世界が愛したレスラー、エディ・ゲレロが亡くなってしまったことはこないだ書いた。もう明日で1週間になるけど、WWE関連のサイトはどこも追悼ムード一色。追悼メッセージはそれこそ何十人分も読んだし、オレ自身、未だにこのことを考えるとつらくなる。
有名なレスラー一家に生まれ、その名に恥じることなく「天才」の称号をほしいままにしたエディだけれど、一時期ドラック中毒(麻薬ではなく、鎮痛剤の過剰摂取だったみたい)とアルコール中毒によってどん底まで落ちたこともあった。そこから這い上がった後の彼のインタビューから抜粋。
「色んな誘惑があるのは確かだが、ひとつだけ言っておきたいことがある。それは俺がこうして、一所懸命に努力していられる力の源、それが家族ではないということだ。俺達、人間はみんな弱点があり、過ちを犯す生き物だ。だから知人や家族、他人を克己心の拠り所にすることはない。俺はジーザス・クライスト(イエス・キリスト)を克己心の拠り所にしているんだ。神を力の源にするということは、ひざまずいて“神様、私を助けてください”と祈ることだけじゃないんだ。俺が助けを求めたら、神は他人を通じて応えてくれる。たとえば俺は、アルコール依存症患者が集うミーティングに通い、俺自身で中毒を治すように頑張らなければならない。それが神の施しであり、俺はそれを進んで受け入れるべきなんだ。“燃え尽きることのない柴”のような奇跡じゃないんだよ。神が差し伸べる施しの手を、自分で努力して掴まなければならないのさ。」
彼が神を信じる人間で、クリスチャンであったとは、それこそ亡くなるまで知らなかった。それにしても、彼の信仰は力強い。ただ祈りで神に求めるだけではなくて、それに対して必ず神が応えてくださることを信じ、差し伸べられた手を努力して掴む。簡単で基本的なことのように見えるけど、そこまで神を信頼することって難しいと思う。
オレもクリスチャンだけど、1日24時間、1年365日、ずっと神の存在を信じていることが出来ない。目に見えず、声も聞こえない「何か」に祈ることは、ただの現実逃避のように思ってしまうことがよくある。日常には、神の存在を確信させる出来事があふれる一方で、神の存在を疑わせる出来事も沢山あって、だからしょっゆう悩むし、いっそ神の存在を全否定した方が楽なんじゃないかって思う時もある。
これからも、そんな時は訪れるだろうけど、このエディの言葉を思い出して自分を励ましたい。短かったけど、エディの人生そのものが、神を信頼することによる力に満ちていたんではないかな、と今は思う。
有名なレスラー一家に生まれ、その名に恥じることなく「天才」の称号をほしいままにしたエディだけれど、一時期ドラック中毒(麻薬ではなく、鎮痛剤の過剰摂取だったみたい)とアルコール中毒によってどん底まで落ちたこともあった。そこから這い上がった後の彼のインタビューから抜粋。
「色んな誘惑があるのは確かだが、ひとつだけ言っておきたいことがある。それは俺がこうして、一所懸命に努力していられる力の源、それが家族ではないということだ。俺達、人間はみんな弱点があり、過ちを犯す生き物だ。だから知人や家族、他人を克己心の拠り所にすることはない。俺はジーザス・クライスト(イエス・キリスト)を克己心の拠り所にしているんだ。神を力の源にするということは、ひざまずいて“神様、私を助けてください”と祈ることだけじゃないんだ。俺が助けを求めたら、神は他人を通じて応えてくれる。たとえば俺は、アルコール依存症患者が集うミーティングに通い、俺自身で中毒を治すように頑張らなければならない。それが神の施しであり、俺はそれを進んで受け入れるべきなんだ。“燃え尽きることのない柴”のような奇跡じゃないんだよ。神が差し伸べる施しの手を、自分で努力して掴まなければならないのさ。」
彼が神を信じる人間で、クリスチャンであったとは、それこそ亡くなるまで知らなかった。それにしても、彼の信仰は力強い。ただ祈りで神に求めるだけではなくて、それに対して必ず神が応えてくださることを信じ、差し伸べられた手を努力して掴む。簡単で基本的なことのように見えるけど、そこまで神を信頼することって難しいと思う。
オレもクリスチャンだけど、1日24時間、1年365日、ずっと神の存在を信じていることが出来ない。目に見えず、声も聞こえない「何か」に祈ることは、ただの現実逃避のように思ってしまうことがよくある。日常には、神の存在を確信させる出来事があふれる一方で、神の存在を疑わせる出来事も沢山あって、だからしょっゆう悩むし、いっそ神の存在を全否定した方が楽なんじゃないかって思う時もある。
これからも、そんな時は訪れるだろうけど、このエディの言葉を思い出して自分を励ましたい。短かったけど、エディの人生そのものが、神を信頼することによる力に満ちていたんではないかな、と今は思う。