1961年2月のはしがきがある、古い古い「生きたフランス語会話」(大学書林刊)なる本が本棚から見つかった。途中からパラパラと読んでいるのだが、最近の本には無い詳細な解説に心を奪われた。
たとえばP.157,「ついでに述べておくが、動詞pouvoirはpeut-etre,impossible,possibleなどと併用してはならない。もとの例文で「はい、大丈夫と思います」を(1)Oui, je l'espere.と訳している。それをたとえば、(2)Oui,peut-etre vous le pouvez.等とするのはいけない、と説明されている。簡単に言うと意味がダブルからだと思うが、英語ではこういう決まりは無かったように思う。これは接続法の問題と関連してくるのではないか。現実的に確証された可能性と、想念の中のあいまいな可能性を徹底的に区別したいのが、接続法の存在意義だとして。peut-etreという語をどこにでもくっつけられたら、そもそも接続法は不要になるのだから。
もうひとつ例を出し説明している。
On ne peut pas s'imaginer quelle douleur lui cause cette mort.をIl est impossible qu'on puisse s'imaginer・・・とするのも避けなければならない、と書いてある。日本人の仏作では往々にして書いてしまいそうな、落とし穴のような気がする。
他の例を挙げると、P.122、Vous vous sentez seul et triste.等といえば、かえって笑われてしまう、とある。フランス語のseulのなかには既にtristeの意味が入っているからだそうだ。鉄橋の橋、に類するのである、と説明されている。そういえば、フランス語を学び始めた頃すき焼きパーティーをして「tres delicieux」と言って、フランス人に間違いを指摘されたことがある。delicieuxのなかにすでにtresが入っていると。
接続法の概念だけでなく、各品詞の意味テリトリーの明確化もなかなか難しい。
この本の中にはそういう詳細な解説があって「避けたほうが良い」が多い。半世紀以上前の参考書にはこういう解説があたりまえのようにあったということか?母国語人教師に接する機会が増えて、(日本人教師による)こういう日本語との微妙なくい違いの敢えての指摘は、置き去りにされてきているのかもしれない。
前回と同じBlogから「同格辞の処理」について。
付け加えて何か書く必要の無いほど、完璧な解説なのだが。
「同格辞の処理}
思えば長い間予備校で「英文読解」のクラスを担当してきた。
読解のポイントやらは、箇条書きに出来るほど、整理して教えることが出来るし、どんな問題でも、何に着眼すれば容易に解けるかを、教えることも出来る。一見難解な文章ほど、どこが狙われ出題されるかは、ある程度限定されているからだ。
しかし、この文章は英文読解では有り得ない。
Gourmand, j’ai été sobre ; aimant et la marche et les voyages maritimes, désirant visiter plusieurs pays, trouvant encore du plaisir à faire, comme un enfant, ricocher les cailloux sur l’eau, je suis resté constamment assis, une plume à la main; bavard, j’allais écouter en silence les professeurs aux cours publics de la Bibliothèque et du Muséum ; j’ai dormi sur mon grabat solitaire comme un religieux de l’ordre de Saint-Benoît, et la femme était cependant ma seule chimère, une chimère que je caressais et qui me fuyait toujours ! Enfin ma vie a été une cruelle antithèse, un perpétuel mensonge. (La femme sans cœur)
「[元来]食いしんぼうだったのに、飲食を節し、旅行や船旅が好きで、外国をいくつも訪ねたいと思ったり、また、小石で水切りをして喜ぶといった子供みたいなところがあったのに、いつもペンを手に机に坐っているのだった。[かつては]おしゃべりだったのが、国立図書館や博物館の公開講座に出席して、教授の講演に静かに耳を傾けた。まるで聖ブノワ会の修道士のように、粗末なベッドの上にひとりで寝ていた。だがぼくの空想の中にあるのは、やはり女だけだった。とらえようとすればいつも逃げていく女の幻を抱き続けるのだった!要するにぼくの生活は、一つの残酷な矛盾であり、つねにみずからを偽るものであった。」(つれなき女)
ここに着目ですよ、とマーカーで線を引かせるのは、Gourmandとbavardだが、英語にはこういう形容詞の働きは無い。
Gourmandと対峙するのは、j’ai été sobreではあるが、その対峙を別の角度から説明したのが、aimant et la marche et les voyages maritimes, désirant visiter plusieurs pays, trouvant encore du plaisir à faire, comme un enfant, ricocher les cailloux sur l’eau と je suis resté constamment assis, une plume à la mainの対比だろう。bavardに関して言えば、これ一語で、j’allais écouter en silence les professeurs aux cours publics de la Bibliothèque et du Muséum ; j’ai dormi sur mon grabat solitaire comme un religieux de l’ordre de Saint-Benoîtと対峙させている、なんという荒業なんだろう!et la femme 以下me fuyait toujours !までの文章にはcependantという対峙語があるので、また接続詞のetもあるので、Gourmandやbavardのフランス語の形容詞の作用は及んでいない、と見てよいと思う。英語でもYoung as he isからas he isを省略する用法が無いわけではないが、後続の文章がこう長々と続くことは有り得ない。力学的にも視覚的にも形容詞一語が、長々とした語群と均等でありえるわけが無い、いかにもバランスが悪い。先ほど荒業、と書いたのはそのためだ。つまり、フランス語の授業では、Gourmandとbavardにマーカーで印をつけて、徹底的にこの用法をマスターさせる必要があるだろう。蛇足的に言って置くと最後のEnfin ma vie a été une cruelle antithèse, un perpétuel mensonge.は結論部で、速読の内容理解のためならば、ここだけ読めばいいということになる。
もうひとつ言うと元の朝比奈先生の文章には「その上で、訳者はその対立が同時並行するはずがないことを考えて、枠で示したように、過去の自分と現在の自分との対立であることを強調しようとした。」とある。ここまで来ると学生の仏文読解の範疇を超えている、まさに翻訳者のレベルの実力技である。対立や対峙にはこのように隠れた軸のようなものが常にあって、(たとえば、この場合の「過去の自分」と「現在の自分」のような)そこを炙り出して日本語の文章の中で明快にするのが、まさにプロの読解技なのだと思う。
余計なことを書いて馬脚を現すだけかもしれないが、このような形容詞の用法は、(同格)で説明するよりも(強調、倒置、省略)あたりで文法的解説をするほうが、本来の王道ではないかと思う。少なくとも、学習者にとっては、はるかにマスターしやすいように思う。
全く久々にBlogに戻ってきて最初に書くタイトルがこれ
「死について考えること、ありますか?」
今年の春先から末期がん患者と認定されたのだから仕方が無い。
今回の内容も、どうと言うことではなく、単に私の言語感覚が抗がん剤にやられてしまっただけのことかもしれない。訳には納得なのだが、どうもピンとこない。
死について考えること、ありますか?
La mort est plus aisée à supporter sans y penser que la pensée de la mort sans péril.
It is easier to bear death when one is not thinking about it than the idea of death when there is no danger.(A.J.Krailsheimer訳)
「死というものは、それについて考えないで、それをうけるほうが、その危険なしにそれを考えるよりも、容易である。」(前田陽一、由木康訳)
まずわかりにくいのは「それ」「それ」「それ」が多いからだろう。「死」とするほうが文意は明解になる。それと対比を明確にしたい。
そのまえに、一番気になったのは「それを受ける」の日本語だろう。死を受け入れる、の意味なのだろうが、これが「死の恐怖に耐える」を意味するのか「泰然と死ぬ」のか、わかりにくい。「耐える」と「死ぬ」では結果が違う。わたしが、ぼんやりあたまに一瞬なってしまったのは、多分この辺に原因がある。
まず上のほうはplus queがあるので、比較の対象を掴めば簡単なはずだ。
○supporter la mort sans y penser
死を考えないで、死の恐怖に耐える、ことは不可能なので、私なら「死の恐怖に怯えないで、泰然と死ぬ」と訳したい。
○supporter la pensee de la mort sans peril
「目の前に死が迫っていないときに、死について考察すること」
どちらが困難かというと、(予想に反して)後者のほうが困難(可能性や頻度が少ない)である、ということだと思うのだが。
下のほうもeasier thanがあるのでこれも比較の対象を掴むことを試みる。構造的には比較の対象はこちらの方がよりはっきりしている。
○bear death (when one is not thinking about it)
意訳になるが「死の恐怖に怯えないで、泰然と死ぬ」
about itのitを死としないで、死の恐怖としたところが、意訳なのだが。
○bear the idea of death ( when there is no danger)
意訳になるが「目の前に死が迫っていないときに、死について考察すること」
結論から言うと「死の恐怖に怯えないで、泰然と死ぬ」ことはなかなか困難のように一般的には思われているが、本当は「目の前に死が迫っていないときに、死について考察すること」が人間によってなされることのほうが、はるかに稀である、と言うような意味ではないかと思う。
死の恐怖は、この世から離れることにある、ように思う。離れて未知のどこかに、消え去っていくこと、自分の人生の強制的消滅にあるような気がする。死ぬに泰然もへったくれもない、これは人知を超えているからだ。「それどころではない現状があり」「あきらめ」もまたある。それに比べれば、「目の前に死が迫っていないときに、死について考察すること」は人間には滅多に出来ないことなのかもしれない。
最初の訳にもどるが「それをうける」と「その危険なしに」のあたりに、訳出上の多少の不完全さがあるように思う。
どう思われますか? 元気な者には
「目の前に死が迫っていないときに、死について考察すること」
はできないし、そんな暇も無いって? 確かに、ごもっとも。
久しぶりにNHKまいにちフランス語のテクスト2月号を買った。基礎編も応用編も超入門のようで、どうしようか迷ったが、2,3時間触れる目的で購入した。応用編の冠詞の説明に目が開かれる思いがしたので、書き留めておく。
定冠詞に関しては「特定用法」と「総称用法」があると。この辺はほかの本にも書いてあった。感心したのはここだ。「要するに、定冠詞は、フランス語で名詞を用いる場合にとりあえずつけられる「名詞マーク」なのです」←こういう説明は、初めてだ!
さらに「特定用法、総称用法という分類は、定冠詞の基本的機能ではない」「定冠詞つきの名詞はその名称そのものを会話の中に導入しているだけで、特定する機能は、コミュニケーションの現場の操作なのだ」←いやわかりやすい説明だ。
不定冠詞は「存在情報」と「モノ情報」をあらわす。←新鮮な解説だ。
「定冠詞は誰が見てもそうである事実にしか使えないが、不定冠詞は話し手が個人的意見で断定する感じになる」「不定冠詞つきの名詞のイメージは、メンバー全体に対して「部分」を占めている。」「部分であるゆえ抽象的ではなく具体的存在を表す」←これも新鮮な解説だ。
部分冠詞にはずばり「名詞のカテゴリーを示す定冠詞の前に、部分を現すdeがついたものです」と説明がある。ずばり言ってもらってすっきりする。不定冠詞は数的、それに比べて部分冠詞は量的、いずれにせよ存在としてはより具体性があると言うことか。したがって存在しない場合はゼロの概念が必要になる。否定文において、部分冠詞および不定冠詞はとれてdeになるという必然性もこの辺に起源を発するのだろう。
昔から英語の最初の方の項目で「鉛筆が一本ありません」や「鉛筆が3本ありません」というような英作文に違和感を感じていた。3本無い、では4本あるのか?という疑問だ。
There are three birds. の否定文は「There are not three birds」、何か変だ。一羽もいない場合はどう答えるのか、ということだ。「Are there three birds?」の答えとしては完結していない。それで、ちょっと悩んだことがあるので、フランス語のdeには感心した。ゼロの場合の解答ができるからだ。このフランス語のdeに感心して人に手紙を書いた記憶があるが、全く理解されなかった思い出がある。英語の教師になってから、専門の本を読んで、この種の英語における解答がわかった。それはsomeとanyの解説である。物凄くわかりやすい説明で「someもanyも不特定の数・量を表すがanyにはゼロが含まれる」と言うものだった。なるほど、だから人にモノを勧める疑問文ではanyでなく疑問文でもsomeを使うわけだ。人に飲み物を勧めるときに「相手が飲まない」と言う前提を入れて聞くと失礼に当たる、からだろう。
話をフランス語に戻す。
不定冠詞と部分冠詞の用法の違いは可算か不可算かである。両者とも定冠詞と排他的関係にあり(存在性が抽象的か具体的かという排他性だろう)、「全体=定冠詞」に対して「部分=不定冠詞/部分冠詞」であり、不定冠詞は「数的部分冠詞」、部分冠詞は「量的部分冠詞」であると、説明があった。
もうひとつ素晴らしい説明はこうだ。「無冠詞名詞はいわば「名詞性」を備えておらず形容詞に近い」←この説明も珍しくは無いが、定冠詞は名詞ですよという「名詞マーク」説の発展として考えると、かなり意味が深い。
名詞のレベルの違いは、代名詞化においても現れる。無冠詞名詞⇒中性代名詞le,不定冠詞名詞/部分冠詞名詞⇒中性代名詞⇒en、定冠詞名詞⇒人称代名詞と、異なる代名詞に変化する、と。鮮やかなフランス文法解説である。パチパチパチ。
あまりに意識に上らないが、フランス語と英語の大きな違いのひとつが「定冠詞名詞⇒人称代名詞」である。フランス語では人称代名詞も人称専門ではないと言うことだ。名詞に性ががあるので、定冠詞がついていれば、その性に準じて、物でも彼や彼女になる。確かに英語でも複数形では、人も物もtheyで区別はなくなるが。
最後に一言。P.96に人称代名詞の表が出ている。前々から思うのだが、ラテン系の言語で一番混乱するのは、たとえばフランス語では、女性形定冠詞laがelleの直接目的語と同じ形をしている。スペイン語やイタリア語ではもっと頻繁に定冠詞と目的語で形が同じだ。慣れればどうと言うことはないが、たとえばイタリア語では、動詞や間接目的語と離れたりくっついたり、形を変えてみたり、大変だ。フランス語を例にとると、elleを人称変化させるのが面倒なので、定冠詞だけで代用しているのではないかと、勝手に思うのだが、文法史的にはどうなんだろう?英語専門の人にわかりやすく言うと、herをtheで間に合わせるようなものなのだ。
わかりやすい解説を褒めるつもりが最後はフランス文法に対する愚痴になってしまった。時間も無いのでこの文はこれで終わりにさせていただく。
・・・・・2014年9月3日・・・・・
BLOG維持のため
今日は更新日付だけ変更させていただきました。
↑Chartwell with Sheep by Sir Winston Churchill↑
今日読んだ本にこういう例題があった。
Je vais a la boucherie.
Je vais chez le boucher.
訳はどちらも「私は肉屋に行く」
以前Barbaraの歌のタイトルでJacquesに質問した時に、boucherieのrieはそれに関した品物が売る程沢山あるところ、だという面白い説明をしてくれた。つまり上のほうは、たくさんの肉が置いてあるので、それを買いに行く、というイメージなのだろう。下の方は、肉を売る仕事をしている人のいる場所に行って肉を買うということなのだろう。日本語の訳では同じだが、頭に浮かぶイメージは違ってくる。内容的に訳すとどちらも「肉を買いに行く」という意味が強い。行くという行為よりも買うという行為が重要なのだ。何故こんなことを考えたかというと、同じ本の別のところでこういう説明を見たからだ。
「visiterは場所建物を訪れることで、人を訪問するはaller voirやrendre visite aを使う、とあった。そしてrendre visiteにはchezを使えないと。chezは誰々さんチにいくという、だれだれさんの空間に入る、という感覚が強くて、その人と「会う」という感覚は薄いのだろう。その人個人というよりその人のいる空間をchezと解釈するのがいいように思う。そこへいくとaller voirやrendre visite aは人に会いにいくという意味が中心にくる、対面・触れ合い・交流である。動詞、前置詞、目的語などで、細かい区別を明確にしているように思う。
昔の中学一年生は「go to schoolに冠詞がないのは、建物本来の目的(つまり勉強する)のために行くので、冠詞はなくなる」と習ったのではないだろうか。go to churchも礼拝に行くから冠詞がないのだと。これは機能が特定した他の場所や建物を少し考えれば、ほどんどの場合この説明では外れてしまうことがすぐにわかる。むしろ冠詞のそれぞれの概念の明快な説明が必要とされるところである筈だ。
お寺とか、病院とか、学校とか、映画館とか、市役所とか市場とかは、もともと自然の存在ではなく、人間にある機能を要求されて建設されたものである。そして動かせないものだから、人間がそこへ行かなければならない。むしろそういうくくりで名詞を分類する必要があると思う。前にミシンは「縫う」という行為をするために人間に使われるための目的を持って製造された品物で、自然にあるものではなく、しかも、汽車と同じで生きて動くのではなく、エネルギーを人間に与えられて動くものだ、というようなことを書いた。病院や学校、汽車やミシンを大きくひとくくりにすると、全部が人間に役立たなくなった時点で、取り壊しても生命を奪う必要がない、という点で、言ってみれば人間の支配下にあるものだ、と言える。何をくどくど言っているのかと思われるかもしれないが、人間の支配下にあり人間の都合で存在を許されたものは、ほとんど動詞を持てない、という分類法を提案したいのだ。言語エネルギー論では、まずは名詞がどれくらいの動詞を持ち得るか、という視点から、存在物を分類していく、というのがその初論である。機会があれば、そろそろ言語エネルギー論初論に少しづつ近づいていきたい。
「フランス語の社会学」(駿河台出版社)を読んでいて面白いことに気づいた。文法上の性(P.18~P.21)。フランス語にはhe, she ,it ,they,などの生物と無生物の代名詞の違いがない。この発想はどこから来るのか?それでいて、性の区別は徹底している。どうでもいいではないかと思うのだが。太陽はフランス語では男性、月は女性、ドイツ語では太陽が女性、月は男性。性の区別の根拠など、そもそも無生物にあるわけがない。それより、名詞の分類としては生物と無生物の区別の方が圧倒的に大事だと思うのだが。そのせいかどうかわからないが、フランス語には無生物に人間の動詞を用いることできる。なるほど。そのためにフランス語では動詞の限定性が極めて薄い。こういう例が書いてあった。
Le soleil se couche. Le soleil se leve.
これを太陽が床につく、とか太陽が起きる、とか擬人的に訳さず、日本語にする場合は「太陽が沈む」とか「太陽が昇る」とか訳さなければならない。言われてみてアッと驚きである。それとも太陽を生き物と認識しているのだろうか。日本人は太陽が人間ではないことを知っているのだが。「北風と太陽」ではないが太陽は人間にコートを脱がせることができる。ものを乾燥させたり殺菌したり、なにより考えてみれば、エネルギー体そのものである。だから生き物の側に入れても、決しておかしくはない。フランス人はそこまで見抜いているのだろうか。それとも単に詩的な動詞を好んで使っているだけなのだろうか。
言語エネルギー論を考えているとき、汽車は動物だと思ったことがある。何故なら走ることができるからだ。石炭や電気のエネルギーを注入すると汽車はエネルギー体となって、動くもの、動物となる。そんなことを考えたことがある。人間だって絶食するとエネルギーが枯渇して最後には死ぬ。そう言う意味で汽車は、条件が整えば、動物になれると結論した。しかし、汽車が動物ではないのは、人間がレールを引いて、操縦してようやく動く。汽車は汽車の意思では動けないのだ。ここが違う。つまり動かされているだけなのだ。だいたい汽車とは人間が使用目的を持って作り出したものなのだから、生命体であるわけがない。結論として汽車は人間が使用目的を持って作り出したもの、すなわち不要になれば殺さずにも解体処分で消滅させることができる(物)である、という結論になった。ミシンが生命体であるかどうかを考えれば、もっと簡単にわかる。さて太陽であるが、人間が作り出したものではない。はじめから膨大なエネルギーを持つ、そして熱や光を発する、まぎれもない生命体である。フランス人はそのへんまで考えて、人間と同じ動詞を太陽に当てるのだろうか。それとも単に連想からの動詞的比喩なのだろうか。
フランス語立体読解術P.108
現在分詞と関係代名詞と動詞的形容詞
1. J'ai vu une comedienne amusant des enfants.
2. J'ai vu une comedienne qui amuse des enfants.
3. c'est une comedienne amusante.
1.が現在分詞、2、関係代名詞節(動詞)、3、動詞的形容詞。
少し前に動詞を使うと節に、現在分詞(準動詞)を使うと句になる、というようなことを書いた。1.の下線部は形容詞句、2.の下線部は形容詞節。これでわかると思う。
現在分詞は性変化しないが、動詞的形容詞は性変化する。参照:1&3
動詞的形容詞は形容詞なので変化して当たり前。現在分詞は(準動詞)なので変化しない。その代わり動詞の性格が少しだけ残っているので(時間の形骸があるので)目的語をとれる。
動詞的形容詞とは、単に動詞から派生した形容詞ということで、形容詞の分類の一つだ。amuserからamusantをつくるので形的には現在分詞に似ている。しかし上に書いた二つの理由から、区別は出来ると思う。動詞的形容詞の中には、negligeant, negligentのように動詞から派生するといっても若干かたちが現在分詞と違うものもある。
この辺で問題があるとすれば、動詞的形容詞を使うときに、自分で現在分詞とふと錯覚して、性変化を忘れてしまうことだろう。気をつけたい。
フランス語立体読解術p.84 不定冠詞の特殊用法が出てきた。
1.d'etre d'un(e) + 名詞
2.etre de + 不定冠詞 + 形容詞 + 名詞
3.d'etre d'un(e) + 形容詞(男性形)
で使われるd'etre d'un(e)は「強意の副詞」とみなされる。
その用例 Tu es d'un chic ce soir!
今晩はとてもシックだよ。(訳)
訳から見て相手は女性、だけれど形容詞は男性形。それも変だけれど形容詞に不定冠詞がつくのも変だ。このchicは名詞ではないかと疑ったが、やはり形容詞のようだ。例文は確かに形容詞につけた「強意の副詞」とみなせるが、他の上の二つは、「強意の副詞」だとはみなせない。ああ、ややこしい。36年前に買って一度も開いていない「現代フランス語法辞典」に当たることにした。
2,の用例がまず出てきた。(P.126) 形容詞は特殊形容詞と書いてある。grand, bon, beauなど。
Nicola est d'un bon naturel.
ニコラは気立てが良い。こういう使い方(d’un)、自分ができる自信がないなぁ。
3.の用例。
Sur la scene, il est d'un naturel !
舞台では彼は自然に振舞ってるね。ちょっと待って。2.のnaturelは名詞、3.のnaturelは形容詞。ということになる。この用法も特殊形容詞に限られるとある。chic, naturel, complique, naif, sans-geneなど。
1.の用法も出てきた。
Il est d'une force ! 彼は非常に強いね。そして1.の場合は名詞が特殊らしい。patience, force de travail, humeur, simpliciteなど。打ち込みが面倒なので、これくらいに留める。
用例付きの特殊用法だけでなく、納得する覚え方はないだろうか?自分で使うのはまだまだ先として、こういう文章が出てきた時に、これはなんだ、と立ち止まらなくなれば、それでいいとしよう。それを10年も続ければ、自分でも使いたくなるだろう。特殊な名詞、特殊な形容詞でしか使えないのだから、例文を丸暗記すればそれで済むことかもしれないが。後日自分が納得できる解説を自分で考えよう。使える形容詞、名詞、がどのように「特殊」なのかを、分類して考えることができれば解決すると思う。
この10年わからない単語が出てきても、どんどん読んでいく癖がついて、久しぶりに今日辞書を引いた。つまり勉強をした。問題は、
Les jeunes nippons reclament une plus grande liberte tandis que les jeunes francais, surs d'eux-meme, ( ) de la leur. ( )の答えは、usent
一方フランスの若者は自らの自由を行使した。という意味。
具体的な内容なら、se servir de, utiliserだが、抽象的な内容なので、user deを使えと解説があった。userはあまりに英語とそっくりなので、適当に理解していた。
辞書を見るとこういう例文もあった。
Il en use mal avec ses aines.(彼は目上の人にぶしつけな振る舞いをする)
wikipediaなどをどんどん読んでいる最中、今読んでいるのが英語なのかフランス語なのかわからなくなる時がある。どっちでもいいという感じだ。userなどという動詞は改めてフランス語として考えたことがなかった、正直言って。こういう似ているものほど、しっかり調べて学習しなければいけないのだろう。
そう言えば思い出した。Piafの曲に「擦り切れたレコード」Le disque uséというのがある。usedしすぎたのだな、と理解していた。Piafは最後の方で、針が同じ穴を繰り返したり、回転がおかしくなったり、それを声で表現する。Le disque uséはフランス語がわからなくても字面から、そのまま意味がわかる。
Le disque usé Edith PIAF:
この曲を初めて聞いた時に、
しっかり語法や熟語を調べて学習しておくべきだったと猛反省している。
Meaux, la Marne, la cathedrale et l'Hotel de Ville - 1971
中級フランス語 よみとく文法 白水社 西村牧夫著 第六章 5課 6課はquandの秘密、そのあたりを取りあえず書き留めておくことにする。
P.172: Quand je me promenais dans la foret, j'ai rencontre mon professeur.
これは間違いで、quandの位置をj'aiの直前に移動させると正解になるらしい。たしかにこの辺、私もよく間違う自信のないところであった。
P.175:Quand il allait en classe, il singeait toujours ses professeur.
P.175:Quand j'etais etudiant, j'ai souvent vayage avec de bons amis.
これらは、間違いではない。さてどう説明するか。
「進行中の行為・出来事を示す半過去はquandと相性が悪い」ということらしい。森を歩くのは進行中の行為なので、quandを文頭に置くのはダメ。なるほど。下の2文は「学校に通っていた頃」「学生時代」と「ある一定の時期・時代」を表しているだけなので、「進行中の行為・出来事を示す半過去」ではない、従ってOK。なるほど。それが5課の説明である。ところが6課になると、「進行中の行為・出来事を示す半過去はquandと相性が悪い」だけではなくて、「完了状態、進行行為、一時的な状態、quand +出来事」、となるとあり、必ずしも半過去とだけ相性が悪いわけではない、と説明が変わっている。半過去の場合が一番多いので、一見「半過去とquandの相性が悪い」ように見えるだけらしい。うーん、ややこしい。
P.177: Il etait plonge dans ses pensees quand on sonnna a la porte.
(彼が物思いに沈んでいると、入り口のチャイムが鳴った)
どうして日本人の多くがこの場合quandを文頭に持ってくるかといえば、日本語を読んで、チャイムが鳴ったを主節と思い、彼が物思いに沈んでいるのを「背景の状態」と考えて、従属節だと勘違いするからだろう。それが間違いだとしたら、quandの前で一旦単文として文章を切る、と思えばいい。そしてquandを等位接続詞(そしたらその時)と扱い、次の文を並列に付け加えればいいのだ。(彼は物思いに沈んでいた。そしたらその時、入り口でチャイムがなった。)そういう和文和訳を経て、仏作すると間違わなくなる。この説明がわかりやすいと思うのだが、どうでしょうか?
たとえば、最初の文章なら「森を散歩していたとき、私は先生と出会った」ではなく、まず和文和訳「森を散歩していた、そしたらその時、私は先生と出会った」と考えるわけだ。P.175の上の文章「学校に通っていた頃、彼はいつもふざけて先生の真似をしていた」を和文和訳して「彼は学校に通っていた。そしたらその時、彼はいつもふざけて・・・」などは、文章として成立しない。だからこの場合は従属接続詞としての普通のquandを使えばいいわけだ。
簡単に言えば内容的に複文にするか重文にするかを正しく判断することが決め手となる。半過去形は背景説明の用法だ、という文法説明が間違いの根本だった、ということがわかる。
Chateaux de la Loire : Chambord - 1969
白水社 中級フランス語 よみとく文法 西村牧夫著
この本を読むのは2回目。前回はさっさと読んだのだけど、ほとんど頭に残らなかった。今回もさらさら読んだのだが、接続法のところで、書き留めてみたくなった。文法書の接続法の説明では全く納得ができない。前から個人的にもいろいろ考えてみた。自分の考えと似たことが書いてあった。
P.189:こうして見ると、話し手が(X que Y)という時、情報の比重がYにかかっている時は、直接法、Xにかかっている時は接続法という法則が成立ちそうです。すなわち、主節が表す「喜怒哀楽」「判断」「頻度」などに情報のポイントがあるから、「従属節を接続法にしてその部分の主張を弱める」というのがフランス語独特の発想なのです。
私が考えたのは、Xを強調するというところは同じ。YはXよりも弱い、というところも同じ。Yは節であるが、ほとんど句のようにエネルギーが削ぎ落とされている、と解釈していた。読むとしたら気持ち的にXを大きな声で、Yはもぞもぞと小さな声で。
この本ではそのへんのところは以下のように説明している。Yが新情報であれば、直接法、Yが周知の事実であれば、接続法、となっている。つまり、周知の事実なので、「もぞもぞと小さな声」でまあ、言っても言わなくても情報は周知されている、ということだ。ぴったり合う。あとはたくさん例文を引き出して、検討すればいいだけだ。
それだけだったら、この本を読んだ価値がない。この本では、「喜怒哀楽」系の用法と「命令・願望」系の用法に分けている。「命令・願望」系の用法のYは、その性質上「まだ生じていないこと」を表す。従って「周知の事実」という解説では説明不可である。「命令・願望」系の用法の場合のYは「まだどうなるかわからない事項を現実に向かわせるベクトルが働く」のを特徴とする、と説明されている。うーん、確かに。命令というのは、なぜそうするかといえば、そうあって欲しいからだ、つまり願望と同じ。今回の西村氏の解説が素晴らしいのは、Yの情報を「周知の事実」と「まだどうなるかわからない事項」に分類したことにある、と思う。「周知の事実」というのはそれだけ情報が共有されていて既に、情報が相互浸透していて、話し手の発言を聞き手が受け入れる準備が出来ているということでもある。簡単に言うと命令法も接続法も会話の前段階である人間関係、位置関係の共有が既に出来ていなければ当然使えない、というわけだ。
・・・・・・・・・・
そういえばの話だが、昔訳したあるフランスのシャンソンのイタリヤ語歌詞、を思い出した。恋愛の歌なので「まだどうなるかわからないがそうなるように願っている」ためか、歌詞の中に、命令法と接続法が溢れかえっていた。そのほかは私はこう感じていて、これからこうしようと思うという現在形と未来形がでてくる。恋愛の気持ちを歌に託すとしたら、確かにそうならざるを得ないのかもしれない。
Marie-Paule Belleがフランス語で歌うAttendez que ma joie reviennne:
歌えるように訳されたイタリア語歌詞と文法解説:
歌えるように訳した日本語歌詞:
フランス語の歌詞と作詞作曲者Barbaraが歌うAttendez que ma joie reviennne:
このBlog何年も放置してしまった。今日gooからの(お願い)でpass wordの変更のために久しぶりに戻ってきた。それで、初歩的疑問で申し訳ないのだが、ふと思ったことを書く事にした。
これは別にフランス語に限ったことではない。
日本人から見て、なぜそんな識別が必要なのかと思うことがある。たとえば、名詞の性の区別。これがなければ、ヨーロッパ言語はかなり学習しやすくなる。しかし、それにはそれなりの必然があるのだろう。では何故、日本語に於いてはその必然を感じないのだろうか?
もうひとつは、不定冠詞、定冠詞、部分冠詞の区別。勿論文法的に説明されれば、区別はわかるが、日本語に必要のないことが、どうしてフランス語にはそれが必要なのだろうか?また何故日本人はそれらの区別なくとも、不自由なく生活できるのだろうか?
名詞と動詞をもっともっと厳密に分類する必要は以前から考えていたが、それとどこかでつながるのだろうか?正直言って解答はでていない。
1-Cette femme, je l'ai entendue chanter...
2-Cette chanson, je l'ai entendu chanter...
これはよほど注意しないと、うっかりする。前に出る名詞が両方とも女性形なのに、1-はeがつき2-にはeが付かない。直接目的補語が、不定法の主語の場合は一致、それ以外は不変化、と解説がある。この解説だけで自分を納得させることが出来ない。英語ならば1-の不定法は原形不定詞、2-の不定法は過去分詞の出番だ。何らかの区別をする必要は感じるが、2-にeが付いても、かまわないことにすればどうだろうか。
1-Je regret encore les 100 francs que ce livre m'a coute.
2-Vous ne saures jamais les efforts que ce travail m'a coutes.
1-にはsがなく、2-にはsがつく。coute, valu, couru,vecu,などの過去分詞の場合、本来の意味の場合は不変化、比喩的意味の場合のみ変化する、という解説がある。本来の意味の場合も変化させては、どうだろうか?
文法の約束事に「何故」と理由や必然性を求めるのは一見邪道に見えるが、文法には実は必ず必然性があると考えている。単複の区別や人称の変化なども含めて。しかし、上の2例に関して言えばもうそろそろ文法の方が折れて、例外をやめてはどうだろうか。
上の2例の仏文章は「謎?が解けるフランス語文法」第三書房刊 P.163より引用。
約11ヶ月ぶりのエントリーである。長々とお休みをして失礼しました。カウントを見るとこの1週間俄然訪問者が増えている。ひょっとして前ペイジのデルヴォーの絵のおかげさま?と勘繰るのは、似たような経験があるから。その場合はマン・レイが撮影したリー・ミラーの「あの・その・あれ」でした。
更新していないのに特に海外からのアプローチが突然増えた
リー・ミラー、写真入りの記事。
追記:
「言語エネルギー論」過去記事
「過去分詞の一致」というタイトルで、以前に同じようなことをとり上げていた。納得したように見えて、全然納得していないのだ。文法の方が、言語使用者にそろそろ折れるべきでは?
またいつか、この問題にいちゃもんをつけそうだ。
1. Il entra aussitot furieux chez le peintre.
2. Et, joyeux, il s'elanca sur des mers inconnues.
3. Simple et pieuse, elle gardait les moutons de son pere.
4. Je vous ramenerai a l'hotel fourbu comme un vieux cheval.
5. Tres satisfait, il mettait l'argent dans sa poche.
同格形容詞とは、つまりは副詞に転用された形容詞と見るべきなのか、etreの現在分詞形が省略された分詞構文と見るべきなのか。後者の方がやや有力だろう。
分詞構文に関しては、仏語も英語も非常によく似ている。英語同様、文章力の見せ所、うまく使えば文章が引き締まる。
ただ、修飾語の位置から、このように一気に主節と対等に近い位置まで踊り出てくることが出来る同格形容詞の用法は英語の形容詞にはない。
解説によると、(同格形容詞は主語や補語の様態、状態、心境などを示すもので、かなり自由に文の初め、中、終わりへ置かれる。)とある。(p.62)
そして例4の訳は(あなたを老いぼれ馬のようにへとへとにしてホテルへ連れ帰りますよ)となっている。
しかしfourbuの意味上の主語がJeなのかVousなのかどこで決めるのか?そしてこの場合何故Vousなのか。JeとVousを合体させたNousならまだしも。
例4のように主節の主語と同一でないものを、同格形容詞の意味上の主語として用いる場合、やはり英語の独立分詞構文のように主語を明示する必要があるのではないだろうか。
例4のような、同格形容詞は、書くほうには便利かも知れないが、読む側から言えば「これは御無体な!」と言わざるを得ない。
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「ユニオン総説英文法」田辺昌美、他著、中央図書刊のp.447を見るとこうある。
ー独立分詞構文は、ラテン語からの翻訳文の影響により発達した構文であり、もともと分詞構文とは別の構文である。-
とすると「御無体な!」などと言う前に、同格形容詞の用法の理解に、分詞構文と独立分詞構文でアプローチしようとすること自体が、そもそもの間違いなのかもしれない。
同格形容詞は、主節と同格という意味なのか?一体何と、どのように同格なのだろうか?同格形容詞などと呼ばずに、強調の形容詞と言った方がいいのではないだろうか。形容詞そのものを強調するだけならば、主語にかかろうと、補語にかかろうと「そんなの関係ねぇ!」で知らぬ顔の半兵衛を決め込むことができる。
同格形容詞と呼ばれるものは、形容詞の意味を単独に強調する用法、と解する、これで決まりだ。
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http://www.geocities.jp/planetebarbara/wonderful.wmv
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こちらはそのままL'aigle Noirをクリックして下さい。
Patricia Kaas "L'Aigle Noir" Concert 左をクリックしさらに一番上の下線部をクリックすると、今度はこの歌を聴きながら先ほどの動画がすんなり見れる筈。
参照:Brian Joubert について;
辞書を見ていた。オレンジ色でマークしている。自分で色を付けたのだろう。忘れている。文はこうだ
Tu le voudrais que tu ne le pourrais pas.
訳は、君がたとえそうしようとしたって、出来ないだろう。(仮定の帰結を表す節で)という説明がある。
仮定の条件に接続詞がない文だ。いつマークを付けたのか、その時どのように納得したのか、思い出せない。英語でもよくある、Ifを省略した条件節と多分解したのだろう。どの言語でも細かいところを考え込むときりがない。そこであっさり忘れようとしたのだろうか。
辞書には接続詞queの用法、A,B,C,D,があって、そのD(話)虚辞的用法の5番目、つまり最後の説明としてある。そもそもこの虚辞的用法は、考えるだけ無駄という代物なのだけれど。
条件法の解説でこういうのがある。
Vous seriez plus genereux, il se plaindrait.
たとえあなたがもっと、気前よくても、彼は不平を言うでしょう。
これはよく見る。これにqueが付いているだけだと、納得したのかもしれない。なにしろqueは虚辞だから、考える必要はないのだと。
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今日ひっかかったのは以下の用法。
C'est un brave garcon que votre frere Michel.
C'est une noble raison que celle-la.
C'est un tresor que la sante.
これらはさらに乱暴なqueだ。
これは辞書のD(話)虚辞的用法の1番目の説明ー(同格を導く)-に該当する。
辞書の例文はこうだ。
C'est un beau pays que le Canada.
比較文から何かが抜けたものと感じてしまうが、解説によると、一種の強調形である、とある。
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形式主語のCe-etreの項目の例文として
Sa distraction, c'est de lire.
Vivre, c'est mourir peu a peu. がある。
C'est de lireにはdeがあって、C'est mourirにはdeがない。前出の語が名詞だとdeを要し、不定法だとdeを要さないと説明がある。(p.58) さらに、
Parler n'est pas crier. と言う例文があってetreが否定の時はceを使わない、と解説がある。つまり
Vivre, c'est mourir peu a peu. は否定文になると
Vivre n'est pas mourir peu a peu.
(生きることは、徐々に死ぬことではない)としなければならない。
このあたりまでくると、文法は仕組みではなく感覚の領域に入る。フランス人が感覚であやつる領域には、日本人も感覚で到達しなければならない。
それにしても、ここに書かれた約束事に、何故それほどの普遍性があるのだろうか。その奥にある原因をやはり知りたいと思う。
参照:プチ・ロワイヤル仏和辞典 (p.1155)
参照:田辺貞之助著 「教養フランス語ー解釈篇ーLANGUE FRANCAISE Cours de Syntaxe」 白水社刊 (p.58)
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Charles Trenet : La Mer ;
Correspondances より Charles TRENET ;