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言語エネルギー論

言語について考えていることを発信していきたいと思っています。共感と励ましのカキコをお待ちしています。

「迷走論ー限界状況を剥ぐ」からの抜粋引用

2006年12月01日 18時32分04秒 | 言語エネルギー論(助走編)

(・・・)同時に、短詩界で異彩を放つ彼独自の文体(かねてうねりのある粘液質なと呼ばれている)が何ゆえ生じ、いかに作用しているかということも、もうひとつの重大な鍵になると思われる。(・・・)

     (1)うねりの発生
 これまで大部分の短詩作品のスタイルに比して、この作品集の文体は確かに特異である。その独自性は、切れ目のない流れの長音化とテニヲハをつけた散文化という点に目を集めがちだが、私はむしろ彼が、それまでの短詩作品ではおよそ考えもつかなかった直喩という方法を取り入れた点にあるとみる。
 字数にして30をオーバーする傾向を見せたのも、切れ目のないまま作品がうねりだしたのも、直喩を用いたことに始まると思う。本流Aに「ような」という親近感をこめてB海流が混入すれば、そこにうねりが生ずるのは必至であろう。直喩作品を観察すれば「ような」が潮流に接すると同時に、支えられていた単語たちが本流に流れ込みながら全体のうねりに転じてい様がよくわかる。
 暗喩の技巧に生命をかけていたともいえる短詩型文学において彼が何故敢えて直喩を用いだしたかについて彼自身も何も述べていない。しかし、だからこそ私は、このうねりの作用を明確にしておかねばと思う。

     (2)うねりの意味
 ー「うねりは無方向への不安でありその動きをたどるのは理性でも記憶でもなく熱い情念そのものであり、存在の心の波動だけがその表情を理解しえる。曲線はすべての存在の輪郭であり疎外された存在の根底に直接呼びかける力を持つ」ー
 これは実存美学を論じる栗田勇氏の曲線性の解説だが、かねてから石原作品のうねりとムンクの絵における異様な空気の流れとの類似性を感じてその意味をつかもうとしていた私には重要なヒントになった。
 近代建築を代表とする直線性はそれが人間の創造物であるという証と意味づけられるし、また同地点で曲線は「人間が被創造物であることを発覚させる存在論的問いかけをする」機能を持つことに気づく。
 生け花で妙に曲のある枝ぶりが重視されたのは無意識の存在確認への願いであろうし、前衛的なものほど枝ぶりを軽視しているのは、曲線の問いかけを恐れる無意識の傾向と解することもできよう。結論を急ぐと、巨大な文明に押しつぶされたカフカ的状況にあり、全存在をかけて何事にも参与できない現代人の疎外感と、われ思うゆえに我無い非在感を覚醒させるのが、ムンクのビアズリーの現代芸術の、そして石原明のうねりの魔術なのだと言うことである。(・・・)

ー上は1969年9月 逆グループ発行 石原明短詩作品集「迷走」解説文「迷走論ー限界状況を剥ぐ」(written by Bruxelles)より一部抜粋引用したもの。
直喩と言うのは、動詞を含んだ節による比喩。それにより「うねり」が生ずることの発見を書いている。動詞をエネルギー体と見る「言語エネルギー論」の胎動を予感させる文章だと思い引用しました。ー

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○ もう起立できない憎悪を引きちぎる少年が胎児のように架刑される夏の終わり

○ 閉ざされた海洋に溺死した少年の目は少女の射ち落とす鳩を見ている

○ 仮死する少女のまぶたを幽霊船のように漂う秒速7.5キロの夜明けのさよならだ

○ アルカリ性の朝盲目の少女は雨を浴びはるか遠い唄の記憶を忘却していく

○ 少女の凍りついた目覚めを蜘蛛の巣のように盗む少年に失明の朝が来る

ー上は石原明短詩作品集「迷走」よりランダムに作品を抜粋したものです。-

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「太古と言う未来」

2006年12月01日 18時05分57秒 | 言語エネルギー論(助走編)

 短詩運動の母体となった「短詩」誌は昭和45年、43号をもって、分裂的自爆的に廃刊となった。俳句に、短歌に川柳にそして現代詩にと、仲間たちは古巣に散っていった。
 外来語の流入や日常生活そのものの変化に伴い、日本人の語彙、感性、発想等が明らかに変化してきている。第四の短詩型運動は、言わば時代の要請であった筈なのだが。-
 私が短詩から学んだこと。それは文中の各品詞間の力学的関係が、造形的に見えるようになったことである。特にシンボル機能を持つ名詞の存在論的意味の特異性に気づいたことである。方法論としては、動詞の多用、直喩の使用などを特徴とした。作品にエネルギーを吹き込み、有機化するためである。私が個人的に特に、短詩の究極の目標に置いたのは、言葉の伝達性からの離脱と、イメージの換気力による言葉の自立である。-
 文学が、音楽や絵画とクロスオーバーしえるほどに、自由で実験的であろうとすれば、イメージの喚起力による言葉の自立に着眼する以外にない、と考えている。
 この小冊子発行を機に、第四の短詩型文学を確立させるひとつの方法論として”イメージの自立”を、創造的文学の場で、提唱してみたい。・・・

1980年代半ばに発行した短詩集「太古という未来」(100編ある)の「あとがき」から引用してみた。
今回読み返して少し驚いた。「言語エネルギー論」はこのあたりからすでに始まっている。発行は1980年代中頃ではあるが、短詩の実作は昭和40年代の初めである。動詞の多用とか、エネルギーとか有機化とか、物凄く昔から考えていたのだ。
きっかけは、次回に書く昭和44年の「迷走論」にあると思う。一行の詩に動きを与えるのは、直喩によるもうひとつの流れが「うねり」を生むからだ。そして動詞の必要性を感じたのだと思う。動詞の持つ「エネルギー」に気づいたのだと思う。
と言う理由で今回上に「太古という未来」の「あとがき」を引用してみました。
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○ 不死鳥の伝説を飛ぶ北方領土の鳥たち 熱い振動で古書の岬を濾過していく
   「あの風の墓地」より

○ 紅藻植物の雲間に産卵する見えない月の 見えざる指(てあし)の存在
   「呼吸する塩」より

○ 蹄(ひづめ)を負うた万人の川 本能の足で破壊の使命を執行する さる隕石の微動
  「太古という未来」より

○ リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく
  「音階 Ⅰ」より

○ 地球の門番 地軸の先で起立して夜明けを待つ 緑の世界の支配者である
  「色彩空間を飛行する」より

○ 湖面の揺らぎを汲み尽くそうと あの人の櫓を魚状に握っている
  「青春の枯葉」より

○ 褐色に遷都する騎馬民族の滅亡 堕胎し続ける風媒花の群れ 風都市
  「古代から吹く風」

ー以上は「太古という未来」からのランダムな作品抜粋ー
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「言葉と存在」によるひとつの敗北

2006年11月23日 18時57分25秒 | 言語エネルギー論(助走編)

 言語像のかかわりからはみ出た(自由である)発想、思考ー文学とは言語のキュービズムなのだ。「霧笛が俺を呼んでいる」-たとえばこれはこの世の存在物の言語像のかかわりでは引き出せない音節だ。その文学的表現を引き出すのは(初歩的であれ)世界に由来する言語によって可能となる、文学の思考である。一言で言って「犬が吠える」はその次元ではなく「犬が笑う」が文学なのだ。後者の世界はコンビネーションの言語を、その背後に一瞬にして帯びているではないか。
 僕は、存在物の言語像を考える過程で、思いがけなく《文学の文法》を発見した。言い換えれば、僕は文学以前の言語像を探り出した。僕は疲れてしまった。-
 僕は僕の言語像の多くの動詞をあの混沌の中に投げ返そうと思った。また、僕は僕の主体を放棄して、思考を操る僕の言語体を、他の存在物たちに分散して引き取らせたくなった。「傘をさす」僕の主体を放棄して「傘にさされる僕」-と言う風にして次第に僕の正体を消えうせさせたいくらいだった。
 分散するには分解しなければならなかった。学びとった数々の所作を返し、動詞を捨て去り、無機物になったような無感覚を幾度も体験した。無機物。当然のことのように、僕は「語る」ことに非常な困難と苦痛を覚えていた。なぜなら一語一語を世界から拾い上げ、組み合わせなければならなくなっていた。

「帰ろう愛の天使たち」 P.208 & 209 より抜粋
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寄り道: Please enjoy this song.


文字の非力によるひとつの敗北

2006年11月23日 17時45分04秒 | 言語エネルギー論(助走編)

僕が全霊をこめて書き続けた手紙が館代謳子の魂に流入再生できなかったと気づかされた時、僕はあまりにも簡単に解体した。彼女を鉄棒の軸として大車輪していた僕のすべてが、もんどりうって捨てんげりだ。
気づいた時、僕は今まであれほどにも鮮やかに持っていた記憶と言うものを、ぼんやりと追いやってしまっていた。僕は過去に影響されると言うほどの記憶をほとんど消失していた。僕は体験に左右されるという僕の特性から解放されていた。積み重ねられた過去によって未来を予測していた僕が消えた。次々と予測なく現在を向かえ、瞬時刻々とそれを過去に葬り去り、ただ現在だけ、現在進行形だけが僕だった。僕は世界に、すべてから遮断されたようにポツンといた。
僕はフラフラと出歩くようになった。けれど、どこへ行っても、そして誰と会っても、いつも恐るべき違和感の中にいた。僕は僕を世界に繫ぎとめていた謳子を失くし、宙に浮いてしまったのだと思った。突然、僕の眼から涙が溢れるのだった。ぬぐってもぬぐっても・・・。ある時、涙を止めようと必死に眼を閉じた瞬間、地中のマグマに吸い込まれるように僕の存在が渦巻き揺れる幻覚に襲われた。
賀茂大橋の上で長髪を風になびかせ、欄干にしがみつきながら、激しい嘔吐に襲われている僕がいた。

「帰ろう愛の天使たち」 P.209 & 210 より抜粋

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寄り道: Please enjoy this song.


手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い

2006年11月22日 18時11分40秒 | 言語エネルギー論(助走編)

23歳のとき自分が書いた作品を「種本」にするのも、変な話だけれど「言語エネルギー論」はこのあたりがスタートなので、以下に「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」について書いた部分から3ヵ所ピックアップして引用する。

(P.201&202) これに対し、たとえばロートレアモンことあのイジドール・デュカスがおそらく皮肉にも神がかり的に比喩した(手術台の上の、ミシンとこうもり傘との)、予測を無視したそれゆえに衝撃的な(出会い)とは、そこから世界に語りださせようとする神の秩序だてた運命、という予定に対し,それを超え、(初めにありき言葉)を強引にも人為の側に奪い取ることによって(その予定の意思)を裏切ろうとする、(気づいた者のみが入り込みえる間(マ)に於ける)「さぁ、どうでぇ」という果敢な挑戦のように思えてきたりした。傲慢にも、か偶然にもか、運命の糸を人為の足元で引きずり回そうとするその根底に、自己の絶対的主権の奪還への強烈な願望を見落とすわけにはいかないだろう。そこには「被支配者側の納得」よりもさらに、超人願望とも言える、自己の支配する世界の展開が意図されている。生に伴うあの欠乏感をなし崩しにしようとする絶対主体としての人為の挑戦、現実の「間(マ)」をことごとく奪わんとする異次元の突入。シュールレアリスト達が絵画に用いたディペイズマンの手法、たとえば、僕がシュールレアリズムの神髄と驚嘆し熱愛したルネ・マグリットの絵画に於ける、全くの日常と全くの異次元との真正面からの激突、そしてその表面の無気味なまでの白々しさは、いみじくも人間が神に向かってほどこさんとする催眠術の秘法を示唆するように思えた。出会い、の瞬間に時間と空間を撹乱させ、そのスキに一挙にことごとくの現実を非現実にぬりかえ、次の瞬間にはその正位置を逆転させんばかりの催眠術。それは、G・バシュラールが「人間の領域を超えて新しい心霊論を手中に収めている」と言ったイジドール・デュカスの神がかりに通じ、現実を押し倒した透明な瞬間に於ける戦術を知る真のシュールレアリスト達の、何よりも魂の超能力こそが切り開かんとする”超現実”だといえる。・・・

(P.205 & 206) ミシンはどうか。ミシンは人間が針と糸を使ってする行為を、能率よくよりイージーにするために造った機械だ。はじめから、人間のためのある機能を要求され、要求された時点で存在を許された製造品である。ミシンはミシンと名づけられ、自動的に「縫う」という動詞を主体として持ちえるかに見える。が、あくまでもミシンは縫わされるのであって「縫う」の主体ではない。ちょうど「石が転がる」に於いて、石が「転がる」という動詞を含有しえるように見えるが、石はなにものかに転がされているのであって、その動詞の主体では決してないのと同じだ。(僕が先に、文法を離れて、と書いたのはまさにここである)。・・・

(P.207) 但し!コンビネーションの言語を考える時は、イスやミシンは、人間以上に「座る」や「縫う」と言う動詞を引きつけやすい存在物であるとはいえる。だからこそロートレアモンの「さす」を引きつけやすい(こうもり傘)と「縫う」を感じさせる(ミシン)と「手術する」を背負わんとする(手術台)との同じ時空に於ける出会いが、次の瞬間からの時の進行を、神にさえ、あわてふためかせる挑戦となりえているのである。コンビネーションの言語の作用を超えている。・・・

社会思想社刊、小川和佑編集 現代教養文庫 863 昭和50年9月初版発行
「わが1945年」 青春の記録(1)  
「帰ろう愛の天使達」ーまたは無音のシラブルの意思についてー
より「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」の部分より
3ヵ所抜粋引用しました。  (Bruxelles記)

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寄り道:
Les Chants de Maldoror」 :Le Comte de Lautreamont  (写真)


井戸を掘る、 または、他出動詞の概念

2006年11月19日 17時12分23秒 | 言語エネルギー論(助走編)

言語エネルギー論を簡単に言うと、動詞をエネルギーとみなす、ということ。主語がエネルギーを発し、目的語が受ける。したがってエネルギー体(生命体)でない主語は一応例外(又は文学的表現)とみなす。
これで、たいていの文法書も言語哲学もクリアーできる。
ただ、およそ25年前、目的語について書いた本「開明英文文法」林語堂著(文建書房)と言う本で、反論解説に出会ったことがある。
二つの例外が指摘してあった。

1)We make cakes. / He writes a letter.
2)He smiles a smile. / They fight a good fight.
2)は同族目的語(Cognate object)のことで、絶対必要な目的語ではない。例外と扱えばよい。1)は困った。エネルギーを受ける対象ではなく、エネルギーを受けた結果としての対象出現であるからだ。しかしこれは、メリケン粉なり便箋なりがエネルギーを受けて変身したと考えれば、OKだ。
イメージ的に引っかかったのは「井戸を掘る」という表現だった。対象がはじめに無いからである。大地に掘るという行為を繰り返して、出現させるわけだから、エネルギーの変換だと言えば、説明的にはセイフなのだけれど。
もう25年間例外保留したままだった。

最近もう一度考えてみてなんとか結論が出た。
つまり井戸と言うものは(掘る)という特定の動詞を受けた結果でしか出現しないものと言うことだ。つまり、名詞でありながら、動詞の結果を含有した名詞なのだ。
だから言語エネルギー論的にはあくまでも大地を掘るでいい。特定の動作(掘る)を受けた大地が、その行為の結果、名称を井戸と変換したと考えればいいのではないか。
井戸を結果名詞とでも言えば、いいのではないか。

考えてみれば、結果名詞の数は多い。その特徴は、受けた動作(エネルギー)と同じ動作(エネルギー)を受けることは二度と無く、それとは別の目的を持った対象物として存在すると言うことだ。
たとえば、一度書かれた本は、二度書かれることは無く、読まれる対象となるために出現存在している。作られたケーキは二度と作られることは無く、食べられるために作られた食品というカテゴリーに位置するわけだ。

こうして今日結果名詞という品詞が誕生した。

誕生で思いついたが、「赤ちゃん」と言う語は代表的な結果名詞と言える。
ただその特徴的例外として、存在の目的や、対象性が、ケーキや本のようには、そう簡単には見えないことだ。多様すぎるためなのか、一切不明なことだ。違いを明確にするために、エネルギー体結果名詞、と呼ぶことにする。

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{重要追記} 11月20日
目的語を中心に考えたので、結果名詞やエネルギー体結果名詞という名称を考えたが、途中から思考を誤った。

「本を書く」や「ケーキを作る」や「子供を産む」などで使われる動詞は動詞自体が、目的語を製作する働きがある動詞だということだ。目的語となる名詞の特徴を考えカテゴリー化するより、動詞そのものを見極める方が正しい道だと思う。
つまり動詞の中には目的語を対象としてエネルギーを向けるのではなく、目的語を対象とせず、出現させるためにエネルギーを消費するものがある、-そしてその時、目的語は対象ではなく結果出現であるー動詞性格のひとつと結論付けよう。

より厳密に「言語エネルギー論」的に説明すると、この場合のmakeやwriteは、自動詞(エネルギーを自己消費する)でも、他動詞(エネルギーが量と方向を持ってベクトル表記されうる)でもない、もうひとつ別の(対象を出現させるためにエネルギーを消費する)他出動詞、と分類できる、と言える。
「言語エネルギー論」においては、結果目的名詞などの言葉は捨てて、今後、他出動詞のほうを採用することに決定した。(とてもフレッシュな概念だと思うのだけれど。いかがでしょう?)
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寄り道:「
夕陽は現象それとも存在?」