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51歳、ある教員の選択

上映会で学んだこと~「立ち位置」を突き詰めるということ

2011年12月14日 23時46分27秒 | 福島原発関連
 12月13日、ビデオアクト上映会で私の作品「子どもたちを放射能から守れ 福島のたたかい」を上映していただいた。この作品は、僕の作品の中では郡を抜いて反響の大きかった作品で、その反驚に逆に複雑、驚異を感じていた面もあった。つまり、福島の現実は放射線量も下がっていないし、国の基準も高いまま、何も変わっていないことの反映ではないかと。その矢先の上映会ということもあり、上映会では僕としては正直びっくりした「反響」があった。
 ひとつは会場からの発言で「今日のような作品はまるで戦前のようなもの(一方的な主張)を感じる。エンターテイメント的な、観る人を意識した作品づくりはできなかったのですか」というご意見。
 僕は正直カチンときた。「そのとおり一方的です。僕は子どもの側に立ちたい。それのどこがいけないのか」と言いたかったが、「おもしろいものを作ろうという余裕はなかった」というおもしろくない回答しかできなかった。
 しかし後で落ち着いて考えてみると、「自主避難」していない、したくてもできない福島県民の方々に、あの作品はどう映るのか?そこまで考えて作ったのかと言われれば、確かに一理あるご発言ではあったと思う。(それにしても「戦前と同じ」はないだろう。それは「侮蔑」に近い)しかし、それしか僕にはできなかった。本当にできなかったのだ。言いわけでなく。そしてご発言した方に逆に聞きたかった。「あなたは、どこに立っているのですか?」と。県外の参加者だったようなので、聞きたかった。「福島の子どもたちの立場に立ったとき、あなたはどう表現しますか?」と。僕には、本当にあれ以上の表現は無理だった。そのことに気づかせてくれた質問でもあった。
 それから、帰り際にある参加された女性から以下のような指摘を受けた。「(福島県田村市の)女性が、『自分の娘の可愛いい孫をみたいからこの集会に参加しました』という発言、とても差別的ではないですか」という指摘であった。つまり、「放射線障害による胎内被爆児に対する差別ではないか」ということだ。確かに、そう受け取られる方もいるかもしれない。でも映像の女性はインタビューの後、こう語った。「政府の方にぜひ福島に来ていただきたい」と。「福島の線量下で娘の体に悪影響が及んで欲しくない」という親の気持ちが生んだ発言ではないだろうか。これが伝わらない。かなりショックだった。参加された女性は、「ぜひカットして欲しい」と言い、お帰りになった。この点についても、他にどう表現したらいいのかわからなくなった。福島から様々な理由で離れることのできない妊婦の方々が見たらどう思うかということだと思う。難しいとしかいいようがない。そして、あなただったらどうしますか?とも逆に聞きたい。カットすればいいという問題ではないと思う。なぜなら、福島県に限らず周辺の高放射線量下で不安に感じている女性は、必ずいるし、その不安は誰も否定できないからである。
 そして上映後の飲み会の席で、「ナレーションの中で『ついに福島でネットワークがたちあがった』とあるのは、『運動』の側からのみの見方が出ている。検討の余地ありでは」というご指摘があった。これも気付かなかったことだ。でも、「ついに~できた」という僕の思いが出過ぎたナレーションが無ければ、それでいいのか。それが何を生むのかは、僕にはわからない。「ついに~」は、とっさに頭に浮かび、僕にとっては自然だったからだ。
 僕の作品をめぐっての議論を整理すれば「運動」の側からのみの表現と思われすぎる面だけだとまったく原発に関心のない、または原発賛成の人たちの心に響かないのではということだと思う。「脱原発」サイドからの様々な情報、表現が飛び交っている中では、考えなければならない、検討せざるをえない局面なのかもしれない。でも、僕がこの作品を作ったときは、福島の動きはまだ第1歩の段階だったし、マスコミも「避難」の問題は報道していない。それは今も同じだ。であるとすれば、それでは今何が必要なのか?
 僕は、福島の子どもたちを救いたい。それは、誰も同じだろう。ならばどうすればいいのか?もっと本気になってほしいと。そういう気にさせる映画を作りたいとしか言えなし、その意味で僕をさらに本気にさせてくださったビデオアクト上映会だった。
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