GLAYは、1999年から2000年の約半年の間に2度、「解散」という言葉に向き合っている。
そして、そんな風に「解散」という言葉がリアリティを持ったのは、デビュー以来、後にも先にもその時しかないと言う。1度目は、1999年の年末だ。そして、2度目が2000年の4月から始まったHEAVY GAUGEツアーだった。
2000年の年明け、GLAYはデビュー以来という長期の休みに入った。それぞれが思い思いの休みを送る。そして、NEVER MINDとしてハワイでレコーディングも行っている。
●初めての試み
そんな時間を過ごした後、4月から始まったのがHEAVY GAUGEツアーだった。
最初の会場は東京の国立代々木競技場第一体育館。15、16、18、19日の4日間。どの街でも複数公演が基本のスケジュールだった。ひとつの街に数日間滞在しながら全国を回る。GLAYにとっては初めての試みだった。
ステージには、いくつかの特徴があった。
アリーナクラスの会場でありながら、そでの花道のような動くためのスペースがない。そして、日本では初めて使われるというステージ全面を覆い尽くしたような巨大なスクリーンがセットされていた。
「代々木が終わってみて、正直言ってこれからどうなるんだろうと思いました。ドームビジョンとかオリジナルのスピーカータワーとか初めての機材も多かったですし、組み立ての時間とか仕込みの時間とかかなり不安はありましたね」
「代々木のバラシが終わったのは明け方の4時半くらいでしたから」 機材的な面もあるものの、ツアーの考え方自体がそれまでと違っていた」と舞台監督の増渕豊倫は言う。
「幕張まではお客さんと一緒にお祭り騒ぎをしよう、みたいなステージをつくっていたんですが、HEAVY GAUGEの時は違いましたからね。どちらかといえば、頭からお客さんを突き放す感じでやりたいと彼らもよく言ってましたね」
「でも、コンサートってやってみないとわからないじゃないですか。今までにやってきたことをやるのは簡単なんですけど、違う考え方で作るというのは大変なことだと思うんですよ」
「実際にそれをやってあれだけのツアーを回るということには、やっぱりメンバーの中にも不安感はありましたからね。でも、それで行こうという気持ちになっていたのがすごいことだと思いますよ」
●ショーアップの排除
ロック志向と言えばいいのだろうか。ツアーに合わせて発売されたシングル『MERMAID』のカップリング『ROCK ICON』には、「古びたGLAYを爆破」という歌詞もあった。
ツアーのコンセプトはJIROから出ていた。それは、ひと言で言えば「ショーアップの排除」だった。彼自身、それまでのアンテナのようなビジュアル系的ヘアスタイルをやめていた。
彼はこう言う。「今思えば、煮詰まっていたんだと思いますね。花道を走ったりとかお約束のようにちょこちょこ走ったりするということをGLAYのステージから無くしたいと言いましたね」
「ステージで動かなくていいように大画面にして下さいとか。自分からそう言った責任感もあったんでしょうね」
そんなステージングに一抹の不安を感じていたのがキーボードのSHIGEだった。彼が初めてGLAYのコンサートに加わったのは、1999年のドームツアーからだ。それ以降、北海道ツアー、幕張と一緒のステージに立ってきた。
GLAYの前には、布袋寅泰と吉川晃司が組んでいたCOMPLEXや藤井フミヤのステージに参加している。X JAPANの東京ドームでは、ステージに上がらないところで演奏に加わっていた。
ステージ経験にかけては、実力派キーボーディストの一人でもある。
「演出を拒否するという感じでしたよ。今でもすごく思い出すのは、みんながエンターテインメントではないロックという方向に向かっていたということですね。ライブハウスでやるような感じをアリーナに持ち込もうとしていたところがあって」
「こういう言い方をするとわかったようなこと言って、と思われるだろうけど、ホールだったら成り立つけどアリーナクラスだと客席との距離がありすぎて。どっかで煮詰まらなければいいなという予感はありましたね」
●変わっていく空気
予感は的中する。
代々木を終えて盛岡市アイスアリーナで2回の公演を終え、仙台に入った。仙台グランディ21。公演は、4月26、27、29、30日と4回あった。その間、仙台に滞在していることになる。
ツアーの空気が変わっていったのは、その頃からだった。
⇒JIROの脱退騒動②
【記事引用】 「夢の絆 ~DOCUMENT STORY 2001-2002~/田家秀樹・著/角川書店」