風に吹かれて    Blowin' in the Wind  今でも旅の途中~ 

海風や森から吹いてくる風がすき。いつも旅の記憶は風・・・又旅にかえりたい。

アイランド・島

2010-10-24 | 


いつも島に対する憧れをもち続けている。 たぶん原点は子供の頃 

宝島(ロバート・ルイス・スチーブンソン Robert Louis Balfour Stevenson 18501113 - 1894123日イギリス
十五少年漂流記 (ジュール・ヴェルヌ Jules Verne, 182828 - 1905324日フランス) 
ロビンソン・クルーソー (ダニエル・デフォー Daniel Defoe 1660 – 1731421日イギリス)を読み
空想の世界で遊んだ記憶があるからだと思う。

本だけではなく、映画でも無人島に漂着してのサバイバルをストーリーにしたものも沢山ある。

現代はGPS機能(Global Positioning System 全地球測位システム)があり、
もしどこか無人島に漂着しても生存の可能性は高いが、当時の小説家はこの科学の進歩を
夢想だにしなかったのではないか?


「原色日本島図鑑」 日本の島433 有人島全収録  加藤 庸二著 
(写真家・島のスペシャリスト)新星出版社を読んでいる。


この本の著者は全島を網羅したのだと思うと凄い!
著者の説明には30年以上にわたって島の取材をし、島の人口は20105月の時点で
調べた最新情報となっている。

かって人々が住んでいた島、かかわりの深い周辺の島、
あるいは産業や自然、文化など関係の
深い無人島が併せて紹介されている。

島の写真や島に暮らす人々の様子等が随所にちりばめてあり楽しい。

地図でみる日本は小さいがこれ程の島があり、
北は亜寒帯の北海道から南は亜熱帯の沖縄まで日本列島は

変化に富んだ美しい島々が連なる。

島に対して限りない憧憬と畏敬の念を抱いているが、
憧れだけでは島では暮らしていけない事が
今回の鹿児島県・奄美地方の記録的な豪雨被害。
島という孤立した場所で自然に対峙して生きてく人達の大変さを感じる。
都会は都会で生きていくのが安全であるとは
言い切れない怖さがあるが・・・・・・・

一日も早い復興を祈りたい。


尋ね人の時間

2010-10-17 | 日記

NHKラジオの番組「尋ね人の時間」
1946年(昭和21年)71 - 1962年(昭和37年)331日
戦中、戦後の混乱の中で肉親、親戚、友人、戦友、知り合いなど
行方が判らなくなった人を探し出したい、
再び会いたい、連絡を取りたいなどと考える人が
NHKに手紙を出し、探し出したい対象者その本人やその人の
消息を知っている人からの連絡を待つ依頼内容の伝言番組(Wikipedia)

 

ラジオでその番組を聞く機会はなかったが、
今尋ね人の時間があったら、沢山の
伝言を残したい・・・・

どの位前か記憶が定かでないが、かって駅に伝言板があった。
黒板にチョークがおいてあり、自由に伝言を書き込めるようになっていた。


○○ちゃん先に行く、拾得物預かっています。
といった内容の伝言が書き込まれており、
私は通学定期券を紛失して、
お世話になった事がありました。
 


駆け足の生活を送っていて、
ふと気がついた時、当時親しかった友人達を
探せなくなっていた


現在でいう「尋ね人の時間」にかわるものは?と思いFaceBooK で
名前を検索していて・・・・その人たちの何人かを
見つけました。

地球の裏側で幸せな家庭を築いている幼かった友人、
若くして亡くなった友人もいました
外国人の友は旧姓をそのまま名乗る人もいるので、
日本の女友達より探しやすい。


幼かった友人たちと


もし時空を超えて会いたい人に連絡できるFaceBookがあったらまず、
亡父母かなぁ....

 

 


昔の佇まい

2010-10-12 | 建物

伊豆高原を旅した帰り小田原に立ち寄った。
駅周辺は他のターミナル駅とあまり変わらないが、商店街が昭和に
タイムスリップしたみたいでなぜか懐かしい。

 守谷のパン  小田原市栄町2-2-2  TEL 0465‐24‐1147
営業時間:AM8:00~PM6:00(売り切れ御免* 前回4時にいったら大部分売り切れだった)
甘食・アンパン・こっぺパン いずれも懐かしい味。
店構えも昭和のお店 残念な事に振替休日11日この日はお休みか?



清水甘納豆    小田原市栄町1-17-3  TEL 0465-24-2525    こちらの柿の種も美味しい



江嶋 倭紙茶舗 創業寛文元年(1661) 店舗は立て替えられている
神奈川県小田原市栄町2-13-7  TEL 0465-22-2020




だるま    小田原市本町2丁目1番30号 TEL 0465−22−4128
1893年(明治26年)創業時の建物が1926年(大正15年)に建て直された
国の登録有形文化財の料理屋  いつも時間帯を外してしまって未だに食事をした事がないが、建物が見事
  


山本眼科医院   神奈川県小田原市本町2-3-22 TEL 0465-22-7522
ライオンのレリーフのある洋館
 

次回は一日時間をとってタウンウオッチしたい。


My tiny garden

2010-10-10 | gardening

今年の猛暑のせいか金木犀の花つきがよかった。
昨日からの雨で花はずいぶん散ってしまったけれど、香りは風に運ばれて
まだ漂っている。



暑くてだいぶ庭仕事をサボってしまった・・・・ でもその中でけなげに咲いて
くれている・・・・




台風や大雨で雨水がゴボゴボ音を立てて、下水道に流れ込んで
いるのを見ると、エコの時代になんて勿体ないのかと思う。
雨水貯水タンクを設置出来ないので、
沢山雨が降るような日には、
庭にバケツやジョウロを出して雨水を貯める。
今回の成果↓



総動員したバケツ達に満々と雨水がたまる台風一過は、
都会にいても草いきれを感じる。


過ぎゆく夏

2010-10-08 | 旅行

子供の頃夏休みを長野で過ごした。

上野駅から汽車にのる際必ず冷凍ミカンと、
小さな急須型の瀬戸物にはいったお茶を買い、
横川駅から軽井沢駅までの停車時間に
峠の釜めしを買い、ハンカチを冷たい駅の水飲み場で浸して
汗を拭った清涼感・・・・

あの時の心象風景は汽車とあたり一面の黄色。
幼い頃のこの旅の思い出は、車窓からの菜の花畑。
頬に当たる風と一面の黄色が後方に飛んでいく・・・・

菜の花畑が麦畑ではないか?と気づいたのは大人になってからでした。
夏休みなのに菜の花はおかしい。
だが麦が黄色く色づく麦秋は6月頃。あの黄色は何だったのだろうか?

よく田舎で目にしたのは松葉ボタン、貝殻草、ダリア、鶏頭、あかまんま、キンセンカのような
花だった。あの頃は現在のように花の種類が豊富でなかった。

10月に入って草津に数日滞在した。
前回ダリアの花がこんなに沢山種類のある事に驚いた道を又散歩したら、
最盛期は過ぎてしまった種類もあったけど、まだまだきれいなダリアに再会出来て幸せだった。
     

 
 
 




まだアジサイも・・・・・



紅葉もはじまってる・・・・




エロイーズ カニングハム - ELOISE CUNNINGHAM

2010-10-01 | 建物

しばらく住んでいた集合住宅のバルコニーの前には、

雑木林が広がっていた。
関東財務局所管のその雑木林の隅に木造の西洋館がたっていたが、
まもなく取り壊され、門にはチェーンが巻かれ立ち入り禁止のサインがたった。

集合住宅の前に、すでに廃墟寸前、無人の木造平屋の庭付の官舎が並び、
春には梅や桜、秋には銀杏の大木にギンナンがなり
よく塀を越えて侵入者が拾いに来ているのを見かけた。
夜大通りから家の方に曲がってくると、
暗闇が広がり、雨の夜にはガマガエルを道の真ん中で発見したり、
およそ都心とは思えないような環境で、
明治神宮の森から沢山野鳥が飛来してきた。

朝散歩がてら青山墓地を一周していると、
岡本太郎氏がウォーキングをしているのによく出会った。
家から近かった岡本邸の前を夜通るのは避けていた。
棕櫚の大木に覆われ、庭においてある彼の作品が暗いなかで、
モンスターのように見えて怖かったからである。

家から霞町(西麻布)交差点にでる時は骨董通りを迂回しないで、          
根津美術館の横の坂をくだっていく緑の中に
その家はあった。
大きな柳の木がゆれている木造の家。私のお気に入りのその家は、
エロイーズ カニングハム ELOISE CUNNINGHAM
と書かれたサインがあり、時々暮れなずむ頃、
表に白髪の品のいい老婦人が佇んでいた。
通りに面したキッチンと思われる場所で姿を見かける事もあった。
まるで根津美術館の敷地の中、又山中にあるようなその家に憧れ、
その女性がどんな方か気になっていた。

暫くしてELOISE CUNNINGHAM死去を新聞で知った  明治 32年(1899)~平成 12年(2000)
同時に彼女が日本の青少年に生のオーケストラを聴かせ、若い音楽家の育成に生涯を捧げた
アメリカ人女性である事も。又2005年に「エロイーズ・カニングハムの家」下重暁子 白水社が出版され、
私の憧れのその家がアントニン・レイモンドの設計であることを知った。
チェコスロバキア生まれのアメリカ人、アントニン・レイモンドは
帝国ホテルで名高いフランク・ロイド・ライトの弟子であり、アントニン・レイモンドの弟子吉村順三が、
エロイーズ・カニングハムの軽井沢の山荘を設計した事がわかった。

バルコニーの前の雑木林の無くなる少し前私は引越し、
雑木林の跡地に新しい集合住宅が建った。
家の前の木造平屋と庭はお洒落なファッションビルに変わり、人通りのない道が  
何時いっても明るい沢山人が往来する通りに様変わりした。
岡本太郎邸は没後岡本太郎記念館になり、
根津美術館は建て替わり、エロイーズ・カニングハムの柳の木は伐採され、
家はモルタルで固められもう昔の面影はない。
十年ひと昔、東京は変わり続ける。