(・・・)同時に、短詩界で異彩を放つ彼独自の文体(かねてうねりのある粘液質なと呼ばれている)が何ゆえ生じ、いかに作用しているかということも、もうひとつの重大な鍵になると思われる。(・・・)
(1)うねりの発生
これまで大部分の短詩作品のスタイルに比して、この作品集の文体は確かに特異である。その独自性は、切れ目のない流れの長音化とテニヲハをつけた散文化という点に目を集めがちだが、私はむしろ彼が、それまでの短詩作品ではおよそ考えもつかなかった直喩という方法を取り入れた点にあるとみる。
字数にして30をオーバーする傾向を見せたのも、切れ目のないまま作品がうねりだしたのも、直喩を用いたことに始まると思う。本流Aに「ような」という親近感をこめてB海流が混入すれば、そこにうねりが生ずるのは必至であろう。直喩作品を観察すれば「ような」が潮流に接すると同時に、支えられていた単語たちが本流に流れ込みながら全体のうねりに転じてい様がよくわかる。
暗喩の技巧に生命をかけていたともいえる短詩型文学において彼が何故敢えて直喩を用いだしたかについて彼自身も何も述べていない。しかし、だからこそ私は、このうねりの作用を明確にしておかねばと思う。
(2)うねりの意味
ー「うねりは無方向への不安でありその動きをたどるのは理性でも記憶でもなく熱い情念そのものであり、存在の心の波動だけがその表情を理解しえる。曲線はすべての存在の輪郭であり疎外された存在の根底に直接呼びかける力を持つ」ー
これは実存美学を論じる栗田勇氏の曲線性の解説だが、かねてから石原作品のうねりとムンクの絵における異様な空気の流れとの類似性を感じてその意味をつかもうとしていた私には重要なヒントになった。
近代建築を代表とする直線性はそれが人間の創造物であるという証と意味づけられるし、また同地点で曲線は「人間が被創造物であることを発覚させる存在論的問いかけをする」機能を持つことに気づく。
生け花で妙に曲のある枝ぶりが重視されたのは無意識の存在確認への願いであろうし、前衛的なものほど枝ぶりを軽視しているのは、曲線の問いかけを恐れる無意識の傾向と解することもできよう。結論を急ぐと、巨大な文明に押しつぶされたカフカ的状況にあり、全存在をかけて何事にも参与できない現代人の疎外感と、われ思うゆえに我無い非在感を覚醒させるのが、ムンクのビアズリーの現代芸術の、そして石原明のうねりの魔術なのだと言うことである。(・・・)
ー上は1969年9月 逆グループ発行 石原明短詩作品集「迷走」解説文「迷走論ー限界状況を剥ぐ」(written by Bruxelles)より一部抜粋引用したもの。
直喩と言うのは、動詞を含んだ節による比喩。それにより「うねり」が生ずることの発見を書いている。動詞をエネルギー体と見る「言語エネルギー論」の胎動を予感させる文章だと思い引用しました。ー
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○ もう起立できない憎悪を引きちぎる少年が胎児のように架刑される夏の終わり
○ 閉ざされた海洋に溺死した少年の目は少女の射ち落とす鳩を見ている
○ 仮死する少女のまぶたを幽霊船のように漂う秒速7.5キロの夜明けのさよならだ
○ アルカリ性の朝盲目の少女は雨を浴びはるか遠い唄の記憶を忘却していく
○ 少女の凍りついた目覚めを蜘蛛の巣のように盗む少年に失明の朝が来る
ー上は石原明短詩作品集「迷走」よりランダムに作品を抜粋したものです。-
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