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言語エネルギー論

言語について考えていることを発信していきたいと思っています。共感と励ましのカキコをお待ちしています。

他者の尊重

2013年10月02日 21時02分44秒 | イタリア語

当たり前過ぎることなので、書いていないと思うのだが、今回は取りあえず書いておくことにする。
Vuole aprire la finestra?
(1) あなたは窓を開けたいですか?
(2)窓を開けてもらえますか?
どちらの訳も可。こういうことは日本語ではありえない。
(1)では相手の意思を聞いている。(2)ではこちらの願望を伝えている。
イタリア語に限らず、こちらの願望をお願いするときにも、欧米語では「相手の意思を尋ねる」ということだ。願望をぶつけるのではなく、あくまで相手の意思を問うている。他者の尊重がここまで徹底しているということか?
窓を開けてもらえますか?という日本語は確かにこちらの要求にすぎない。あなたは窓を開けたいですか?という表現は相手の主体を尊重している。
答える方は「自分の気持ちで答えを言えばいい」つまり嫌なら嫌と言える権利を自分が持ち得るということだ。一方日本語の「窓を開けてもらえますか?」は答える方はいきなり相手に要求を突きつけられているという立場に立たされる。常識的に考えて「嫌です」とは言いにくい。日本語は本来控えめな言語であるはずなのに、欧米語に比べて、丁寧とは言え、要求がストレート過ぎないか?他者の尊重が足りなくはないか?

このことに気づいたのは、初めてs'il vous plait, を知った時だった。「お願いします」という日本語訳をあてるが、直訳すると、「あなたがお嫌でなければ」とか「あなたにそうするお気持ちがあれば」とかという意味になる。英語のpleaseにしても本来If you pleaseで「もしあなたにお気持ちがあれば」というニュアンスがある。日本語にすると「お願いします」になるが、なんだか日本語の方が押しが強い。

「何何してください」とか「何何してもらえますか」と依頼・要求をする場合、日本語でも、話すときの気持ちとして「もしご都合がよろしければ」とか「差し障りがなければ」とか「ご迷惑でなければ」とか、口に出さないまでも、そういう気持ちをそっと添えて、言ったほうがいいだろう。


うっかり間違うsiの練習問題

2008年05月31日 16時39分08秒 | イタリア語

問1.Maria si e comprata un videoregistratore.
       直接補語人称代名詞を用いてQuandoで始まる文に直せ。
答1.Quando se l'e comprato Maria?
うっかり1.comprataのままにしてしまううっかり。comprataはMariaに一致し、compratoはloに一致している。

問2.Da Nina ci divertiamo sempre.
       非人称siを用いた文に。
答2.Da Nina ci si diverte sempre.
うっかり2.下のciはciと同じではなく、単にsiと入れ替わったものだと言うことをうっかり忘れて落とす。

問3.Non devi comportarti in questa maniera.
       問2、と同じ。
答3.Non ci si comporta in questa maniera.
うっかり3.ciを忘れる。comportartiのtiを見落とす。えぇ?あり得ない?

問4.非人称のsiを用いて作文せよ。
   昨晩私達はその中華料理店でおいしい食事をしました。
答4.Ieri sera si e mangiato bene in quel ristorante cinese.
うっかり4.私達なのでmanigiatiにと、うっかり。非人称主語を使うと複合時制の場合,mangiareのように本来avereをとる動詞の場合のみ過去分詞は、男性単数形となる。これなど、いかにも、な落とし穴。

再帰動詞だけでも、近過去形など、ややこしいのに、siを使う受身形とか、非人称のsiとか、かなり混乱させる。非人称にsiなど使うのは、良くない。フランス語のようにonとか、区別の明らかなものにしてもらいたい。
またフランス語の副詞的人称代名詞enの働きに似ている、イタリア語の代名小詞neはフランス語の否定副詞neとそっくりな上、その位置も微妙なので、うっかり混同しやすい。(そんな奴おらんやろ、ってか?小玉ひびきかっ!)

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lucienne delyle gelsomina(du film la strada)
La Strada (1954) - Federico Fellini
bella ciao :
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部分冠詞

2008年05月07日 17時11分46秒 | イタリア語

イタリア語に限ったことではないが、冠詞には苦労する。冠詞の使い分け、特に部分冠詞の存在。
前置詞と定冠詞の結合形は、慣れやすいし、簡単なのだが、部分冠詞と呼ばれるものは、前置詞di+定冠詞の結合形とそっくりなのだ。部分冠詞には、数えられないものの単数形名詞、数えられる複数形名詞の不特定の個数を示す、という働きがある。
全体の部分という発想からdi+定冠詞と同じ形をとるのは理解できるのだから、部分冠詞という特別な文法用語は必要ない気もするが、それでは前置詞di+定冠詞の結合形の中に組み入れ可能かといえば、そうではない。だから、部分冠詞という概念は必要なのだ。
ただ英語ではsomeひとつなのに、部分冠詞というものは、男性、女性、単数、複数によって形が変化する。せめて、変化しないsomeのような語を発明できないものだろうか。
文法事項として、前置詞と定冠詞の結合形というのは簡単なのだが、こんなものは学習者から言えば、英語のように無い方がいい。だが実際使ってみると、多少機能はあってもほとんど意味の無い、前置詞や定冠詞を縮約してしまいたい気持ちもよく理解できる。慣れれば、便利なのだから。
ただ、部分冠詞の方は、いつまでたっても便利とは思えない。someのような語を発明するか、いっそのこと部分冠詞という概念は残しても、文法表記は無くしてしまってはどうだろう。
Comprano dei fiori.ではなく、Comprano fioriに。
Beviamo dell'acqua.ではなく、Beviamo acqua.に。
改善はされても、なにひとつ支障をきたすことは無い、と思うのだけれど。
そもそも数えられないものや、不特定の個数にまで、部分冠詞等という冠詞をつける必要が(しかも変化までさせて)あるのだろうか。

追記:2008年5月19日
英語のsomeに相当する、不定形容詞alcuno(語尾変化あり)、及びqualche(無変化)をうっかり忘れていた。忘れるくらいたいして意味もないのだから、部分冠詞及びそれに類似するものはやっぱり初めから要らない。(そんなこと、勝手に決めてもいいの?うん。ここではいいの。言ってるだけだから)

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Music :
O Mare e Tu - Andrea Bocelli & Dulce Pontes 
Music : Ennio Morricone, "
The Ballad Of Sacco And Vanzetti", Warsaw
「Sacco とVanzetti」に関しては、ずっと昔に石垣綾子氏の御著作を読んで知った。石垣氏は大騒ぎになっているその現場にいらしたので、読んでいて非常にリアリティーがあった。
資料 :「
Sacco とVanzetti」 
Video of the Sacco and Vanzetti 2007 Commemoration March in Boston :


過去の推量に用いる前未来

2008年04月17日 16時07分44秒 | イタリア語

いまさらながらの感はあるが、初心者の時にオヤッと思ったことは、深く検証する必要があるので書き留めておきたい。

A questa ora, saranno gia tornati a casa.
(今頃、もう彼らは家に帰っただろう。)
前未来の「過去の」事柄の推量の機能。
英語にはこういう未来完了の用法は無い。フランス語にはある。
J'aurai laisse mes lunettes en haut. Courez vite me les chercher.
(眼鏡を2階に置いてきたらしい。急いで取りに行ってください)
結構頻繁に登場するので、親しみやすいのだけれど、前未来が過去の推量になる、という点が、気になってしまう。

未来のことは考えれば、すべて推量だ。しかし、過去でも直接確認できる過去で無い限り、やはり推量になる。
「明日の3時にはその手紙を受け取っているだろう」
「昨日の3時にはその手紙を受け取っていただろう」
両方とも、未確認の推量という点では、心理的不確実性は等しい筈だ。
従って、未来を推量する機能=過去を推量する機能、という等式が成り立つのだろう。
英語ではそういう形をとらないのは、英語には便利な推量の助動詞なるものが存在するためだ。

過去形とはRemotenessだと、以前に書いたことがあるが、時制とは、時間の線的位置関係というよりも、不確実さや想念や不安や願望などを織り交ぜた、現時点からの遊離感覚を現すものではないだろうか。
つまりコンパスの片足を常に現在に置くとすれば、「未来推量」=「過去推量」を納得することが出来る。
いつかこれと同じ視点で、また別の文法事項を考察してみたい。

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GIGLIOLA CINQUETTI - NON HO L'ETÀ :
ORNELLA VANONI-albergo a ore 


納得させて

2006年11月13日 19時15分56秒 | イタリア語

Scusi,dove si vendono i biglietti dell'autobus?
Scusi,dove si vende un biglietto dell'autobus?

動詞の活用形は上のように目的語が複数なら3人称複数形、下のように単数なら3人称単数形となる、とどの文法書にも書いてある。しかし目的語の単複に応じて活用形が変わるということに慣れないものだから、どうも納得ができない。それに第一i bigliettiもun bigliettoもこれは主語ではないの?納得できない。 
非人称ととるか受身ととるか、が関連してくる。すっきり納得したい。

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ちょっと寄り道:
MILVAの歌う「
ALBERGO A ORE」の歌詞とその訳
「見えない鳥の存在(4)」の11番目をクリックして歌を聞く。


仮定法

2006年11月12日 15時24分08秒 | イタリア語

フランス語、スペイン語、イタリア語は文法が似ているので、かえって混乱する。規則や文法用語等が微妙に違うからだ。仮定法を少し整理しておきたい。

(1)
現在または未来の事実に反するか、あるいは実現が極めて難しい仮定の場合、仮定を表す従属文は接続法半過去を、帰結を表す主文は条件法現在で表現する。ここで接続法半過去なるものが出てくる。
Se fossi piu giovane, uscirei tutte le sere.
(もし若かったら、毎晩遊びに行くのに)
Se finissi di lavorare prima,potrei fare un po' di spese.
(仕事が早く終われば、少し買い物ができるのに)

(2)
過去の事実に反する仮定の場合。仮定を表す従属文は接続法大過去を、帰結を表す主文は条件法過去で表現する。ここで接続法大過去、条件方過去という言葉が出てくるが、ここは複合形になるだけだ。
Se avessi saputo che non manji la carne, non avrei preparato l'arrosto.
(君が肉を食べられないと知っていたら、ローストビーフは作らなかったのに。

(3)
口語イタリア語では過去の事実に反する仮定文は両方、直説法半過去で表現することがある。
Se partivamo prima, non trovavamo cosi tanto traffico.

英語に比べ動詞の活用が多いので苦労することは間違いない。念のため条件法現在の活用も再確認しておく方がよい。いずれにせよ接続法半過去もきっちりマスターしなければ、仮定文は言えない書けないことになる。
比べてみれば、英語の仮定法は楽だった。
よく眺めれば、直説法遠過去(こういう呼ぶ名はイタリア語にしかない)に比べれば、接続法半過去の活用のほうが(似ている分ややこしいが)より規則的で簡単といえるだろう。
条件法現在、接続法半過去、直説法遠過去、この3つがどことなく似ているのが、単なる慣れの問題なのだろうけれど、大きな難関だ。咄嗟にはなかなか出ない。

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ちょっと寄り道:
べつのBLOGでBruxellesが解説しているイタリア語で歌われるシャンソンをご覧ください。
ASPETTANDO CHE LA GIOIA TORNI
 : Raffaella BENETTI
Chanson Circuit」の(3)をクリックして、出てきた画面の右上のつまみをクリックして「REAL PLAYERで再生」でお楽しみください。


所有形容詞(2)

2006年11月03日 17時35分38秒 | イタリア語

所有形容詞の前の冠詞は、名詞が親族の場合、省略される。ただしその例外がある。以下の場合は省略されるはずの冠詞が、例外の例外として復活する。

(1)複数名詞の場合: i tuoi genitori(君の両親)
(2)他の形容詞を伴う場合: il moi caro zio(私の親愛なる伯父さん)
(3)変意語: il suo nippotino(彼の姪) la mia sorellina(私の妹)
(4)loroは常に冠詞を付す il loro zio(彼ら、彼女たち、あなた、の伯父さん)

例外ひとつに対して例外の例外が4つとは、いくらなんでも多すぎる。単に文法的まとめ方が悪い、だけなのではないか?
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冠詞どころか、日本語では一般的に所有形容詞もあまり使用しない。
おじさんの車、とは言っても、私のおじさんの車とはあまり言わない。彼のお父さんにさえ「お父さんは巨人ファンですか?」などと、2人称扱いで使う場合もある。
「じゃ、車で行こう」と言うとき、彼の車の場合も、私の車の場合もありえる。
思うに、逆に、日本語のほうが、所有関係や親族関係をあいまいにし過ぎる言語なのだろうか。
「おばあちゃん」や「おじいちゃん」になると、もう誰のおばあちゃんか、おじいちゃんかは、ほぼ問題ではないような使われ方をしている。
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昔NHKに宮田輝というアナウンサーがいた。
「おばあちゃん、お年は、いくつですか?」とまるで幼児に言うようなイントネイションで老人に話しかけていた。
私の祖母はそれを見て「年寄りをおしなべてアホ扱いしている」と嫌っていた。「こんな人に馴れ馴れしくおばあちゃん等と言われたくない」そう思っていたに違いない。「私はあなたのおばあちゃんではありません」そう言いたかったのだろう。

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寄り道:Lucilla Galeazzi (Italie)


所有形容詞(1)

2006年11月03日 17時32分02秒 | イタリア語

Non riesco a trovare il mio bagaglio.
(私の荷物が見つかりません)

イタリア語の文章を見ていつも思うのは何故所有形容詞がついているのに、さらに冠詞が必要なのかということだ。

il moi bagaglioはthe my baggageと言っているようなもの。

所有形容詞が性と数によって変化するのはもう慣れた。が、冠詞とダブルのは、自分自身をまだうまく納得させることができない。
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国際外語学院でフランス語を教えていたことがある。語学入門以前のカルチャー入門目的のクラスだった。専門学校なので大卒や短大卒の人たちも3分の1くらいいた。やさしいやさしい試験問題も作成した。それでも9割以上の学生が間違えたのは、この所有形容詞の扱いだ。フランス語でもイタリア語でも、英語とは違うのだ。
彼の車は英語ではhis carだが、イタリア語でもフランス語でも所有者が彼であっても、車が女性名詞の場合は、所有形容詞は女性形を使う。初心者の人たちがまず躓くのは、このあたりかも知れない。
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イタリア語に話を戻すと、所有されるものが親族を表す場合には、冠詞を付けないという、例外がある。
mio padre(私の父)  suo marito(彼女の夫) 等など。
なるほどと思ったのはいいが、後々これにたくさんの例外が出てきて、うんざりしてしまった。この例外については、次回に回す。(つづく)


目的格補語人称代名詞(3)

2006年11月03日 17時26分47秒 | イタリア語

(1)Le sono caduti gli occhiali. (メガネが落ちましたよ)

(2)Le sono grato per tutto quello che ha fatto per me.
   (私にしてくださったことに対して感謝申し上げます)

このようなLeに類似したものは英語にはない。
(2)のほうはFor youだと思えば、何とかなるが
(1)のほうは手ごわい。身体からの着脱表現や利害損得関係のある文によく登場する。メガネがおちて、あなたはお困りになるでしょう・・のニュアンスが入る。

  Mi cadono i capelli.(私の髪の毛が抜ける)
  Gli  sono caduti i denti.(彼の歯が抜け落ちた)

これ等日本語で考えれば、所有形容詞を使えばいいと思うのだけど、あえてここで間接目的語を使うのは、何故なんだろう。主体となる人間が困った、という感じを出すためだろうか。事実を事実としてだけでなく、心情をも同時に表現しているようにも思える。


目的格補語人称代名詞(2)

2006年10月31日 19時30分47秒 | イタリア語

目的格補語人称代名詞(1)の続き。
目的格補語人称代名詞はややこしい。

(4)イタリア語学習初心者がギョッとするのは、間接目的語と、直接目的語を両方とる場合だ。これでギョッとしないほうがむしろおかしい。
直接目的(lo/li/la/le)の前にくる(mi,ti,ci,vi)は一瞬のうちに変化して、これが(me,te,ce,ve)になってしまう!!
さらに3人称の彼に「gli」、彼女に「le」彼ら(彼女ら)に「gli」の場合は
単数も複数の彼も彼女もすべてglieという形に変身して、おまけに直接目的語と、語と語がくっついてしまう。

Do questo libro a Maria.(私はこの本をマリアにあげる)は
Glielo do.になる。初めてGlielo do.等と言う形を見て、吃驚しない人がいたら、よほど感性が鈍感になっているとしか思えない。

(5)何と言っても一番紛らわしいのは、間接の彼女にのleと、直接の複数の彼女ら(それら)を、のleが同形だと言うことだろう。
直接目的の彼女らをの場合の複数形か、間接の彼女にの場合の単数形か、・・ここは手抜きせずに何か、たとえば、leとlasくらいの区別を付けてほしい。

(6)間接目的の3人称複数の人称代名詞はgliだけれども、loroというかたちもある。やれやれ。どっちかひとつにしてほしい。

(7)近過去時制の文の中でlo.li.la.leなど、直接目的格補語代名詞が用いられている場合、その目的語の性数に過去分詞の語尾を一致させなければならない。・・・本当はこの規則はかなりややこしいのだが、これはフランス語でも同じなので、ややこしいイタリア語の「目的格補語人称代名詞」の中では、一番たやすい約束事に思える。  


目的格補語人称代名詞(1)

2006年10月31日 19時17分45秒 | イタリア語

(1) La ringrazio di essere venuto fino a qui.
       (ここまで来て下さってありがとうございます)

(2) Le offro qualcosa. (何か差し上げます)

差し上げる場合は、相手と差し上げる物がなければ差し上げるという行為は完了しない。したがって二重目的語をとる。感謝する場合も、相手と感謝の対象がなければ、感謝するという行為は完了しない。しかし(1)の下線部は直接目的語にはならない。感謝するという動詞は人間を直接目的語にとる。感謝の内容はワンランク下の要素でしかない。

実際学習している人には良くわかると思うが、このLa(直接目的語)とLe(間接目的語)の使い分けはイタリア語学習者の落とし穴のひとつではないだろうか。日本語で言う「誰々に感謝する」は、どう考えても、間接目的語を連想してしまうからだ。
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目的格補語人称代名詞はややこしい。

(1)Laはフランス語の女性形定冠詞であるし、Leは男性形だ。うっかりするとハナから定冠詞だと錯覚してしまうときがある。

(2)Leは彼女に、とあなたにの両方、Laは彼女を(それを)とあなたを、の両方があるので、慣れないと少し混乱する。
ついでながら、彼にはgli、彼をはloを用いる。彼女とあなたでは、2人称と3人称の違いがあるのに、どうして明確に区別して表記しないのだろうか。

(3)私に(mi)君に(ti)私たちに(ci)君たちに(vi)の間接目的語は
私を(mi)君を(ti)私たちを(ci)君たちを(vi)の直接目的語と同形だ。
ズボラと言えば、ズボラ、手抜きと言えば、手抜きのような気もするが、直間を区別する必然がさほどないのだろう。
          
         (続く)・・・   


初心者のビックリを大切に

2006年10月31日 18時48分01秒 | イタリア語

イタリア語の男性形定冠詞はIL(これはフランス語の男性単数人称代名詞と同じ形)だ。ただ例外がある。母音で始まる場合は、LOとなり、Oが省略されてL'となる。(例 l'uovo 卵)
もうひとつILがLOとなる場合がある。

次にくる名詞が、S+子音やZで始まる男性名詞の場合も、定冠詞はILがLOになる。
(例 lo studenteー学生、lo sbagliー誤り、lo zucchero-砂糖)

S+子音、Zで始まる云々だけが、何故例外になるのか、どうもよくわからない。il studenteではなくて lo studenteになる必然だ・・そこに何があるのだろう。音が原因か?????

追記:::
単数男性形でloになる場合は複数形ではgliになる。gliという形の定冠詞を見たときは、ショックを受けるほど驚いた。この驚きは、このサイトの一番初めの記事にも書いた。それくらいの驚きだった。こんな形の定冠詞なんて。


Ci と Si

2006年10月28日 15時06分47秒 | イタリア語

Ciの用法はあまりたくさんあるので今日はそのうちのひとつだけ。再帰動詞と非人称のSiを同時に用いた場合に登場するCi。

Ci si lagna per cose da nulla.
(つまらぬことで人は不平を言う)
Ci si alza presto la mattina in casa nostra.
(私どもの家ではみんな早起きです)

これは本来Si(非人称の)なのだが、Si,Siと重なるので、それだけの理由で変化したCi。Siのままでいてくれた方が、有難いのだけれど。

・・・・・・・・・・・・・
上が迷惑なCiだとしたら、下は迷惑なSi。

In chiesa si entra lecentemente vestiti.
(教会にはそれなりの身なりで入るように)

当然非人称のSiで動詞の活用も単数形。然るにvestitiが複数形になる。Perche Percheと叫びたくなる。叫ばないのは感性が鈍化している。
実際こういう矛盾の中にこそ、言葉の真理が見つかるものなのだ。

ついでにもうひとつ迷惑なSiはこちら。

Si e bevuto e si e ballato fino alla mattina.
(朝まで飲んで踊った)

bere, ballareがどうして近過去で「essere+過去分詞」になるの?
ここまでくると言葉の真理が隠されているというより、文法が未整備なだけだと思えてくる。


言葉はどう記憶されるか?

2006年10月25日 21時20分18秒 | イタリア語

confezione 名詞(女性)
1.(主に小さなものの)包装、パッケージ 2.(衣服の)仕立て 3.(複数で)既製服  4.[薬学用語として](製剤の)剤形
・・・・・・・・・

衣服というものを、包むものとして発想していることがわかる。言葉はどう記憶されるのか、または失われるのか、という興味から敢えて仮性失語症になる実験をしたことがある。
その結果、どうやら機能面から整理されていることに気づいた。

ハガキと電話はとり間違えやすい。本物の失語症の患者の場合は、ハカリとトラックが同類扱いになるらしい。つまり上にものを乗せる、という共通点からの記憶だ。私の実験では衣服と自動車が同類になった。これは寒い時の保温機能のためだろう。詩的表現では時間は川の流れに譬えられるが、それは直線的動きを共有している。・・

言葉は各国語で、たとえば一つの名詞を被る前に、その機能としての本体は既に存在しているのだ。
名詞が先か、動詞が先かという議論は、したがって動詞が先だということになる。生まれたとき、エネルギーのカオス状態だったという、地球物理学の真理と一致している。世界も言葉も存在も初源は似通っている。    


自分で発見する文法規則

2006年10月23日 19時12分29秒 | イタリア語

イタリア語においては直説法遠過去をまだなかなか真剣に覚える気になれない。語彙力の強化と平行してこの辺をおいおい完全正確化していこう。まあゆっくり何年もかけて。活用だけしゃにむに覚えても意味がない。豊富な話題を平行して表現できなければ。

本当は文法書に規則を教えてもらうより、自分で活用の規則性を発見しなければならないと思っている。文法の規則の必然性に気づくこと、あるいは自分で発見することこそ、語学学習の知的喜びのひとつのハイライトではないだろうか。