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碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

鳥取藩 幕末 因幡二十士事件 (28)

2011年10月01日 13時18分48秒 | 因幡二十士事件

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     鳥取藩 幕末 因幡二十士事件 (28)     

 

 (二十士事件の背景)  ⑨  公武合体策と鳥取藩 その一
    

    (前回まで)

 ここでは、『鳥取県史』、『鳥取藩史』、『贈従一位池田慶徳公御伝記』さらには、山根幸恵氏、河本英明氏の著作およびその他の先行研究などをもとに取り上げてみる。

 因幡二十士事件は、尊攘派の家臣による藩主側近の暗殺事件であるが、その背景には鳥取藩内における尊王攘夷派の存在がある。

 鳥取藩において、何故にそれほど尊王攘夷思想を信奉するものがいたのかと言えば、その背景に水戸学がある。鳥取藩に水戸学が力を持つようになったのは、鳥取藩の継嗣問題がもとになっている。

  十代藩主池田慶行が十七歳で若死にしたあと、その跡継は4か月の空白を経て、加賀藩主前田斉泰の二男喬松丸(11代将軍家斉の孫)を迎えることとなった。

 このことは池田家にとってみれば、はじめて他家の系統が入ることになったのである。喬松丸は第十一代池田慶栄(よしたか)となった。藩内家中には不満がつのることになった。

  『鳥取県史』によると、この継嗣は御用人荒木又之進と不破平馬らの画策によるものであるという。さらにかれらの後ろには、法鏡院(六代藩主治道<はるみち>の長女三津姫で毛利斉熙に嫁し斉熙の死後法鏡院と呼ばれた)とその老女松岡がいたという。 

  嘉永三年(1850)五月、藩主慶栄は鳥取への入国に先立ち、江戸で御意書を発して家中に訓諭を与えた。それは藩政刷新のため、質素倹約、門閥否定、人材登用を強調したものであった。

 ところが、藩主慶栄が鳥取に向け帰国の途につき伏見まで来たとき、慶栄が急死した。十代藩主慶行と同じ十七歳の若さであった。死因は脚気衝心であった。

 その死があまりに突然であったこと、さらにその襲封に際して因州藩内に異論が強くあったことなどによって、当時の江戸加賀藩邸には慶栄毒殺説が広まっていた。

 嘉永三年(1850)八月朔日、幕府から水戸中納言徳川斉昭の五男、五郎麿を養子とするようにと内示があり、八月二十五日に特旨が正式に伝えられた。

 ここに五郎麿(慶徳)が、鳥取藩第十二代藩主として決定した。五郎麿十四歳であった。徳川御三家の一つ、水戸家から藩主を迎えることになったのである。

  いずれにしても鳥取藩の十二代藩主として、徳川斉昭の五男である慶徳が就いたことは、水戸家と鳥取藩とのつながりが強まることになった。そして以後鳥取藩では家臣の中で水戸学を学ぶものが多く出たのである。

 嘉永五年(1852)閏二月、16歳の慶徳は新しい藩主として初入国した。入国の前、父である徳川斉昭は、慶徳に対して15項目にわたって施政の心得を記した長文の書状を与えた。

 慶徳も日記を父斉昭に送り、その日常生活を事細かに報告した。また藩政上の問題が生ずるたびに、父に書状を送り意見を求めている。それゆえ、慶徳の鳥取藩政には、徳川斉昭の影響が極めて強い。尊王攘夷思想が鳥取藩において拡がるもとになっている。
 
 父徳川斉昭は慶徳に対し、先ずなすべきは士民極窮者の救済であるとし、必ずしも学館の拡張を第一に取り上げることに賛成していなかった。しかし、慶徳はその忠告にもかかわらず学館の改革、拡張に着手した。

 慶徳の藩政改革を「嘉永・安政」改革というが、その基本は藩校「尚徳館」を中心とする学制改革であった。そのため、水戸藩の藤田東湖にも慶徳は相談している。

 家老池田式部利寿を「学館御趣向懸」に任命し、水戸学派といわれる水戸の「弘道館」の影響を受けた「教学の確立」を実現しようとした。

 さらに士分以上の学問場の「文場」を拡張し、士分以下の教学を重視し、「小文場」「小式場」を置いて教育の充実を図った。国学も重視したことは、のち尊攘思想を育てる事につながったのである。

 そして堀庄次郎を「学校文場学正」に任命し、鳥取藩の文教問題の責任者とした。、

 父徳川斉昭の尊王攘夷の立場を受け、藩主池田慶徳は攘夷(夷敵=野蛮な外国を、攘う=払う)のため、ペリー来航に際して幕府に意見を述べている。

 とくに彼が最も恐れたのはロシアであった。日本海に面した因幡・伯耆両国を領する藩主としては当然であるが、そのの脅威に対しては神経をとがらせて、武備強化に力を入れていることは特筆されてよい。

 越前福井藩主松平慶永や阿波藩主蜂須賀斉裕などは、やがて開国論に傾いた。しかし因幡鳥取藩主池田慶徳だけは強硬な反対論であった。

 池田慶徳が、対外強硬論を主張したの背景にはこういう事情があった。

 彼が外国に対して嘉永六年(1653)の許容論から強硬な攘夷・拒絶論に変化した、その背景には、水戸の父、徳川斉昭の意向が強く反映していることが指摘されている(鳥取県史)。

 対外問題が紛糾しているときに、さらにやっかいなことが起こった。それは将軍継嗣問題である。嘉永六年(1853)13代将軍となった徳川家定は病弱で、30歳にもなっていたが子どもが一人もなく、また兄弟もすべて死亡していた。

 ここに次期将軍をめぐって、一橋慶喜を推す「一橋派」と、慶福を推す「南紀派」とが対立することになった。それは同時に緊急を要する外国との対応も絡んで幕府政局は混迷をきわめることになった。

 ところが安政四年(1857)六月、老中の阿部正弘が死亡した。阿部をとおして幕政参加を図っていた水戸の徳川斉昭はその手がかりを失い、松平慶永や鳥取藩の池田慶徳を動かし幕政に影響力を持とうとした。

 しかし、松平慶永や島津斉彬らはもはや積極的交易論に転向していた。それに対し徳川斉昭は、相変わらず強硬な攘夷論を変えず、時勢に対応出来なくなってきた。斉昭の声望は急速に低下してきた。

 将軍擁立について、鳥取因幡藩の池田慶徳は、松平慶永から一橋慶喜を打診された。慶喜は一橋家に入っているが、もと徳川斉昭の七男であって、「七郎麻呂(麿)」という幼名であった。

 一方、池田慶徳も徳川斉昭の五男であって、幼名を「五郎麿」といった。ただし彼が側室の松波春子の子であったのに対し、慶喜は正室である吉子女王(有栖川織仁親王=のち皇女和宮と婚約した有名な熾仁親王の曾祖父=の娘)の子であった。慶徳にとって慶喜は異母兄弟の弟であった。

 さて慶永から慶喜擁立を打診された慶徳は、消極的な回答をしている。そして田安中納言慶頼(松平慶永の実弟)こそがふさわしいのではないかと答えている。

 さらに興味深いのは、安政四年(1857)の十一月、池田慶徳は松平慶永と会談しており、その席で慶永は、開国の必要を説き、さらに雄藩連合政権による政治改革を訴えた。

 その具体策として、外様大名から島津斉彬、鍋島直正、伊達宗城、家門より松平慶永、池田慶徳を選び、これを五大老とし、その上に惣督として徳川斉昭をおくという案をしめした。慶徳は迷惑であるとして断ったが、慶永は慶徳をのぞいてその人なしと説得した。

 ともかく鳥取因幡の池田慶徳は、次期将軍に弟である一橋慶喜を推挙しなかったことは、興味ある事実である。

  将軍継嗣と条約の問題の中、政局が混沌としていた安政五年(1858)四月二十三日、彦根藩主井伊直弼が大老に就任した。

 井伊大老は、朝廷の勅許を得ず条約を調印した。孝明天皇は条約調印に激怒し、譲位の意向を示した。こうした中で、一橋派の運動もあって八月八日「戊午の密勅」が幕府と水戸藩に下された。

 鳥取藩の池田慶徳には二条大納言斉敬から、八月十七日付けの書状で知らされた。そして慶徳は、大納言宛てに請け書を提出し、自分も幕府に対して存意を申し述べると伝えている。

 密勅を受けた水戸藩では、激派が派生し密勅の西南雄藩へ廻すことを企て、四人を派遣したが、うち矢野長九郎と関鉄之助は山陰から山陽に向かい、十一月二十九日鳥取に来訪した。そして二人は水戸留学で面識のある安達清一郎、堀庄次郎を訪ねた。

 
  万延元年(1860)三月三日、水戸藩脱藩藩士関鉄之介らと薩摩藩士有村次左衛門らは、登城途中の井伊直弼を桜田門外に襲い殺害した。いわゆる「桜田門外の変」である。

 事件から二カ月後の四月四日、厳しい探索をながれた関鉄之介が、鳥取の安達清一郎を訪ねて来た。安達清一郎は父辰三郎に相談したが、面会を止められた。堀庄次郎にも相談したが、白井重之進の意見として、水戸人が鳥取に来たことが知れてはならぬから速やかに退去させるべしとのことであった。

 翌日、安達清一郎は薩摩へ行くという関鉄之介に、金子八両を与え鳥取から送り出した。

 

    (以下今回)

 文久二年(1862)四月、薩摩藩十二代当主島津忠勝の父で、公武合体を推し進めようとした、国父とよばれる幕末の薩摩藩の最高権力者島津久光は、藩兵1,000人を率いて京都に入った。

 武力を背景に朝廷を動かし、さらにその上で朝廷の権威を背景に、幕府に改革を迫ろうとしたのであった。 
 
 参考ながら、島津久光の玄孫が現在の天皇にあたる。

 島津久光は幕府に対して、将軍上洛、五大老の設置、一橋慶喜の将軍後見職・松平慶永の大老就任の三つを掲げ、幕政改革を要求した。

 久光は、四月二十三日の寺田屋事件によって、藩内の過激派を処断し、藩論を公武合体に統一した。

 薩摩藩の朝廷工作は功を奏し、これを勅旨として幕府に伝えるため、勅使大原重徳が江戸に下向することになった。

 六月、勅使大原重徳と島津久光は江戸に到着した。幕府は七月、朝廷と薩摩藩の武威に屈服したかのように、一橋慶喜の将軍後見職・松平慶永の政事総裁職就任を認めた。

 さらに、いわゆる文久の幕政改革といわれる、参勤交代制の緩和、京都守護職の設置などが、あいついで行われることになる。朝廷の干渉により幕政改革がおこなわれたのであり、薩摩藩の影響力もきわめて大きくなった。

 参考までに記すと、島津久光一行が江戸からの帰途生麦村(現在の横浜市)で、騎馬で島津一行に割り込んだ四人のイギリス人を殺傷した、いわゆる「生麦事件」が起こった。

 このとき、のちに首相にもなった「松方正義」も島津久光の傍についていたという。

 この事件は、攘夷事件として大問題となり、翌年英国が薩摩藩を攻撃する「薩英戦争」を引き起こしている。

 諸大名がみだりに入京することを、本来幕府は禁止していた。その中で島津久光の入京は異例の事態であった。久光は近衛家をはじめ諸公卿に公武合体を説得した。

 鳥取藩の大坂留守居からは、京都近辺で倒幕の挙を起こそうとする尊攘派志士の動きがあることが、国元に報告された。 

 このころ藩主池田慶徳は、江戸を発し帰国の途につこうとしていた。京都近辺の不穏な情勢を察知した国元の家老、荒尾但馬、鵜殿藤治郎、荒尾駿河は、江戸の中老田村図書に、藩主出迎えを報じた。

 このころ国元には寺田屋騒動を知らせる報告が届いていた。そして藩庁として家老和田邦之助を出迎えに派遣することに決した。五月一日和田邦之助と軍式方頭取岡崎平内らは藩兵700人を率いて鳥取を出発した。

 この和田邦之助こそ、私が別稿ブログで記している、碧川企救男の妻碧川かたの実父である。



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