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バベルの塔の真相とバール神、親鸞のメッセージ、1986年

2020年05月31日 | 宗教
これは、先日の、親鸞のメッセージの続きです。イエスや、バベルの塔、バール神などの中東の故事が、現代文明と絡めて語られ、親鸞の意外な過去生が語られ、示唆に富んだ内容になっています。

(ここから)

現代では「南無阿弥陀仏」を称えて救われるとは、誰も思わないでしょう。「阿弥陀仏」という方が、どういう人か、分からないでしょう。

しかしね、私は思うのです。今のあなた方は、昔に比べて進歩をしているように思っているかもしれません。

けれども、鎌倉の時代には、少なくとも「南無阿弥陀仏」と称えられたら(救われる)、という素朴な宗教心を持った人々が居たということです。今の世の中で、神仏の力、神仏の加護というものを信じている人は、どれだけ居ますか。

世は、もっと哀れな状態になっているのです。

こうした時に、本当の意味での神仏の加護を、神仏の力というものを、知る、きっかけとは何でしょう。

あなたは、既に想像が働いて来たはずです。

災害が起こり、天変地異が起こり、人知を越えた異常が起きた時になって、初めて、人間は「これは、私たちの努力では、私たちの知識では、私たちの力では、どうにも救われない」と思い始めます。

しかし、成功繁栄をしている時には、そうは考えないのです。

これから(1986年以後)、そういう時代が来ます。今後十年、二十年のうちに、世界的な大混乱が起きて来ます。様々な不幸や災害が起きるでしょう。不幸や災害は、それ自体としては悪いことです。ただ、その中で、人々は神仏の力を信じることを始めるでしょう。

現代の人々は、ある意味で「バベルの塔」を築こうとしているのです。

人間が、自らの力を過信して神に近付くと、どうなるか。神が、雲の上に居たとしたら、バベルの塔を築いて、もう神様と対等になった、と(思い上がります)。

「よし、神様と対等に話をしよう」と思っていると、一夜にして、雷が落ちて、バベルの塔は崩れて行ったのです。そして、人々は、お互いに異なった言葉を話し始めて、互いの意志疎通が出来なくなって行ったのです。これがバベルの塔の話です。 

これは、旧約聖書にある話ですが、同じです。現代にも、また、人々は、バベルの塔を築こうとしています。

現代のバベルの塔とは、何か。則ち、この世の中に不思議など何もないのだ、全て科学で解明出来るのだ、という思い、これが、現代のバベルの塔なのです。

例えば、子供というのは簡単だ、と。精子と卵子を試験管の中で交配すれば子供が出来るのだ。神秘でも何でもない。生まれて来る前に男女の区別は既につく。産み分けも出来る。神様を信じる時代ではなくなった。神様、男の子を下さい、女の子を下さい、と祈る時代ではない。遺伝子の組替えで色んな生物が出来るようになったのだ、と。

一方では、心霊現象など全く否定して、そんなものはない、科学の領野の外にあるものは、何もないのだ、と言う人もいるでしょう。

四次元以上の世界、といっても、そんなものは分からない。それは物理学だけが解明出来るのだ。そう思っている人もいるでしょう。こういう人々は、日々に、バベルの塔を築いているのです。魂の本質を知らず、霊を知らず、あの世のことも知らないで、自分らこそを最高だと思っているのです。

原始人たちは(無知なるがゆえに)素朴なシャーマニズムを信じる、だから(その頃には)霊魂信仰があった、と、これを嘲笑っているのです。しかし、現代人たちは、ある意味で、南方未開の住民にも劣るのです。

これも、また、善人と悪人で(置き換えて、例え)話が出来ます。則ち、現代人、文明人は善人、南方住民は悪人だ、と、そう捉えることも出来るでしょう。

南方住民たちは救われない、と(いまの人々は)思っているのかも知れません。しかし、物質文明に恵まれている人だけが救われるのでしょうか。幸せなのでしょうか。

素朴なアフリカの原住民もおります。彼らは信仰を持っています。死後の世界があることを知っています。はっきりと知っているのです。つまり、現代のバベルの塔を築いている人は、それにも劣るのです。

大学で、五年十年と学問をやって、教授とかいうものをやっている人が、霊魂も知らないのです。「あの世など、あるはずがない」と言っている。インテリと称する人たちは、素朴な原住民にも敵わないような、そういう、みじめな精神生活をしているのです。

これもまた、親鸞が(言う)「善人」「悪人 」です。

自らを善人だと思っている、あるいは、自らを知識人だと思っている人が、自分たちより無知だと見下し、同じ人間だと思えない、彼らが類人猿に近いと思っているような人よりも、真実は、劣っているのです。素朴な彼らが、天国へ行って、「大知識」だと自らを思っているような人が、地獄で苦しんでいるのです。

私は、日本を代表するような学者が、数多く地獄にいるのを知っています。彼らは、唯物思想に染まって、生きている時には「霊なんてないのだ。神仏など、あり得ない。科学が万能だ。技術こそが万能だ。全ては、人間の脳味噌で考えるのだ。脳細胞が考えるのだ」と、そんなことを信じていた。そして、そうしたことを多くの人に教えて来ました。

科学者で、唯物思想を、一生懸命に学生に教え込んでいる人たち、こういう人たちは、ある意味で、かつての宗教家が、邪宗を説いたのと同じなのです。

則ち、間違った説教で、人々の魂を腐らしているのです。そういう意味で、間違った宗教家が地獄に堕ちているのと、間違った唯物思想で人々を教導している人たちが地獄に行くのとは、同じです。行く先は、同じく無間地獄です。

霊的なものを知らない、神仏を知らないのは最大の罪なのだ、という事が、分かっていない。神仏を知らない人が、人を裁いている。最大の悪人が、ちっちゃな悪人を裁いているのです。

「悪人正機説」は、ここにも、また、あるのです。

未開だと思う人の方が救われて、文明人だと思う人が救われていないのです。その素朴さを嘲笑う人たちこそが、悟りに一番遠く、神仏に一番遠いのです。

やがて、現代人が造った「バベルの塔」は、滅びて行くでしょう。現代文明の粋を集めたものが崩壊していくでしょう。

皆さんは、親鸞が、今だに、日本の仏教の枠の中にあると思いきや。

(いかんせん)私は、現代のことを知っているのです。

過日は、ソ連で、原子力発電所が事故を起しました(1986年当時、チェルノブイリ?)。これを(あなたたちは)偶然だと思っているのでしょうか。これも、また「バベルの塔」が滅びていく前兆なのです。

現代の科学の粋を集めている原子力発電の威信、これが一挙に崩れて行きました。

あるいは、アメリカで打ち上げた宇宙船が、一瞬の後に、パラパラとなって天空で飛散してしまいました(チャレンジャー号?)。これとて、前兆なのです。これから起きる、大きな事件の前兆なのです。

人々は、まず、それに気付かなくてはいけません。

そうした大きな不幸が起きる前に、過去にも、様々な前兆があったのです。現代人たちは、その警鐘に気が付かねばなりません。自らが過信しているものが、どれだけ脆弱な基盤に立っているのかという事を、知らねばならない時が来ているのです。

かつて、バベルの塔の時に、異端の信仰がありました。これは唯物的な神でありました。この時の神は「バールの神」という名の神でした。邪神です。

このバールの神を、人々は信じました。バールの神を拝めば、何でもかんでも手に入る、と。こういう信仰が、昔、あったのです。唯物信仰です 。形を換えた唯物信仰が、バールなのです。バールの神であったわけです。

真実の神は、バールの神を、雷でもって退治をされました。

現代も、また、バールの神が出ているのです。唯物主義という、科学万能という名のバールの神です。

これが、一つの異端の信仰である事を、人々は気が付いていないのです。

教科書に、唯物論を採って、進化論を採って、霊魂などは昔の人の笑い話だ、と書いているような人は、やがて、自分が、どのような運命を辿るかということに、気付かねばならないと思います。

現代でも、自分が優れた善人だと思っている人こそ、神に遠いということを忘れてはなりません。

親鸞が始めたとされる、僧侶の「肉食妻帯」についてですが、この「肉食妻帯」に関しては、様々な議論がありました。

こちらの世界(霊天上界)においても、また、議論が多かったのです。

私も、こちらに還って来てから、様々な宗教家たちから、随分と、つめよられました。「親鸞よ、お前がために日本の仏法は滅びた」と。私は、随分、たくさんの方から言われました。

私の時代以降、人間は、ほしいままにしても、仏の御内に仕えることが出来るのだ、という、そういう考えを持つ人が、宗派を越えて増えて来ました。肉食妻帯しているのは、決して真宗だけではございません。親鸞以降、他の宗派の方々も、そうなったのです。

そういうことで、他宗を興した方々からは、私は、ずいぶん批判を受けました。

「お前の教えを信ずる者だけが肉食妻帯するのは結構である。けれども、我らが教えを信ずる者までが、お前の真似をし、肉食妻帯をしておるではないか。そのおかげで、我らの教えが、段々と衰えて来たではないか」と、こうしたことを、私は、随分こちらで言われました。確かに、当たっていることも、たくさんございますでしょう。

親鸞は、自らが重病人であり、重罪人でしたから、自らが、どうすれば救われるのかを一生懸命考えており、また、自らの罪の中を生きておりました。(地上の)世においては、要するに、私は失敗者であったわけです。大失敗者であった。

ですから、私は、大失敗者の道を説いたのです。大失敗者にも、逆転をする道、逆境を跳ね返す道がある、ということを説いたのが、私の教えでした。

それを、間違えて、世に成功すべき人たちが、失敗者の真似をし始めたら、これは世の中、困ってしまいます。こういう事を、随分言われました。

私は失敗者です。私は(自分を)成功者だとは思っていません。失敗者である私が、神仏に近付く道を説いたのです。それを、成功しようとしている人が間違えてしまっているわけです。

私は肉食をしました。妻帯をしました。ですから、私は、人一倍、罪深い人間だと思って、神仏への、「阿弥陀」への信仰を、いっそう深めたのです。これが、私にとって一つの契機でした。

しかし、単に、肉食をし妻帯をしただけで終わっていたならば、私は、どっちへ行っているか分かりません。私は、それを契機として、神仏の信仰を深めたのです。

世の中に現われた様々なこと、様々な現象、様々な事件があります。ただ、それを、どう咀嚼し、どう自分の血肉にして、良き方向へ伸ばして行くかです。修行者が、単に、肉欲に耽り、食道楽に耽って行くだけであれば、これらの者が行くのは、地獄そのものです。

親鸞は、堕落せよと言っているのではないのです。たとえ堕落した自分であっても、神仏を信じて立ち直りなさい、と教えているのです。堕落せよ、とは言っていません。堕落を奨めているのではありません。

(自分から堕落していく人、)そういう方々は、自ら救いにくい急流に身を投じて「では、救ってみろ」と言っている人と同じです。これは、何かと言うと、結局は、神仏を試しているのと同じです。悪魔の声と同じです。

悪魔が、イエス·キリストの前に現われて「汝、もし神の子ならば、命じて、これらの石をパンとならしめよ」「汝、もし神の子ならば、聖書にあるように、この丘の頂より飛び下りるとも死すことあるまじき」このようなことを、悪魔は、イエスに囁きました。

イエスは、この時に言いました。

「汝の主なる神を試すなかれと、また聖書には書いてある」

と、イエスは、そう答えたはずです。

同じです。悪人だからといって悪を犯す人、堕落しても救われる道があるからといって自ら堕落の道を選ぶ人、こうした人々は「石をパンに変えよ」と言った悪魔と同じです。また「神を試すなかれ」という訓えも、忘れてはなりません。

ですから、今、宗教家の中で堕落している者が居たならば、親鸞が教えを、間違って理解して、堕落の奨めのように思っているかどうかを反省して頂きたい。

堕落、則ち、成仏、と、私は言っているのではないのです。それはまた、神仏を試している、ということになってしまいます。そのような騙しに乗ってはいけない。

神仏は、石をパンに変える力を持っているかーー持っております。それだけの力は持っております。

ならば、神仏は全ての石をパンにするかーーこれは、しません。神仏は、必要のないことはしないからです。

また、人間心で、試してはいけないのです。それも、また「バベルの塔」です。神を侵さんとする考えです。

一般的なことを申しましょう。肉食をすれば、地獄に堕ちるわけではありません。妻帯をしたとて、地獄に堕ちるわけではありません。それは確かなことです。

ただ、欲を、どう捉えるかということです。

釈迦の時代にも、肉食は、なるべく避けました。また、妻帯が、やはり妨げになるということは、釈迦も知っておりました。しかし、釈迦がやったことを、そのまま真似てはいけないのです。

そこには、やむを得ずしたこと、と、好んでしたこと、との違いがあるのです。

釈迦たちが肉食をしなかった理由は、肉食をしていると煩悩がつのるからです。肉食をすると、煩悩の働きが強くなる。しかし、なるべくこれを遠ざけて、菜食にしたなら、体の活動が、そう活発にならずに、瞑想に適した生活が送れる。

このような、一つの知恵として、肉食を断ったのです。

ですから、肉食をすれば地獄に堕ちる、とか、肉食をすれば悟れない、とかいうことではないのです。それは一つの方法論であったわけです。

肉食をしても、悟れる人は、いくらでもいるのです。肉食をしても結構です。それだけ厳しい修行をすれば、よろしいのです。

また、妻帯にしても同じです。夫婦相和して、信仰心があって、同じ神の道を求めるならば、妻帯することは、一層、信仰を強めることになります。

今の世の中を見ていても、夫婦共に同じ信仰を持って道に励んでいる人たちは、私たちの眼から見ていても、これは微笑ましいものです。夫婦相和して神社で掌を合わしている姿、夫婦相和して、一つの宗教を信じて一緒に努力している姿、夫婦相和して、土曜日、日曜日に、様々な人を導いている姿。こういう姿を見ていると、私たちは、非常に微笑ましく思います。

雄の鳩と、雌の鳩が、一緒に空を翔んだ方が美しく見えます。神様、仏様は、決して、そういうことを否定はしていないのです。

ただ、これは、一般的な手段であり、警告でもあったのです。

肉を食べると煩悩がつのるので、なるべく避けた方がよいであろう、ということなのです。あるいは、妻を持つと、なかなか修行がしにくいから、なるべく持たない方がいいだろうということです。

修行の中には「瞑想」があります。あるいは、一人だけで「坐禅」に耽ることもありましょう。

神と対話するには、やはり、一人になる必要があります。ところが、家庭を持つと、どうしても、世俗の中に紛れる機会がある。しかも、理解のない人を妻とすると、それはまた、その道の非常な妨げとなります。しかし、理解をする人が妻であるならば、それは結構です。

妻帯の、もう一つの問題点は、経済的な問題です。

男は、いつの時代でも、やはり経済的な柱になるように期待をされております。その時に、経済的な柱になる人が、神仏の道に走ると、神仏の道には、なかなか金銭的余裕というものがありませんから、その部分が難しくなる。結局、家庭不和になり、両方共がどっち付かずになることが多い、ということもあるからです。

神仏の道を求めても、金銭的、経済的に苦労されない方は、恵まれた方ですが、実際上は難しい。このように、一般的に、理解のない人が多く、理解のない妻が多いであろうということです。

あるいは、夫がそれに走ると、経済生活がうまく行かないであろう、ということです。こういうことを考えて、まあ、妻帯をしない方が、悟りはしやすいし、修行はしやすい、自由に働ける、と、こういうことがあったわけです。ただこれも、協力をし合っていけば、さらに素晴らしいものが出来ることは当然です。肉食と同様です。

逆に、今の時代に、菜食ばかりしていたら、全国各地を巡錫して廻るのは難しい位です。エネルギーがいるのです。豆腐と胡麻の油ばっかりを食べていたのでは、人間は活力が出て来ません。それは、あくまでも現象なのですから、それに囚われてはいけないのです。その方が、時には悟りやすかった、ということに過ぎません。

現実にも、僧侶で、悪妻を貰って堕落した人はいます。あるいは、食べたい物を一杯食べて、全然努力をしない人もいます。

けれどもね、そういうことは、別に、仏教の世界、仏の世界でなくても、普通の所にもあるはずです。普通の事務所でも、事業家でも、他の道を行く人でも、そうです。桔婚したために苦しいのは、音楽家だってそうです。音楽家とか画家とか、こういう道を求めている人たちは、結婚することによって、様々な問題が出て来ます。しかし、それは何でも同じです。

学問をする人、学者でもそうですね。独身時代には貧乏であっても、本だけ買っていればよかった。ところが、結婚したばっかりに、様々な費用がいるようになって、そのため、本が十分に買えなくなる。だから、独身でいた方がいい、と。こう考える学者もいます。まあ、そうしたものです。

ただ、これは、あまり一般的なことではありません。ですから、現代の人々に言うならば、まあ、こういう時代ですから、結婚した方がいいと私は思います。しかし、そうしなくても行ける方ならば、神仏の道一筋で行った方がいい。

とはいえ、現実には誘惑も多い。実際、男と女が、三十にも四十にもなって、いつまでも独身でいれば、誘惑も多いし、逆に、それが堕落の契機になるでしょう。また、世間の色んな声が聞こえて来て、修行の妨げになることもあるでしょう。ですから、好ましい方法は、同じ道を求める者同士が結婚して一緒に生活するということです。

そのためには、あなた方が、しっかり努力することが大切です。

「信仰を持つということは、普通の人間がすることなんですよ」

「まっとうな人間が、神や仏を信じていいのですよ」

ということを、あなた方が、しっかり言うべきなのです。

神仏の道を信ずるのは、特殊な人間ばかり、のような印象を与えているから、苦しいのです。

これは、普通人、誰でも、当たり前の事なのです。

そういうことを、あなた方がしっかりと説いて頂きたい。そうすれば、同じ道に入って行く人々が多くなるでしょう。

こういう、宗教というものを、神や仏のことを悟るのが常識だ、とする様な、そういう世の中を、頑張って早く作ってあげて下さい。

馬鹿な科学主義ばかりが蔓延して、人々を狂わしているのです。その様な、狂った人が多いから、本当の道を行く人が、間違った方向へ行ってしまうのです。

(お尋ねの)自力本願と他力本願という事についてですが、これは、時代によるものなのです。

例えば、私たちの鎌倉時代には、この世的には、あなた方が、今、計画しているような「仏国土」を造れるような状態ではなかった。ですから、この世に生きている人々に、あの世があるのだという事を、まず悟らして、そのことを悟った上で、生きていく心構えを説いたのです。

この世に仏国土を造るのは、もう難しい、そういう末法の時代だった。従って、せめて、あの世で成仏してもらえるようにと、その心構えを説いたわけです。そこで、この世的なことを否定して、あの世的なものへと、他力へと、なったわけです。

ところが、現代のような時代では、あなた方の使命は、この地上に仏国土を造ることです。

そうであるならば、この世を一途に否定して、あの世のことばかり言っているだけではいけません。この世も、あの世も、両方ともに良くなって行かなければならないのです。ですから、この世を良くして行くためには、もちろん各人の努力もいるでしょう。つまり、時代背景、環境というものを考えなければいけない、ということですね。

他力といっても、自力を排斥するものではありません。先程も、私は言ったはずです。自ら泳いで岸まで渡って行ける人は、それはそれで素晴らしい方です。それを批判するつもりはございません。自ら泳いで行ける人と、救ってもらう人とが居て、皆、岸辺に上がって来ることが出来るのです。

岸辺(彼岸)に上がる、即ち、救われるとは、昔は、あの世に成仏するということでした。浄土に入る、ということであったのですが、今の時代では、この世もまた、良くして行くという時代であるということです。

南無阿弥陀仏と唱えて阿弥陀仏の救いを求める、ということについてですが、キリスト教で例えれば、アーメンと言えば救われる、というわけではありません。ただ、アーメンの中には、深いものがあるということです。神に帰依するという深い気持ちがあります。他力なしの宗教はないのです。

即ち、宗教とは、結局、死後の世界のことを教える学問だからです。

死後のことを言わない宗教がありますか。死後のことを言わないのだったら、それは宗教ではないはずです。それは、宗教ではなくて、そういう「道学」ですね、道学になってしまいます。処生訓 です。私たちが言っているのは、処生訓ではないのです。「宗教」でないものとの違いは、あの世の話があるか、ないかです。

ですから、私は、現代の人に『南無阿弥陀仏』を唱えなさいとは言いません。

ただ、神仏の大いなる慈悲、力というものを忘れるな、ということです。

科学万能に陥ってはいけない。神仏の力、大いなる慈悲、というものを忘れてはいけないよ。それほど、自分を過信してはいけないよ、と。私は、そう言いたいのです。

私は、親鸞より前に、過去世で、イエスの弟子のパウロとして生まれたことがございます。その時にも、私は、それを説きました。

「人々よ、増長慢になるな。自分の力(だけ)で、この世的な事をやっていけると思うな。神の力は偉大なものなのだ。もっと信仰しなさい」と。

私は、いつの時代に生まれても、信仰の大切さ、信じるという事の大切さ、を教えているのです。信じるという事なくしては、あの世の事は分からないのです。

私は「阿弥陀如来」が誰である、とか、そうした事を言うつもりはありません。ただ、神仏はあり、神仏の側近き高級霊はあるのだ、ということ、これを信じなさい、と言いたいのです。

科学的に解明出来るまでは信じない、とかいうのは、間違っています。

これは、証明出来る事ではないのです。(この世的な)学問ではないのです。あの世のことは 、手に取るようには分かりません。だからこそ、信じること、信仰ということが大事なのです。私たちが言っていることをどうか信じて頂きたい。

パウロとして生まれた時に、私は、「贖罪説」を言いました。即ち、イエスの死によって人々の罪は贖(あがなわ)れたのだ、と、そう言いました。しかし、これも、私の「悪人正機説」と同じ様に、後の世に、色々と誤解をされているようです。

その贖罪説も、やはり同じです。つまり、イエスという偉大な方が出て、神の力をお示しになった、こういうことを信じることによって人間は救われて行く、(則ち、それを信じるという)信仰が大事です、と。

結局、親鸞は、同じ事を言っているわけです。私の言ったのは、要するに、釈迦の慈悲の意味を、また、当時の鎌倉的なるものを、現代的(その時代的)に説明した、ということなのです。今の時代で言うならば、どうなるか。それを、あなた方は、今、担っているのです。

あなた方が、釈迦が説いた慈悲を、今、説くとするならば、あの世の世界の神秘、その仕組みがあるために、この世が、このようになっているのだ、という事を、しっかりと人々に説く必要がありましょう。

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