みなさま、今日は。
急に涼しくなり、秋らしい陽気になりました。朝夕は冷えて寒いほどです。
体調管理に気をつけたいものです。
僕にとって天敵の蚊が少なくなったので、これからの時期、鎮守の森に囲まれた
神社や、仏閣など郷土学の研鑚を兼ねて積極的に訪ねたいと思っています。
そして、苦手な現代史(日本史とイタリア史)もじっくりと学習してみたいと
思います。暗いニュースの多い世相の中で、せめて心の中には楽しみを持ちたいものです。
< 目次 >
◇ パルチザンとは
◇ JIJI-Milano
◇ イタリア旅行記 北イタリア編(前準備)
──────────────────────────────────────────────
パルチザンとは ◇
映画が苦手な僕にしては、今年はすでに二本も映画を鑑賞しました。どちらも
イタリア映画です。一本は以前のメルマガでお知らせした『明日のパスタは
アルデンテ』そして、先月『人生、ここにあり』も見に行ってきました。
ここ二年ほどイタリアに旅行にいけていない折に、映像の中ではありますが
雰囲気に浸れたのは嬉しい出来事でした。
話がそれますが、やっと最近我が家でもBSが見られるようになり、
『小さな村の物語』を見ながら思いを寄せるのも心地よい時間です。
名古屋の名演小劇場では10月29日からは『やがて来る者へ』
(原題 L’uomo che verra’)がロードショーされます。
この映画は第二次世界大戦末期、降伏をしたイタリアへ進軍した来た
ナチスドイツ軍と戦ったイタリアのパルチザンと呼ばれる一般民衆を含む
武装兵との戦いの時代の中での、人間ドラマを描いたものです。
今回は、パスチザンについて素人ながら、簡単に触れたいと思います。
昨年末から今年にかけて、アフリカ諸国で起こったジャスミン革命が
世界を動揺させています。イタリアに最も近いチュニジアで真っ先に起こり
その後、古代ローマから結びつきの強いエジプト、そしてついに、イタリアが
旧宗主国であったリビアでも旧政権が倒れたことは記憶に新しいです。
武力を伴なった革命であるがゆえに、命を落とした一般人も多く、
この国々で生活をしている人たちがどのような意識で生活し、未来に向けて
どのような希望や不安を抱いているかは、日本のような平和な国にいて
想像が及びません。
このアフリカでの革命が現在進行中の世界情勢であるとするならば、
ほんの60年ほど前には、イタリアにもこれに並ぶ、あるいはこれよりも
深刻な事態が起こっていたとは信じがたい気持ちです。
ご存知のように、第二次世界大戦ではアメリカを中心とした連合国に
対抗して戦ったのが、軍事政権下の日本、ナチスドイツ、そしてムッソリーニ
が率いたファシスト政権のイタリア、の三国枢軸国でした。
戦争下での行き詰まりでムッソリーニが失脚し、その後、ファシストを解体させた
バドリヨ軍事政権が連合軍と休戦協定を結び、1943年9月に降伏と
なりました。
ここからイタリアは複雑な状況に置かれてゆくのです。すでにイタリア南部は
連合軍が制圧していました。イタリア北部はナチスドイツ軍が侵攻し
しかも、ムッソリーニの後継としてドイツが後押しをした傀儡政権である
イタリア社会主義共和国(サロ共和国)が政府を名乗っていました。
バドリヨ軍事政権はイタリア国王(当時はイタリアは王国だった)と共に
南イタリアに逃げた出した状況でした。
これをイメージしやすいように、日本に仮想の状況で当てはめてみると
第二次大戦の末期、アメリカ軍が沖縄を拠点に九州を制圧、後に西日本
から静岡あたりまで進軍してきた、
一方では日本の軍事政権は不可侵条約にあったソ連と手を組み、
ソ連が北方領土を足がかりに北海道を制圧、徐々に南下し、
東京も支配下に落とし、静岡あたりまで進軍した状況。
東京の国会や省庁は大阪に落ち延び、天皇陛下も京都にて連合軍の保護を
受ける。一方、ソ連は日本の軍部を傀儡として、東北に日本社会主義共和国の
成立を宣言させる。
もしもこんな状況に日本が置かれたら、どのようにして、今のような日本と
いう独立国を取り戻しただろうか?どういう過程を辿っただろう?
どういう形で政府や、憲法や、政治の仕組みが作られていったのだろうか?
この『もしも』に、僕はぞっとする思いと、絶望感に落とされること以外
想像すら出来ない気持ちです。
話をイタリアに戻しますが、イタリアの場合は、一つのイタリアという
国家を再び形成するまでに、解体されたイタリア国軍の兵士や、
反ファシスト活動家を中心にしながら、一般の人をも巻き込んで、
ドイツ兵と戦い、その勢力を駆逐することに成功していったのです。
この義兵のことをパルチザンと呼んでいます。
戦後の回復期に、戦争中のことに一方的に否定的な観点だけで全てに
封印がされようとした日本に対して、イタリアではパルチザンは誇りある
姿として、また同時に家族の結びつきを失わせることにもなった
悲しい歴史としても現代においても文学やドラマ、映画に描かれています。
──────────────────────────────────────────────
◇ JIJI-Milano ◇
イタリア人の友人、ミラノのファッションカメラマンFedericoと
その奥さんの明子さんがミラノからフレスコな話題を
お送りするコーナーです。
***************************
ミラノは突然涼しくなりました。10月になっても今年は蒸し暑い日が続くな、などと思っていたら
一気に冷たい風が吹き荒むようになりました。
こちらは季節の変わり方があまりにも極端で情緒というものが全くありません。
イタリアの学校では9月から新年度が始まりました。長い夏休みを終えて、学生も社会人も
新たに事を始める気分になるのがこの季節です。
ちょうど、日本人が春になる4月に何か新しく習い事を始めたりするのと同じですね。
私も9月から近所のスポーツジムに申し込みをしてせっせと通うことにしました。
これまでは食に意識が向かっていましたが、今年からはスポーツの秋としけこむつもりです。
さて、今回は先月半ばに入ってきたニュースから、8月に続きまた結婚式の話題です。
場所はプーリア地方にあるモノーポリというバーリから40キロほど海岸線を南にいったところの街です。
ここで、先月3日にあるカップルが式を挙げることになりました。
マリア大聖堂での挙式ということですから、8月号を読んでくださった方は伝統的なイタリアの教会式を
ご想像できるかと思います。
日本人もそうですが、多くのイタリア人にとって、結婚式は人生最大のイベントで、それはそれは
贅と趣向を凝らし随分前から準備を始めます。ドレスや指輪、パーティの食事やゲストへのお土産、
アルバムに新婚旅行などなど、準備すべきことが本当にたくさんありますが、
これも幸せに満ちた一日のためですから面倒なことも楽しみながらできることです。
しかし、私は、このモノーポリの新郎が一体どんな気持ちでこれらの準備をしていたのだろうか想像がつきません。
そして、どんな顔を新婦に見せていたのか。教会式の様子は8月に皆さんにお知らせしたように、
とてもロマンチックなものです。
ゲストや親戚と一緒に新郎は教会前で新婦の登場を待ちます。
たいていリボンや花で飾られたクラッシックカーなどで現れます。
みんなの感嘆の中で新婦は迎えられ、教会の祭壇前までは新婦のお父さんに手を引かれていきます。
とても感動的な瞬間ですが、このときも、新郎は一体どんな顔をしていたのだろうかと気になってしまいます。
その後、神父さんからいろいろな言葉とみんなでお祝いのお祈りをしたり聖歌を歌ったり、そして指輪の交換。
しかし、その前に、新郎新婦が永遠の愛を誓うお決まりの文句があります。
通常の結婚式と違ったのはこの時でした。
神父が新郎に「汝、新婦某を妻として迎えますか」と、誓いの言葉の最後に聞かれたときです。
なぜか、答えたくない様子で返事をしない新郎。普通なら1秒と間をおかず、"S?"と返事するものです。
神父さんは再び質問をして新郎に返事を促しました。すると、今度ははっきりと"NO"と返事するではありませんか。
まるで映画のようですが、こんな場面に直面した親戚、ゲストは皆驚いたことでしょう。
それ以上に、新婦は何が起きたのかわからないほどだったのではないでしょうか。
神父はさらに新郎に、「あなたがそのように決意した理由を聞いてもいいですか」と問うと、
「それは新婦と私の立会人に聞いてください」となんとも衝撃的な返事をしました。
つまり、これは新郎の復讐劇だったのです。いつ、どのようにしてかは知らされていませんが、
新郎はある時点で、自分の将来の妻と自分の保証人になってもらった友人の「不倫」を知ってしまったのです。
それで、結婚式で恋人と友人の裏切りを暴露して復讐することを画策したようなのです。
なんとも恐ろしい話ですが、イタリア人、特に南の地方の人は嫉妬深いですから、
これくらいのことがあっても普通にありうることだろうと思えます。
しかし、復讐にかけた出費は大変なものになっただけでなく、その後の親戚やゲスト、近隣の人達との関係に
なんら影響はなかったのか気になるところです。
式の後のパーティですが、新聞記事によれば、新郎の友人、親戚だけで、独身に返り咲いたお祝いをしたとのことです。
ただし、その後の取材では、式に立ち会ったとされる神父はこの出来事を否定していて真実は謎となっています。
一体本当のところはどうだったのかとても気になるところです。
今回はイタリア人、特に南イタリア人の嫉妬の恐ろしさを物語る話でした。
話はかわりますが、今年の夏に、福島から35人の子供たちが夏休みを利用して、一ヶ月イタリアに疎開していました。
チェルノブイリの子供達の疎開を受け入れていた日本とイタリアのNPOによるものだそうです。
受け入れ先はテルニ、バリ、ピアチェンツァ、ミラノ、ローマなど。こちらでプロジェクトの様子がわかります。
http://www.kiboujapan.org/
夏休みに限定されず、そして、福島に限らず、多くの児童、若者、妊婦が疎開できる環境が西日本に、
世界中に整えられていたらいいのにと思います。
どうか、皆様口にするものには最大限の注意を払ってくださいますよう。
最後に、最近目にした映像を添付しておきます。ドイツのテレビ局による原発現場で働く人の実態を取材した映像です。http://www.youtube.com/watch?v=aAE-QBmC1VA&feature=share
──────────────────────────────────────────────
◇ イタリア旅行記 北イタリア編 ◇
この旅行の時期は2007年の6月です
前準備(続き)
Federicoと明子さんの結婚式の時に知り合ったイタリア人の友人がBolognaに
住んでいます。彼は日本にも会いに来てくれたこともあり、またメールでの
やり取りもありましたので、この機会に再会することになりました。
会う場所は僕の旅行の目的地と、彼の住居の中間を取ってPadovaにしました。
そんな訳で、Veneziaを起点として、5月31日(木)、6月1日(金)で
スロベニアとの国境近くまで、東側の北イタリアを周り、6月2日(土)は
友人とPadovaで会い、その後、北上してオーストリアとの国境近くまで
旅を続け、そこから今度は途中下車を繰り返しながら最終出国地点のローマ
まで下るという大まかな道筋が決まりました。
最も西の町はTrieste、そしてGorizia、この町は現在のイタリアの国境が
さだめられた時に、町の真ん中で真っ二つに分けられてしまった町です。
そしてFriuli地方の主要な町であるUdineを訪問の候補にして、
バスや電車の時刻表を調べ、シュミレーションしてみました。
実際は行って見なければ、その町に長く留まりたいか、短い時間で充分なのか
は分かりません。
交通機関の遅れや、予期せぬハプニングもあることでしょう。
一応は三つの町を全て回る強硬な予定を立ててみました。町から町への移動計画も
手短に回る計画、ゆっくり目に回る計画と、その中間のものと三つ立てました。
優先順位を決めることも重要です。Triesteだけ訪問する計画。時間があったら
Goriziaまで行く計画、さらに三つ全部まわる計画と三種類用意しました。
鉄道の駅から、主要な見学地までの移動手段やかかる時間に関しては、イタリアの
道路地図、インターネットでの地図の検索などを繰り返し、距離を測り、
採取手段としてはタクシーの利用も考慮しながら組み立てましたが、
いざ旅が始まったら、運と気まぐれな心に委ねるしかないとの覚悟も必要です。
手元にはイタリア全土を網羅した道路マップがあります。電話帳ぐらい分厚いもの
です。索引を使えば、どんな小さな町の位置も調べられます。主要な都市に
至っては町全体の地図も載っています。
町の規模、鉄道の駅からcentroまでの距離を把握するのに役立ちます。
細かい道路や、住所に関してはインターネットの地図に頼ります。
細かな町並みや駅からの距離の計算もしてくれるから大変助かります。
歩ける距離なのか、車が必要なのかも重要な情報です。歩く場合には
地図を印刷して持っていけば助かるでしょう。もっとも、僕の場合は
片っ端から道行く人に尋ねるほうが楽なので、地図はあくまでも
気休めです。(続く)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
ホームページがあります。どうぞご覧下さい。
『イタリア語スクール ジャルディーノ』で検索してください。
急に涼しくなり、秋らしい陽気になりました。朝夕は冷えて寒いほどです。
体調管理に気をつけたいものです。
僕にとって天敵の蚊が少なくなったので、これからの時期、鎮守の森に囲まれた
神社や、仏閣など郷土学の研鑚を兼ねて積極的に訪ねたいと思っています。
そして、苦手な現代史(日本史とイタリア史)もじっくりと学習してみたいと
思います。暗いニュースの多い世相の中で、せめて心の中には楽しみを持ちたいものです。
< 目次 >
◇ パルチザンとは
◇ JIJI-Milano
◇ イタリア旅行記 北イタリア編(前準備)
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パルチザンとは ◇
映画が苦手な僕にしては、今年はすでに二本も映画を鑑賞しました。どちらも
イタリア映画です。一本は以前のメルマガでお知らせした『明日のパスタは
アルデンテ』そして、先月『人生、ここにあり』も見に行ってきました。
ここ二年ほどイタリアに旅行にいけていない折に、映像の中ではありますが
雰囲気に浸れたのは嬉しい出来事でした。
話がそれますが、やっと最近我が家でもBSが見られるようになり、
『小さな村の物語』を見ながら思いを寄せるのも心地よい時間です。
名古屋の名演小劇場では10月29日からは『やがて来る者へ』
(原題 L’uomo che verra’)がロードショーされます。
この映画は第二次世界大戦末期、降伏をしたイタリアへ進軍した来た
ナチスドイツ軍と戦ったイタリアのパルチザンと呼ばれる一般民衆を含む
武装兵との戦いの時代の中での、人間ドラマを描いたものです。
今回は、パスチザンについて素人ながら、簡単に触れたいと思います。
昨年末から今年にかけて、アフリカ諸国で起こったジャスミン革命が
世界を動揺させています。イタリアに最も近いチュニジアで真っ先に起こり
その後、古代ローマから結びつきの強いエジプト、そしてついに、イタリアが
旧宗主国であったリビアでも旧政権が倒れたことは記憶に新しいです。
武力を伴なった革命であるがゆえに、命を落とした一般人も多く、
この国々で生活をしている人たちがどのような意識で生活し、未来に向けて
どのような希望や不安を抱いているかは、日本のような平和な国にいて
想像が及びません。
このアフリカでの革命が現在進行中の世界情勢であるとするならば、
ほんの60年ほど前には、イタリアにもこれに並ぶ、あるいはこれよりも
深刻な事態が起こっていたとは信じがたい気持ちです。
ご存知のように、第二次世界大戦ではアメリカを中心とした連合国に
対抗して戦ったのが、軍事政権下の日本、ナチスドイツ、そしてムッソリーニ
が率いたファシスト政権のイタリア、の三国枢軸国でした。
戦争下での行き詰まりでムッソリーニが失脚し、その後、ファシストを解体させた
バドリヨ軍事政権が連合軍と休戦協定を結び、1943年9月に降伏と
なりました。
ここからイタリアは複雑な状況に置かれてゆくのです。すでにイタリア南部は
連合軍が制圧していました。イタリア北部はナチスドイツ軍が侵攻し
しかも、ムッソリーニの後継としてドイツが後押しをした傀儡政権である
イタリア社会主義共和国(サロ共和国)が政府を名乗っていました。
バドリヨ軍事政権はイタリア国王(当時はイタリアは王国だった)と共に
南イタリアに逃げた出した状況でした。
これをイメージしやすいように、日本に仮想の状況で当てはめてみると
第二次大戦の末期、アメリカ軍が沖縄を拠点に九州を制圧、後に西日本
から静岡あたりまで進軍してきた、
一方では日本の軍事政権は不可侵条約にあったソ連と手を組み、
ソ連が北方領土を足がかりに北海道を制圧、徐々に南下し、
東京も支配下に落とし、静岡あたりまで進軍した状況。
東京の国会や省庁は大阪に落ち延び、天皇陛下も京都にて連合軍の保護を
受ける。一方、ソ連は日本の軍部を傀儡として、東北に日本社会主義共和国の
成立を宣言させる。
もしもこんな状況に日本が置かれたら、どのようにして、今のような日本と
いう独立国を取り戻しただろうか?どういう過程を辿っただろう?
どういう形で政府や、憲法や、政治の仕組みが作られていったのだろうか?
この『もしも』に、僕はぞっとする思いと、絶望感に落とされること以外
想像すら出来ない気持ちです。
話をイタリアに戻しますが、イタリアの場合は、一つのイタリアという
国家を再び形成するまでに、解体されたイタリア国軍の兵士や、
反ファシスト活動家を中心にしながら、一般の人をも巻き込んで、
ドイツ兵と戦い、その勢力を駆逐することに成功していったのです。
この義兵のことをパルチザンと呼んでいます。
戦後の回復期に、戦争中のことに一方的に否定的な観点だけで全てに
封印がされようとした日本に対して、イタリアではパルチザンは誇りある
姿として、また同時に家族の結びつきを失わせることにもなった
悲しい歴史としても現代においても文学やドラマ、映画に描かれています。
──────────────────────────────────────────────
◇ JIJI-Milano ◇
イタリア人の友人、ミラノのファッションカメラマンFedericoと
その奥さんの明子さんがミラノからフレスコな話題を
お送りするコーナーです。
***************************
ミラノは突然涼しくなりました。10月になっても今年は蒸し暑い日が続くな、などと思っていたら
一気に冷たい風が吹き荒むようになりました。
こちらは季節の変わり方があまりにも極端で情緒というものが全くありません。
イタリアの学校では9月から新年度が始まりました。長い夏休みを終えて、学生も社会人も
新たに事を始める気分になるのがこの季節です。
ちょうど、日本人が春になる4月に何か新しく習い事を始めたりするのと同じですね。
私も9月から近所のスポーツジムに申し込みをしてせっせと通うことにしました。
これまでは食に意識が向かっていましたが、今年からはスポーツの秋としけこむつもりです。
さて、今回は先月半ばに入ってきたニュースから、8月に続きまた結婚式の話題です。
場所はプーリア地方にあるモノーポリというバーリから40キロほど海岸線を南にいったところの街です。
ここで、先月3日にあるカップルが式を挙げることになりました。
マリア大聖堂での挙式ということですから、8月号を読んでくださった方は伝統的なイタリアの教会式を
ご想像できるかと思います。
日本人もそうですが、多くのイタリア人にとって、結婚式は人生最大のイベントで、それはそれは
贅と趣向を凝らし随分前から準備を始めます。ドレスや指輪、パーティの食事やゲストへのお土産、
アルバムに新婚旅行などなど、準備すべきことが本当にたくさんありますが、
これも幸せに満ちた一日のためですから面倒なことも楽しみながらできることです。
しかし、私は、このモノーポリの新郎が一体どんな気持ちでこれらの準備をしていたのだろうか想像がつきません。
そして、どんな顔を新婦に見せていたのか。教会式の様子は8月に皆さんにお知らせしたように、
とてもロマンチックなものです。
ゲストや親戚と一緒に新郎は教会前で新婦の登場を待ちます。
たいていリボンや花で飾られたクラッシックカーなどで現れます。
みんなの感嘆の中で新婦は迎えられ、教会の祭壇前までは新婦のお父さんに手を引かれていきます。
とても感動的な瞬間ですが、このときも、新郎は一体どんな顔をしていたのだろうかと気になってしまいます。
その後、神父さんからいろいろな言葉とみんなでお祝いのお祈りをしたり聖歌を歌ったり、そして指輪の交換。
しかし、その前に、新郎新婦が永遠の愛を誓うお決まりの文句があります。
通常の結婚式と違ったのはこの時でした。
神父が新郎に「汝、新婦某を妻として迎えますか」と、誓いの言葉の最後に聞かれたときです。
なぜか、答えたくない様子で返事をしない新郎。普通なら1秒と間をおかず、"S?"と返事するものです。
神父さんは再び質問をして新郎に返事を促しました。すると、今度ははっきりと"NO"と返事するではありませんか。
まるで映画のようですが、こんな場面に直面した親戚、ゲストは皆驚いたことでしょう。
それ以上に、新婦は何が起きたのかわからないほどだったのではないでしょうか。
神父はさらに新郎に、「あなたがそのように決意した理由を聞いてもいいですか」と問うと、
「それは新婦と私の立会人に聞いてください」となんとも衝撃的な返事をしました。
つまり、これは新郎の復讐劇だったのです。いつ、どのようにしてかは知らされていませんが、
新郎はある時点で、自分の将来の妻と自分の保証人になってもらった友人の「不倫」を知ってしまったのです。
それで、結婚式で恋人と友人の裏切りを暴露して復讐することを画策したようなのです。
なんとも恐ろしい話ですが、イタリア人、特に南の地方の人は嫉妬深いですから、
これくらいのことがあっても普通にありうることだろうと思えます。
しかし、復讐にかけた出費は大変なものになっただけでなく、その後の親戚やゲスト、近隣の人達との関係に
なんら影響はなかったのか気になるところです。
式の後のパーティですが、新聞記事によれば、新郎の友人、親戚だけで、独身に返り咲いたお祝いをしたとのことです。
ただし、その後の取材では、式に立ち会ったとされる神父はこの出来事を否定していて真実は謎となっています。
一体本当のところはどうだったのかとても気になるところです。
今回はイタリア人、特に南イタリア人の嫉妬の恐ろしさを物語る話でした。
話はかわりますが、今年の夏に、福島から35人の子供たちが夏休みを利用して、一ヶ月イタリアに疎開していました。
チェルノブイリの子供達の疎開を受け入れていた日本とイタリアのNPOによるものだそうです。
受け入れ先はテルニ、バリ、ピアチェンツァ、ミラノ、ローマなど。こちらでプロジェクトの様子がわかります。
http://www.kiboujapan.org/
夏休みに限定されず、そして、福島に限らず、多くの児童、若者、妊婦が疎開できる環境が西日本に、
世界中に整えられていたらいいのにと思います。
どうか、皆様口にするものには最大限の注意を払ってくださいますよう。
最後に、最近目にした映像を添付しておきます。ドイツのテレビ局による原発現場で働く人の実態を取材した映像です。http://www.youtube.com/watch?v=aAE-QBmC1VA&feature=share
──────────────────────────────────────────────
◇ イタリア旅行記 北イタリア編 ◇
この旅行の時期は2007年の6月です
前準備(続き)
Federicoと明子さんの結婚式の時に知り合ったイタリア人の友人がBolognaに
住んでいます。彼は日本にも会いに来てくれたこともあり、またメールでの
やり取りもありましたので、この機会に再会することになりました。
会う場所は僕の旅行の目的地と、彼の住居の中間を取ってPadovaにしました。
そんな訳で、Veneziaを起点として、5月31日(木)、6月1日(金)で
スロベニアとの国境近くまで、東側の北イタリアを周り、6月2日(土)は
友人とPadovaで会い、その後、北上してオーストリアとの国境近くまで
旅を続け、そこから今度は途中下車を繰り返しながら最終出国地点のローマ
まで下るという大まかな道筋が決まりました。
最も西の町はTrieste、そしてGorizia、この町は現在のイタリアの国境が
さだめられた時に、町の真ん中で真っ二つに分けられてしまった町です。
そしてFriuli地方の主要な町であるUdineを訪問の候補にして、
バスや電車の時刻表を調べ、シュミレーションしてみました。
実際は行って見なければ、その町に長く留まりたいか、短い時間で充分なのか
は分かりません。
交通機関の遅れや、予期せぬハプニングもあることでしょう。
一応は三つの町を全て回る強硬な予定を立ててみました。町から町への移動計画も
手短に回る計画、ゆっくり目に回る計画と、その中間のものと三つ立てました。
優先順位を決めることも重要です。Triesteだけ訪問する計画。時間があったら
Goriziaまで行く計画、さらに三つ全部まわる計画と三種類用意しました。
鉄道の駅から、主要な見学地までの移動手段やかかる時間に関しては、イタリアの
道路地図、インターネットでの地図の検索などを繰り返し、距離を測り、
採取手段としてはタクシーの利用も考慮しながら組み立てましたが、
いざ旅が始まったら、運と気まぐれな心に委ねるしかないとの覚悟も必要です。
手元にはイタリア全土を網羅した道路マップがあります。電話帳ぐらい分厚いもの
です。索引を使えば、どんな小さな町の位置も調べられます。主要な都市に
至っては町全体の地図も載っています。
町の規模、鉄道の駅からcentroまでの距離を把握するのに役立ちます。
細かい道路や、住所に関してはインターネットの地図に頼ります。
細かな町並みや駅からの距離の計算もしてくれるから大変助かります。
歩ける距離なのか、車が必要なのかも重要な情報です。歩く場合には
地図を印刷して持っていけば助かるでしょう。もっとも、僕の場合は
片っ端から道行く人に尋ねるほうが楽なので、地図はあくまでも
気休めです。(続く)
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最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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