学校を辞めます 

51歳、ある教員の選択

とても簡単なことだと思います

2013年12月28日 22時09分25秒 | 福島に届いた李さんの綿の花
ものすごく簡単なのに。
①思想・信教は自由なのです。だから、公務員たる首相が「神社本庁」の経営する一宗教法人の靖国神社に「首相」として参拝することは、憲法で禁止されているのです。
②教員が「日の丸・君が代」に反対することが許されるのは、人間の「信条」は自由であり、同時に一つの「考え方」(この場合国家神道)に偏る教育に反対するからです。これは、公務員だからこそとるべき方策であると言えます。
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自死をした仲間の子どもたち

2013年12月25日 10時58分06秒 | じゃがいもじゅく
本当に久々に、自死した仲間の家族(正式には後見人)と母親に電話した。
子どもたちはがんばっていると感じた。
特に弟は、先日私に「どうしてる?」と電話をくれた。
そして、周囲の人たちもがんばっていると感じ
少し安心した。

私は半年前、この問題に関してどうしていいかわからなくなり
投げ出してしまった。
子どもたちには申し訳ないと思っている。
でも、どうしていいかわからなくなったのだ。
それは、今も変わらない。

ただ、変わったと言えば
とても残酷だけど、僕らにはどうしようもない
ということだ。
話し相手になる、遊びにつれていく、お金の援助をする等々。
どれも限りがあるし、なによりそれが子どもたちに「必要」なことか?

もし最低限の金銭援助が必要となれば
後見人の方から話があるだろうし、

今までは子どもたちに「遊び相手になる」「おごってやる」の関係でしかなかった。
しかし、これからはそうはいかない。

来年の4月、姉が18になるので退職年金がおりなくなる。
その時どうするか?

残念ながら、それは僕が決めることではない。
子どもたちが後見人の方と決めていくしかないし
われわれの「援助」はそこからしか始まらない。

かわいそうでは何も解決しないし、子どもたちもそれは一番嫌っている。
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家族で泣く

2013年12月21日 11時31分04秒 | 母のこと
昨日かかりつけの心療内科の先生に
「ストレスには2とおりあり、時間がたてば小さくなっていくものと
時間がたっても小さくならないものがあります。湯本さんの場合は
後者で、あえてストレスを忘れようとしたり、なくそうとしても無理です。
ストレスを大きくしないことしかありません」
と言われ、「納得」だった。
先生は、それは「宿命」だとも言った。
冷たい響きだが、確かにそうだ。
母の状況は、宿命であり、自然なのだ。

夕方、妹と些細なことで大喧嘩になった。
マンションの工事が始めてから、
妹には、いつも事後報告をするようにしている。
そのことで妹が「文句」を言ってきた。

僕は「決まってからいろいろいわんでほしい」
に対し、妹は「だったら私はもう何も言わない」。
妹は、母に大きな責任を感じていた。
母を家に戻したいと妹は泣きながら言った。
僕より、妹のほうが母のことを考えていたことに
気が付いた。
僕は、そんな妹の気持ちに気が付いていなかったのだ。

二人ともいっぱいいっぱいなのだ。
あとで妹に謝りに行き、二人で泣いた。

もし震災がこれに加わったら、
「家族で泣く」余裕すらないだろう。

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お袋の手

2013年12月19日 22時42分49秒 | 母のこと
入院して3か月、
危篤、意識をなくしてから2か月。
お袋は、気持ちよさそうに寝ている。

お袋の手を握ると
握り返しては来ないが
お袋の「豆腐の味噌汁」を思い出す。
うまかったなあ。


もう1回でいいから
家に帰してあげたい

愛犬のチャオに会わせてあげたい

お袋も帰りたいと心の底から思っている。
しかし、それはかなわない。

先月奈良と広島へ
今月福島へ
取材を文字通り「強行」した

行ってよかったと思っている
しかし、帰って胃痛に悩まされた

「行ってはいけない」と心のどこかで
思っていたのだろう。

でも、お袋がこの状態であれば
また福島に行くだろう。

じゅくも休み 仕事も忙しい中
お袋と会っていると
今自分に何が大事かが見える。よく見える。

つかれても、工夫してやりのけたいという
気持ちが湧いてくる。

自分は、人間なんだなあと思う。
自分も少しは強いんだと感じることができている。
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福島に絵を届ける旅

2013年12月17日 19時40分42秒 | 福島に届いた李さんの綿の花
12月11日、踊由紀子さんの「何度目かの被曝」を
福島県教育会館に展示する日だ。
私にとって、この間母の病状悪化があり
半年ぶりの福島である。
とても、長い間福島に来ていなかったと感じた。

絵は、教育会館のロビー正面に飾っていただいた。
福島県教組、五十嵐委員長、柴口副委員長のご尽力の
おかげである。
「何度目かの被曝」作者の踊由紀子さん県教組副委員長の柴口正武さん


踊さんの思いが、李さんの綿の花が福島に届いた。
柴口さんは、「お返し」に柴口さんが描かれた
「飯舘村の四季」の絵を踊さんにプレゼントした。
とてもすばらしい絵だ。
そして、とてもすばらしい交流だとも感じた。

正直、少し不安だった。
綿の花を見て「福島に綿を栽培しようというのか」と
批判されるかもしれない。
しかし、柴口さんはそのようなことは一言も言わなかった。
柴口さんは、「請戸(浪江町)から見た風景ですね」
「空が赤いのには、意味を感じました」「牛はあのころ
そこらじゅうにいました」「福島の気持ちがわかった絵です」
と言われた。

踊さんの広島体験と柴口さんの原発被災体験が
重なり合った瞬間だった。

違う体験者が、また違う立ち位置の人たちが
お互い向かい合う際、いきなり「気が合う」ことは
難しいだろう。
そのとき対立も生じるかもしれないし。
しかし、「違う」ことを前提に、生きていくしかないし
わかりあっていくしかない。
そこには「わかりあえない」という不安定要素もはらみつつ
やっていくしかない。

今回の功労者はなんといっても
李さんの綿の種だろう。
李さんの生きてきた道のりが残した綿の花と数多くの絵。
それが、言葉ではない手段で
人と人をつなぐ役割を果たした。

今必要なのは、言葉ではなく「生きること」そのものではないかと思う。
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奈良天理と大竹の取材を終えて

2013年12月04日 19時12分49秒 | 福島に届いた李さんの綿の花
12月27日~29日と今度の映画の取材に、奈良と広島に向かった。
2泊3日とはいえ、母親が意識が戻らないな中での「いいのか?」という
気持ちの中での取材であった。
結果は、少なくとも自分の中では○である。

一言でいえば、2007年に天理の夜間中学(今回もここが主な舞台)に伺った時を
思い起こさせてくれた。
2007年は自主退職の次の年、まだ53歳だった。
心が「浮遊」していたのを覚えている。
以来、7回目の天理の夜間中学訪問取材だが、今回は「学校」を痛烈に思い出させるものであった。

自分は、どこで生きていたのか、そしてこれから何をしたいのか。
「学び」とは、「生きること」それ以外にはない。
生きるための学びではなく、学ぶことが生きるということだと、そのことに
立ちかえらせてくれた。

2007年にとった映像は、まだ不十分な作品(「学校をさがす旅」という中途半端なタイトルのもの)にしかなっていない。
なので、このままでは終われないことを今回の取材では「学んだ」。

そう、「福島に届いた李さんの綿の花」は、途中経過の報告なのだ。
だから苦労もある。(今回の取材お断りは、今のところ3件)
しかし、苦労があるということは、そこに何かがあるからだと
勝手に思っている。

それにしても奈良は寒かった。
そして、大竹も最高気温10℃。びっくりである。

山陽本線で広島から乗った時、1999年に広島の世羅高校校長「自死」事件を追いかけた時を思い出した。
その時広島から下関まで各駅で行ったのだ。
下関市立大学の学長下山房雄先生に会いに。

瀬戸内海はきれいだった。
そして大竹もきれいだった。

お袋や妹には今回本当に申し訳なかったが
生きることのすばらしさを
人一倍感じさせてもらいました。

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