最近、「ボランティア」についてずっと考えている。じゃがもじゅくを始めて4年が過ぎたが、今大きな壁にぶつかっているのだろうと思う。それは、「親の気持ち」だ。
以前も言ったように、塾の生徒の大半が僕が現役の時に関わったことの無い子ども達だ。「障がい児」と「中学生」である。両者とも、今の学校や地域の課題を背負っている。
僕は、僕が関わってきた「健常児」と「障がい児」との間には、大きな壁はあるが、共通する課題もあると思ってきた。根拠はわからないが、そう勝手に思ってきた。しかし、この4年間の間に、だんだんその感覚に疑念をいだくようになってきた。「健常児」と「障がい児」の間の壁は、想像以上に大きい。親の気持ちにそれは表れている。
塾の親御さんは、多かれ少なかれ僕に多少なりとも期待をもってくださっていると思うが、不安の大きさは、「健常児」と「障がい児」とはやはり違う。そう考えたとき、「障がい児」を受け入れたことを後悔する様な気持ちにもなる。
僕が、じゃがいもじゅくでやることが一体何になるのか?とも考える。とても親の気持ちに応えることはできないし、先ず僕がつぶれてしまう。
今は、1ミリも解答のきざしを感じないが、ひょっとしたら「じゃがいもじゅく」を開いたことが誤りだったという結論も含め、考え始めている自分がいる。
以前も言ったように、塾の生徒の大半が僕が現役の時に関わったことの無い子ども達だ。「障がい児」と「中学生」である。両者とも、今の学校や地域の課題を背負っている。
僕は、僕が関わってきた「健常児」と「障がい児」との間には、大きな壁はあるが、共通する課題もあると思ってきた。根拠はわからないが、そう勝手に思ってきた。しかし、この4年間の間に、だんだんその感覚に疑念をいだくようになってきた。「健常児」と「障がい児」の間の壁は、想像以上に大きい。親の気持ちにそれは表れている。
塾の親御さんは、多かれ少なかれ僕に多少なりとも期待をもってくださっていると思うが、不安の大きさは、「健常児」と「障がい児」とはやはり違う。そう考えたとき、「障がい児」を受け入れたことを後悔する様な気持ちにもなる。
僕が、じゃがいもじゅくでやることが一体何になるのか?とも考える。とても親の気持ちに応えることはできないし、先ず僕がつぶれてしまう。
今は、1ミリも解答のきざしを感じないが、ひょっとしたら「じゃがいもじゅく」を開いたことが誤りだったという結論も含め、考え始めている自分がいる。