碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

「碧川 清」のこと・・・生涯を看護に  ⑬

2008年07月03日 12時45分59秒 | 碧川

 ebatopeko


 

    「碧川 清」のこと・・・生涯を看護に  ⑬

         
     (碧川清の人となり) その2

 

 家庭でもこの一本気なところは随所に現れた。清の六つ上の姉国枝は、こんなことを記している。清が人にあわれみをかけるさまは、まったく母かたの血をそっくり受け継いでいると言う。その話である。

 国枝は言う「昔は街のあちこっちに、よくお乞食の姿を見かけたものでした。」と。そして、彼等の全部が貧しかったとは思えないこともあった。街角に出勤し、夕方には立派な家に帰り、おそらくは妹よりは裕福な暮らしをしていた人も、中にはいたに違いない。そんな気がしたときは国枝は、見て見ぬ振りをして通り過ぎた。

 しかし、妹の清はストレートに駆け寄り、やさしくほどこしをするのが常であった。いつもそのときの用意に小銭がハンドバッグの中や、ポケットに用意されていた。それは決まって都の中央保健館の薬剤師であった馬場静子さんのポケットマネーであった。

 馬場さんは「さあ!また出来てるわよ、碧川さん!」と、ザラザラッと彼女に与えた。妹の道楽とも、趣味ともつかない社会奉仕へのお力を、あたたかい友情にこめて下さったのである。

 清は、人に対して愛情を分けるばかりでなく、動物達にも同じような態度をとっていた。姉の国枝宅に行くと、必ず野良犬、野良猫の食べ物をねだり、「何かない?あんた、猫にやるのよ」と言っては台所の鍋のふたをとった。

 昭和十四年(1939)ごろのある日の午後、清が息を切らせて駆け込んできた。例によって、茶の間の窓の向こうから「あんた、ごはんない?ごはん!」と勢いこんだ。

  姉は「ごはんなら晩の分があるけど、おかずはたいしたものもないのよ、まだ、これからなのよ」と。

 姉の返事をろくろく聞かず、まっすぐ台所へ上がると、いきなりおひつのふたをとり、急いでおにぎりを作り始めました。あっけにとられている姉に向かい清はこう言ったという。

 「今ね、大宮公園に行ったらね、猿のほっぺたに大きなおできが出来て腫れ上がっているのよ。あんまり可哀想だから、お薬をいま買ってきたのよ。ダイアジンを、それをこの中に入れて食べさせたいのよ。」と。

 姉は「だったら、一つ握ればいいのでしょう」と、それに対して妹の清は「だめよ、ほかの猿に横取りされるかもわからないわ、だからまず、まわりの猿にやって落ち着かせ、それから肝心の猿に、お薬の入っているのをやるのよ」と。

 そう言うと、彼女は夢中で四つばかりを作ると、「早く行かなくちゃあ」と、さよならも言わずに駆けだして行ってしまいました。目的の大宮公園は、姉の家から30分も歩かないと行けないところでした。猿のおできに効果があったかどうか、彼女からは聞いていないという。

 もうひとつは、姉妹喧嘩の件である。

 小さいときは六つの歳の差もあって、姉妹けんかをあまりしなかった。ところが大人になってから他愛もないことからよく喧嘩をした。ときには女同士とっくみあいの喧嘩をした。

 碧川清が27歳で、姉国枝の娘(玲子)が八歳の時のことである。玲子はおとぎ話をよく読んでいた。そのため、毎日のように外国へ行きたいと繰り返しては母の国枝を困らせていた。

 そんなとき、国枝は決まって「よその国には、お父さんもお母さんも、ついて行かれないのよ、大ぜいの人さらいがやって来て、こわい小父さんに渡して大変な所へ連れて行ってしまうのよ、もうお家へは帰れないのよ、だからそんなこと云わないのよ」と決まり文句を繰り返していた。

 ある日のこと、娘にこんな意見を繰り返してしる最中に、ひょっこり妹の清がやって来た。

 清は「また始まったのね、今すぐ船に乗るわけじゃあるまいし、何だってそうガミガミ云うのよ、玲チャン、大きくなったら、しっかり英語を勉強して、さっさと、わからずやのお母さんなんかほったらかして、外国のどこへでも好きなところへ行きなさいよ」と、けしかけた。

 母親の国枝は、いきなり立ち上がると「余計な口きかないでよ、この娘の親は私なんですからね」と妹を突きとばした。

 妹の清は、ちょっとよろめいたが、すぐさま姉にとびかかって行った。それから「ドタンバタン!」の大立ち回りが始まった。

 八畳の座敷の隅に押しやられた娘と、一つ年下の弟の二人が「やめて!お母チャン、叔母チャンやめて!やめて!」と泣き叫ぶ中を、姉と妹はとっくみあいの大げんか。

 上になり下になり、ころばし、ころばされ息は切れ、目はつり上がり、くたくたに疲れても負けず劣らずの争いが何十分もつづいた。とうとう根つきて二人とも畳にへばりついて、ハアハアの苦しい息。

 姉は言った「今日はこれまで!今度来たらこの続きやるわよ」と。清は「きっと勝ってみせるわよ、わからず屋!」と大声で叫び、裾をバタバタはたいて直し、玄関を飛び出してドアも閉めずに一散に走り去った。

 十日ほどして、清がやって来た。玄関へは廻らず、茶の間の窓のくちなしの木陰から、笑顔で「あんた、上等な牛肉買ってきたわ、晩ご飯一緒にたべる?」と。喧嘩の件は二人とも一言も口にしませんでした。

 そのケンカのもとになった玲子は、外国への憧れの夢を捨てきれず、戦後ミッションスクールを卒業して間もなく、アメリカに旅立ち、そこを永住の地と定め、アメリカ人と結婚して幸せな生活を送ることになった。

 清の残した成果、遺業の一つであったのではないかと姉は振り返っている。



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