碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

「碧川道夫」のこと・・・カラー映画の草分け (25)

2009年03月17日 11時51分57秒 | 碧川

  ebatopeko

    

    「碧川道夫」のこと・・・カラー映画の草分け (25)

   
  

    (内田吐夢との合作「土」)

 

  (前回まで)

  碧川道夫は、碧川企救男と妻かたとの間の長男である。

 碧川かたには、先夫三木節次郎=竜野町長三木制(すさむ)の長男=との間に長男三木操(のちの詩人三木露風)と二男勉がいた。
 
 しかし 夫、三木節次郎は結婚以来放蕩を繰り返し、かたには苦労が絶えない日々がつづいた。

 明治二十八年(1895)ついに、舅三木制からの話もあり、夫節次郎と離婚し、乳飲み子の勉を連れて鳥取に帰ることになった。かたは、制にとって気に入った嫁であり、離婚はかたのしあわせを思って三木制から切り出したものだと思われる。

 このとき、長男操(のちの三木露風)は6歳であったが三木家におかれ、身持ちの悪い節次郎にかわって祖父三木制が養育した。

 先夫三木節次郎と別れかたは因幡に帰ることになった。しかし、かたの養父堀正は東京の鳥取県出身者の寮の管理を任されていたので、彼女も自立のため上京することになった。

 しかし、女の一人旅を心配したまわりの人は、東京専門学校(今の早稲田大学)に入学するため上京しようとしていた碧川企救男に同道を依頼した。そして鳥取を二人で後にして東京に上ることになった。

 東京で企救男は東京専門学校、一方「かた」は東京帝国大学付属看護学校で学んだ。彼女は2年間の養成所のあと5年間の看護婦生活を送った。その後、三浦教授からドイツへの官費留学の話があった。

 しかし、このとき北海道にいた碧川企救男から北海道に来て欲しいとの強い誘いがあり、ついにかたは明治35年春、北海道に向かうことにした。そこで碧川企救男と再婚したのである。かた33歳、企救男25歳であった。

 そして翌明治明治三十六年(1903)2月25日、企救男との間の長男道夫が誕生したのである。

  碧川道夫は、大正九年(1920)上智大学在学中の二月に松竹キネマの募集広告を見て入社した変わり者であった。十七歳になる寸前であった。

 当時は、大谷社長のもと小山内薫がリーダーとなっていた。碧川道夫は四月ころよりカメラマン助手として働いた。

 その後、碧川道夫はカメラマンとして活躍し、生涯78本の映画を撮った。のち「地獄門」でカンヌ映画祭グランプリを獲得し、アカデミー賞外国映画賞も獲得した。

 かれはまた、昭和二年(1927)京都医大に入院中医学映画を発想し、昭和四年(1929)には、日本初の医学手術映画を撮影したことでも知られる。医学映画のパイオニアであり、世界にもよく知られている。


   (以下今回)

 昭和12年(1937)10月、内田吐夢監督、碧川道夫撮影の長塚節作「土」の撮影が開始された。内田吐夢と碧川道夫の傑作の一つとして挙げられるものである。

 もともとこの「土」は、清水宏が提案したものであった。清水宏は、栗島すみ子の紹介で松竹蒲田に入社した人物で、大正13年(1924)、21歳の若さで『峠の彼方』で監督デビューした。

 のち、かの美人女優として名声を博す田中絹代と恋に落ち、同棲生活を送ったことでも有名である。この同棲は、当時の蒲田撮影所所長の城戸四郎のすすめによるものである。 同棲は一年半でピリオドをうち、結局結婚には至らなかった。

 昭和8年(1933)の『大学の若旦那』をはじめとする、「若旦那シリーズ」で活躍したが、のち坪田譲治の児童文学『風の中の子ども』『子どもの四季』など子どもを中心にすえた作品を多く世に出した。

 戦後は、脳性麻痺の寮育施設を描いた、昭和30年(1955) の『しいのみ学園』も彼の佳作として知られている。

 内田吐夢と碧川道夫の『土』が完成したとき、かれ清水宏は「ツチ イマミタ ナイタ ヒロシ」と電報を碧川道夫に送った。

 碧川道夫は、この『土』の本当の主人公は清水宏であると断言する。この『土』は、会社がやれといったものではなかった。碧川道夫は「われわれが、やる」と言ったものであるという。

 この『土』では、原作者の長塚節がその作品の中で、しきりと空気のことを書いている。関東地方の鬼怒川に沿った岡田村という一寒村の空気である。

 碧川道夫はその土地特有の西風が舞い、木々が揺れる、そのシーンにのめりいこんだ。 

 このトップシーンは、完成間近になって一回撮影したが、碧川道夫は気に入らなかった。日活多摩川のこのころは、碧川道夫が気に入らないと何度でも撮らせてくれる態勢にあった。

 昭和13年(1938)の大晦日、夜明けの四時ころ、主役の親娘が潜り戸を開けて、鍬を担いで出てゆくファーストシーンを撮った。

 はるか彼方には靄がかかり、霧も流れている。その上風がザワザワいうのが欲しかった。

 二回撮った。だんだん夜が明けて来る。ようやく終わったが、碧川道夫はいまだに納得出来なかった。そこで正月明けにふたたび三回目を撮った。夜明けの仕事なので、かれは泊まり込みであった。

 向こうに主役の小杉勇が焚き火をして待っている。そして碧川道夫の悪口を言っている。「ひでえ奴だ。どこが気に入らないんだ」、ライトマンが騒いでいる。小杉は「よし、殴ってやる。おれも承知しねえ」と。

 碧川道夫は、それを聞いてホッとした。よく言ってくれたな。そして碧川道夫は瞬間「この男を日本最大級の大役者に映してやろう」と思ったという。

 彼はみんなに代わって碧川道夫への不満を言ってくれたのであると。これで現場に漂っていた不満の空気がピタリ収まった。

 また主役の小杉勇が樽を担いで、水を乾ききった田に撒くという旱魃シーンがあった。小杉の回りは一面のひび割れ、乾ききった田を撮ろうとした。

 碧川道夫は関東ローム層についても研究した。しかし、その年は日本中雨で旱魃がない。弱り切ったという。

 また、トロッコによる移動撮影の場面。娘役の風見章子が、父のあとを追って、長い道を桶に水いっぱい入れて、肩でギシギシ音を立てながら担いで行くシーンである。

 監督の内田吐夢は以外に早くOKを出したが、碧川道夫はNGを出した。みんなはいっせいに、せっかくうまくやったじゃないかと、碧川道夫のいじめを憎むような目をした。

 内田吐夢が「どこが悪い」と言ったが、碧川道夫は「どこが悪いといっても、僕がカメラを覗いているんだから、いちばん分かるんだ。トロッコがジャンプした。撮り直し!」というあんばいであった。

 その他、監督の内田吐夢とカメラマンの碧川道夫は、碧川道夫が以前から心配していたとおり、しばしば大げんかをした。兄弟であったが、撮影にはとことん妥協を許さなかった碧川道夫であった。

 この『土』は、昭和14年(1929)4月に封切られた。翌年この作品は第一回文部大臣賞を受賞するにいたった。

 ところがこの『土』は、戦争のどさくさの中で行方不明になった。その一部コピーが、戦後ドイツから戻り、フィルムセンターに保管されている。

 しかしそれは、碧川道夫らの知らないうちに、岩崎昶が関係して銀座JOのラボで作ったプリンとからの再生版であった。その内容は、碧川道夫にみせたら「張り倒されるぞ」といわれるくらいひどい画調であったという。

 碧川道夫も戦後ドイツに行ったとき、探したが見当もつかなかった。かれは川喜多かしこさんに、よくお願いしていたが、そのルートで思いがけず東ドイツのフィルムセンターから贈ってもらうことになった。

 税関から電話がかかってきて、碧川道夫と内田吐夢は、走っていき、ベルリンの戦禍をくぐり抜けたそのフィルムと、子どもに会ったようなつもりで対面した。

 しかし、フィルムの質が弱っていて、オリジナル版の『土』とはまるで違っていた。十数回のデュープをしたとの経過報告であった。

 



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