こんにちは
8日は中秋の名月、そして9日はスーパームーンでしたね。
今年は名月が三度楽しめる年だそうで、月に心癒される僕には
うれしい一年でもあります。
これから深まってゆく秋も楽しみましょう。
< 目次 >
◇ ジェラート、アッフォガート、セミフレッド、ズッコット そして話はまた脱線
◇ JIJI-Milano
◇ イタリア旅行記 北イタリア編
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◇ ジェラート、アッフォガート、セミフレッド、ズッコット そして話はまた脱線 ◇
最近、ジェルマーノの店に行くとよく食べるのがセミフレッドです。
ジェラートでもなく、ケーキでもなく、甘い物好きの友人が一口食べて目を
丸くして『これ、どうなっているの?』
と聞いてきたぐらい、下触りがよく、甘さは程ほどで、多少ひんやりした温感で、口の中でまろやかに
溶けてゆくデザートです。彼の作ったものには、さらに粒子状のナッツと
蜂蜜がかけられていてさらに風味が勝っています。
彼の手による手作りで、作り方を聞いた所、まずは一言『企業秘密』とのこと
ですが、僕に向って『家で作りたい?』と訊ねてきましたが、
僕は失敗の可能性もあることを時間をかけて試すよりも、
彼の店にいって食べる方が良いと思っています。
ジェルマーノの説明では、主な材料になるものとして、1.ジェラート
2.生クリーム 3.卵
ということでした。パソコンで幾つかレシピーを見てみると、生クリームと
卵を使ったものが主流で、日本語でも数多くのフレーバーの、セミフレッドの
作り方が紹介されています。
彼の話では、ジェラートをベースにしたものが一番楽で作りやすい、(多分、何かを混ぜて)好きなように
形を整えて冷やすだけ、という感じでしたが、
ジェラートをベースにしたレシピーは見つけられませんでした。
ジェラートなら、そのまま食べてしまう方が良く、それに手を加えるとしても、エスプレッソをかけた
アッフォッガート(コーヒーに溺れたジェラートの意味)にするか、何かをトッピングするぐらいがせいぜいなの
だと思います。エスプレッソの苦味とジェラートの甘味の調和、冷たい状態から、エスプレッソの熱によって
溶けてゆく過程での食感の変化、シンプルですが絶品の一つだと思っています。
セミフレッドについて話しているときに、ズッコットというデザートの話が出ましたので、すこし紹介したいと
思います。以下の説明はWikipediaから抜き出したものに若干の手を加えたものです。
ズッコット(zuccotto)とは、トスカーナ州Firenzeでルネサンス期に誕生した丸いドーム型をしたもので、
セミフレッド(半ば凍った、または半解凍状態の氷菓)を用いたデザートである。
名称は15~16世紀の兵士のドーム型金属製兜「ズッコット」、またはカトリック聖職者の半球形頭巾の
トスカーナ方言での別名「ズッケット」(zucchetto)に由来。
ズッコット、ズッケットはどちらともズッカ(zucca)から派生した語である。
16世紀中ごろ、建築家、彫刻家、画家、軍事技術者、演劇デザイナーであったベルナルド・ブオンタレンティ
がメディチ家のために創作したと伝えられている。
ブオンタレンティは氷に硝石にを加える食品冷凍技術の発明者としても知られる。
半球形の形は敬愛するブルネレスキの代表作でありフィレンツェの象徴である、Duomo
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ(丸屋根)でへ名誉を捧げたものとも言われる。
フランスのオルレアン侯アンリ(後のアンリ2世)に嫁いだメディチ家のカテリーナ・ディ・メディチが
菓子職人とともにセミフレッドをフランスに持ち込んだと言われ、現代のアイスクリームの原型の一つとされる。
現代のアイスクリームとの違いは鶏卵を含まず乳製品主体であることである。
ズッコットは長く忘れられていたが、1950年代にフィレンツェの老舗洋菓子店
シエニ(Antica Pasticceria Sieni)が16世紀のレシピを復元し、復活させた。
フィレンツェのレストランやトラットリアのデザートメニューとしても登場するが、ティラミスやパンナコッタなどに比べ
製法が複雑で時間がかかることから自家製である場合は少なく、また家庭で作られることも比較的稀である。
製法は、パン・ディ・スパーニャを焼き、帯状に切り分け、半球形の型の内側にパン・ディ・スパーニャの
表面の焼き色をクーポラの肋に見立て放射状に敷き並べる。
パン・ディ・スパーニャにリキュールを染み込ませ(近年では酒類を入れないものも多い)、
細かく刻んだナッツ、果物の砂糖漬けや刻んだチョコを入れた生クリーム、甘みをつけたリコッタチーズ、
ヨーグルトなどを詰め、パン・ディ・スパーニャで蓋をして冷凍庫などで凍らせる。
型から取り出し、室温でセミフレッド(半解凍状態)に戻し切り分けて供する。
粉砂糖、カカオパウダー、溶かしたチョコレートなどで表面を飾る場合もある。
本来のセミフレッドのズコットとは別に、イタリアのジェラテリアには、スポンジ生地に卵白を含むジェラートを
詰めたzuccotto gelatoを置いているところもある。
YouTubeで検索したところ、元お菓子職人というおじ様が、大胆かつ手際よくズッコットの作り方を
三分間クッキングのように作って見せてくれている動画がありました。
見ていると僕でも作れそうな気がして来ましたが、多分、材料を買いに行く時点で面倒になって
断念することでしょう。
美味しそうな話はここまでで、話が脱線します。
身近にある食材に手を加えて、練り上げて、形にして、ソースをかけて食すというパスタ文化と
いう言葉でイタリアの食文化を説明していた本を読んだことがありますが、
日本も同じように、練り上げて、形を作って、ソース(あるいは別の添え物を使って)などで
味に変化を楽しむという愛情のこもった豊かな食文化があります。
今では出来合いの加工食品、惣菜、冷凍食品や、レトルトなどが幅を利かせてきて
危機をも感じるのですが、和食が世界遺産になったことをきっかけに、豊かな食文化が
伝承され、またさらに豊かになっていくことへの期待もしています。
ここで物を食べるということで、もう一つ大事なことが失われつつあるのではないかと危惧をしている
ことがあります。見かける数は少ないのですが、地下鉄や通勤電車の中で飲食をする人、
また、街中のコンビニの前で、買ったばかりのおにぎり、カップめんなどを立ったままで食べる人など、
食事をする時間も無いほど仕事に追われているのかも、と察すれば気の毒な思いにもなるのですが、
その姿をみて、心に湧いてくる思いは穏やかなものではありません。
礼儀作法を守らないマナー違反というような単純なことではなく、僕なりに思うに、日本人の
豊かな感性が失われていることの表れなのかもしれない。
食事というのは、単に口に物を入れる作業でもなく、エネルギーの補給ということだけでもなく、
食欲を満たすという自己完結の動作でもなく、もっと崇高なことではないでしょうか。
命の源を与えてくれる自然と、食を準備してくれた人々への感謝、そして食することを
通じて一緒に喜びを共感できる、とても素晴らしい機会であると考えています。
両手を合わせて『いただきます』と感謝の思いを発して、自然の恵みと、愛情を感じる
素敵な場であるのが日本人が抱き続けてきた精神であり伝統なのだと思います。
車内で物を食べる人、街頭で食事をする人に対する違和感は、例えが悪いかも
知れませんが、自分で一人きりで冗談を語って一人で笑っている人を見る思い、
あるいは殺風景な場所で愛の告白をする恋人の姿をみるような思いなのかも
知れません。
以前にも同じようなことを何度も書いたような気がしてきましたが、また機会を見て
言霊の勉強をしてゆく中で学んだこともあわせて書いてゆきたいと思います。
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◇ JIJI-Milano ◇
ジャルディーノの生徒さんで、フェデリーコと夫婦になり、ミラノで日本語を教えている明子さんからのお便りです。
今年はピエモンテでバカンスをすることにしました。
多くのイタリア人は海へと出かけるなか、多数派ではありませんが
山で過ごす人もいます。イタリア北部にはスイスとフランスと共有する
アルプスが横たわっています。この山脈には天国をイメージさせるような
美しい谷や草原があちこちに存在しています。
また尾根や山頂近くまで登ってみると、そこにはこれまでに見たことの
ない風景が広がっていて言葉には表せない感動があります。スケールは
違いますが、きっとチベットもこんな感じなのだろうかなどと、ふと
マライーニ氏が書かれた「ヒマラヤの真珠」という本を思い出しました。
始めてのピエモンテでの散策でしたが、期待していなかっただけに嬉しい
期待はずれ満載のバカンスでした。
そのうちの一つ、山登りの合間に訪れたFenestrelleという村にある要塞を
紹介したいと思います。
Fenestrelleはトリノから車で1時間半ぐらいのところにある人口600人弱の
小さな村です。そんな小さな村ですが、そこにはヨーロッパ最大の要塞が
そびえています。
写真はこちらから
https://www.flickr.com/search?sort=relevance&text=forte%20di%20fenes trelle
とても美しく剛健な建築物ですが、現在の姿になるまでには地元の人たちの
惜しみないボランティア活動があったことがうかがえます。
というのは第二次大戦後以降1990年まで完全に放置されたままとなり、
その間草木が生えわたり建物のあちこちが崩壊してしまいました。
90年以降、少しずつ修復していき、修復したところから公開し、その
とき集めた資金でまた修復し、公開し、を繰り返し、現在に至るようです。
45年間も手つかずで荒れ放題だったのをここまで蘇らせた地元の人たちの
熱意は素晴らしいものだと感服しざる終えません。
この修復に始めから関わってきたガイドの老人からは、まだ完了していない
ミッションの途中のような淡々とした熱意が感じられました。
この要塞を訪れるには、予約が必要で全てガイド同伴のツアーとなります。
コースは3時間と7時間のコースがあり、私たちは朝9時集合の7時間の
コースを申し込みました。
ツアーに参加する際の注意事項として、トレッキングシューズなど山歩きに
支障のない靴・衣類の着用、昼食持参、あれば懐中電灯の携帯、という3つ
のことがあげられました。
要塞は山の尾根添いに建てられており標高差が600メートル以上もあり
ます。靴についてですが、昇りは要塞にある二つの階段をあがりますが、
あまり足場がいいわけではありませんし、下りの際には、要塞外の山道を
降りるためです。
標高差600mがどのようなものか、山登りしない人には想像しにくいかも
しれません。要塞に作られた二つの階段のうちひとつは2km、段数にして
4000を超えます。金比羅山が1368段ということですから比較して
想像してみてください。
ですから、参加者の体力によってツアー時間が伸びてしまうこともあるよう
で、実際、4時解散の予定が1時間もオーバーして5時の解散になって
しまいました。私とフェデリコは幸い既に1週間山を登り降りして体力万全
だったので息を切らしながらも難なくついて行くことができましたが、初日
だったら少し大変だったかもしれません。
ほんの少しだけ要塞の歴史に触れると、全体の設計は1727年に遡ります。
イグナシオ・ベルトラという人の設計によるもので、それから100年以上の
月日をかけて建築が行われました。
しかし、18世紀の段階でまったくのゼロから作り始めたわけではなく、
5世紀頃作られた城壁が既にあり、それをさらに増強築させていったとガイド
が話してたように記憶しています。
壁の厚さはどこも2mあること、立地的に防御、攻撃に最適であることから
一度も攻撃による崩壊、損傷を被ったことはなかったようです。これほどまで
に巨大で強固な要塞を取り崩そうなどとは誰も考えなかったわけです。
攻撃自体は受けないものの、国際政治上、フランス軍のものとなったり、
サボイア家のものとなったり、と所有者が行き来しました。
その後、刑務所や捕虜の収容所として利用されたり、軍隊基地として利用され
たりしてきました。そして、その後は先に触れたとおりです。
放置されていた1960年代には麓のバール3件ほどが商業利用目的の
買取申請をしていたこともあったようです。そんなことが実現しなくて本当に
よかった、と思えるのも、現在の様子に蘇らせてくれた有志の人々のおかげ
なのだと思います。
ガイドの老人の話し振りから、自分はこれほどまでにこの要塞を守るために
闘ってきたのだというそぶりは全くありません。しかし、真摯に語る要塞の
歴史、詳細部分についての彼なりの思い入れなどからは、胸の奥にはまだまだ
しなければならないことがあり、この要塞を守って行かなければならないのだ
という想いが伝わってくるようでした。
こんな凄い遺産がどうしてあまり知られていないのか不思議です。周りの
イタリア人に聞いてみましたが知っている人はほとんどいませんでした。
ユネスコの世界遺産に登録していないのも意外でしたが、きっと何か
意図があるのかもしれません。
トリノからレンタカーで行くことになりますが、是非一度訪れてみて
ください。一見の価値有りです。
要塞のサイト
http://www.fortedifenestrelle.it
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◇ イタリア旅行記 北イタリア編 ◇
7日目 6月6日(火)Orvieto → Bagno di Tivoli
ローマの郊外にあるTivoliは、歴代のローマ法王たちの避暑地、別荘として
栄えた町です。ローマ時代の庭園なども残っていて、多くの観光客がやってくる
場所です。
宿泊地からTivoliまでは、バス1本で行けます。バス代金は片道77セント、
当時で約100円です。
Barで切符を買いに行くついでに、さっそくジェラートの店に立ち寄りました。
昼食前に、前菜代わりにジェラート!と張り切っていたのですが、店は閉まって
いて、しかも張り紙がしてありました。
もしかして閉店?それとも定休日?と不安な思いで張り紙に目をやると、
『ただいまジェラート製作中』と書いてありましたので、一安心して、
帰りの楽しみにすることにし、バスへ乗り込みました。
Tivoli行きのバスは、ローマが始発点なので、すでに多くの乗客がいました。
大半の人の目的地はTivoliに着く前の Villa Adriana(ローマ皇帝、ハドリアヌスの
別荘)です。そこで大勢降りてゆきました。
一時期は存在すら歴史の中から忘れられていましたが、19世紀に再発掘された
ものです。次の機会には是非とも訪れてみたいです。
バスはその後、町に入り、集合墓地の手前にある広い駐車場が終点です。
町には見所の一つとして、Villa d’Este という枢機卿の美しい別荘もあり、
今回僕が観光したVilla Gregoriana(ローマ法王グレゴリウス16世の別荘)は
人気の順では三番目かも知れません。
町にいられる時間が短かったので、手短に見られる場所を選びました。
バス停から別荘を目指して歩き始めると、しばらくして雷鳴と共に雨が
降り始めました。一時期はかなり激しく降り、雨宿りしたり、傘をさしたりして
庭園に行き着きました。
庭園には、雨のせいか、時間帯のせいなのか、ほとんど観光客はいませんでした。
半ば人工的に作られた庭園ですが、歩いていると自然の、山の中の散策路を
歩いているような雰囲気です。
じっくり歩くと1時間はかかるでしょうか、かなり広く、起伏も激しいです。
この庭園の一番の見世物は人口の滝です。
庭園の上に溜池があり、そこから引いてこられた水が落差100メートル以上の
大きな滝となり、落ちてきた水は、ネプチューンの洞窟と呼ばれる暗く深い
穴の中に飲み込まれてゆきます。
その深い穴の中を興味心から覗きこんで見ましたが、なにやら出てきそうな恐ろしい思いになりました。
上のほうに視線を移すと、ヴェスタ神の神殿がそびえています。
人工的に中をくりぬいて、通過することの出来る洞くつもありました。
小一時間の間でしたが、人工的に作られたものであれ、自然の様々な風景と
同じようなものを楽しむことができました。
散歩中だけは雨が止んでくれていたので、傘なしで歩けたのは幸運でした。
出口のところにbarがありましたので、遅い時間の昼食を取ることにしました。
Barに入ると再び雨が降り始めました。今回は今まで以上に激しい雨でした。
雷も鳴り響き、まるで古代ローマの神々の出迎えを受けたかのような
錯覚におちいるほどでした。(続く)
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最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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次回は10月10日発行予定です。
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