統治範囲と本拠地
・北部域(北山/本拠:今帰仁城)
・中部域(中山/本拠:浦添城)
・南部域(南山/本拠:大里城)
統治領域の名称を北山、中山、南山と呼ばれた。 
それを琉球史における時代区分で【三山時代】と称している。
1322年頃から1429年まで、三山体制による統治が続いたと伝わる。
なかでも「中山/本拠:浦添城」は強大勢力を保持していた。
三山体制は、沖縄本島のみの分割統治であった。
※浦添城を本拠とする中山の統治概況
中山は、舜天(しゅんてん)を祖する系統、英祖(えいそ)を祖する系統及び察度(さっと)を祖する系統の領主達の世継ぎによって治められてきた。
うち、英祖と察度系統の領主は浦添城を本拠とした。
浦添城は13世紀頃に築城されたと伝わる。
◆南山の豪族:尚 巴志による中山の討伐
三山体制は、しばらくの安寧を維持した。
ところが、最大勢力を誇ってきた中山が、領主:武寧(ぶねい:察度の子息)の代になって、他領地の豪族:尚 巴志(しょうはっし)によって淘汰された。 尚 巴志は、南山の片区域を居所(佐敷城)とする豪族であった。
※尚 巴志は父を中山の領主とした
中山の領主:武寧が住民に離反する施策を続けた結果、孤立化して組織的弱体化を招いた。
尚 巴志は、その状況を見計らうや、中山討伐を図って成功をおさめた。
そして、中山の領主に父の尚 思紹(しょう ししょう)を就任させて、自らは本島統一の段取りに執りかかった。(1405年)
◆尚 巴志による三山平定と統一琉球王國の創設
尚 巴志は1416年に北山を、そして1429年には南山をも手中に収めて沖縄本島の平定を果たした。
そして、想い描いていた【統一琉球王國】を創設した。
王位を頂天とする王朝統治体制を敷設して、その初代国王には、尚 巴志自らが即位した。(1429年)
※統一琉球王國の本拠を首里城に移転
尚 巴志は、まもなく王府を浦添城(現:浦添市)から首里城(現:那覇市首里)に移転した。
以降の琉球王國は、首里城を王府として1879年までの約450年間の長期にわたる統治を続けた。

〓 首里城 〓
琉球統治の本丸であり続けた首里城は、過去4回をも全焼し再建されていることが明らかになっている。
4度目は、第二次世界大戦に起きた沖縄戦の戦火によって壊滅した。
1989年に「復元工事」が着手され、'92年に竣工のはこびとなった。
戦火に散って、47年間も幻となっていた首里城の雄姿が、丘の上に悠然と蘇った歓喜は県民こぞっての「心の御旗の掲揚」であった。
※城郭の沿革
首里城は、那覇市首里の小高い丘の上に立地して那覇の街並を眼下に眺望できる景勝にある。城郭は曲線を描く城壁で取り囲まれて、その中に多くの施設が建立する。
幾つもの広場を有し、また信仰上の聖地も存在する。
城郭の規模は東西約350m南北に約200mの楕円形状を成している。
正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置され西を正面としている。 西を正面とするのが首里城の持つ特徴の一つである。

★現代沖縄文化に息づく王朝文化
首里城の歩んだ歴史は、琉球王國の歴史そのものであると云われる。
王宮内で創造された音楽・舞踊・焼き物・織物などの諸文化は、現代沖縄文化の基盤形成の礎となって脈々と継がれている。
首里城は、まさに沖縄の政治・文化を語るうえでの象徴である。
首里城と琉球王國の歩みに付いては引き続き綴っていきます。

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◇首里城全景イラスト◇聖なる都城
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