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北の大地の かあちゃん日記

北の大地のように逞しく 反抗期の孫育ては終了15年長かった。膝に人工関節 軽い脳梗塞にもなり頑張ってます。

お墓参りでの不思議体験

2008年08月13日 | 怖い&不思議な話

 お盆ですね~お墓参りの時期です。

小さい頃から 毎月 祖母に連れられお墓参りしてましたので
   (父の1番下の弟が14才で亡くなったので)
その叔父のお墓の斜め前に 古い~もう文字も消えかかった
墓石がありました。こんな形でしたね・・・ ↓

明治に亡くなった●●松子さんとだけ読めます。

昔は整地されてなかったので 雑草が伸び放題で腰まであり
草刈りしないと、お墓までたどり着けない位でした。
毎回 祖母は自分の息子のお墓と その無縁仏になってる
松子さんの お墓も綺麗に草刈りして
お花も、お供えもして お線香なども上げてました。

子供心に どうしてするの?と聞いたら 誰もこないと
可哀想でしょう? だからするんだよと祖母は言ってました。

私が大人になってからお盆に 祖母、叔母(4番目の息子の嫁)
私と、子供達とお墓を掃除して お参りしてから
お弁当を広げて 皆で食べてたら 
ゴトン と すぐ後ろで大きな音がして全員一斉に後ろを
見ましたが 
何も見えません。 誰もいなかったし

あるのは無縁仏の 松子さんのお墓だけです。
当然その日も、お花や、お供えを分けて松子さんのお墓に
供えてたのですが、まさに その墓石が 動いたような
石が1度浮き上がって 落ちたような音だったんです。
恐がりの おばさんは、キャ~~と言うし 私も、びびったわ
あまりにも大きな音だったし 確かにすぐ後ろから聞こえたし
祖母は、平然としてて、無縁仏の女性が、お礼をしたかったから
音で 知らせたんだよ~と笑って言うし・・・・
そうだよね~毎年綺麗にしてあげてるのに
脅かしたんじゃないよね~と言う結論になったのですが
果たして・・・どうだったんでしょうね

もう1つも お墓参りの お話です。
家は3ヶ所 墓地がありまして 全部行くのですが
バラバラの霊園にあるので まるでお墓参りツアー状態です。
1番遠い 母方の両親 つまり私の祖父母のお墓に
着いたのは、夕方4時過ぎ 閉園する寸前でした。

急いで祖父母のお墓へ行き 旦那さんと手を合わせ
また来るね~と言いながら 帰り際 4件隣のお墓が目に
止まりました。 何故ならお墓の横にのハンドルだけ
置いてあるんです。 何故?ハンドルが
きっと若い方が交通事故で亡くなったのかなぁ~と思いながら
帰ろうとして ちょうど水が出て、墓石に水をかける
手桶などが置いてある場所を
通り過ぎて、すぐ・・・・です

かーーんという凄い音が聞こえ
慌てて振り向いても 閉園間近だったため 誰もいません
でも その音は間違いなく手桶を地面に叩きつけた音だったの

手桶って(ポリプロピレン製じゃないですか)だから独特の
音ですよね 旦那に、ね今の音聞こえたよね
慌てて聞いた私に 旦那は無表情で何も聞こえなかったよ
気のせいだから 早く帰るよと ドンドン駐車場まで行きます
待って~~絶対に 聞こえたんだってば~と言う私を
無視して車は発進~~聞こえなかったと言い張る旦那さん

旦那の奴~~と思っていたら2年目に白状しましたよ 
実は、あの時自分も はっきり音を聞いたと
手桶を叩きつける カーンという音を・・・・
なんで あの時認めなかったのと聞きましたら
自分は怖かったし・・・私がパニくると思ったんだ~と
言い訳してたけど・・・
そんな音くらいじゃ パニくりませんわ

だって~もっと 凄いの見てるもんね~
それも昼間に 古い時代の おばあさんを~~

霊感ゼロだった 旦那さんが生まれて初めて
不思議体験したのでした~~その後も私と結婚してから
旦那も 体験するように なったんですけど~
あんたの せいだと攻められてますが・・・私は関係ないも~ん
     たぶん・・・・きっと・・・・

明日はお墓参り・・・何もない事を祈ります



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9 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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用心 (utsunetx)
2008-08-14 06:12:09
かあちゃん、こんにちは。
utsunetxです。

霊というのは、本来、自分の子孫のところに出てくるものですが、その子孫の先祖に対する供養が十分でないと他に頼る人を探すらしいですよ。

例えば、かあちゃんの家族の様に、あまり手入れされていないお墓の手入れをすると、その人に取り付いてしまうこともあるらしいので、あまり親切にすると、思わぬ霊が取り付いてしまうこともあるようです。

私も今度の週末に妻の先祖が眠っているお墓に行き、お墓参りをしてきます。ご先祖様のお墓をしっかりと掃除して、来ようと思います。

ちなみに、他人の先祖の霊などが家に出たとか、夢の中に出てきたという場合は、一度御祓いをしていただいたほうが良いですね。
脅しではありませんぞ~。
返信する
霊より怖い・・・ (びー)
2008-08-14 15:32:29
旅行に行っても 朝の 5:30には 起きる
オット・・・・・

旅行から帰ってきて あー疲れた~ と
言いながら 草むしりを 何時間もして
次の朝・・・・5:30に起きる オット・・・

はぁ・・・・・・・

私は こいつが 一番 怖い・・・・

ふぅぅぅぅ・・・・・
返信する
utsunetxさんへ (かあちゃん)
2008-08-14 22:16:40
ずいぶん後になってから
霊能者の方が、良くないと言ってるのを
私も聞きまして・・・それからは
簡単に草刈りと、手は合わせませんが
お花とか分けてたんですが

ある日突然 その無縁仏のお墓が
亡くなったんです

市の管理する墓地でしたので
区画整理して売るのに
どこかへやったのですね~
それからは、何十年も見てませんが

この前お墓のすぐ近くは断崖絶壁で
海が見えます。 なにげなく
下を覗いたら な~~んと墓石が数個
投げ捨てられ 割れて崖の途中にありました。

びっくりしましたよ~お墓を投げ捨てる
なんて なんてバチあたりなんだと
でも~その1個があの松子さんの
墓石にそっくりだったんです。
真相はわかりませんが・・・

私には、な~にも、ないので霊達に
こいつは頼る価値もないと判断されたのかも~
返信する
びーちゃんへ (かあちゃん)
2008-08-14 22:22:31
まさに チャットで その話が話題になったの
新しく入った男性が休みでも
5時に目が覚めてしまい 起き出すと
奥さんに もっと寝てなさいと
怒られると言ってたのよ~(昨日かな?)

どうしても普段の習慣で寝てられない
そうなんです

いや~~私の旦那さんも休みなのに
6時とかに起きるんですよ~迷惑なんですと
言ったら 自分も
同じ事奥さんに言われると笑ってました

私達なんて昼まで寝てられるわよ~ね
今朝なんて朝の5時にしたのに~7時に起こされ お墓参りでした。

2時間半しか寝てない・・・
帰ってきてから 孫に起こされるまで
気を失ったように寝てましたぞ
返信する
お墓捨てるなんて (ぽち)
2008-08-15 00:49:48
なにか物悲しいですわね

なにか・・・
返信する
ぽちちゃんへ (かあちゃん)
2008-08-15 01:20:45
そうなんだよね~古いお墓ばかり
捨ててあったので 業者の人でも
処理に困り・・・・投げ捨てたのかと
思ってしまったわ~

だって すごく重たいから
人間の手ではムリよ~

新しいお墓を建てるのに
邪魔になって 捨てたのかと?
疑ってます
返信する
utsunetxさんへ (かあちゃん)
2008-08-16 04:01:49
長年 無縁仏を大切にしてた祖母ですが
86才まで長生きしましたよ~

父方の親族で1番長生きしたのは
お墓を掃除してた 祖母でした。

だから 取り憑くとかは、無かったかも~
苦しまずに・・・たった1日で
眠るように 旅だって行きましたので

看取ったのは、私と長女でしたが長女は中学3年生だったので
すごくジョクだったそうです。
次女も小学生でしたが、ず~と泣き
続けてました

曾孫からも慕われてた祖母です。
2回もお墓参り行ってきましたよ
返信する
真善美の探究 (阿頼耶)
2014-09-25 00:12:17
真理と自然観

《真理》

結論から言って、真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時、何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか、と。すると友人は、何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし、単純にからっぽという意味でもない。私という意識、世界という感覚そのものの原因のことである。この時、我々は『空・から』という言葉によって、人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化から、その裏側に真の形があることを理解した。そして、我々はこの世界の何処にも居ず、この世界・感覚・魂の納められた躰すなわちこの裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》

目的は、何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路、それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは、或感覚を再び具現させる基盤としての目的経路の原因・因子が再び具現する能力と可能性を与える機構、手段によって、再具現可能性という方向性を得たものである。志向は複数あり、意識中にある凡ゆる感覚的対象に支配される。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは、表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され、記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し、再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でも、因子の具現に対応した感覚的対象(条件)がない場合はこの志向は生じない。但し、意識を介さず機構に直接作用する物が存在する場合もある。


《生命観》

『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と、具現の方向を決定する志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は、過去の意識の有り様を何らかの形に変換し保存する記録機構を持ち、これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり、この志向が再具現の機構としての肉体に作用して変化を生じる。この為廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは、躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され、この志向が再具現の機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなく、その志向により然としてある意識と肉体を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己、志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。
だから自我は客体認識の反射作用としてある。
これは逆ではない。

しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。
すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと
なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。

これは神と人に共通する倒錯でもある。
それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。
だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。
いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。
あれは空, それは山, これは自分。

しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。
山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。
自分というものはない。
自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。
それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。

そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。
鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。
なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。
言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。

だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。
そんなものはどこにも存在していない。
神, 霊, 悪魔, 人。
そのような名称に対応する実在はない。

それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。
私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。

これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。

だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」


神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空と質(不可分の質、側面・性質)、然の性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し、その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり、自己の発展と自分の理解。


善は社会性である。直生命(個別性)、対生命(人間性)、従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立、対には干渉のし難さから来る閉塞、従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し、尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく、状況によっては退き適した人間に任せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活き活きとした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め、これを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。認識に囚われ自分の願望を諦めることなく、認識と相互して願望を成し遂げようとする生命の在り方。
返信する
阿頼耶さんへ (かあちゃん)
2014-09-25 10:00:08
あの~~~凡人ですので

まったく理解不能 意味不明でした

こういう内容を 凡人にも解りやすいく理解しやすく

書いてこそ・・・・だと思うのですが?違いますか?

そして自分の言葉で 書いて下さいませ

ちなみに 私はロシア正教 ハリストス正教会で洗礼受けてますので
返信する

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