言語エネルギー論

言語について考えていることを発信していきたいと思っています。共感と励ましのカキコをお待ちしています。

時を表す助動詞の機能について(1)

2006年11月30日 17時09分21秒 | 日本語

昨日触れた、日本の和歌に関しての助動詞による分析、の文章を、今日は一部抜粋することにした。
LETと書いてあるのは、作品の所有する時間的空間の略である。

・ 妹が見しあふちの花はちりぬべしわが泣く涙いまだ干なくに
  山上憶良 (万葉集)

LET要素がいくつあるかお気づきだろう。①ー妹が花を見る②ー妹が見た花が散る③ーわれが泣く④泣く涙が干るの四つで、作者は③にいる。配置は①-③-②-④で、その配置の妙を支配しているのは、いまだと言う独立語として、しゃしゃり出ている副詞を除けば、皆助動詞の働きである。「見し」のしは、過去の助動詞「き」の連体形で歌詠時点③より①を過去へ配し、「ちりぬべし」のぬべしは、完了の助動詞「ぬ」の終止形と未来推量の助動詞「べし」の終止形とが結合して、未来のある時点において、その動作が完了しているであろうという、英文法の未来完了の働きをし、未来であるということから②を③より後ろに配し、いまだ干ぬ間に完了することから④を②よりさらに後ろに配置する。これを、この作品が①~④のLETを所有していると言うのである。この作品は万葉集からフイと取り出したのであるが、面白いことに名詞の象徴性が特に強いと言うわけでもなく、心情を言葉で直接述べているでもなく、つまるところこの作品の内界は、偶然にもLET配置の妙(テイスト)に支えられていることに気づく。

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以上は昭和44年7月森林書房 山村祐発行 「短詩」 No.35
短詩を探る(A)ー作品の所有する時間的空間
(その一)時を表す助動詞の機能について(By Bruxelles)
よりの一部引用抜粋である。

(注釈):作者は今泣いている。あふちの花が散った後も深い悲しみにまだ泣いているだろう。あふちの花を見ていた妹(妻)はおそらく先に散り果ててもうそこにはいないのだろう。いかにも直情型万葉集からの短歌。
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思うに人は時代とともにスピードに挑戦してきた。世界的に進歩とは世のスピード化であると言っても無理ではない。人間は無情に経過する時を所有しようとする。今世人は過去や未来を拒否したがり何よりも今を所有しようとする。西洋文明然り。日本文明然り。しかし西洋人は時を所有しようとする裏に、ちゃんと時制を位置づける言語感覚を表記する国語を控えさせていた。が、時制の意識を表記するに不完全な国語に育った日本人は、逆にスピード化の魔術にかかり、縦の『時間』を横と錯覚する平面的思考に陥る危険に直面せねばならない羽目になってしまったのである。考えてみると、日本が世界に類のない超短詩型文学を誇りえるのは、平面的時間のみを考慮するという母国語の「長所」のみを重視するという立場で表現してきたからかも知れない。
そもそも俳句の先代俳諧の連歌が、「つ」「ぬ」「き」などの助動詞たちが虫の息に成り果てた室町時代後期に出た、荒木田森武や山崎宗鑑によって自治権を得た形式であることからも、十七音形式が、平面的時間と心中してしまう運命は臭ってくるのであるから。-(引用同上)ー

この文章は日本が誇る短詩型文学に時間の流れ、時間含有が希薄であること指摘するために筆を執ったものだ。私は当時第四の短詩型文学確立運動を展開する活動に参加していた。時間表現が希薄になった日本語に、LETを、つまりは時間を含有する動詞の多用を提唱していたのである。この引用文はそれを目的として書いたものの一部である。(Bruxelles記)


古典文法

2006年11月29日 18時57分58秒 | 日本語

今年知り合ったT美さんは半分中国人だ。3歳から20歳まで、毛沢東支配下の中国で育っている。
初めて日本に帰ってきて仕事をした時、社長のことを「おっちゃん」と呼んだそうだ。
当然社長と言う概念は資本主義社会のものだろう。
ずっと中国語の通訳をし、最近は時々株もしている。すっかり資本主義社会になじんでいる。
竹中平蔵の「経済とはそういうことだったのか」という本を先日プレゼントした。
昨日あったら、その日本語について質問が来た。

「アメリカをアメリカたらしめるもの」という表現の意味を求められた。
英訳したら「the things which have made what you call America America」というあたりでmakeを使う。日本語で言うと「アメリカをアメリカらしく特徴づけているもの」と言ったら「使役が入っているのね」と返事がきた。

「アメリカをアメリカたらしめるもの」
「アメリカをアメリカならしめるもの」
「アメリカをアメリカたらしむるもの」
「アメリカをアメリカならしむるもの」

ちょっと日本語の電子辞典を持参していたので「なる」「たる」を押してみた。近いのは「足る」「成る」・・・でも何か引っかかる。
元日本語教師として、意味だけでなく文法説明をしたくなった。その結果を以下に記す。

(1)アメリカ/ (2)たら/(3)しめる/(4)もの
角川古語辞典の登場となった。

(2)「たら」は体言接続する断定の助動詞「たり」の未然形
(3)「しむる」は未然形接続する使役の助動詞「しむ」の連体形「しむる」
しむ: 助動詞(下2段活用):「す」「さす」に先行する奈良時代の使役の助動詞、とある。あまりに古いので、他の組み合わせも検討したが、これに間違いはない。古くからの用法が特別長く現代にまで生き残ったものだ。
角川国語辞典によると
古語の「しむ」は現代では下1段活用の助動詞「しめる」と変身していて、同じく未然形接続する使役の助動詞、と紹介されている。
「しめる」はこの場合連体形である。

これですっきりした。連体形・体言に接続する断定の助動詞「なり」も「たり」とほとんど同じ役割をすることを付け加えておく。

追記:
「たり」にはもうひとつ連用形に接続するラ変活用の完了の「たり」がある。

そういえば大昔、日本の和歌を助動詞を中心に時間の概念を用いて分析した文章を書いたことがあった。そのときの記憶なのだが、現在の、過去の助動詞「た」は古語の完了の助動詞「たり」からきている、それだけでなく古語の過去・完了の助動詞は(「き」「けり」「つ」「ぬ」「り」など)全部この「た」に収束された、ということだった、のを今思い出した。


「言葉と存在」によるひとつの敗北

2006年11月23日 18時57分25秒 | 言語エネルギー論(助走編)

 言語像のかかわりからはみ出た(自由である)発想、思考ー文学とは言語のキュービズムなのだ。「霧笛が俺を呼んでいる」-たとえばこれはこの世の存在物の言語像のかかわりでは引き出せない音節だ。その文学的表現を引き出すのは(初歩的であれ)世界に由来する言語によって可能となる、文学の思考である。一言で言って「犬が吠える」はその次元ではなく「犬が笑う」が文学なのだ。後者の世界はコンビネーションの言語を、その背後に一瞬にして帯びているではないか。
 僕は、存在物の言語像を考える過程で、思いがけなく《文学の文法》を発見した。言い換えれば、僕は文学以前の言語像を探り出した。僕は疲れてしまった。-
 僕は僕の言語像の多くの動詞をあの混沌の中に投げ返そうと思った。また、僕は僕の主体を放棄して、思考を操る僕の言語体を、他の存在物たちに分散して引き取らせたくなった。「傘をさす」僕の主体を放棄して「傘にさされる僕」-と言う風にして次第に僕の正体を消えうせさせたいくらいだった。
 分散するには分解しなければならなかった。学びとった数々の所作を返し、動詞を捨て去り、無機物になったような無感覚を幾度も体験した。無機物。当然のことのように、僕は「語る」ことに非常な困難と苦痛を覚えていた。なぜなら一語一語を世界から拾い上げ、組み合わせなければならなくなっていた。

「帰ろう愛の天使たち」 P.208 & 209 より抜粋
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寄り道: Please enjoy this song.


文字の非力によるひとつの敗北

2006年11月23日 17時45分04秒 | 言語エネルギー論(助走編)

僕が全霊をこめて書き続けた手紙が館代謳子の魂に流入再生できなかったと気づかされた時、僕はあまりにも簡単に解体した。彼女を鉄棒の軸として大車輪していた僕のすべてが、もんどりうって捨てんげりだ。
気づいた時、僕は今まであれほどにも鮮やかに持っていた記憶と言うものを、ぼんやりと追いやってしまっていた。僕は過去に影響されると言うほどの記憶をほとんど消失していた。僕は体験に左右されるという僕の特性から解放されていた。積み重ねられた過去によって未来を予測していた僕が消えた。次々と予測なく現在を向かえ、瞬時刻々とそれを過去に葬り去り、ただ現在だけ、現在進行形だけが僕だった。僕は世界に、すべてから遮断されたようにポツンといた。
僕はフラフラと出歩くようになった。けれど、どこへ行っても、そして誰と会っても、いつも恐るべき違和感の中にいた。僕は僕を世界に繫ぎとめていた謳子を失くし、宙に浮いてしまったのだと思った。突然、僕の眼から涙が溢れるのだった。ぬぐってもぬぐっても・・・。ある時、涙を止めようと必死に眼を閉じた瞬間、地中のマグマに吸い込まれるように僕の存在が渦巻き揺れる幻覚に襲われた。
賀茂大橋の上で長髪を風になびかせ、欄干にしがみつきながら、激しい嘔吐に襲われている僕がいた。

「帰ろう愛の天使たち」 P.209 & 210 より抜粋

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寄り道: Please enjoy this song.


手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い

2006年11月22日 18時11分40秒 | 言語エネルギー論(助走編)

23歳のとき自分が書いた作品を「種本」にするのも、変な話だけれど「言語エネルギー論」はこのあたりがスタートなので、以下に「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」について書いた部分から3ヵ所ピックアップして引用する。

(P.201&202) これに対し、たとえばロートレアモンことあのイジドール・デュカスがおそらく皮肉にも神がかり的に比喩した(手術台の上の、ミシンとこうもり傘との)、予測を無視したそれゆえに衝撃的な(出会い)とは、そこから世界に語りださせようとする神の秩序だてた運命、という予定に対し,それを超え、(初めにありき言葉)を強引にも人為の側に奪い取ることによって(その予定の意思)を裏切ろうとする、(気づいた者のみが入り込みえる間(マ)に於ける)「さぁ、どうでぇ」という果敢な挑戦のように思えてきたりした。傲慢にも、か偶然にもか、運命の糸を人為の足元で引きずり回そうとするその根底に、自己の絶対的主権の奪還への強烈な願望を見落とすわけにはいかないだろう。そこには「被支配者側の納得」よりもさらに、超人願望とも言える、自己の支配する世界の展開が意図されている。生に伴うあの欠乏感をなし崩しにしようとする絶対主体としての人為の挑戦、現実の「間(マ)」をことごとく奪わんとする異次元の突入。シュールレアリスト達が絵画に用いたディペイズマンの手法、たとえば、僕がシュールレアリズムの神髄と驚嘆し熱愛したルネ・マグリットの絵画に於ける、全くの日常と全くの異次元との真正面からの激突、そしてその表面の無気味なまでの白々しさは、いみじくも人間が神に向かってほどこさんとする催眠術の秘法を示唆するように思えた。出会い、の瞬間に時間と空間を撹乱させ、そのスキに一挙にことごとくの現実を非現実にぬりかえ、次の瞬間にはその正位置を逆転させんばかりの催眠術。それは、G・バシュラールが「人間の領域を超えて新しい心霊論を手中に収めている」と言ったイジドール・デュカスの神がかりに通じ、現実を押し倒した透明な瞬間に於ける戦術を知る真のシュールレアリスト達の、何よりも魂の超能力こそが切り開かんとする”超現実”だといえる。・・・

(P.205 & 206) ミシンはどうか。ミシンは人間が針と糸を使ってする行為を、能率よくよりイージーにするために造った機械だ。はじめから、人間のためのある機能を要求され、要求された時点で存在を許された製造品である。ミシンはミシンと名づけられ、自動的に「縫う」という動詞を主体として持ちえるかに見える。が、あくまでもミシンは縫わされるのであって「縫う」の主体ではない。ちょうど「石が転がる」に於いて、石が「転がる」という動詞を含有しえるように見えるが、石はなにものかに転がされているのであって、その動詞の主体では決してないのと同じだ。(僕が先に、文法を離れて、と書いたのはまさにここである)。・・・

(P.207) 但し!コンビネーションの言語を考える時は、イスやミシンは、人間以上に「座る」や「縫う」と言う動詞を引きつけやすい存在物であるとはいえる。だからこそロートレアモンの「さす」を引きつけやすい(こうもり傘)と「縫う」を感じさせる(ミシン)と「手術する」を背負わんとする(手術台)との同じ時空に於ける出会いが、次の瞬間からの時の進行を、神にさえ、あわてふためかせる挑戦となりえているのである。コンビネーションの言語の作用を超えている。・・・

社会思想社刊、小川和佑編集 現代教養文庫 863 昭和50年9月初版発行
「わが1945年」 青春の記録(1)  
「帰ろう愛の天使達」ーまたは無音のシラブルの意思についてー
より「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」の部分より
3ヵ所抜粋引用しました。  (Bruxelles記)

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寄り道:
Les Chants de Maldoror」 :Le Comte de Lautreamont  (写真)


時制のVariete

2006年11月19日 18時19分35秒 | フランス語

 30数年前に時制のドリルを徹底して行ったが、混乱は増えるばかりだった。正しく使用するためには、言語による説明では捕らえきれない例外的なものを見分ける必要がある。

英語には、副詞節の中では未来形は現在形に、未来完了形は現在完了形になる、という文法がある。フランス語では単文でも会話では、これをやってしまう(但し、未来を示す副詞を伴うので誤解を生むことはないが)

(1)A-t-on bientot termine cette besogne?
(その仕事はすぐに終わりますか?) 複合過去形の勇み足用法?

直説法前過去形では、敏速を表す副詞(句)を伴って、ある行為が敏速に完了したことを示す。

(1)En vingt bonds, il m'eut depasse.
 (20とびで、彼は私を追い越した) 副詞句があるゆえに単純過去形ではなくて,前過去形を強いるのだろうか。それは何故? 迅速さを表すためだけに?  
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これで、引越し完了。途中追加原稿もすこし入れた。
今から、後を濁さないために楽天のBLOG登録解除に向かいます。

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寄り道:France 3 ニュース


不定冠詞の活用

2006年11月19日 18時06分22秒 | ドイツ語

英語から見るとドイツ語はややこしい。不定冠詞まで活用するからだ。英語はaとanしかないのに。
やはり男性、女性、中性名詞につく不定冠詞はそれぞれ性別にあわせて活用してその上1,2,3,4格と格変化までする。
性別、格別の変化自体を覚えるのはなんとか、比較的容易いと思うが、問題はこれが咄嗟に出るかどうかだ。本当に何もかも活用して、語順まで吃驚もののドイツ語、これを文章として咄嗟にしゃべる・・・!!
早い話が慣れと丸暗記しかないだろう。

私は大昔2年ほどドイツ語をやって、その時点で手紙くらいはだいたい読めるようになっていたが、いざフランクフルトに着いて、挨拶以外に何も言葉が出てこない自分に気づいて焦りまくったことがある。日常会話くらいはいけると、勝手に思っていた。
語学を学ぶものは常に謙虚でなければいけない。-
無知無能に気づくことこそ尊い経験だ。 


井戸を掘る、 または、他出動詞の概念

2006年11月19日 17時12分23秒 | 言語エネルギー論(助走編)

言語エネルギー論を簡単に言うと、動詞をエネルギーとみなす、ということ。主語がエネルギーを発し、目的語が受ける。したがってエネルギー体(生命体)でない主語は一応例外(又は文学的表現)とみなす。
これで、たいていの文法書も言語哲学もクリアーできる。
ただ、およそ25年前、目的語について書いた本「開明英文文法」林語堂著(文建書房)と言う本で、反論解説に出会ったことがある。
二つの例外が指摘してあった。

1)We make cakes. / He writes a letter.
2)He smiles a smile. / They fight a good fight.
2)は同族目的語(Cognate object)のことで、絶対必要な目的語ではない。例外と扱えばよい。1)は困った。エネルギーを受ける対象ではなく、エネルギーを受けた結果としての対象出現であるからだ。しかしこれは、メリケン粉なり便箋なりがエネルギーを受けて変身したと考えれば、OKだ。
イメージ的に引っかかったのは「井戸を掘る」という表現だった。対象がはじめに無いからである。大地に掘るという行為を繰り返して、出現させるわけだから、エネルギーの変換だと言えば、説明的にはセイフなのだけれど。
もう25年間例外保留したままだった。

最近もう一度考えてみてなんとか結論が出た。
つまり井戸と言うものは(掘る)という特定の動詞を受けた結果でしか出現しないものと言うことだ。つまり、名詞でありながら、動詞の結果を含有した名詞なのだ。
だから言語エネルギー論的にはあくまでも大地を掘るでいい。特定の動作(掘る)を受けた大地が、その行為の結果、名称を井戸と変換したと考えればいいのではないか。
井戸を結果名詞とでも言えば、いいのではないか。

考えてみれば、結果名詞の数は多い。その特徴は、受けた動作(エネルギー)と同じ動作(エネルギー)を受けることは二度と無く、それとは別の目的を持った対象物として存在すると言うことだ。
たとえば、一度書かれた本は、二度書かれることは無く、読まれる対象となるために出現存在している。作られたケーキは二度と作られることは無く、食べられるために作られた食品というカテゴリーに位置するわけだ。

こうして今日結果名詞という品詞が誕生した。

誕生で思いついたが、「赤ちゃん」と言う語は代表的な結果名詞と言える。
ただその特徴的例外として、存在の目的や、対象性が、ケーキや本のようには、そう簡単には見えないことだ。多様すぎるためなのか、一切不明なことだ。違いを明確にするために、エネルギー体結果名詞、と呼ぶことにする。

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{重要追記} 11月20日
目的語を中心に考えたので、結果名詞やエネルギー体結果名詞という名称を考えたが、途中から思考を誤った。

「本を書く」や「ケーキを作る」や「子供を産む」などで使われる動詞は動詞自体が、目的語を製作する働きがある動詞だということだ。目的語となる名詞の特徴を考えカテゴリー化するより、動詞そのものを見極める方が正しい道だと思う。
つまり動詞の中には目的語を対象としてエネルギーを向けるのではなく、目的語を対象とせず、出現させるためにエネルギーを消費するものがある、-そしてその時、目的語は対象ではなく結果出現であるー動詞性格のひとつと結論付けよう。

より厳密に「言語エネルギー論」的に説明すると、この場合のmakeやwriteは、自動詞(エネルギーを自己消費する)でも、他動詞(エネルギーが量と方向を持ってベクトル表記されうる)でもない、もうひとつ別の(対象を出現させるためにエネルギーを消費する)他出動詞、と分類できる、と言える。
「言語エネルギー論」においては、結果目的名詞などの言葉は捨てて、今後、他出動詞のほうを採用することに決定した。(とてもフレッシュな概念だと思うのだけれど。いかがでしょう?)
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寄り道:「
夕陽は現象それとも存在?」


SERの活用

2006年11月18日 15時53分33秒 | スペイン語

スペイン語の不完了過去(または線過去)の活用は自然に覚えられる。努力は要らない。SERの活用は例外的に不規則である。
era,eras,era,eramos,erais,eran
簡単と言えば、簡単なのだが、これがSERからの変化としては、変身しすぎだといつも思う。Sが無くなっている!

それは点過去も同じで
fui,fuiste,fue,fuimos,fuisteis,fueron
やはり原型がSERにしては、変身し過ぎではないの?

イタリア語のessereの直説法半過去は
ero,eri,era,eravamo,eravate,erano
スペイン語と似すぎてかえって困る。

イタリア語のessereの直説法遠過去は
fui,fosti,fu,fummo,foste,forono
これもまた活用がスペイン語の点過去にちょっと似すぎていて、こんなものを覚えたくない。せめて文法的にスペイン語の点過去とイタリア語の遠過去が似ていてくれれば、いいのだけれど、これ概念が違う。

遠過去などと言わなくても、過去は遠い。英文法的に言うと過去とは心理的remotenessだとある本に書いてあった。どの言語に於いても多分同じで過去形というものは時間の数値的なものでなく、心理的な距離だと思う。
英語は過去形がひとつだけれど、他の言語では○○過去と呼ぶものがいろいろあって、この辺が時間認識という点に於いて、物凄く哲学的、文化人類学的に、複雑化していて、特に日本人の時間認識ではどう転んでも、太刀打ちできない仕組みになっている。時間認識を哲学的に把握しなければ、語学はできない。簡単に書いてしまったけれど、大きな壁だ。  


外国語学習とは(脳の働きから)

2006年11月18日 15時44分13秒 | 日本語

NHKから出ている川島隆太著「脳を鍛える」を読んだ。
母国語か外国語かでも、脳の働く場所が違うらしい。当然と言えば当然。外国語に限らず、素直に理解できない言語を扱うときは左の前頭前野のブローカ野を働かせるとある。
もし失語症になったら、生き残った方の言語を使うしかない。その時ブローカ野は活発に役割を果たすのだろうか。

これは私の非科学的独断に過ぎないが、第2言語が第1言語の部位に移動しその代償作用を発揮するのではないかと考えている。
したがって外国語習得の最短の方法は、きわめて乱暴な手段ではあるが、母国語喪失ではないかと考えている。

母国語の部位とは何かと言うと、言語だけではなくCultureやHistoryあるいはGeneと密接に関係している。母国語は単なる言語ではない。母国語とは世界認識あるいは自己の世界内存在そのものなのだと思う。
そう考えると第2国語がその代償作用を発揮し、母国語部位に臨時政権を仮に打ち立てても、それが母国語の代用として根付くまでには何十年もの年月が必要だろう、とも思うけれど。

再び乱暴な言い方をすれば、言語は自己存在よりも存在世界の奥深くに位置している(言葉は個人が発するものではなく、世界に由来するという考え方)と発想するならば、ひとつの外国語をマスターすると言うことは、1度死ぬか、全人格の総入れ替えをしなければ不可能である、とも思えてくる。
わかりやすく言えば、真のバイリンガルとは二人を生きること、外国語学習とは必死にもう一人の自己を作り出そうとすること、だと言えないだろうか。

今回仮定に基づいて論を進めてしまったが「かもしれないと思っている」だけなので、どうかお許し下さい。
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寄り道:Gameの宣伝ではありません。こうして海外に浸透する新しい日本


イディオム(2)

2006年11月17日 17時53分26秒 | フランス語

わかりやすいのをわざわざ書く必要もないので今日は覚えにくい、忘れやすい(4)の例を5つ挙げてみたい。

(1)etre timbre=to be stamped
これがto be nutsという意味。たとえば、
Le conducteur est timbre. Il conduit sans regarder la route.
storyでも作って覚えなければ、すぐ忘れそう。連想は効かない。

(2)etre completement allume= to be completely lit up
なにか博識かと思いきや、これもto be crazy.
Ce type est completement allume. Je crois qu'il n'est pas tres reasonnable.のように使われる。

(3)coincer la bulle= to get the bubble stuck
Nous travaillons dur pour preparer ce barbecue en foret, et lui,il coince la bulle? のように使う。
to hit the hay, to take a napという意味。どこでどうこじつければいいのか、創作の必要がある。

(4)raser les murs= to shave the walls
壁を剃る? ちょっと想像がつかない。
Depuis , il rase les murs, il sors tres peu de chez lui, on ne voit pas sa photo dans les journaux.
これは、to keep a low profileということ。

(5)casser les pieds a quelqu'un=to break someone's feet
Arrete! Tu me casses les pieds! Ton histoire n'est pas du tout interessante.のように使われる。意味はto get on someone's nerves, to bore someone stiff
足を壊されるという感覚がどうもわかりにくい。興味のない人物が興味のない話をうだうだ言ってくる、経験は多いが、それで足を壊されているという感覚は、う~ん、わかりにくい。
時間があれば、もう少し続けてみたい。(つづく)(続くと書きながら、これは続けていません。また後ほどね)

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寄り道:「
Une autre lumiere
 par Marie Paule Belle
(「見えない鳥の存在(9)」の11番目)


イディオム(1)

2006年11月17日 17時38分48秒 | フランス語

 イディオムには
(1)他の言語から類推できるもの
(2)イメージ的にわかるもの
(3)よく考えると納得できるもの
(4)イメージがつかみにくいもの
などがある

(イ)Ce n'est pas le Perou.=It's not Peru
これは(3)か? It's nothing to write home about,it's no great fortune.という意味。

(ロ)Ce n'est pas la mer a boire=It's not the sea to drink.
何も海の水を全部飲めと言っているわけではない、不可能な要求ではない。これは(3)と(4)の間?

(ハ)ramasser une buche=to pick up a log
これは(4)転げ落ちる、転倒するは、なかなか出てこない。覚えにくい。

(ニ)Une truie n'y retrouverait pas ses petites=そこではブタは子豚を見つけにくいだろう。これが散らかっているという意味。なるほど、とも思うけれど、1年もたてば忘れる可能性が大。これは(3)か?

(ホ)appeler un chat un chat
これは(1)英語にto call a spade a spadeと言うのがある。a spadeが
un chatに変わっているだけで後は同じ。言いにくいことをはっきり言うと言う意味。
 もうちょっと続けてみよう。(つづく) 

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寄り道: 
カメルーンの子供の歌、近々Paulの歌声もここでお聞かせします。


KANGOUROU

2006年11月16日 18時55分27秒 | フランス語

ひとつの単語の意味を云々するのはこの場での本意ではないが、今日はKangourouを取り上げる。

男性用のブリーフパンツのことをフランス語でKangourouと言う。なるほど、想像可能な言葉の意味だ。

英語でKangarou courtと言えば,私的裁判、リンチのことである。また英語でKangarou closureと言えば、議長が議題として取り上げる価値を認めた案件のみを討議し、他は討議を打ち切ることを言う。Kangarou courtからこの意味は充分類推できる。

しかしそもそもKangarou courtは何故Kangarou courtなのだろうか?何か語源を辿れそうな気がする。

Captain Cookが1770年にオーストラリアのQueenslandに上陸した時、この飛び跳ねる動物を見て原住民に「これは何か」と尋ねたところ「Kangarou」と答えたと言う。ただ、これは現地語では「あなたの言うことが理解できません」という意味だった、という説がある。

・・・・
以前オーストラリア人の同僚でティッシュ(パトリシア)という女性がいた。オーストラリア人女性の同僚は他にも何人もいたが、ティッシュは若くて博学(特に古い音楽に関して)で、食事をしながら、一緒にオールディーズを大声でよく歌った。図鑑を広げて、オーストラリアの珍しい動物について色々話してもくれた。
私にとってKangarouは、やはりイメージ先行で身近とは言えない動物だが、オーストラリア人のティッシュにとってKangarouは、ニュージーランド人のJudy(元同僚)にとってのKIWI(無翼鳥)と同様、きっと一番身近な動物なのだろう。   

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寄り道:
読みながら、
聞きながら


ハイはウイって言うんだよ。

2006年11月16日 18時34分28秒 | フランス語

語学学習には途中に何度か壁がある。それが当然。
野球のルールブックをちらと見て、野球ができると思い込むのは、滑稽というものだ。

今話題の構造計算、をしていたMから電話がかかって来た。
「最近フランス語を勉強したおかげで、フランス映画をみてもよくわかるようになった」
「えぇ!!字幕なしでわかるの?」
「そう、一度会わないか」
・・・吃驚して会うことにした。会ってさらに腰が抜けるほど吃驚した。

久々にノコノコ出てきて驚嘆の眼を向けている私を見て、Mは大満足、終始ニコニコ、ご機嫌であった。
「フランス語ではね、ハイはウイって言うんだよ。ハハハハハ・・・」
「オナカガスイタはジェファンって言うんだよ。ハハハハハ・・・」
「アイアムはジュシだよ。ハハハハハ・・・」
(上機嫌の人に、腰が抜けたとは言えず・・・)

B「フランス語は動詞の活用が難しいから、六ヶ月位じゃ、直説法の一人称を2,3個言えるくらいが、現状でしょうね」
構造計算士M「あのね、フランス語はそもそも動詞の数が極端にすくないんだよ。辞書の後ろを見てごらん」
(私)「えぇ!!動詞の数が少ないって,辞書の後ろって(ひょっとしてそれで全部と思ってるの?)!!!」

30年程前に私がフランスに語学留学したことをすっかり忘れているのだろうか。語学の専門学校で私がフランス語を教えていることを、すっかり忘れているのだろうか。ひょっとしてボケた?

信じられないかもしれないけれど、「語学ができる」という人にMのような人は結構いる

・・・・・・・・・・
寄り道:
読みながら、
聞きながら(1)。
読みながら、聞きながら(2)


学習法

2006年11月15日 19時46分00秒 | 英語

中高合わせてたいていの人は6年間英語を学ぶ。予習復習と称してテクストをノートに書き取り、授業で自分の試訳をチェックしていく。
このような学習法は百害あって一利なし、だと私は思う。
予備校の生徒達は解説よりも和訳を欲しがる。「構造が理解できれば、和訳の必要はないでしょう」と言うのだけれど、「和訳がなかったら、家に帰って復習できないし、理解した気分、授業を受けた気分になれない」と言う。
そういう人には、和訳をまず最初に与えることにしている。その上でどんどん質問していく。文章を読み取ることと、和訳を得ることはまったく別次元だと知って欲しいからだ。
ちなみに語学学習として、私は和訳は一切しない、訳はあっても見ない。これは大昔から一貫している。

語学学習メソッドというのは,毎年毎年開発されている。やれコミュニケーション重視だ、ロールプレイイングだ,視覚だ、聴覚だ、パターンドリルだ、入れ替えだ・・等など。
自分の目的にあわせ、学習方法も独自に開発するのが一番いいと思う。
人は何事でも、この工夫する努力で差がつく。

問題は語彙だ。語彙を増やさなければ、学習は広がりを持たない。経済、国際政治、法律、科学、哲学、医学、等など何でも各分野には独自の単語が存在するので、それらをマスターしなければ,その分野は語れないし理解も出来ない。ただ語彙は文法が完璧になった後の話だ。
昔から「単語」が大事か「文法」が大事か受験生はよく質問してくるが、当然文法だと私は思う。

日本人は会話力が低い、これは学校で文法ばかり教え、実践力を教えないからだと、よく言われている。私に言わせれば、その原因は「学校で文法を全く教えていない」からだ。では学校では何をしているのか。あくまでも一般論だけれども、学校では百害あって一利なしの「和訳」を重要視し教えている。
あなたの学校がもしそうであれば、そして最短距離で語学を学習したければ、授業には出ない方がいい。

「和訳」はすでに出来上がっている西洋料理を、日本料理に調理しなおして食する行為に似ている。西洋料理は西洋料理のままで味わってこそ、その発想やカルチャーまで手が届くと言うものだ。

寄り道:
今日はYOU TUBEへ。
Neil SEDAKA "Oh! Carol"