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朝日記240219 その3 Zombies ゾンビについて

2024-02-19 10:46:04 | 研究論説

朝日記240219 その3 Zombies ゾンビについて

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

本文

 

  1. The conceivability argument for the possibility of zombies ゾンビの可能性のための認知能力(概念能力)論議

この論議の最も単純な版は以下である;

  1.ゾンビはconceivableである。 

  2.conceivableであるものはすべてpossibleである。 

  3.したがってゾンビはpossibleである。

(Kripke used a similar argument in his 1972/80. For versions of it see Chalmers 1996, 93–171; 2010, 141–205; Levine 2001; Nagel 1974; Stoljar 2001.)

あきらかにconceivability認知(概念)性の論議は有効である。

しかしながらその前提のふたつとも問題的である。 

それらは言明として不鮮明でありそして論争含みである。

肝心な問いは、この文脈においてわれわれは‘conceivable’をどのように理解すべきかである。

多くの哲学者はゾンビが、ある意味においてconceivableであることをすすんでconcede認めたがっている。(e.g. Hill 1997; Hill and McLaughlin 1999; Loar 1999; Yablo 1999).

しかしながら、この意味はときに全くひろがりをもっている。

たとえば、「pain痛みの概念とC-fiber 刺激の概念との間で実質的な先見的つながりがなにもない」という主張は、「原理的に(そのつながり)は他の概念を十分にマスターしないで、それら概念のどれかをマスターすることが可能である」という点によって支持されてきた。

この standard基準に依ると、以下のことになろう;円周とその直径との比が実数でない場合があっても、その比が原理的に実数であるということがconceivableであるということになる。

もしconceivabilityがそのような意味でpossibility可能性とつながっているならthe ratio to be rationalその比が実数である可能性とその不可能性両方おきてしまう:そのことはconceivabilityに関するその論議が目的でありながら、無用のconceivabilityをつくりだすことになる。 

そのように理解するなら前提(1)の論議はやさしくのみこめる;しかし(2)は拒絶されるべきである。

注意深くみても、conceivabilityに対する閾値を低くすればするほどに、(1)は受け入れやすくなる―しかし(2)を受け入れるのは、より難しくなる。

前提の(1) と(2)にて呼び込まれたこの種のconceivabilityはつよく制限される必要がある。

共通にして有用なる定義は先見的に誤りであることを知りえないこと;cannot be known a priori to be falseつまりAがconceivableであるのは、非Aが先見的にルールにはずれている場合、そしてその場合のみとしている。

(For sophistication of these and related ideas see Chalmers 1999, 477; 2002; 2007; 2010; 5.1 below.)

 

Joseph Levineはかれの2001年論文でconceivability論議を展開した。

かれはゾンビのconceivabilityはexplanatory gap’説明ギャップがもたらした結果とした。

かれの見解によれば、そのギャップとはthe phenomenal現象的なものがthe physical.物理的なものにどのように関係するかを説明するepistemological problem認識論上の問題である。 

かれはこの問題を解く道すじが見えず、そしてそれはゾンビが不可能であるとしてもさえ残ると考えた。

Campbell, Copeland and Deng 2017は、いかなるcoceivability論議には対応する‘mirror argument’「鏡像論議」が存在するというまったく一般的な論議を展開したのであった。この‘mirror argument’は主なる論議に内蔵しているコストの膨大性から拒絶されそしてすべてのconceivability論議は‘logically bankrupt’「論理的破産」と結論づけされた。

われわれは目下、二つの鍵となる質問に遭遇している:ゾンビは上で説明した意味においてconceivableであるか?

もしそうであるならば、それはpossibleということに続くのか?

ふたつの質問への答えがYesであるときにのみ、conceivability論議は成功することになろう。以下でこの順にしたがってとりあげる。

 

 

  1. Are zombies conceivable? ゾンビはconceivableであるか?

1970年代にゾンビの観念が使ったひとたちに共通していたことは、ゾンビはまさにconceivable なものではなく、possibleなものとして仮定したのであった。(e. g. Campbell 1970, Nagel 1970)

Chalmersはその観念を再活性化したとき、彼はゾンビのconceivabilityが‘obvious’自明であることを見出し、つぎのように付言した「一貫的な状況については確かに記述されるように思える:私はこの記述性について何ら矛盾性を感知していないのである」(1996, p. 96)

しかしながら、彼もまたこのintuition洞察性が信頼しえないものであることを認知している。

conscious experience意識的経験のnature本質性を目下のところ、理解することは困難である;人たちにあきらかに可能としてせまることの底に隠れた矛盾に光を当てるべきであろう(Nagel 1998; Stoljar 2001).。 

あきらかに、ゾンビがconceivableであると支持する人たちはその正当性を示さなければならない、それはepistemic claim認識論的要求は、われわれのcognitive abilities認知的能力に依存しているのであり、その意味でさらなるひらかれた論議展開が望まれるのである。

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4.1 Arguments for the conceivability of zombies ゾンビのconceivability想定能力の論議

 

Kirk (1974a, 1974b)はその正当性を与えるべく試みた、そしてその論議のなかで、ゾンビがpossible可能なものであり(よってconceivable想定可能である)ことを証明することを意図したのであった。

しかしながら、それらは目標に到達しなかったのであった、それは出発になる観念としての似たような洞察のかたまりの多さにあった。

Chalmers (1996)は物理的な事実からこころの事実へのa priori entailment先見的なひも付きがあるという観点に対してのシリーズで5つの論議を著した。

その各論はzombie ideaゾンビ観念の直観的アッピールに直接的および間接的に力をあたえたようである。 

最初のものについて要約すると;

他の4つそれぞれが、物理的な違いをともなわないもとでの‘inverted spectrum’「逆スペクトル」の可能性へのアッピールである(see inverted qualia);

purely physical information純粋に物理的な情報を基にしたconscious experience意識経験のlearning学習についていわゆる impossibility非可能性の主張である; 

 

Jackson’s (1982)の ‘knowledge argument’ 「知識論議」(彼の最近のものに関連して);およびChalmersは‘the absence of analysis’「分析の不在」とよぶもの;そのポイントは以下である、彼の対立者は「existence of consciousness意識存在がphysical facts物理的事実によってentailed紐づけされるさまがhow 如何様であるかについてを観念としてわれわれに示すべきであるというものである」、もし「そのようなひも付きを明示するどのようなこころみはもともと破綻している」と宣告するならばである(1996, p. 104)。

彼の最初の論議を粗くいえば以下である。

いま、一群の小人たちがあなたの脳活動を止めて、彼ら自身の機能をそこに複写するとしよう、この場合きみの体の他の部分はこれまでどおり働いているとする(see Block 1980a);

小人たちはそれぞれ携帯電話をもっていて相互にsignal-receiving信号受信しそしてindividual neuronその個人のニューロンのsignal-transmitting functions機能伝達機能をも遂行する。

 

そのようなシステムは意識的といえるか?

直観的にひとは否定側に傾くかもしれない。

あるものは、多分機能主義者であろう、弾丸に食らいつきそしてyesと答える。

しかしながら、この論は、そこの小人の頭は意識的がないだろうというの仮定には依存しないのである。

この論は、そこに意識ある者がいないということがconceivable想定可能であるという仮定にのみ依っている―おおくのひとたちはそれがreasonableであることを見出す。

Chalmersのこの言ではいっていることは、以下である、われわれがそのシステムにconsciousness,意識が欠落しているようだというときに、実体として「a meaningful possibility意味ある可能性が表現されていて、そしてconsciousness意識が起きているかいないかの問いに対してひろく開かれているか」ということを意味している。(1996, p. 97). 

もし彼のいう事がただしいなら、そのシステムはconscious意識がないということになる。

そのケースでは、それはすでに非常にゾンビ・ライクにある、唯一の違いはそのシステムではゾンビがニューロンを占拠していて、そこに小人たちが働いているということである。

そして何故そのことが、situation状態状況が意識的であるかどうかの違いをつくることになるのか? 

小人たちからニューロンへのスウィッチが何故、意識の光へスウィッチとなる必然性があるのか?

(小人たちの頭に意識が欠落しているということがconceivable想定可能性であるという仮定に対して懐疑的であるひとはつぎをみよ;e.g. Loar 1990/1997, pp. 613f.)

ゾンビのconceivability想定可能性に好意的な他の考察についてはBlockにみることができる (1995, 2002); Levine (2001); Searle (1992).

Chalmers (2010)はかれのさらなる防御を展開している:本稿5.1 をみよ。

 

 

4.2  Arguments against the conceivability of zombies  ゾンビのconceivability認知能力(概念能力)に対する論議

過去においてゾンビがconceivableであることは,全くひろく受け入れられていたのであるにもかかわらず、懐疑主義が伸長してきている。

その観念について なにか直接的な攻撃を考えるまえに、われわれは三つの観点を簡単に思い起こそう、それはかつてわれわれが二元論では間違いとするa priori 先見的なものを知ることの要求を支持するようにみえたものある―而して、ゾンビはinconceivable想定概念化できないであるというreasonable assumptions,納得性のある仮定であった。

 

第一は証明主義である、これによって(宣言的)文章は、それがそのケースにおいて真か僞かを証明しうることにおいて意味あることになる。

これは証明されえない文章は文字通り意味がないということに紐づけされる、それは観測できない非物理的項目が存在することを要求する形而上学的なものに対して何ら真であることはできないというものである。

しかしながら、われわれがexperiences経験についてthink 考えそしてtalk語るability能力はそれ自体verificationism証明性に関わる課題である、それはzombie ideaゾンビ観念をbeg the question質問公開であることで攻撃するとき、その見解がpresuppose事前想定する活動からくるものであるからである。 

 

第二の見解はWittgensteinの私的言語論議につながる。

これはcrudely verificationistic粗っぽい実証主義的ではないにかかかわらず、words to be meaningfulことばが意味を持っているためにはそれらの使用がpublic checking公開的チェックのために開かれていなければならないという仮定によっている。   

しかし、このチェック可能性の仮定で、いまわかるとして、それがクオリアについて

われわれができるゾンビ可能性の防御のみちすじでわれわれが語ることができないことを証明することになるがゆえに、それはあまりにも現在の文脈ではquestion-begging公開質問へのまる投げのようにみえてくるのである。

 

第三の観点はbehaviorism,行為主義である、しかるべき道すじにおいて行為するためにbeing disposed配備されている以上のmental statesこころの状態をもつことはないというものである。

ゾンビ観念への攻撃のための可能なべ―スとして、behaviorism行為主義はverificationism証明主義とprivate language私的言語の論議へのsimilar situation類似状況にあるというものである。 

 

ゾンビはfull consciousness十分なる意識のためのbehavioral conditions行為的条件すべてを満たしていることになるのは次の場合である、 それは、われわれがa priori先見的にbehaviorism行為主義がただしく、zombie worldsゾンビ世界がその理由のためにinconceivableであるというならということであるとすればのことである。

とはいえ、行為主義がただしいと証明されることはありそうにもないようにみえる。

(Dennett 1991 は行為主義へのつよい親和的位置をまもった、しかしそれは気の主義の変形のものとしてむしろクラス化されたともいえる)

機能主義はこころへのひろく圧倒的をうけたアプローチではある。

それによれば、こころの状態というのはまさにbehavior行為と dispositions配備のmatter事態というのではなく、sensory inputs感覚的入力、internal states内的状態、そしてbehavioral outputs行為的出力のなかでのcausal因果のもしくは他との functional relations機能的関係のmatter事態なのである。 

 

もしinternal processing内的プロセスのnature本質がなにも考慮されないのであれば、functionalism機能主義はbehaviorism,行為主義にむかう有益なる反対に降ることになることに注意せよ。

たとえば前節で記述した‘homunculus-head’「小人の頭」;それはしたがって、つぎのように見えるのである、いかなるもっともらしいfunctionalism機能主義もbehavioral dispositions行為的配備においてこれまで必然的としてでなく反映されてきたinternal functions内的機能に対して考慮しなければならないということなのである。 

 

いま、zombiesゾンビはfull consciousness十分なる意識に対してのfunctional conditions機能的条件すべてを満足したとしたとする故をもって、functionalism機能主義はゾンビが不可能であると紐づけするのである、一方で、そのzombie ideaゾンビ観念を攻撃するにfunctionalism機能主義を単純にpresuppose事前想定し、自明的なものとしてのquestion-begging公開質問としているのであるのであるがである。

しかしながら、機能主義の知的な進行が展開してきて、機能主義の議論がゾンビの可能性に対して強く支持する議論がでてきている。

(ゾンビにたいする機能主義の防御は以下をみよ、Dennett 1991; 1995; 1999; Kirk 2017; Shoemaker 1999; Tye 2006; 2008; ゾンビをあつかう機能主義の容量についての疑いについては以下をみよ for example Harnad 1995.)

こころについての広義の先端的機能主義者とは別にして、もっと狭くて焦点のある攻撃がゾンビのconceivabilityのうえになされている、そのいくつかを以下に記載する。

 

Can we really imagine zombies? ゾンビは現実に想像できるか?

 

 

Daniel Dennettは考えることはゾンビのconceivabilityを受け入れる者がそれらを十分に想像することに失敗してきたことである:「かれらは相も変わらず概念(もしくは想像)のしごとを低く評価している、そして彼ら自身ももつ定義に違反するなにかあるものを想像して済ませていたのである」(1995, p. 322. Marcus 2004 makes a related point; see also Woodling 2014).

もし彼が意識についての広義の機能主義モデルをあたえたとして、かれは論じる、「ゾンビとconscious beings意識的な存在との間での見かけ上のコントラストは幻想的なものである」ということがなぜかをわれわれは見ることができる(325. See also his 1991; 1999).

Consciousness意識は「単一のすばらしい分離したものではない、・・・しかし沢山の異なる情報の容量の巨大な複合体なのである」(1995, 324. Cottrell 1999 supports this approach) 

 

 

Zombies’ utterances.

いまコーヒーの炒りのかおりがして、「ムーン、私のすきなにおいだ」という。

だれもが私が自分の経験について話をしているとただしく仮定しよう。

しかしわたしの双子であるゾンビはおなじつぶやきを生み出したと考えてみよう。

かれもまたひとつの経験について話をしているようにみえるが、事実かれはゾンビである故にいない。かれは誤っているか?

かれは嘘をついているのか?

かれのつぶやきは幾分かが真として翻訳されることができるであろうかもしくは全くの真なる価値を伴わないのであろうか?

Nigel Thomas (1996)は、「ゾンビ好みたちがこのような質問をするどのような筋も深刻なトラブルをかれらにもたらす」と論じる。

 

ゾンビ世界が定義によってわれわれの世界にまさに似ていること、それは物理主義者が

そうであると思っていて、しかしそこには意識を伴わないとしていることを思い出そう。

これはconsciousness意識が非物理的ななにか依存していること含んでいる故に、ゾンビたち(それらは第一義的に可能であると仮定してであるが)は意識的であるようにつくることができるということにつながり、これをつくるのは非物理的に加わったなにかということになり、そのようなものはまさにクオリアのようなものかもしれない。 

 

そしてもしzombie worldゾンビ世界が因果的に閉じているなら、これらのqualiaクオリアは因果的にinert不活性でなければならないであろう。  

したがってもしゾンビ世界がconceivableであるなら、そこでは随伴現象主義もまたconceivableにならねばならないであろいう。

(このことが随伴現象主義がconceivableであるのと同様に actually true実際的な真であることを要求しないことに注意せよ)

もしそのことが正しいなら、随伴現象主義のconceivabilityへの反対することもまたゾンビのconceivabilityの反対することでもある。

 

もっとも自明なのはexperiences経験がbehavior行為にeffects影響をあたえているという親しみやすくかつ、強力な主張がある(Perry 2001)。

自明性は不足するが、随伴的現象主義への反対は、われわれが随伴的現象主義を参考にし、かつそれについての意識的な経験的事実からスタートするところにある―それはほとんど否定しがたい、なぜならここ以外には、第一義的にこの観念を討論することができないからである。 

この反対はひろい観点で支持しているようにみえるが、それはわれわれが知りもしくは参考にするのが、なにであれそれらは間接的にのみにて、われわれに影響をもつからである。

これをベースにして、われわれの対抗者たちは随伴的現象的世界においてクオリアを知ることもしくは参考にすることはできないのである。

もしそれが正しいなら、随伴現象論的世界はconceivableではなく、そこではゾンビも存在しない。

この攻撃に対してChalmersはcrucial consideration欠かすことのできない考慮とは、われわれ自身がexperiences経験を‘acquainted’「知悉していること」であると返答したのである。 

この‘intimate epistemic relation’ 「身近な認識関係」は、われわれが経験を参考にすることができること、およびそれらについて知るためのわれわれの要求が正統化することであること双方を確かになることなのである。

 

対照的に、われわれの双子のゾンビはなんら経験をもたないので、経験についてのそれらの判断が正統化されないようにみえるのである。

Chalmersはqualiaクオリアがわれわれのjudgments判断のうえになんらcausal influence因果的影響をもたないとしても、appropriate適正なる物理的文脈においてそれらが単に陪席していることで、われわれの思考がそれらのqualiaについてであるということを確かにするのである。

 

彼は、それが、経験が説明的に問われている質問の判断をするには説明的に十分ではなくてさえ、われわれの知識要求に対しての正統性をもまた成すと考えるのである。(Chalmers 1996, 172—209; 1999, 493f; see also his 2003, 2010).

 

 

 

The problem of epistemic contact. 認識論的接触の問題

ゾンビがconceivableであるなら、そこで、随伴現象論者と並行論者の世界もまたconceivableとなる。

その場合では、ゾンビの友人たちは随伴的現象論的クオリアが如何にして、そして実際にひとびとの生活へ親身な貢献をし得るかを説明しなければならない;そしてKirk (2005; 2008)はゾンビ観念がさらなる困難に直面することを示唆する。

このことは次の場合に発現する、われわれがそのようなものを立ち会うものとして、それについて考えることとして、記憶することとして、われわれの経験を比較することとして考える時にである。

そのような活動は認知的プロセスをふくむのであり、それは転じて他の変化の原因となる変化をも含むのである。

 

随伴的現象のクオリアは因果的に不活性であるから。それら事態がプロセスする行為を可能としないであろう;それらが事実上にわれわれの経験(随伴的現象論および平衡主義が含有する)を構成するなら、そこで必要なプロセスはthe body体によって為されなければならいない。

そのトラブルはゾンビ物語りが随伴的クオリアと認識的に接触へわれわれを持ち込むためのプロセスを不可能にすることにある。

これはその目的のためにそれがアッピールすることができる資源のみがクオリアの起因

となりこれは神経プロセスによるものであるが、そしてそれらとのisomorphismによるのである;(Kirkが論じるように)それはひつような認知作業を行うことができないファクターである。

もしこれがただしいなら、epiphenomenal qualia随伴的現象のクオリアとzombiesゾンビの概念は矛盾に導くのである。

それらはconsciousness意識のconception概念を含んでいるのであり、それが人をしてクオリアとepistemic contact認識的接触におくことを要求するのであるが、一方で同時にそのような接触のpossibility可能性をルール的にアウトとして排除とすることになる。 

 

‘Powerful qualities’.  「パワフル品質」

ゾンビ観念への興味ある最近の反対は、‘powerful qualities’「強力品質」の(論争中であるが)観念にもとづくものである;properties特性のすべてはdispositional配備的 と qualitative品質的の双方であり、そしてじつに、あるもののdispositions配備はそのqualities品質と同じであるという見解である。

 

 

 

Alexander Carruth (2016)は、たとえば、conceivability論議では、physical properties物理的特性がdispositional配備的である一方で、phenomenal ones現象的特性がqualitative.品質的であることをpresuppose先行想定としているものとしている。  

このベースにもとづけば、われわれの世界のzombie duplicateゾンビ複写は、われわれの世界のdispositional配備特性を事例化するであろうが、しかしそれはphenomenal ones現象的特性のものではない。

powerful qualities見解はそれがconceivableでさえない状態にしてしまうような先見性をルールアウトととる。

もしあるもののdispositions配備がその品質qualitiesと同じものとするなら、どのようなqualities品質もそのdisposition配備と想定として同じであるということを事例として取り上げることなく、然るべきdispositional配備特性を事例としえ取り上げることはできない。

この論議の筋に抗して、Henry Taylor (2017)は、 physical物理的なものが dispositional配備的なものの枠内におさことはえておくことは不可能であるとし、physical物理的なものとphenomenal現象的なものとの間の区別については納得のいかない判定であると主張する。

ゾンビのconceivabilityについての他の言い分については以下をみよ;Balog 1999; Cottrell 1999; Harnad 1995; Marcus 2004; Shoemaker 1999; Stoljar 2001; Tye 2006.

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