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言力屋(ごんりきや)

趣味や言いたい事などについて

とある元消防士の追想

2025-07-06 09:37:44 | 投稿
 第1話

 十年一昔と言うが、もうふた昔も前の、私が消防士だった頃の話である。
当時見習い機関員だった私は隊長のY先輩とポンプ車で放水訓練の為大栃公園に向かっていた。
しまったと思ったのは大栃橋の上、前方からバスが来るのに気づかず侵入してしまったのだ。
大型車と大型車は対抗できない。平常時は交通規則厳守、一般車両優先が消防士の常識だ。
完全に私のミスである。隊長を仰ぎ見ると助手席側のミラーを折りたたんで小さく頷いた。
行けの合図である。難しいのはミラーを折りたたんだ分まで寄らないと通れないと言うことだ。
南無三何とか無事にすれ違った。が、後でお説教を食らったのは言うまでもない。
その大栃橋も新しくかけ替わり、Y先輩も去年鬼籍に入られた。
私は出来の悪い隊員だったが、根気よく面倒を見てもらったことは昨日の様に思い出すのである。


 第2話

 十年一昔と言うが、もうふた昔も前の、私が消防士だった頃の話である。
峠道の交通事故で要救助者一名という通報で出動した。
現場に着くと、乗用車が山側に突っ込み、助手席の一名が車から出られなくなっていた。
車は側溝に3分の1程はみだし、そのままでは更に落ち込む可能性があった。
救助のセオリー(定石)としてはロープで車を固定してから救助する必要があった。
が、私は「大丈夫ですからね」と言いつつそのまま車に乗り込んだ。
車は「ガクン」と側溝に更に10cm程落ち込んで停止した。
私は「大丈夫ですよ」をもう一度繰り返した。
隊長のT先輩の顔を見ると何か言いたげだったが、救助に集中した。
幸い要救は座席を引くと挟まれる事なく抱えて車から救助する事ができた。
隊長によっては説教モノのセオリー(定石)無視だったがT先輩は何も言わなかった。
たまたま幸運にも要救が無事だったから、今なら思い出話にできるのである。


 第3話

 十年一昔と言うが、もうふた昔も前の、私が消防士だった頃の話である。
山田本署で勤務して1年程経った頃、入ったばかりのO後輩と体力作りとして運動をすることになった。
私は当時ベストの体重63kgを維持していたので走りには自信があった。
先ずは軽く準備運動として本署の周りを5周することにした。
キロ5分位だっただろうか、そんなに飛ばしてはいないのだが、走り終えるとO後輩が息も絶え絶えで様子がおかしい。
思わず「O、疲れたか?」と訊いたら、O後輩の顔がサッと青ざめた。
その日からO後輩は鍛錬を重ね、5年もすると署の若手では一、二を争うほどの隊員となった。
ある日解体車を利用した救助訓練をすることになった。
私は指名され後部座席から乗り込み要救人形を救助することになったが、少し手間取っていた。
するとO隊員が「Kさん、こうしたら良いっすよ」と瞬く間に毛布で要救人形を包み手足を引っ掛けることなく救助してみせた。
その事で私は自分の敵う部分はもう何も無いなと悟り、身を引く決意をした。


 第4話

 十年一昔と言うが、もうふた昔も前の、私が消防士だった頃の話である。
山田本署で初めてはしご登はんの訓練をした時のことである。
初めてと言っても消防学校で既に訓練を受けていたので一通りの手順は分かっていた。
そこに油断があった。
当時本署には運動場がなく、駐車場に確保ロープを伸ばして確保者が確保することになっていた。
2、3名先輩隊員が登ったところで私が確保者に指名された。
S先輩の「登はん準備ヨシ!」の声とともに、私は確保ロープを構えた。
「登はん!」の号令と共にS先輩は瞬く間にはしごを登り切った。
私も同時に確保ロープを携えて後ろに走り出したのだが、何とさっきまでいなかった車が行く手を塞いでいたのだ。
確保ロープはまだ伸び切っていない。
本来なら確保者の「確保ヨシ!」の声と共に登はん者ははしごから離れて確保ロープに身を委ねる。
S先輩の「確保!」の声に私は必死で「ストップ!」と叫んだがS先輩には聞こえなかった様だ。
斯くしてS先輩は2メートル程空中ダイブし、確保ロープを巻いた腹で全体重を受け止める事になった。
腹がねじ切れてもおかしくないその苦しさたるや想像を絶する。
その後私が文字通り吊し上げられたのは言うまでもない。
たまたま幸運にもS先輩が無事だったから、今なら思い出話にできるのである。


 第5話

 十年一昔と言うが、もうふた昔も前の、私が消防士だった頃の話である。
交通事故で2名負傷と言う通報を受けて出動した。
現場に着くと要救助者は額から血を流しながら歩いてきた。
傷口を見るとパックリと割れていたので私は思わず「まぁ、割れちゅう」と叫んでしまった。
もちろん叫ぶのはご法度であり、Y隊長もギョッとした。
私は「まっすぐ歩けていますね」
「視線の片寄りはないですね」
「吐き気はないですか?」
「何があったか、自分の名前は言えますか?」
「脳の中身は異常ないみたいですね」
と、必死で取り繕った。
が、いつ容体が急変するかも分からない。
運転手だった私は救急車をなるべく早くで病院に直行した。
が、帰署後Y隊長にお説教を食らったのは言うまでもない。


 第6話

 十年一昔と言うが、もうふた昔も前の、私が消防士だった頃の話である。
子供の頃、私は目を瞑って百回噛んでいると言われるほど食べるのが遅かった。
消防士になってやっと人並みの速さで食べ終わる事ができる様になった。
が、そんな認識は甘かった。
香北分署に配属されてY先輩いわく「火事が起こるのは飯の準備をする時が多い。救急要請がかかるのも飯時が多い。12時には飯を食い終わっておけ」
と、Y先輩は11時半には弁当を立ったまま食べ始め、5分で平らげていた。
夕飯も、18時には弁当を立ったまま食べ始め、5分で平らげていた。
が、私は相変わらず12時に昼飯を食べていた。
テキメン12時から昼飯を食べないまま救急出動が3つ重なり、帰署中の車内ではすっかりまいってしまっていた。
そこでY隊長はオアシスでおでんを奢ってくれた。
空きっ腹に染み渡ったその味を今も忘れる事は出来ない。
以来、食事は10分で済ませる習慣がついてしまったのは今でも変わらない。


 第7話

 十年一昔と言うが、もうふた昔も前の、私が消防士だった頃の話である。
当時私は香北分署でなんとか救急車の運転手を任されるくらいには成長していた。
が、好事魔多し、救急出動の帰署中、信号待ちで思わずハンドルに覆い被さりダラけてしまった。
すかさず、Y隊長が「K、その姿勢がそんなに楽なら、そのまま運転せぇ」
私はそれ以来ハンドルを10時10分の基本姿勢で持つのを崩さなくなった。
また、ありがたい事に先輩方は帰署中度々缶コーヒーを奢ってくれた。
が、Y隊長が助手席の時は要注意、缶を席と席の間の収納ボックスの上に立てて、倒さず帰れと言うのだ。
Y隊長は運転免許の講師ができるほどの腕前である。
その言は絶対だ。
曰く「俺が今まで教えた中で一番下手くそだったのはMじゃった。が、今では大型2種免許を取り、救急救命士にまでなった」
「車に乗る前は4つのタイヤに異常がないか点検してから乗れ」
「500m毎にサイドミラーとルームミラーを確認しろ。急ぐ時には合図する」
「高知までの道路の凸凹まで覚えろ」etcetc
翻っていつも缶を倒した私はヘボのまま、ついぞポンプ車の機関員を任される事なく消防人生を終えた。
が、ゴールド免許を維持できているのはY隊長の教えが生きているからに他ならない。


 第8話

 十年一昔と言うが、もうふた昔も前の、私が消防士だった頃の話である。
当時香北分署の物置には野球道具が置かれていた。
受付の前にはバットが置かれ、先輩方、中でも草野球チームのコーチをしていたO先輩は時折素振りをしていた。
今では考えられない事だがY先輩曰く
「昔はキャッチボールもしよった。消防が暇な時が、みんなぁが安心できる時よ」
習って、私は剣道をしていたので、バットで剣道の素振りをした。
Y先輩曰く「体力は半分残しちょけよ。いつ出動がかかるかわからんき」
習って、私は体力作りと称して、16時頃から始める自主訓練を6割程に抑える様になった。
もっとも、消防人生の終わり頃には足首を痛め、まともに走ることができなくなっていたのだが。
またY先輩曰く「救急隊員が一番大事なのは要救助者を安心させる事」
「要救助者の状態を見極め、適した病院をあらかじめ覚えちょいて、受け入れの要請をするのも隊長の仕事」etcetc
山田の本署では教えてくれなかった救急隊員の心得をY先輩に叩き込まれたお陰で、曲がりなりにも消防人生を終えることが出来た事を今でも感謝しているのである。


 第9話

 十年一昔と言うが、もうふた昔も前の、私が消防士だった頃の話である。
当時見習い機関員だった私は隊長のT先輩とポンプ車で土佐山田を巡回していた。
列車の踏み切りを横断しようとした時の事である。角度が急すぎて、本来なら大きく回らなければならない所を一度に回りきれなかったのだ。
しかも警報機が鳴り、遮断機が降り始めた。列車が来たのだ。もはや緊急停止ボタンも効かない。
私はアクセルを全開にし、遮断機のバーを折って、なんとかポンプ車は踏切を脱出した。
当然の事ながら始末書を書いた。
たまたま幸運にも無事だったから、今なら思い出話にできるのである。


 第10話

 十年一昔と言うが、もうふた昔も前の、私が消防士だった頃の話である。
当時救急車の機関員だった私は緊急出動中バスに前を阻まれた。ブレーキをかける暇も頭もない。
対向車線の軽四のサイドミラーをへし折って、なんとかスピードを落とさず渋滞をくぐり抜けた。
当然の事ながら始末書を書いた。
たまたま幸運にも無事だったから、今なら思い出話にできるのである。

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