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「美」の真実、ある芸術家のメッセージ、1986年

2020年08月03日 | 教育
これは、今から35年ほど前に、あるチャネラーに語られた、先ごろ亡くなられた、ある高名な芸術家の、霊界からのメッセージです。それが誰なのか、敢えて記さず、メッセージの中からも、直接分かる部分は編集で省かせて頂いております。けれども、語られている内容の一部から、それが誰なのか、分かる方も居られることでしょう。カッコ内は補注です。編集が加えてあります。

(ここから)

私は、まだ、こちらの世界(霊界)に来て、月日が浅い為に、まだまだ十分には理解していないことも多いので、あなたのご質問に答えられるかどうかは分かりませんが、ただ、私(わたくし)は、あなた方も私の仲間だと聞いております。あなた方のやっていることは、私とは違うかも知れないけれども、神の一つの光の現れだと存じております。

あなたは、私に、美術、芸術について語れと申されましたが、なかなか、その様な、壮大な主題の下には、語れるものではありません。

あなた方は、例えば、この様な形で、霊からのメッセージを受ける者だけが霊能者だと思っておられるかも知れませんが、芸術家や美術家は、或いは、天才と言われる方々は、殆んどが霊能者なのです。彼らが自覚しているかどうかは知りません。この様な形で降霊する訳ではありませんが、殆んどの方々、美術家、芸術家達の、優れた方達は、程度の差こそあれ、やはり霊能力者達なのです。

霊能力者というのは、天上界に在(あ)るアイディアを、インスピレーションとして受けることが出来るということ。また、もちろんインスピレーションというのは、天上界から、頭、或いはハートに、直接にキャッチするものですけれども、それ以外にも、この眼がありますが、あなた方が観ている物と私達が観ている物とは、同じ物かどうかは分からない。

むしろ、私達、芸術家の眼は、「美」という、一つの概念のもとにおける霊眼(れいがん)、霊的な眼であるということです。あなた方が、何気なく観過ごしてしまう物の中に、「躍動する美」を見ることが出来るという事なのです。

あなた方は、例えば、旅行をする時、或いは、散歩をする時、そうした時に、ハッと息を呑むような風景に、気付かれることが多いと思うのです。そこに、何とも言えない美を感じます。

けれども、美とは何かと言われても、それを説明することは非常に困難です。なぜ、それを美しく感じるのか。木立(こだち)がある。緑がある。小川がある。単に、小川があり、木立があり、緑があるだけならば、美を感ずる場合と、そうでない場合がある。

けれども、ある瞬間、ある場面において、その形と、生命の躍動と、息使いとを感じて、「これは美しい」と息をのむ光景に出会います。あなた方には、それは、単なる物体の上手な配合、配置にしか過ぎないと映るかも知れない。けれども、霊的な眼で見た場合は、そうではない、ということなのです。

この世において、地上において、素晴らしい景観なり、景色なり、或いは、美を醸(かも)し出しているものには、何らかの精神的なるものが、背後に存在していない場合は、ないと言ってよいのです。偶然ということは、あり得ないのです。

偶然の、物の集まりの中に、美が見出(みいだ)されるという確率は、何万分、何十万分、或いは、何億分の一でしかないのです。たまたま、こういう石があり、岩があり、山があり、木があって、それが美しく見える、という、偶然の確率というものは、その様なものなのです。何百万分の一なのです。

ところが、この地上には、至る所に、美しいと思われる情景があるのです。それは、もっと有(あ)り体(てい)に言えば、美を醸し出している何かがある、という事なのです。それを、あなた方は、何と捉(とら)えるでしょうか。

それを、例えば、昔話でいう様な、妖精達の力と言ってもいいかも知れません。昔、伝説や民話の中では、川には川の妖精たち、ニンフとか言いますね、妖精がいる。そういう西洋の絵を観たことがあるでしょう。

或いは、この日本の地では、日本の妖精、妖精でなくてもいいです、精霊でもいい、他のものでもいい、様々な霊達がいて、木には木の精があり、水には水の精があり、川には川の、池には池の精がある。或いは、大きな岩山には、岩山に祀(まつ)られている神が住んでおられる。

こういうふうに、様々な精というものがあるという事、これが言われて来ております。まさしく、その通りなのです。景観というもの、情景というものは、そこに集まっている様々な精霊達の力によって、生み出されているものなのです。

なぜ、五月の、なぜ三月の、そこの景色が美しく感じられるか。それは、そこにいる精霊達が、一つのハーモニーを奏(かな)でているからなのです。美を創り出そうと努力している方々が居るのです。それは、あなた方の眼に見えないだけです。あなた方は、結果として感じるのです。

けれども、田園風景なら田園風景の、そこを見て、なぜ美しく感じるかは、説明がつかないのです。ただ、それを美しく感じるのは、あなただけではないのです。他の方々も美しいと感じる。理由なき美しさを感じる。

その、美なら美という事に対して、先天的に、つまり、ア・プリオリに、人間は美というものを知っているのか。或いは、後天的に、生まれ落ちて後(のち)に、美とは何か、という事を教わって、それを美、美しいものと感じるのか、という事を追究した哲学者達もいます。カントも、その一人です。認識論の中で、そうした事を追究しました。

例えば、子供は、親達から「花が美しい」「花は美しいのですよ」と教わったから、美しく感じるのか。或いは、そうした事を教わる以前に、美しいという事、美とは何かという事を、知っているから、美しいと感じるのか。教わった、という事は、単なる契機に過ぎないのかどうか、という事です。

幼稚園では、先生達は、幼稚園児に、チューリップの花は美しい、と教えています。きれいな花だ、と教えています。赤いチューリップも、黄色いチューリップも、美しい、と教えています。子供達には、美しいという言葉は分からないかも知れません。けれども、言わんとしている趣旨は、間違いなく伝わっています。

はっきりと、私から結論を申し上げるなら、美しさを感じる、という事は、これは、知的な理解ではないのです。知的な理解ではないということは、後天的なものではない、ということです。後天的に美を感じるのではないのです。

人間は、先天的に、生まれ落ちる前より、美とは何か、という事を知っているのです。

では、その「美とは何か」という問いに答えるとするならば、それは、神の光の中に、やはり、美を司る一つの流れがある、という事なのです。つまり、その美というものを司る方々が、いらっしゃるのです。美の為の、精霊達がいらっしゃる。美の為の神が、いらっしゃるのです。

そうしたものは、あらゆる人間の心の中に流れているのです。あなた方は、人間は神の子だ、と教わりました。神は全知全能です。神は万物の全てを支配されている万能の神であります。そうであるならば、神のお心の中には、全てのものがある。全ての性質、一切合切が入っています。

その子供である人間であるならば、人間の心の中にも、神の姿の全てが入っているのです。その心の中に、美というものを感ずる、魂の(側)面があるのです。魂の切り口があるのです。その、魂の切り口が、美を司る神霊達、精霊達の呼吸を感じ取るのです。これが、美しいと感じる事の、本当の意味なのです。

ですから、本当は、物の配置を見て、色合いを見て、美しいと感じているのではないのです。美を醸(かも)し出そうとしている方々の、その心の動きを、人間は感じ取っているのです。だから、誰が見ても、美しいと思うのです。それは、知的に理解出来るものではないのです。

これは、今、風景ということで、私は話をしましたが、絵画においても同じなのです。

なぜ、ある絵が、名画と言われるのでしょうか。それは、偶然の色の配合でしょうか。それとも、単なるデザインでしょうか。単なる着想でしょうか。

絵というものは、真似をして、幾らでも描けるものです。似た様な絵を、描くことは出来る。しかし、名画と、そうでないものには、一線を画するものがあるのです。それは何か、というと、霊的なバイブレーションなのです。

一つの絵を、この地上に実現せん、とする為には、やはり、人間の力だけではなくて、様々な、霊達の力を借りているのです。美の創造者達がいるのです。彼らの力が加わっているのです。

ですから、彼らの、霊的な力が、一つのキャンバスの上に、一つの形、絵という形をとって、現れているのです。これは、ある場合には、天上界の景色かも知れません。ある場合は、天上界の思想の閃きかも知れません。そうしたものが描かれているのです。

ですから、観る人は、何となく名画というものを感じてしまう。なぜか知らないけれども、時代を経るうちに、これは、とてつもない傑作だ、という事になるのです。

単に、美しい、というだけで観れば、美しい絵は幾らでもある。ただ、人の心を揺り動かすものは、そう多くはないのです。それは、その絵を創るために、どれだけの霊的な作用が働いているか、という側面があるからです。

客観的には、物の上に描かれた、絵の具でしかありません。けれども、その中に、霊的なバイブレーションというものが、やはり存在しているのです。

あなた方は、今、神霊の言葉を書物に編集しています。それを活字に起こしています。活字となって、人々に読まれています。しかし、それは、活字であって、単なる活字ではないのです。

日本の国にも、昔から、言霊(ことだま)といことが言われていた様に、言葉には力があります。例えば、あなた方が作った、高級霊の書物の活字を読む時と、そうでない、悪霊の惑わしを受けている方々の活字を、書物で読む場合と、活字としては同じ様に見えても、その活字の間にあるバイブレーションが違うのです。全く違うのです。ですから、あなた方も、ある惑わしを受けている方々の書物を読むと、吐き気がするような事があると思います。

しかし、実際上は、活字というものは、鉛か何か、私は知りませんが、そうしたもので造られたものであり、それに、インクが付いたものであり、それが紙の上に印刷されたものであり、本来、何もない物のはずです。有害でも無害でもありません。何でもありません。無色そのものです。

ところが、それが、ある配合を取って、一つの思想を創り上げると、それが、ある時には、人間に、吐き気を起こさせ、ある時には、素晴らしい陶酔感を起こさせる、心を揺り動かす場合があるのです。ですから、活字の組み合わせによっても、そこに映された文字によっても、その様な違いが出て来るのです。

およそ、人間の精神力が感応して創り出した、この世的な物の中に、霊的なバイブレーションを持たない物というのはないのです。ラジオにしても、テレビにしても、或いは、襖(ふすま)にしても、机にしても、建物にしても、ありとあらゆる物には、それを、この世に生み出さんとした方々の、霊的なバイブレーション、それが、加わっているのです。

人間の眼には、同じく見えるでしょう。同じ机を作っている様に見えても、その作った人の、人生観なり哲学なりの霊的波動は、一つ一つの机の中に、こもっているのです。神の目から見ると違うのです。

これが、例えば、芸術家の創った、彫刻なり、そうした物でも同じなのです。或いは、芸術家のデザインした建物などでも同じです。何かは分からない霊的なものが、そこにある、ということです。そして、その水準、高きから低きに流れる、という、その水準は、確乎(かっこ)としてあるのです。

ですから、まず、あなた方に、或いは、あなたに、美とは何か、芸術とは何か、なぜ、私が、その様なものを創ったか、という事を説明する前提として、そこには、やはり、霊的な世界の顕現がある、という事実を、私は述べておきたかったのです。よろしいですか。ですから、芸術作品は、ある意味において、精霊たちの合作なのです。

あなたは、まず、私が、《○○の時代》というのを経験した、とおっしゃいました。その通りです。それは、まだ、あなた方の知識にはないけれども、美の天使達の中にも、幾つかの役割の分担があるのです。

例えば、色があるでしょう。十二色というのがあります。或いは、二十四色と言ってもいいかも知れない。赤、青、黄、緑、様々な色がありますね。実は、こういった色を司る天使達がいるのです。

これは、あなた方が言っている、天上界の霊界の光線、という意味ではなくて、例えば、色彩、或いは、美ということを司る天使群の中で、それぞれの色を司る方々がいらっしゃる、ということなのです。

黄色い色を司ったり、白い色、青い色、だいだい色、緑色、若葉緑色、そうした色んな色をですよ、司る天使がいるのです。芸術的な意味においてです。「色の天使」がいるのです。

或いは、「音の天使」というのがいるのです。私は、音楽については、詳しくは知りませんが、様々な和音があったり、ハーモニーがあったり、色んな音階があったりするわけです。或いは、陽性の音楽があったり、陰性の音楽があったり、テンポの速い音楽があったり、テンポの遅い音楽があったりします。

こうした音楽というものも、やはり、音楽に関する天使がいて、役割分担をしているのです。他のものでも同じです。ですから、色には色の役割分担をしている天使達が、確かにいるのです。

あなたは、《○○の時代》ということを言われましたが、○○の時代というものは、その色の天使の中の○○という名の色の天使が、私に、非常に強く働きかけた時期なのです。○○色というものを、世の中に放射しようとしているのです。
例えば、あなた方の世界には、ファッションの流行ということがあると思います。女性の服装でも、今年は黄色が流行るとか、今年は、橙色が流行るとか、今年はピンクが流行り、今年は紫が流行り、黒が流行り、こうしたことがありますね。なぜ、そういうものが流行るかは、あなた方には分からない。なぜ白が流行ったり、黒が流行ったりするのかは、分からないと思います。

けれども、その背後には、私達の世界での動きがあるのです。様々な、色彩の天使たちがいて「今年は私の年です」ということで、働きかけているのです。そうすると、その色が流行っていくのです。

色彩の天使だけではありません。やはり、模様とかですね、そうしたものを担当している天使もいるのです。こうした模様を、今年は流行らせる。そういう役割分担があるのです。そして、色んな事を考えて、この世に様々な色彩感覚、あるいは美の感覚というものを、投影しているのです。それが、私たちの世界です。ですから、○○の時代には、○○の天使の光を受けて私はやっていた、ということなのです。

その後に、《○○○イズム》ということを、あなたはおっしゃいました。まあ、○○主義と言いますか、そういったことですね。それが、あなたには、非常に不思議に見える、ということです。一般の方々にも、不思議に見えます。ちょっと見た目には、子供の絵のようです。それに、ちょっと見た目には、美しさは感じません。けれども、人々は、なぜか、そこから心魅かれるものを感じるのです。

それは、なぜか、ということです。当然の事ですが、あなた方には、眼が二つしかありません。この二つの眼では、一方向からしか物体が見えません。例えば、ここに瓶(ビン)なら瓶というものがあると、これを、あなた方は、一方向からしか観ることが出来ません。しかし、私達の、本当の霊的な眼で観ると、これは、一方向だけではなくて、様々な角度から観ることが出来るのです。ですから、私の中で、物を観る眼が、もし分裂していれば、それが○○イズムになってくるのです。

いいですか、則ち、私は、肉体的な眼と、霊的な眼、という両方の眼を持っていた、ということなのです。

ですから、肉体としての私は、この瓶を、こちらから観ていた、としても、霊的な私としては、こちらから観ることも、そちらから観ることも出来るのです。

芸術家も、極限にまで走れば、己(おの)れの魂を飛ばす所まで行ってしまうのです。

霊的な眼というものは、物体の裏側まで観てしまうのです。斜めからでも、上からでも、下からでも観てしまうのです。見えるのです。こういう眼、いわゆる複眼ですね、複眼のような眼になってしまうのです。

ある意味においては、天眼通(てんがんつう)といいますか、そういうものでもありましょうし、ある意味においては、何と申しますか、テレポーテーションの様なものでもあります。別な世界から、観ることが出来るのです。

ですから、今は、例えば、観る角度が違う、という事で、私は申し上げましたが、もう一つ、別な眼から観ると、この表面の姿、例えば○○○○としての、あなたのシルエットがあるわけですけれども、この表面の姿のあなたと、あなたの内面を観る、内面ですね、心の内側を観る眼、別な眼があるのです。

これで観ると、あなたというのは、ダブって見えるのです。通常の人が観て、見える、あなたの姿と、あなたの霊的な姿とが、ダブって見えるのです。さらに霊眼(れいがん)の進んだ人ならば、あなたの過去世の姿までが、ダブって見えてくるのです。

ですから、例えば、今、柱というものを取り上げてみますと、その柱なら柱といっても、単に柱だけではなくて、柱を在(あ)らしめている他の力もあり得る、ということなのです。

人間の顔は、一つではないのです。人間の顔は、幾通りものものが現れて来ているのです。

一つには、物理的に、物質的に顔を作っているものがあります。けれども、この顔を、このような顔として現しめる力というものが、その顔の中には入っているのです。心の豊かな人は、やはり豊かな顔になっていきます。慈愛に満ちた人は、その様な顔になっていきます。陰険な人は、やはり陰険な顔つきになっていきます。そういうふうに、魂の輝きがあり、それに対して、外面というのがあります。

それ以外に、過去世を観る眼があります。ですから、霊的な眼で観ると、その中に、色んな事が入っているのが分かるわけです。

私の絵の中では、様々な人物が描かれています。その人物が、真っ二つに割れているような所もあるはずです。その真っ二つに割れている所は、片方は表から見た人物です。残り片方は、霊的に、その人を観たら、こうなる、という事でもあるのです。魂の断面を、私は描いているのです。大方の人は、そこまでは気がつきません。

ただ、私が言いたかったことは、《○○○イズム》を通して言いたかった事は、この世の物は、この世的に見えるだけの物ではない、という事です。物の観方(みかた)というものは、様々な観方が出来る、という事です。ここに在(あ)りて、在り得ない物までもが、見えて来るということです。

また、形体の美、だけが美ではない、ということです。外面に美しく見えるものだけが美ではない、ということです。それを在らしめているものは何か、という事も、追究する必要がある、ということです。

あなた方は、私も知っておりますけれども、(霊界の)宗教家達から教えを受けておられるでしょう。「一念三千(いちねんさんぜん)」という事も教わった、と、聞いております。それは、相手の心の世界に応じて相手が変わる様に、あなた方の心の世界において、あなた方が観る世界も、また変わる、ということです。

あなた方の心が輝いていれば、世界は素晴らしいものに見えるでしょう。あなた方の心が曇っていれば、世界も曇ったものに見えるでしょう。あなた方が、今日、釣りをしたい、と思っているならば、雨が降ったら、悪い天気でありましょう。ところが、自然を愛し、山を愛し、草木(そうもく)を愛する人であるならば、この雨は慈雨(じう)だな、と、慈(いつく)しみの雨だなと、感じる方もいらっしゃいます。

この世の中の景色、この世の中の情景は、全て、その人の心の展開でもあります。これを「一念三千」という言葉で言われた方がいます。同じです。

絵画というものも、同じです。写実主義といって、写真と同じ様に事物を写す、という事に、美を感ずる人もいるでしょう。けれども、そうではないのです。向こうの、相手の内面も、さることながら、それは、自分自身の心を投影している世界でもあるのです。

ですから、私の「○○○イズムの世界」は、別な意味でいうと「一念三千の世界」なんです。私の心の眼で観た世界を描いているんです。私が地獄の心で観れば、地獄の絵が出て来るでしょう。私が天国の心で観れば、天国の絵が出て来るでしょう。その様な、様々な、一念三千の心を、絵というものを通して表せばどうなるか、というのが、私の試みであったわけです。

ですから、私が描いているのは、写実ではないのです。あれは、心の世界を描いているのです。観る人によって、どの様にでも見える絵なのです。全くつまらない絵に見えることもあります。素晴らしい絵に見えることもあります。「あなたは、どう見えますか」と、私は問うているのです。

その絵の中に、心の秘密を解きほぐしてあるのです。観る人の心に応じて、見えるようになっているのです。私の絵が、まったく取るに足らない様に見える人もいるでしょう。素晴らしく見える人もいるでしょう。感動する人もあれば、駄作だと思う人もいるでしょう。

あなた方、絵を観る人々の、心を試しているのです。私だけの心境になれば、私と同じ所まで、この美が分かる。しかし、それが同じ心境に達していない人には分からない。さて、これをどう見るか、あなた方を試験しましょう。これが、私の絵です。

写実的な絵というのは、誰が観ても、美しいものは美しい。美しくないものは美しくないのです。しかし、それだけでは、面白くないでしょう。絵というものの中に、立体的な広がりが欲しい。

絵というものは、二次元です。いいですか。絵というものは、この世的な物を、全て二次元に表す。これだけでは、もの足りない。

霊的な世界というのは、四次元以降の世界を、この三次元に投影しているのですね。そして、この三次元を投影するのに二次元を使っているわけです。

いいですか、一つの次元を変化、変転させて、一次元下げて、表現しているのです。

三次元は、三次元のままでもいいのではないか。三次元の絵を描(か)いてみようではないか。こうした心構えがあっても、おかしくはないと思うのです。つまり、二次元を脱皮しようという試みですね。

ある意味では、私の絵は(画家が、観て指している絵は、彼によって描かれたもののひとつ)よく観てごらんなさい、三次元の絵でも、なくなっています。もう、これは四次元、五次元の絵を描いているはずです。よく観てごらんなさい。三次元ではない世界です。それが出て来ているはずです。それは、四次元、五次元の世界なのです。四次元、五次元霊体としての私の眼が観て、描いている世界なのです。

その世界でもそうです。その、あなたが観ている絵でもそうです。(六〇年代に最も多く描かれたテーマで、画家が、描く自分自身を直接テーマにし始め、画家だけが色濃くあらわれている作品)それは、三次元の絵では決してありません。霊的な世界なのです。そこにあるのは――。

いいですか、この三次元に、例えば、今、○○○○という人間がいます。で、人間としての眼で観ると、あなたという人が、そこに座っており、この部屋がありますが、これを、多次元を観る人の眼から観れば、この同じ三次元にですよ、同時に、様々な物が、同居しているのです。それを表せば、どうなるかです。

霊界と現象界との同居です。人間が、普通に住んでいると思う所が、とんでもない世界である事があるのです。鏡の中の部屋の様であったり、異次元への迷路であったり、そういう事があるのです。

ですから、私は、絵を通じて、三次元から四次元、五次元、そういった世界をも、表そうとしているのです。

それと、もう一つは、あなたが、今、絵を観ていますけれども、色の持つ意味は何か、という事について、考えてみたいのです。

これはね、やはり学問と同じなんです。一つの学問、数学なら数学で、それを勉強した方には、やさしい算数というのは、取るに足らないものになります。けれども、算数をやり始めたばかりの人にとっては、算数は、やはり難しいでしょう。

絵も同じなのです。色彩というものを、とことん、一生かかって突き詰めた人にとっては、赤という色、例えば、黄色という色は、我が子の様にかわいいのです。もう、自由自在ですし、その色の、特徴、個性を、もう、つかまえているんです。

黄色という色は、こういう所に使えば、こういうふうに働いてくれるけど、こういう所に使ったら、失敗してしまう(適材適所と一緒)なのです。もう人格を持っているのです。黄色という色、或いは、赤という色、青という色が、人格を持っているのです。私から見るならば、子供みたいなものです。「ここに黄色を使ってやりたいな」と思うのです。まるで、子供をかわいがっているのと一緒です。色彩というものも、最後には、そこまでいくのです。

なぜ、あなたは、その「○○女」の顔を観ていて、顔の左半分が黄色いのか、わかりかねると思います。ただ、黄色という色の個性を、知り尽くすと、どうしても使ってやりたくなるのです。むしろ、私が使っているのではないのです。黄色の方が、使って欲しいと、私に語りかけて来るのです。

絵というものは、そうした、図面を描(か)いて、人間は、ここに何色を塗ろう、赤を塗ろう、黄色を塗ろう、緑を塗ろうと思うのではないのです。本当に突き詰めていくと、黄色の色が動き出して、絵の具が動き出すのです。そして、ここに黄色を塗りたくなるのです。ここに青を塗りたくなるのです。赤を塗りたくなるのです。

それは、色というものは、単に、あなた方が科学的に見れば、何ミクロンかの波長の光の反射かも知れないけれども、その光の反射を司(つかさど)っている色を持つ、個性ある天使がいるのです。

ですから、この絵筆を持っている時に、ですよ、黄色の天使が、黄色を司る天使が働きかけてくるのです。絵の具が、まるで動き出すように、私には見えます。顔の色を黄色に塗りたいと言うのです。そういうふうに、働いて来るのです。

昔、ある彫刻家が言ったことがあります。これは、日本の彫刻家です。「木の中に、仏像の姿が見える」という、そういう事を言った方がいらっしゃいます。偉大な彫刻家です。運慶(うんけい)とか、快慶(かいけい)とか、様々な像を彫った方です。

この方は、柱の中に仁王様が見えたり、木の中に仁王様の顔が見えるのですね。ですから、鑿(のみ)を使っていても、その姿を、単に、木の中にあるのを、ですね、掬(すく)い出している、だけなんだと。木の中に眠っている仁王様を出しているだけなんだと。自分が彫り出しているのではないのだと。その木の中に、仁王様が眠っている、それを出してあげているだけだと、そういうものの観方をしました。

同じなのです。生きているのです。素材は生きているのです。黄色い色が動いていくのです。瞼(まぶた)をつぶれば、赤い色が動いていくのです。そうして、絵は出来ていくのです。

というのは、一つの画面に映った絵ですが、本当は、この絵の理念と言いますか、インスピレーションと言いますか、構想というものが、また、別の世界にある、という事なんです。それが、この地上に出たいというふうに強く希(ねが)っているのです。出たくて出たくて、しょうがないのです。

それが、私達のような、いわゆる通路ですね、パイプを通じて生まれて来るのです。ちょうど、あなた方という通路を通じて、霊界の思想が伝わっているように、私達、芸術家を通じて、霊界にある、色彩なり、模様なり、構想なり、そうしたものが、この地上に生まれて来るのです。

全て、そうなんです。詩だって、そうです。詩を書く人は、たくさんいます。この詩も、結局は、霊界にある詩なのです。それを、詩人という通路を通じて、この世に送り出しているのです。ただ、その通路といいますか、パイプの出来具合によって、本当にいい着想の詩が、駄作に終わってしまう事もあります。その出方は色々です。けれども、やはり、天上界に在るのです。

小説などでも同じです。その素晴らしい小説の構想は、霊界で、本当にあった事件であることが多いのです。そうしたものは、作者の、守護・指導霊たちを通じて、小説家の頭に閃(ひらめ)いていくのです。

小説家は、よく言います。あたかも、何者かが書いているように、ペンが運ぶ、動いていくと。何も考えていなかったのに、どんどん出来ていくと。そういうことがあります。「筆が乗ってくる」ということです。

これは、彼らが書いている、のではないのです。霊界に在る物語が、その作者を縁として動き出しているのです。物語の方が、もう出来ているのです。あるのです。様々な悲劇や喜劇、様々な人生模様についての物語が、もう、過去何千年、何万年の人類の歴史の中にあるのです。様々な物語の形があるのです。それが、この地上に出たがっているのです。

ですから、そういうパイプ役としての優れた人を通すと、例えば、夏目漱石のような人を通すと、次々と物語が出て来るのです。それは、あの人が考えて創っている事ではないのです。

私は、先ほど、四次元以降の世界をも、キャンバスの上に表す、という事を言いました。突き詰めていくならば、絵の中に思想があってもいいのです。よいですか、大抵の画家は、とにかく、器用に写すこと、ばかりを考えています。

けれども、本当に、ですよ、行き着く所まで行ったなら、小説家が、原稿用紙の中に思想を織り込もうとするのと同じように、キャンバスの中に、思想を織り込もうとするものです。

もちろん、私の全人格的な思想も入って来ています。小説は、読めば読む人によって、分かってしまうものでしょう。しかし、絵は、必ずしも、その思想性が分かるとは限りません。どちらかと言うと、絵は感性に訴えかけることが多いからです。けれども、分かる人には分かります。思想的な絵も、もちろんあります。

私の絵は、宗教画とは違っていますけれども、かつての、宗教画を描いた方々に、お話を伺えば、もっとはっきりしています。

なぜ、彼らが宗教画を描いたか。ダ・ビンチにしてもそうですし、ミケランジェロにしてもそうです。ラファエルロにしてもそうです。彼らは宗教画を描いています。

その時は、あなた方の様に言葉で神の世界を説いても、分からない人達が多かった、という事なのです。書物を作って、それを広めるには、少し時代が、まだ無理だった、ということです。そういう時代にはね、絵を観て感じとる方が早いのです。絵は色んな方が観ることが出来ます。観ても減らないのです、絵はね。印刷するとなると大変な事になりますが、絵は、観ても減らないのです。大きな広場に掛けたら、色んな人が観ることが出来ます。

ですから、あなた方にしても、ですよ、時代が違えば、もしかしたら、絵描きさんになっていた、かも知れないのです。宗教画などによって、キリストの奇跡を表したり、マリヤの優しさを表したり、神の栄光を表したり、そういう事が出来るわけです。やはり、絵の中には、本当は、思想も何もかもあるのです。

(私が平和運動をやった、とか、いうことに関してですが)ま、人間、九十年以上生きるとね、色んな事をやってみるものです。それは、あなただってそうでしょう。退屈してしまって、一つの事ばかり、やっているわけには行かないはずです。

ただね、私は思いますに、(私は)絵に関しては一代を画(かく)したけれども、ただ、私のね、人格、人間として到達し得たものを、必ずしも、全ての人に残すことが出来たわけではないと思うのです。ただ、絵はね、普遍的な構築物、永遠への道の一つ、であることは確かなのです。

生きた人間が、ですよ、色んな事を語ったとしても、大抵は残らないのです。けれども、絵はね、名画と呼ばれるものならば、少なくとも数百年は残っていきます。そういう意味で、あなた方の神理も、何千年も残す、という事ですけれども、絵という形で残すという事も、あり得るのです。

神には、色んな光がありますが、それを一つの言葉で言って、「真・善・美」と言った方もいらっしゃいます。あなた方は「真・善・美」のうちの、どちらかと言うなら、「真」について、今、語ろうとしているのでしょう。また「美」というものも、あるということです。それも、また、永遠に残していかねば、ならないものです。

しかし、「真」の中には、もちろん「真」だけではなくて、「善」もあれば「美」もあるのです。「善」の中には、「真」も「美」もあるのです。同じ様に、「美」の中にもね、「真」も「善」もあるのです。

ですから、社会風刺は、「美」の中にある「善」の部分であろうし、また、宗教家達はね、宗教家達が描いた、宗教画家達が描いた宗教的な絵は、「美」の中にある「真」でありましょう。神の姿、神の御(み)心、神の配慮というものを描いたのです。

また、古代の、預言者達の絵を描いた方々も多かったですけれども、彼らのうちの、少なからぬ人達は、古代の事件を、霊視して描いている人達もいるのです、霊的にね。そのインスピレーションを、本人は知ってか知らずか、構図を作って、その人物像を描いていますが、その時の、本当の、その人の姿にそっくりなのです。それは、ある意味での霊的能力です。

或いは、過去世に、自分が宗教家として(地上に)出た時に、イエス様の顔を観ていた方が、また、イエス様の絵を描いている場合もあるのです。過去世の経験を、使っている場合もあるのです。

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