昨日触れた、日本の和歌に関しての助動詞による分析、の文章を、今日は一部抜粋することにした。
LETと書いてあるのは、作品の所有する時間的空間の略である。
・ 妹が見しあふちの花はちりぬべしわが泣く涙いまだ干なくに
山上憶良 (万葉集)
LET要素がいくつあるかお気づきだろう。①ー妹が花を見る②ー妹が見た花が散る③ーわれが泣く④泣く涙が干るの四つで、作者は③にいる。配置は①-③-②-④で、その配置の妙を支配しているのは、いまだと言う独立語として、しゃしゃり出ている副詞を除けば、皆助動詞の働きである。「見し」のしは、過去の助動詞「き」の連体形で歌詠時点③より①を過去へ配し、「ちりぬべし」のぬべしは、完了の助動詞「ぬ」の終止形と未来推量の助動詞「べし」の終止形とが結合して、未来のある時点において、その動作が完了しているであろうという、英文法の未来完了の働きをし、未来であるということから②を③より後ろに配し、いまだ干ぬ間に完了することから④を②よりさらに後ろに配置する。これを、この作品が①~④のLETを所有していると言うのである。この作品は万葉集からフイと取り出したのであるが、面白いことに名詞の象徴性が特に強いと言うわけでもなく、心情を言葉で直接述べているでもなく、つまるところこの作品の内界は、偶然にもLET配置の妙(テイスト)に支えられていることに気づく。
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以上は昭和44年7月森林書房 山村祐発行 「短詩」 No.35
短詩を探る(A)ー作品の所有する時間的空間
(その一)時を表す助動詞の機能について(By Bruxelles)
よりの一部引用抜粋である。
(注釈):作者は今泣いている。あふちの花が散った後も深い悲しみにまだ泣いているだろう。あふちの花を見ていた妹(妻)はおそらく先に散り果ててもうそこにはいないのだろう。いかにも直情型万葉集からの短歌。
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思うに人は時代とともにスピードに挑戦してきた。世界的に進歩とは世のスピード化であると言っても無理ではない。人間は無情に経過する時を所有しようとする。今世人は過去や未来を拒否したがり何よりも今を所有しようとする。西洋文明然り。日本文明然り。しかし西洋人は時を所有しようとする裏に、ちゃんと時制を位置づける言語感覚を表記する国語を控えさせていた。が、時制の意識を表記するに不完全な国語に育った日本人は、逆にスピード化の魔術にかかり、縦の『時間』を横と錯覚する平面的思考に陥る危険に直面せねばならない羽目になってしまったのである。考えてみると、日本が世界に類のない超短詩型文学を誇りえるのは、平面的時間のみを考慮するという母国語の「長所」のみを重視するという立場で表現してきたからかも知れない。
そもそも俳句の先代俳諧の連歌が、「つ」「ぬ」「き」などの助動詞たちが虫の息に成り果てた室町時代後期に出た、荒木田森武や山崎宗鑑によって自治権を得た形式であることからも、十七音形式が、平面的時間と心中してしまう運命は臭ってくるのであるから。-(引用同上)ー
この文章は日本が誇る短詩型文学に時間の流れ、時間含有が希薄であること指摘するために筆を執ったものだ。私は当時第四の短詩型文学確立運動を展開する活動に参加していた。時間表現が希薄になった日本語に、LETを、つまりは時間を含有する動詞の多用を提唱していたのである。この引用文はそれを目的として書いたものの一部である。(Bruxelles記)