碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (66)  妹 テルについて ①

2017年07月12日 13時45分03秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

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 長谷川テル・長谷川暁子の道 (66)    妹 テルについて ①
       

     (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

  長谷川暁子の母長谷川テルについて記す。

 長谷川暁子『二つの祖国の狭間に生きる』同時代社(2012)、長谷川テル編集委員会『長谷川テルー日中戦争下で反戦放送をした日本女性ー』せせらぎ出版(2007)、家永三郎編『日本平和論大系17』「長谷川テル作品集」(亜紀書房、1979)、中村浩平「平和の鳩 ヴェルダマーヨ ー反戦に生涯を捧げたエスペランチスト長谷川テルー」などを中心として記す。

 

   (前回まで)

 ユダヤ系ポーランド人「ザメンホフ」は世界平和のために世界語の「エスペラント」を1887年に創始した。その生まれの成り立ちから言っても、エスペラントは本来民主主義的なものである。

 しかし、20世紀には1914年から18年にかけての第一次世界大戦、そして1939年から45年までの第二次世界大戦と大戦争が起こりました。犠牲者の数は第二次大戦は、ソ連が2,000万人、中国は1,300万人、ドイツ約700万人、日本はおよそ300万人と言ったところであった。


 

     (以下今回)

 お姉さんの「西村幸子(ゆきこ)」さんが、妹テルのことを記しておられる。

 それを次に紹介したい。

 

 なお、女優の吉永小百合さんは長谷川テルの遠縁だという。


 テルは生まれたときから強情で反抗心の強い子だった。いったん泣き始めたら、のども裂けんばかりの大声で、どんなになだめても止まらなかった。しかし、泣くだけ泣いたらあとはからりと機嫌をなおし、台風のあとの天気のようだった。

 生まれたばかりの弟を憎らしがって、物さしでたたいたり、「溝にパイして」などといっていたそうだ。人形遊びなどは好まず、棒をふり回して暴れていた。やんちゃではあったが、やることがどこか滑稽で愛らしく、その上頓知があったので、なかなかの人気者だった。

 影絵などで即興の弁士の役を演じるのが上手で、「大きくなったら活動(映画)の弁士になるのだ」といっていた。頭の回転の早さは抜群で、ことの半分もいわぬうちに察してしまい、「男であったら」と何度両親を歎かせたかわからない。

 このため、遅知恵だった弟は低能、低能、といわれた。六中、浦高、東大とストレートに進学した弟だが、テルの前では影がうすかった。

 村山貯水池(現・狭山湖)の工事のため、父が現場勤務となり、私たちは埼玉県山口村(現・所沢市)で小学校時代を過ごした。

 そこは狭山茶の産地で、茶摘みの時期には小さな子どもまでが手伝いに狩り出された。「茶摘み休み」というのが学校にあって、私たち姉妹も手伝いに行った。

 融通のきかない私は、端からていねいに一葉も残さず摘んでいくのだが、妹はよくできている上等の葉ばかり選んでカゴを満たし、飽きるとさっさとやめて遊びまわり、大声で歌を歌ったり、踊ったりして、みなを笑わせていた。

 それでいて、悔しいことに、夕方になって摘んだ葉を計ってみてもらうと、私といくらもちがわなかった。小学校一年か二年のとき、学芸会で読み方の暗唱を、ひとりで少しも臆することなく堂々とやってのけ、出席の父兄や先生たちも舌をまいたという。

 そのころのテルの目は鋭くて、みながこわい、こわい、といっていた。母方の祖父の葬式のときにとった彼女の写真を見ると、それがよくわかる。


 



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