ココロの仏像

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大和路のみほとけたち 7  富貴寺地蔵菩薩立像

2011年10月17日 | みほとけ

 奈良県下には数多くの地蔵菩薩彫像が伝わるが、時代別に分類すれば平安初期や鎌倉時代以降の遺品が多数を占める。藤原時代の遺品は少なく、平安京定朝工房の作とみられる例は管見の限りではニ躯しか見当たらない。一躯は桜本坊の地蔵菩薩坐像、もう一躯は富貴寺の地蔵菩薩立像である。

 木造、像高は96.0センチ。彫眼、漆箔とする。いま本堂内陣の東側に安置されて本尊釈迦如来坐像の脇侍同然となっているが、本来は別堂の主尊として造られた筈である。制作時期も釈迦如来坐像より少し前とみられるが、定朝一門仏師の作であることは間違いない。報告書類では声聞形立像と述べられるが、印相は紛れもない地蔵菩薩のそれである。
 右腕を垂下し掌を前にして五指を伸ばし、与願の意を示す。左腕は屈臂して掌上に宝珠を捧げる。智泉大徳様の形式であり、現存最古の地蔵彫像である京都広隆寺講堂像以来の古制を踏襲する。地蔵といえば右手に錫杖を執る姿がよく知られるが、それは12世紀以降に流行し定着してゆく形式である。

 富貴寺の地蔵菩薩立像は、奈良地方の伝統的な古制にのっとって造られたとみられ、定朝工房の積極的な古典学習および古像再現のありかたをよく物語る。よく似た作品が定朝工房作の浄瑠璃寺地蔵菩薩立像であるのは興味深く、定朝作の伝承をもつ壬生寺地蔵菩薩半跏像からの系譜上に置かれることも重要である。作風のうえでも、腹前の衣文処理における帯状表現とやや鎬を立てる皺の形、衣裾に近づくにつれて徐々に丸みを加味する処理法などがほぼ共通する。
 だが富貴寺地蔵菩薩立像には腹帯がなく、その点でも古式である。浄瑠璃寺本堂地蔵菩薩立像と同じ図様を本様として通常形にアレンジされたもののようであるが、それでも平安京の同時期の地蔵彫像とは異なる情感や雰囲気に包まれる。それらこそは大和独特の、天平時代以来より連綿として息づく「空気」であろうが、それを理解し体得して藤原時代当時の感性にて再現せしめた作技には驚かされる。この領域に達し得る仏師の一群は本邦に定朝工房のみであり、その情熱的な活動は興福寺復興造仏事業を契機として大和にも雅やかな華を色とりどりに咲かせたであろう。

 その花びらの僅かな数枚が、大和各地にいまも残り香をただよわせる。富貴寺地蔵菩薩立像とは、そういう存在である。大和の藤原彫刻史の骨格を形成するうえで欠かせない作品であり、釈迦如来坐像とあわせて多くの情報、視点を我々に示してくれる。
 像の由緒や歴史は不明だが、創建伝承にある道詮律師の活動時期が日本の地蔵信仰の黎明期に重なるのは単なる偶然ではない。平安初期の大和における地蔵信仰への追究は、学究の徒であった道詮ならば一度は実践した筈であり、富貴寺における地蔵菩薩立像のルーツはそのあたりに想定出来るかもしれない。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、富貴寺総代吉田様の御許可を頂いた。)


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