ココロの仏像

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大和路のみほとけたち 8  長谷本寺薬師如来坐像

2011年10月21日 | みほとけ

 仏像彫刻の造形を理解する際、像容にみられるフレーム性を読み取ることも一つの重要な方法である。仏像造立において、作者がその基本イメージの前提として想定する「形」があり、坐像であれば三角形となる。この三角形のフレームには時期によって変化があるが、藤原彫刻においては平安京康尚・定朝工房の作品群に共通して見られる美しい二等辺三角形のフレームが一種の基準として理解される。その傑作が宇治平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像であり、やや高めの二等辺三角形のフレームの中に像の姿がおさまって快い緊張感と安定感とを併せもつ。

 一方、大和地方の藤原彫刻遺品の数々を見ると、同じ康尚・定朝工房系の作品群とみられる一連の遺品にさえ、平安京の作品群とは微妙に異なった二等辺三角形のフレームが感じ取れる。それは底辺が長く正三角形に近い二等辺三角形である。なかには正三角形におさまるフレームすら見られる。これらを大和の特色のひとつと捉えても間違いではない。このフレーム性は、大和の古代彫刻つまり飛鳥白鳳天平の遺品群に普遍的にみられるからである。
 大和には大和の伝統があり、大和の造形の系譜にも確かな「骨格」がある。飛鳥時代より造仏構想のうえに連綿として受け継がれたフレーム性は、定朝様式への完全な踏襲と模倣とが徹底された藤原時代にも決して揺らぐことがなかった。若き日の定朝は、興福寺復興造仏を通じてこのフレーム性の重要さに気付いたもののようで、定朝の若年期に推定される仏像作品群の中に意図的に大和のフレーム性を試したような遺品が散見される。しかしながら定朝は結果的に大和のフレームよりもやや高めの二等辺三角形フレームを理想的表現の構成要素として位置づけたことが藤原彫刻の完成期の作品群を通して理解される。その二等辺三角形フレームは京都的とも言えよう。

 長谷本寺にて薬師如来と伝える如来形の坐像は、そのフレームが正三角形に近い。明らかに大和の藤原彫刻作品の系譜上にあることが知られるが、このフレーム内に頭部だけが収まらずに飛び出しており、造形的にも中世のものと分かるから後補であるのは間違いない。像は過去に矧目が完全にずれたり外れたりしたほどの損壊状態を経験したらしく、とくに首周りに破損補修や埋木の痕跡が顕著である。たぶん頭部に衝撃を受ける形の破損を経たようで、このとき元の頭部は完全に失われたのであろう。
 しかし胴体と両脚部とが造立当初の状態を保っているのは有難いことである。定印を結ぶ両手首も後補となるが、体部残存箇所の形状から当初も同じ印であった可能性を否定出来ない。境内地の西側に建つ東向きの堂に安置されるのが昔からの状態を継承しているのであれば、本来は定印阿弥陀如来の坐像であったかもしれない。尊名の問題はこの程度にとどめ、残存部からうかがえる情報に着目しながら長谷本寺像の特徴を捉え直してみたい。

 ひとつは、両脚部にみられる古風な衣文表現で、10世紀を中心にみられるものである。しかし彫りは非常に浅く、単なる条線の配置に過ぎないぐらいの形式化に陥っているので、実年代が10世紀でないことは確かである。
 二つ目は両足首をエプロン状に覆って前面に垂れる大衣端の形であり、これは11世紀頃から施無畏、与願印形の如来坐像遺品を中心にしてみられはじめる。天平および平安初期彫刻に見られる足首部分の衣襞表現を参考にして藤原時代に考案された形であろうと考えられるが、その初発的表現の全てが定朝工房系の遺品に集中しているのは興味深い。このエプロン状意匠の考案者は定朝である可能性が高い。したがって年代的には11世紀前半期以降に絞られる。
 三つ目は内刳の大きさである。掲載写真のように両脚部のほぼ中央に干割れとみられる大きなひびが生じているが、この部分に懐中電灯の光をあててみると肉厚が最低限であり、内刳が最大限に施されている状態が看取出来る。像本体の軽量化には成功しているものの、構造的には脆く、後世の大破とも無関係ではない。さらに肉厚の薄さは衣文表現における浅い彫りとも関連し、あまり深く彫ると内刳に突き抜けて穴が空いてしまう。内刳は時代を経るにつれて大きくなる傾向があり、そのピークは12世紀の院政期にあたる。

 以上の情報から、像の造立年代は11世紀末期から12世紀までの時期と推定される。しかし前述の10世紀頃の古風な衣文表現を考えると、本尊十一面観音菩薩立像と同じく復古像の可能性がある。この想定において、正三角形に近いフレーム性が改めて重視されてくるが、原像の存在を考えるならばフレーム性からみて純然たる大和の古代仏像彫刻であったことが容易に想像される。
 これらの推定を裏付けるには寺史への再検討が必要となるが、長谷本寺の詳細な記録及び史料類は散逸して断片的な伝承のみを繋ぎ合わせた寺伝のみが語られる。薬師堂の本尊であったというが、当初からの安置状況を伝えているかは確証が無い。そのゆえに孤独となった伝薬師如来坐像であるが、大和の伝統的なフレーム性を通して像の史的重要性が再確認出来るのは不幸中の幸いである。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、長谷本寺様の御許可を頂いた。)


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