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言語エネルギー論

言語について考えていることを発信していきたいと思っています。共感と励ましのカキコをお待ちしています。

「話語権」という概念

2007年06月30日 17時50分55秒 | 中国語

21世紀の大国「中国を読む新語」(NHK出版)を読んでいる。
内容のある本ですべてを紹介したいが、本を読む方がてっとりばやいので、まず読書をおすすめしたい。
ここでは「話語権」だけを取り上げる。
著者も「発言権」との違いを最初は理解しかねた。
「発言権」は話者に視点を、「話語権」は聞く側に視点を置く語だと気づき「意見を聞いてもらう権利」だと悟っていく。
言葉自体がすでに新しい視点の誕生なのだ。
この視点、この新語を日本語にもぜひ定着させてもらいたい。
日本人には「自分の意見は聞いてもらえないもの」という諦めが、そしてその結果「人の意見も聞かない」という悪循環が蔓延しているように思う。
「話語権」という語および概念は、大袈裟に聞こえるかもしれないが、日本及び日本人の再生の正にKey Wordになると確信する。

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Time Tunnel Feb.17,1972


まだこの程度の中国語: 復習

2007年06月28日 19時20分41秒 | 中国語

1.今日の失敗、今日の学習: 2007-6-28
1.「去年私はまだ彼と知り合っていなかった」の作文で去年やまだにつられて「ハイメイ」を使ってしまった。知覚・願望を表すものには、過去の否定でも、不が正しい。

2.間違わなかったけれど、確認の必要があると思ったこと: 2007-6-28
2.彼もまた来ますか?に反復疑問文は使えないと言うこと。副詞の修飾語がついたら反復疑問文は使えないこと、忘れないでおきたい。

3.どこまでカバーするのか要: 2007-6-28
3.要は「~したい」「~するつもり」「~しなくてはならない」と、意思、必要、義務など意味が多い。こういう語が一番使いにくいし、訳でも混乱する。対応する英語も、日本語もない。そっくりざっくり理解するしかない。

4.「私は彼の名前を思い出した」を「我想起来了他的名字」と書いてしまった。: 2007-6-28
4.正解は「我想起他的名字来了」なのだが、まるでドイツ語を思わせる構造で、スーッとなじめない。何とかしないとね。もっと慣れる必要あり。

・・・・・・・・・・(つづく)・・・・・・・・


中国語で筆談

2007年04月21日 12時12分55秒 | 中国語

中国語を話すカンボジア人の少年とParisの地下鉄で筆談したことがある。
中国人の女子大生達に日本語を教えたこともある。
漢字という共通語のおかげで他の言語に比して知らなくてもお互い理解したような気持ちにもなる。
しかし共通だからこそ、びっくりする体験もある。
中国語を始めたころまず驚いたのは「走」が歩くという意味だと言うこと。どうしても「走る」とまずは思ってしまう。
中国語でも古くは「歩く」は「歩く」だったからこの違いが生じた。
古い中国語にはあったが、今はもう違う漢字で表現する言葉の一部を列挙すると、

言ー説、 歯ー牙、 口ー嘴、 置ー放、 待ー等、 行ー去、 足ー脚、 盗ー偸、 目ー眼、 犬ー狗、etc.(左側の語は、日本語の中にだけ残った)

上記の中で日本人として不思議なのは何故「待つ」を「等」と表記するのかと言うこと。「盗む」を「偸」と表記するのかと言うこと。
「歩く」の「走」と同様、いつまでたってもしっくりこない。
原因は単なる調査不足と練習不足にあるのだけれど。


簡体字

2006年12月11日 18時58分17秒 | 中国語

その昔周恩来首相は日本の政治家に「日本と中国と同じ略字を作りましょう」という提案をしたらしい。鳩山、石橋を経て岸信介総理のときに、ようやくその提案が総理の耳まで届いたのだそうだ。が岸総理「馬鹿らしい、余計なことをするな!」と一喝されたらしい。岸総理の気持ちもよくわかるが、中国語学習者としては、それが実現していたら有難かった、と言う気もする。もともと同じ字を別々に簡略化することもないのだから。(国家の威信を別にすれば)
典拠: 「中国語が身につく本」LOU ZHI-JUAN著

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家と言う字は建物をあらわすウ冠の下に、人ではなく豚のような字がある。中国では生ごみや残飯やし尿の始末をするために、台所やトイレに豚を飼っていたところから、家と言う字に「豚」という字が入っているのだそうだ。
文字にはこのように国の歴史があるのだから、安易に簡略化すべきではないのかも知れない。それとも時代にそぐわなくなった字は、時代の進歩とともにどんどん変えたほうがいいのかも知れない。言葉ではなく、それは文字(記号)に過ぎないのだから。両方共に説得力がある。
典拠: 「中国語が身につく本」LOU ZHI-JUAN著


私たち

2006年11月10日 17時22分54秒 | 中国語

中国語をはじめて、一番最初に感心したことは(私たち)の中に、話し相手を含めた(私たち)と含めない(私たち)が別々に存在することだった。相手が(私たち)とか(僕ら)とか言うとき、そこに自分は入っているのかと、時々戸惑うことがある。この違いが人間関係のなかにもたらす意味は大きい。相手の頭の中、心の中に存在しているのか、弾き出されているのか、つまり心の友達なのかそうでないのか、すぐにわかるからだ。

長年親しくしている人に、何かの時、フと(あなた様)とか(私ども)とか言われたら、いくら親しく振舞っている人でも、その人から拒絶されていると思って間違いない。相手は氷のような一線を引いているのだ。

これから自分が(私たち)を使うとき、その(私たち)が何人くらいの人を含んでいるのか、ちょっと考えてみよう。
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寄り道:Nan yin (Chine)


結果補語

2006年11月07日 17時02分38秒 | 中国語

(このパソコンは中国語文字を使えないので一部日本語漢字を当てています)

中国語には見慣れない結果補語と呼ばれるものがある。無時制の弱点を補うものだ。結果について実に詳しく差異化している。お見事という他は無い。

(1)我看    (私は見る)
(2)我看了   (私は見た)(私は視線を向けた)
(3)我看見了  (私の視線に映った)
(4)我看到了  (私は見て何かを突き止めた)

この”見”や”到”が結果補語と呼ばれる。
見るという行為における(2)(3)(4)の細分化した区別、確かにこれは重要だ。神経がよく行き届いた言語だ。 


出現か消滅か

2006年10月31日 19時12分15秒 | 中国語

(1)下雨了(雨が降ってきた)
(2)雨停了(雨はやんだ)

(3)下雪了(雪が降ってきた)
(4)雪化了(雪が溶けた)

何もないところに雨や雪が出現した場合と、そのすでに降っている雨や雪が止んだり溶けたりする場合では語順が違う。日本語を話す日本人にはこの違いはわかり難い。

英語の「have+目的語+過去分詞」の説明のときに

I have my house repaired. はOKだが、I have my house built.は適切でないと書いた。すでにある家を修理はできるが、建てる前から私の家は存在しないからだ、と説明した。

中国語も英語も、存在が出現しつつある状態と、すでにあるものが変化する場合との区別をしっかりしていることが、このことから認知できる。
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生まれる前に、あなたはまだあなたではないが、死ぬときは紛れもなく自分である貴方が消えるのだ。貴方が生きた人生と共に。
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中国語は存在、非存在の認識はこのように英語並みだが、時制の概念が存在せず、その目的での動詞の活用がない。日本語もこの点では中国語に準ずる。  


中国語の構文

2006年10月31日 18時55分59秒 | 中国語

センター入試から漢文はなくなっている、と聞いた。私のクラブの先輩の由梨さんは論語の愛読者だった。私も受験用とはいえ漢文を学んだことは、無駄だとは決して思っていない。

さて今日は主述句述語文について。

(1)象の鼻は長い。
(2)象は鼻が長い。

(2)の方が主述句述語文だ。つまり述語部が主語と述語からなる。(1)と(2)をしっかり区別するためには、主語に当たる提示部のイメージを大きく正確にする必要がある。
図化すると(1)はSVC、(2)はS[SVC]、(2)のSは引率力が必要。
あれれ、これで「は」と「が」の区別がくっきりと見えてくるではないか。
つまり「が」は「は」よりも提示性(又は提出力)が低いと言える、ことがわかる?