アセンション アシスト ASーAS

地球とは、本当はどういう所でしょうか、情報を集め、知っていくページです。

霊界通信2の7、人生の諸相と霊界、小桜姫のメッセージ

2020年10月02日 | 情報
いやぁ、小桜姫のメッセージ、深いですねぇ。私は、掲載の過程で、何度も読みますが、その都度、感じる味わいと、発見があります。原文よりは、やたら句読点や漢字が増えているという感じがしますが、その方が、元のお話のペースに合わせられて、分かり易いと思って、そうしています。まぁ、不都合に気が付けば、その都度、修正していきます。

(ここから)

4.最善を尽くす人生

ここからは「最善を尽くす人生」という事に関して、お話ししたいと思います。

あなた方は、よく「人生の時間というのは金貨の様なものだ。その金貨を、みすみすドブに捨てる様な、馬鹿げた事をしている。」とか「人生の時間というのは、公衆電話の硬貨の様なもので、一分毎に落ちて行く。」とか、いう比喩で、人生に於ける時間の大切さを、教えられています。

確かに、人間の人生とは、全て、時間の連続体であり、その連続の仕方を見て、或る人の場合は幸福な人生、また、別の人の場合は不幸な人生、とかいう結論付けが為されているようです。そして、私達の人生は、一日一日の連続体ですから、結局、一日一日を最高に生きる事こそが人生の幸福への近道、と言えそうです。

これを、キリスト者達は「一日一生」という言葉で、よく表わしますが、この意味は、今日が、自分の人生の最後の一日だと思って全力を尽くしなさい、という事なのです。

一年先、五年先、十年先の計画を立てよ、と言われても、人間の人生は不可視であり、なかなか、見通しを立てる事は出来ません。けれども、どんな愚かな人間であっても、その日、一日位の予定は、立てる事が出来ます。

こういうふうに考えて行くならば、一日のサイクル〈計画―実行―反省〉の、二十四時間の連続体が、その人の人生の全て、なのです。

毎日、毎日の生活の中に〈計画―実行―反省〉を持ち込む事は、それ程、難しい事ではありませんが、それを維持して行く事は、かなり難しい事、言わば、非凡な事です。

けれども、よく考えてみて下さい。なぜ「一日一生」の具体化の為に〈計画―実行―反省〉という事をするのか、を。結局の所、これは、生活の質を高める為の、努力なのです。毎日毎日の、生活の質を、着実に高めて行く、そういった事を、努力している人と、そうでない人との間には、埋め難い溝が出来るでしょう。そして、この溝の幅こそが、その人が、いかに傑出した人であるか、を示す、指標なのです。

より質の高い人生、より非凡な人生への試みこそ、最善を尽くす人生、だと言えましょう。

5.この世の愉しみ

さて、ここからは「この世の愉(たの)しみ」という事について、お話ししたいと思います。

私達、既に何百年も前に他界した霊達の、話を聞いていると、この世というのは、とかく辛い修行の世界で、一歩踏み外すと、奈落(ならく)の底の地獄に堕(お)ちてしまう様な、錯覚に、陥ってしまいます。

けれども、神様は、決して、人間を、監獄に入れる様なつもりで、この地上に、送り出された訳ではありません。神様は、人間を、この地上に送り出すに当って「しっかりと、魂の修行をして来るんだよ。そして、地上にも、良い所があったなら、地上の醍醐味(だいごみ)は、満喫して来なさい。」そう言って居られるのです。

霊界の事を、実相の世界であり、永遠の世界である事を、強調するあまり、この世を、全く不浄で、監獄の様で、少しでも早く離れるに越した事はない様な、言い方をする人も居りますが、そういう考え方は、余りにも狭い物の観(み)方、だと思います。やはり、この三次元には、三次元の良い所がある、のであって、その良さを見出して行く事も、学習の一つだと思います。

ほら、修学旅行というのが、あるでしょう。あれです。旅行としての楽しみは、勿論、あるのですが、先生が居るし、規則が、うるさいので、なかなか、個人個人の思うままには行かない、あの修学旅行に似ています。

修学旅行の目的は何か、と問われたら「広く見聞を広め、学生としての規則正しい集団生活を学ぶ為」などと、公称はされるでしょうが、その実、旅は、旅としての愉しみは、あるのです。自由行動時間というのがあって、全く他の人にはない様な貴重な体験をしたり、夜、消灯になってから、悪戯話(わるさばなし)に花を咲かせたり、枕投げを始めたりで、とても愉しい時間も、あります。

こういう時間を、全く、学生の本分から外れるものだ、と、目を吊り上げる様な学生が居たら、ちょっと、堅物(かたぶつ)過ぎるのでは、ないでしょうか。堅物と言えば、そうだそうだと、頷(うなず)く、あなた方ですが、それは、決して、他の人の事を言っているのではありません。光の天使である、あなた方は、特に気を付けなければならない事なのです。

「天使が、地上に降りると悪になる」という、西欧の諺(ことわざ)が、あるそうです。

天使、と言われる方々は、ともすれば、天上界の意識そのもので、この地上の生活を、しようとします。すると、余りにも厳格で、余りにも清い生き方をし、しかも、それを、他の人々に押し付けようとする為、地上では「悪」となる場合があるのです。

或る人は、金銭感覚が、異常に潔癖で、お金を悪だと思っている。或る人は、男女交際に異常に潔癖で、寧ろ、異性の存在を、悪と見てしまう。その結果、その人を親に持つ、息子や娘は、結婚適齢期になっても、異常にストイックで、独身のまま生涯を送ってしまう。或る人は、地位欲や名誉欲を異常に嫌い、「下座(げざ)の生活」を、是(よ)し、とするあまり、他人にも、便所掃除や草むしりを強要する。

キリスト教なども、いい例で、ある偉い人が「自分は罪の子だ」と懺悔(ざんげ)し始めると、他の下々(しもじも)の人も「罪の子」だと思わないと、許してくれなくなる。或る人は、自分が反省で悟ったら、他人にも反省を強要する。或る人は、自分が、座禅で、精神的迷いをふっ切れた、と思うと、他の人にも、座禅以外では救われない、と強要する。

どの人も、どの人も、余りにもピューリタンである為に、この世的には存在悪になってしまう例です。確かに、天使の性質の中には、清らかな点、ピューリタン的要素がある所は、私も認めるし、それも大切だと、自分自身、説きました。

けれども、今日、私が言いたいのは、旅に目的がある、からと言って、目的を強要する、のも結構ですが、目的ばかりに囚われて、途中の景色を愉しむのを、忘れてはいけませんよ、同じ車中に同乗した人々との会話を愉しむ事を、忘れてはいけませんよ、という事なのです。

勿論、光の天使の使命は、あてどない旅をしている人々に、人生の目的と使命を教えてあげる事ですが、かといって、ご自分が、その旅を愉しむ事を忘れる程、窮屈な、片肘を張った生き方を、してはいけませんよ、という事なのです。

言葉を換えて言うならば、人生には、ゆとりと余裕も必要ですよ、先を急ぐ余り、この世の花を見落としては損ですよ、そういう事を、私は言いたいのです。

あなた方は、今後、神理伝道の為に、全力を尽くすのでしょうが、私は、あなた方の人生は、あなた方の人生として、光り輝いているものである事を、祈っています。

転生輪廻はあるとしても、同一時代、同一環境に生まれる事は、二度とありません。神と共に、他人と共に、そして、自分自身と共に歩む様な、素晴らしい人生であって欲しい、と思います。


6.人生の勝利の時

さて、ここでは「人生の勝利の時」という事で、お話をしたいと思います。

人間が、七十年、八十年の人生を生きて行く時、様々な、浮き沈みがあります。私にしても、僅か数十年の人生の内で、嬉しい時、悲しい時、色々ありました。けれど、今にして思えば、嬉しい時も悲しい時も、私の人生という名の、機(はた)を織る為の、それぞれ、縦糸と横糸だったのだな、と、思い至るのです。

私は、いま、あなた方から見れば、遥か彼方の、六次元神界の最上段階から、この三次元の人間の、様々な人生模様を眺めています。私の目から見ていると、地上の人間は、なんと無知で、なんと盲目で、なんと怖いもの知らずで、なんと、衝動的な生き方をしている事でしょう。

街の盛り場を、何か面白い事でもないか、と、アロハシャツを着て歩いている、チンピラ風の青年。「恋のアバンチュール」という言葉を、頭に思い浮かべながら「この夏は信州へ行ってみようかしら」と、新しく買った赤いハイヒールのかかとを気にしているOL。

また、上役に叱られて、赤提灯をくぐっている若手社員。首に包帯を巻いて「何か、よく効く神霊治療家でも、いないかしら」と、新宿の紀伊国屋書店で、高橋信次さんの本や、あなた方の霊言の本を、パラパラとめくっている中年の女性。

どの人も、どの人も、道行く人々は、人生の真実を知らず、人生の何たるか、を知らず、人間が、どこから来て、どこへ去って行くのか、も知らない。本当に、どういった事が価値ある仕事で、本当に、どういった書物が価値ある書物か、も知らない。道行く人々は、一陣の秋風でも吹けば、カサカサと音を立てて転がって行く、枯葉の様な存在にも見えます。

人々よ、あなた方の一人ひとりを、遥か彼方から見下ろしている、私達の存在に、気付いて下さい。

神様は、決して、あなた方を、孤独な迷い子には、していないのですよ。あなた方の、一人ひとりが、迷わぬように、幸せな方向へと進んで行く様にと、祈っている私達が居るのですよ。神様は、あなた方が迷わぬように、と、あなた方、一人ひとりに、守護霊を付けて居られるのですよ。

不幸の時に、悲しみの時に、人生の苦難の時に、なぜ、あなた方は、自分の守護霊に、助けを求めないのですか。なぜ、あなた方の守護霊に、悩みを打ち明けないのですか。

あなた方が、川で溺(おぼ)れそうになっている時に、あなた方の守護霊は、必ず、川岸に駆け寄って「さあ、この手に、つかまりなさい」と、手を伸ばしているのです。その守護霊の差し延べた手を、川の中から、しっかりと、つかみなさい。水の中で、もがいてばかりいないで、しっかりと手を伸ばして、守護霊の手を、握り返しなさい。

その、神の愛に満ちた暖かい手を、あなたの凍(こご)えた手で、しっかりと握りなさい。幾ら、あなたの守護霊や、私達、高級霊が、あなたを助けようとして、何人もが手を差し延べても、あなたご自身が、その救いの手を、撥ね退けてしまっては、どうしようもないのですよ。

地上の、迷える人々よ、よく聞きなさい。神様は、決して、私達、守護・指導霊に、地上に居るあなた方が、善人だから救え、悪人だから救うな、などとは、言っていないのです。よいですか、間違ってはいけませんよ。神様は、全ての人を、分け隔てなく、お救いになろうとして居られるのです。どんな悪人だって、喜んで、救おうとして居られるのです。

地上で、頭だけで宗教を学んだ自力論者は「神様は、自分の心と行ないを、よく反省して、悪い所を取り除いた善人を救って、悪人は救っては下さらない。救って欲しかったら、十分、悪かった思いや行為を反省して、善い人にならなければ…」そう思いがちです。でもこれは、違っています。神様は、万人を平等に救おうとしています。神様は、私達に、善人であれ、悪人であれ救え、と命じておられるのです。

勿論、川で溺れている人が救われる為には、私達の差しのべた手を握り返すことが必要です。これだけが必要とされている自力なのです。私達が、救いの手を差し延べているのに、頑強に、私達の助けを拒否して、水の中に沈んで行く人達も居るのです。私達は、涙を流して、溺れて行った人達の為に悲しんでいます。私達の涙を、分かって頂けますでしょうか。あなた方は、とめどもなく流している、私達の涙の味が、分かっているでしょうか。

私達は難しい事は言いません。どうか苦難の時には、神を、振り返ってほしい。私達、守護・指導霊の存在に、気付いて欲しい。私達が差し延べている、救いの手に、気付いてほしい。私達の救いの手を、どうか、撥ね付けないで欲しい。私達を信じてほしい。私達を頼りにしてほしい。私達が、あなた方に要求する自力は、ただ私達の手を、握り返す事です。

私達は、水泳の達人を、助けようとしているのではないのです。水泳の達人は、私達が助けなくとも、自分で岸に這い上がります。そういった優れた人は、自分で、神の道を切り拓(ひら)けばよいのです。ただ私達が、日夜、心を傷めているのは、溺れかかっている、あなた方、迷える人々なのです。

どうか、あなた方の心を、私達に向けて欲しい。この小桜の小さな本だとて、あなた方を救う為に、地上の川に流した、小さな浮き舟です。どうか、この小さな浮き舟の縁(へり)に、つかまって欲しい。どうか、この小桜の小さな物語で、一人でも多くの、地上の、溺れかかった人々を救いたい。

私の手を握り返して下さい。それは、簡単な事です。一年間に亘って綴って来た、この小桜姫の話に、耳を傾けて欲しいのです。語られた内容を、信じて頂きたいのです。たった、それだけの事なのです。地上の人々よ、私の小さな手を、どうか、しっかりと握り返して下さい。

その時が、あなたの人生の、勝利の時なのですから。その時が、あなたに、神の栄光が現れる時なのですから。どうか、小桜の手を、しっかり握り、敗北の人生から勝利の人生へと、力強い一歩を、歩み始めて下さい。

7.人生の真昼に

さて、この物語も、どうやら、終わりが近付いて来たようです。あなたは、今までの私の話を読んで、どう思われたことでしょう。たとえ、その中身は大したものでなくとも、何かを伝えようとする小桜の、熱意さえ伝われば、本当に嬉しく思います。

では、ここからは「人生の真昼(まひる)に」と題して、お話ししたいと思います。

夏の暑い日盛りの中を歩いて来ると、汗が吹き出る思いがします。夏の昼下がり、ご婦人が日傘をさして、濃い影を落としながら、静かな田舎の砂利道を歩いていると、ふと涼風が、どこからともなく吹いて来て、ホッと救われた様な気持ちに、なることがあります。

――人生の真昼に――人々は、濃い影を落としながら、濃い影が地面に映っているという事だけを、自分が、この世に存在するのだ、という証拠だと思って、心に言い聞かせます。ただ、この地上に影を落とすだけの存在――影を落としているという事だけが実在の印――大部分の人間は、こうして人生の真昼を生きて行くのです。

しかし、地上に住む、あなた方に、お知らせしたいのです。人生の真昼に、あなた方の、真の存在を告げ知らすものは、地面に映った影だけではありませんよ。あなた方が流す汗の、一つ一つが、ダイヤモンドの様に結晶となって、世の人々の宝、となる様な生き方が、出来るはずですよ。

大部分の方々は、光の指導霊達の様に、仏法を、この地上で説く事を、一生の仕事とする事は出来ないでしよう。大抵の方々は、この地上にだけ意味があって、私達の世界から見たら何の意味もない、単純再生産の仕事に携わっています。農業も漁業も鉱業も、加工業も、流通業も、私達の、霊の世界では、――思っただけで、全ての物が現象化する、私達の実在界では――必要のない仕事です。

ましてや、現代の企業の中でのペーパー・ワークなどは、地上の世界から見れば、高級な仕事なのですが、私達の世界から見れば、無益な仕事に見えます。何枚も何枚も色んな書類を作って、色んな表を作って、それに上役の印鑑をとりつけるだけの仕事――こういった仕事に、やる気満々で立ち向かえる地上人が居るとしたならば、その人は、ある意味で、生きがいを見出す事にかけては、天才でありましょう。

小桜達のように、霊的な存在となった人間から見れば、この世の殆んどの仕事は、言わば虚業です。本当に霊的に意味のある仕事とは、この乾いた、地上という名の血管に、神の血を、送り込む事です。人々に、神の御心に適った生き方を教える事です。書類作りがうまいか、どうかではなくて、書類作りをして生計を立てている人々の心に、愛を流し込んで行く事です。

真の生き方とは何か――それを常々、心に問いながら、数十年の人生を生きている人と、何も考えずに生きている人と、その開きは、私達の目から見れば、歴然としたものがあります。精神的に生きる事が、現代人にとっては、一つの教養の領域の様に、思われていますが、本当は、精神的に生きるという事は「全て」なのです。

私達が、実在界において「霊的」に生き、物質界において「物質的」に生きる事は、誰にでも出来る当然の事であって、決して誉(ほ)められる事でも何でもありません。物質界において「霊的」に「精神的」に生きられてこそ、初めて、現代の(精神的な面での)向上があるのです。初めて、魂の修行の意味があるのです。

私は最初に言ったはずです。この地上の、人生の真昼の時を生きて、ただ地面に影を落とすだけの存在では、何にもなりません。それは、ただ、物質界で物質的に生きた、というのと同義です。

この物質界の人生の真昼を懸命に生きて、その流す汗の玉を、水と塩の固りとはせず、珠玉の宝石のような素晴らしい輝きと、煌(きら)めきとすることです。生きている証(あかし)を、精神の高揚を、高らかに謳(うた)い上げることです。神のラッパとして、神理の言葉を、人々に伝えていくことです。

あなた方の行く手は、そう容易い道のりではありません。他の、道行く人々の足下をも、照らす様な、そうした、意味のある人生を、生きて頂きたいと思います。


8.生命(いのち)終わる時

ここからは「生命終わる時」ということで、お話ししたいと思います。

生・老・病・死という言葉があります。肉体を持った人間は、生きてゆく苦しみ、老いてゆく苦しみ、病にかかる苦しみ、死ぬ苦しみ、こうした四つの苦しみを、十字架の如く背負ってゆかねばなりません。

この中でも、死ぬ苦しみというのが、人間にとっては一番の恐怖でありましょう。

「自分が死ぬってどういうこと?」大抵の人は、この問いに答えられません。自分が死ぬってどういう事だろう。他人が死ぬのは、何度か見て来たことがある。自分が死ぬというのは経験がない。それは痛いものなのだろうか。辛いものなのだろうか。苦しいものなのだろうか。それとも、哀しいものなのだろうか。辛く哀しいものだ、と、人は言う。でも、本当は、甘美なのかもしれない。読者の皆様は、一体、死に対して、どのような感じ方をされるのでしょうか。

生命(いのち)終わる時――それは、誰にも平等に与えられる、時、です。「人間は死の下に平等である」と喝破した、西欧の哲学者もいます。人間――死すべきもの――その死に態は様々です。

いま、地上を見渡していると、若い人々が、不思議な死に方をしています。受験、いじめ、失恋、様々な動機で、前途ある人々が、次々に、若い生命を断って行きます。小桜は、ふと、考えてみるのです。彼らの死生観って、一体、どんなものなのかと。彼ら、ご両親や、先生方や、友人達の死生観は、どの様なものなのかと。

「死」についての、正しい考え方は、今では、学校でも、家庭でも、教えてくれません。幼ない魂達は、人間は、死ねば、何もかも終わりなんだ、という考えに憑り付かれたり、死ねば、とても素晴らしい世界が待っているのだと思い込んだり、あの薄気味の悪い幽霊の世界が、死後の世界なんだと思ったりしています。誰も本当の事を教えてくれません。

一生で、一番、大切な、生死の事を、誰も、教えてはくれないのです。もし、人間は死ねば終わりなんだ、と学校で、先生が教えているとしたら、生徒達は、授業料の返還を求める権利があります。なぜなら、嘘を教えてお金を取るなんて、もってのほか、だからです。

地上の皆さんは、神様が、昔、人間をお創りになった、という話は、一笑に付して、人間はアメーバから進化して来て、猿になって、猿が類人猿になって、その後、紀元前百万年ぐらい前に、原人という人間の祖先が出来た、という話をお信じになっているようです。

この話は、ダーウィンの進化論に代表されているようです。しかし、皆さん、ダーウィンは、その後、どうしていると思いますか。勿論、地上を去った後です。

彼は、今、地獄の中でも、最も深い、無間地獄(むけんじごく)という所で、呻吟(しんぎん)しているのです。彼自身は善人です。何も悪い事を、生きていた時に、していません。けれども、彼は、今、地獄の最深部に居ます。

天国、地獄の分かれ目は、善い、悪いだけではないのです。正しいか、正しくないかも、分かれ目なのです。特に、この基準は、思想家や宗教家に適用されます。いかに、虫一匹殺さない人生を、生きたとしても、人々に、間違った信仰や信念を植えつけた場合、その影響が、大きければ大きいほど、その責任は免れ難いのです。

ダーウィン自身は、善良な学者であったとしても、彼の進化論が、世の人々を迷わせた、虚説であった以上――だって、猿は人間になりません――は、恥ずかしくて、霊天上界に上がることが出来ないのです。天上界に上がると、色んな人から、「君か、人間はアメーバから進化した、なんて嘘を教えたから、この世の人々は、神様だとか、霊界を、信じなくなったじゃないか。」と批判されるので、地獄の奥深いジメジメした洞窟の中で、小さくなって身を隠しているのです。

人間は、神様が創ったものです。そして、人生修行の目的で、永遠の転生輪廻を繰り返しています。そして、この地上世界を仏国土にする、という使命を持っています。こういった、約束の元に、人間は、両親の縁により、神に、この世の生命を、授けられたのです。ですから、自殺行為は、神様との約束違反ですから、許されません。徹底的に、自分の間違いを反省するまで、地獄で苦しむことになります。

この様に、人間の人生というものは、神様からの授りもの、なのですから、大切にして「生命終わる時」まで、精一杯、生きなければならないのです。

やがて、地上の皆様も、知るでしょう。この地上を去る時、肉体生命を終える時こそ、あなた方の、新たな生命の、霊的生命の、始まりである事を。

一つの終わりは、一つの始まりである事を、悟って下さい。

9.極楽往生と念仏

さて、ここでは「極楽往生と念仏」について、お話ししたいと思います。

念仏というと、すぐ思い浮かべるのが、法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)ですね。詳しく言えば、空也(くうや)上人、法然、親鸞、一遍(いっぺん)上人などがいます。

あなた方、現代人にとって、鎌倉仏教の知識が、どの程度か、は存じませんが、一連の念仏行者達は、ただ「南無阿弥陀仏」と唱える事によって、極楽浄土に往生出来る、と説いた、とされています。しかも、他の知識による悟りなど不要で、ただ、ひたすらに、阿弥陀仏にお願いする事をもって、全て、として(い)ました。

小桜は、「神霊界入門」のつもりで、この本を書いて(自動書記して)おりますから、この他力門、念仏信仰についても、意見を述べておかねばなりません。

さて、現代で、仏教を学ぼうとする者で「南無阿弥陀仏」を唱えることを以って、了(りょう:よし)とする人は、非常に稀でしょう。その、なぜ稀なのか、を、お話ししたいと思います。

鎌倉時代は、釈迦の死後、千五百年経った頃で、ちょうど、正法(しょうほう)の時代、像法(ぞうほう)の時代(注・教えが形式化して中身がなくなる時代)を経(へ)て、末法(まっぽう)の時代となり、世の中は乱れ、釈迦の教えは、全く伝わらなくなる、とされていました。この様な時代ですから、ちょうど、人々は、地上では、生きる望みを失い、せめて、あの世だけでも、地獄の苦しみから逃れたい、と願って居りました。

こんな時代ですから、道元が説いた様な、禅の様な、知的な悟りは、当時のエリート階級である武士階級には歓迎されたものの、庶民は、とても、座禅のような暇(ひま)な事は、やってもおられず、難しい哲学的理論を聞いても、さっぱり解らない、といった状態でした。

こうした、庶民を救おうとする、深い愛の気持ちから広まった、のが、浄土宗、浄土真宗、一遍の時宗(じしゅう)などです。

確かに、今の、あなた方が感じる通り、何万回、念仏を唱えたところで、死後、如来界や菩薩界や神界へは、行けるはずがありません。親鸞の様に、仏法の深奥を極めた者が、念仏を唱えるのと、何も知らずに、ただ念仏を唱えている人、とでは、勿論、死後行く所も違います。

ただ、念仏のよい所は、人智を超えた大いなるものに帰依する、という純粋な気持ちです。こうした、純粋な気持ち、さえあれば、死後、あの世でも、守護・指導霊の教えを受け入れ易いのは当然です。つまり、本人としては、何も悟ってなくとも、素直に、教えを受ける心境になっているから、あの世に来てから、救われるのが早いか、または、学習のスピードが速い、と言えます。

自力の教え、聖道門(しょうどうもん)では、確かに、正しい教えを学んで悟れば、全く素晴らしい境地が拓(ひら)けて、あの世でも、霊天上界へと昇って行くのは早いのですが、間違った自力の教えを、学んでしまうと、地獄で、長い間、反省をしなければならなくなります。


こうしてみると、まあ、これは、小桜姫の新説と言われるかも知れませんが、念仏、他力門は、あの世へ行っても、浅い地獄か、低い天国へは入りやすい。まあ、そうそう、ぶれがないと言えます。一方、自力、聖道門は、真実の仏法を学んで努力すれば、上は如来、菩薩。間違えて、誤った教えを、妄信、狂信して、狂奔(きょうほん)すれば、下は、地獄の最深部まで、となる様です。

そうですね、自分は、何も分かりませんから教えて下さい、という程度の生徒は、そこそこ教え易いので、普通の大学くらいには入れるが、俺は自分のやり方で猛勉強するのだ、と頑張っている人は、超一流大学に入るか、落第して、そのうち、どこかに消えてしまう、かの違い、とも言えましょうか(ちょっとアレな例えですね、笑)

さて、では現代の宗教の状態を見てみましょう。念仏で救われる、という考えは「アーメン」と言えば救われる、というのと、ほぼ同じでしょう。こういう教えは、よほど教育程度が低いか、よほどの病人か、よほどの罪悪の限りを尽くした人でなければ、なかなか、素直に受け入れ難いと思います。

現代は、非常に知的な時代ですから、アフリカや中南米では、念仏宗が流行っても、おかしくはないですが、日本や欧米では、完全他力のアーメン教は、なかなか流行らないと思います。

やはり、この時代は、末法の最後の世であって、同時に、正法の打ち建てられる時代ですから、一番正確な神理を学ぶことの出来る時機なのです。諸如来、諸菩薩が(地上に)数多く出ているのですから「南無阿弥陀仏」だとか「アーメン」とか言っている暇があったら、肉体を持った光の天使達に教えを乞(こ)い、その正しい教えを実践して、日々を生きるべきです。

極楽浄土は、あの世に非(あら)ず、この世そのもの、です。この世で地獄を生きて、あの世で天国に住むことも、この世で天国に生きて、あの世で地獄に住むことも、ありません。あの世で、特別の修行でもしない限り、あの世でのあなたは、この世でのあなたの人格、そのものです。

出来る限り、この世に生きる時に、自分の心の中に、天国を、そして、自分の周りに、天国を築いて行くべきです。その時に初めて、阿弥陀如来は西方浄土におわす、のではなくて、その身そのままの、あなた自身の心の中にいる事を、発見することでしょう。


10.地上の記憶

さて、地上は暑い日々が続いていますが、いかがお過ごしですか。小桜の世界は、暑くもなく、寒くもなく、ちょうど初夏の様な、五月の若葉緑の中を、散歩したりしています。

ところで、今日は、「地上の記憶」ということで、お話ししたいと思います。

あなた方、肉体を持っている人間は、過去の記憶というものが殆んどなくて、稀に、過去世を憶えている子供なんか居て、評判になったりしますね。時には、霊道を開いて、過去世の言葉で、過去世の事を話す人も出て来ます。けれども、原則は、一般の人は、自分の過去世を記憶していません。まあ、これは、過去世の事を覚えていると、地上での肉体修行に差し支えがある、というのが、主とした理由で、忘れてしまうのでしょう。

同じ様な事は、私達、天上界の人間に関しても、言えるようです。地上を去って、大部分の人間は、一旦、四次元の幽界に還って来て、地上生活の、垢(あか)や汚れを取り除き、人生の、全ての心の曇りを晴らす為、反省に励みますが、この時は、徹底的に、地上生活の洗いざらいを、思い出さねばならなくなります。

しかし、その後、各人の、本来の霊性、霊格に従った世界に還ると、――例えば、私でしたら、六次元神界に戻って来ると、地上の事は、もう殆んど、思い出さなくなります。

今の私に、地上時代の、細々(こまごま)とした事を聞かれても、殆んど忘れてしまっている、と言ってよいでしょう。その代わり、実在界での、本来の私の魂意識が甦(よみがえ)って来る、と言いますか、過去、私が習得して来た、数千年、数万年に亘る、霊的知識の宝庫が、自分の自由になります。

こうして、地上生活時代は、一〇パーセントの表面意識で生活して、九〇パーセントは潜在意識として眠っていたのですが、こちらの世界では、一〇パーセントの表面意識は、過去の記憶の中に沈潜してしまい、残り九〇パーセントの潜在意識が、顕在化して来ます。

これを分かり易く言うと、私達は、こちらの世界では、念(おも)い、即、行動である事、つまり、心で念ずる事は、即ち、行為する事と同じである事、祈りのパワー、神の光のエネルギー原理、一瞬にして空間を移動する力、何千キロ離れていても対話出来る、テレパシーカ、将来起こる事が予知出来る能力、数限りない神理の修得、こうした素晴らしい力を身に付けます。

生きている人は、「心」とは、たかだか、感情に毛の生えたもの、ぐらいの気で居ます。しかし、実際は「心」とは「神」と同義なのです。心は、その神秘的な力を発揮して行くにつれて、神の如き力を発揮し得るのです。

イエス・キリストという人は、「この山動きて海に入れと言わば、しかなるべし。」とおっしやっているそうですが、地上の人間で、そういう力を持った人が、いかほど、居られたかは知りませんが、私達、神界では、そうした霊的力持ちは、いくらでも居るのです。

小桜の様な、か弱い女性には、六次元にある山を、海に放り込む様な念力は、とても有りませんが、こちらの世界でも、とても、心の力を発達させた、長老格の人であれば、「山よ砕けよ」と一声、発したならば、本当に、何百メートルもあった山が、ガラガラと音をたてて崩れ落ちるのです。「海に入れ」と言われたら、何メートルもある岩石の塊が、ゴロゴロと、海に転げ込んでゆく事は、まあ、百聞は一見にしかずで、アッという間の現実です。

本来、人間の潜在意識には、それだけの力が、秘められているのです。それなりに生きている人間は、それを忘れています。本当に勿体ない事です。

逆に、私達は、こちらの世界で、地上時代の記憶を忘れてしまうのですが、まあ、忘れてしまって損をするということは、殆んどありません。小桜が生きていた戦乱時代の事なんか、憶えていても、いい事は少しもありません。悲しいだけです。こちらの世界でも、人と話をしている際に、時々、フッと、悲しい思い出の事が蘇(よみがえ)りそうになりますが、一体、悲しい感じがする元の事実が何だったのかは、とても思い出せません。

それは、昔、足に怪我か何かして、傷が出来たことがあって、完治して何年もしてから、川に足を浸けようとして、一瞬ハッとするのだけれど、なぜハッとしたのかは、深く考えないままに、水の中にザブザブ入ってゆく姿に似ています。この様に、地上生活時代に、悲しい事、苦しい事があって、心が、切り刻まれるように思ったとしても、やがて、傷口もふさがって、その事を、深く考えなくなってゆくのです。

こう言うと、読者の中には、完全に忘れてしまう様な地上生活なら、魂にとって、無意味ではないですか、という質問をする人も、居るかも知れません。

しかし、そうではないのです。地上の記憶は「出(だ)し」を取った後の小魚の様に、捨てられるのですが、その「出し」そのものは、魂の奥底に、深い味わいとなって、残っているのです。天上界で、本格的な、魂の料理を作る時に、地上で取れた濃い「出し」が、とても重宝がられるのです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿