碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』 (22)

2013年07月19日 10時30分49秒 | 『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』

ebatopeko

 

      『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』 (22)

         ー碧川 澄の山陰紀行ー 

 

 (はじめに)

 碧川 澄は、「碧川企救男・かた」の長女として明治38年(1905)に生まれた。ただ、碧川企救男の兄である長男碧川熊雄・なをの夫妻には子どもがなかったので、碧川 澄は生後80日で長男の熊雄の養女となった。

 そのため彼女が父と言っているのは碧川熊雄のことであり、母と言っているのは「なをの」のことである。

 碧川 澄は名前からわかるように、碧川熊雄・企救男の父である碧川真澄の名前からとったものである。養父母となった碧川熊雄・なをの夫妻は、澄をこよなく愛し可愛がった。澄もよくなつき、ながらく養女であることを知らなかった。

 『ちちははのふるさとを訪ねて』は、碧川 澄が父である碧川熊雄・実父企救男の故郷山陰であり、母である碧川なをの・実母かたの故郷でもある山陰をはじめて(実際は3歳くらいのときに米子に行ったらしい)旅した紀行文である。そこには昭和30年代の出雲、松江や米子の様子が活写されており、実に貴重なものである。 
 
 なお碧川 澄は戦前に立教女学校を出て、東京中央郵便局の外国郵便課につとめていた。澄はエスペラントに堪能であったため、それを生かしたのであった。しかし、昭和16年(1931)結核に罹り、昭和18年5月手術によって奇跡的に回復した。

 結核から回復して片肺となった碧川 澄であったが戦後、自らの経験を生かし結核を病んでいる方々のための奉仕活動に、日夜没頭するのであった。戦後まもなく結核は食糧不足の日本での国民病といわれ、その患者は200万人とも300万人とも言われた。 

 ごく少数は入院出来たが多くは自宅療養であり、その方々の回復のために活動したのであった。彼女の行動に対して昭和23年、千葉県は結核予防事業功労者として表彰するにいたった。

 また「保健同人社」に入り、ここでも療養者を慰める活動を展開し、昭和27年(1952)からは「ラジオ東京」から毎週一回、「療養手帖」を碧川 澄の企画で放送した。彼女は「療養のママさん」として全国の療友に呼びかけ、全国の寮友はひたすら枕元のラジオに耳を傾け、その声に慰められたたのであった。テレビのない時代の療養者の星であった。

 また、「保健同人社」は昭和30年(1955)、長島愛生園のハンセン病患者「玉木愛子」の自伝『この命ある限り』の出版をにおこなった。その編集に携わったのが碧川 澄で、一週間にわたって岡山の愛生園に泊まり込み、玉木愛子と交流し出版にこぎつけたのであった。

 この碧川 澄の療養者に対して心を尽くす姿勢は、碧川企救男・かたの娘で、澄の末妹にあたる碧川 清の姿勢に共通するものがある。(注:碧川清については、私のブログの別稿、「碧川 清」のことー生涯を看護にーにおいて詳しく述べている。参照いただきたい)

 この碧川 清は、碧川 澄がこの『ちちははのふるさとを訪ねて』を記した昭和36年(1961)には、日本初の「重症心身障害児施設 島田療育園」の総婦長として迎えられている。

 このように碧川 澄は常にまわりの人々、とくに病める人や弱い立場にある人のために、自らの最大限のサポートを捧げたのであった。何よりその人たちが少しでもやすらげる事が彼女の願いであった。

 今回この『ちちははのふるさとを訪ねて』を紹介することにあたり、碧川熊雄・企救男および碧川なをの・かたの孫であり、碧川 澄の子にあたる潮地ルミ様、碧川葆・浩子様ご夫妻のご支援をいただきましたことに厚く御礼申し上げます。  

 この紀行文は昭和36年(1961)7月19日から出雲市で開かれた「婦人民生児童委員代表者研究協議会」に埼玉県代表として出席した碧川 澄の記した謄写版(ガリ版)の鉄筆で書かれた記録である。その生の息吹を伝えるため、原文を出来るだけ忠実に再現したいと思う。


 

  (明治は遠くなりにけり)   その1

  (以下今回)

 7月23日(日)、今日の予定は黒見の叔父(注:澄の母、なをのの弟万、西村家から境港の黒見家に入る)の案内で“碧川の家”に関係のある場所の見物である。

 叔父の訪ねてくれたとき私は朝食中であったが、その前に私はノートの整理をしたり、7時には前々日松江で別れたHさん1行の隠岐島帰りを米子駅に迎えたりする朝の一仕事をすましてからのことである。

 前夜の彷徨の疲れもなく、私は朝食後すぐ叔父のあとにつづいた。黒茶っぽい時代がかったパナマ帽に開襟シャツ、半ズボン やせた叔父の細い足はなかなか早い。小きざみな足どりの私はややもするとおくれるのをふりかえるようにして、ここはどこどこと説明してくれるのである。

 宿を出て私がまず立ったのは、米子の教会の前であった。後になってみると何故訪ねなかったかと残念な気もするが、ちょうど日曜日でもあり、礼拝の時間でもあるので内部を見せてもらうのもはばかり、外観だけを写真にうつしたが、実はこの教会は父母、祖父母時代のものではないので、私にはあまり興味がなかった。

 西村の祖父母(注:澄の母なをのの両親、西村佐司衛とみつ)の葬儀はここで大へん立派に行われたそうである。

 この米子の聖公会の前身である天神町の集会所は、碧川の祖父(澄の父熊雄の父、すなわち碧川真澄)がつくったもので、その後ここに会堂として建設されたことなどは聞いてはいたが、やはり私はその古い集会所跡の方が早くみたくてたまらなかった。

 城山はいい山だから是非登るようにと西村の叔父にいわれたが、教会に近い野球場から見る城山は私には高くて登る気になれなかった。

 ここも、父が、母が、叔母(注:豊叔母)が、折りにふれ仰いだ山として、そのかたちや、松の木のたたずまいなどくい入るようにながめた。

 野球場から米子医大のわきを通って行く道であったか、米子教会の牧師館がある。そこに昔、ミス・ナッシ、ミス・サンダというような宣教師がいて、叔父たちはここの日曜学校に集まったり英語を習ったという。

 今も古い建物であるが、それも建てなおされたものであると聞いてカメラをむけなかった。私の感慨を一そう深くさせるように叔父は“お豊おばさんもなー”とつづける。そうして私たちは錦海ののぞむ錦公園に入っていった。



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