学校を辞めます 

51歳、ある教員の選択

「障がい児」をもつ親の気持ち

2010年09月22日 09時20分39秒 | じゃがいもじゅく
最近、「ボランティア」についてずっと考えている。じゃがもじゅくを始めて4年が過ぎたが、今大きな壁にぶつかっているのだろうと思う。それは、「親の気持ち」だ。
以前も言ったように、塾の生徒の大半が僕が現役の時に関わったことの無い子ども達だ。「障がい児」と「中学生」である。両者とも、今の学校や地域の課題を背負っている。
僕は、僕が関わってきた「健常児」と「障がい児」との間には、大きな壁はあるが、共通する課題もあると思ってきた。根拠はわからないが、そう勝手に思ってきた。しかし、この4年間の間に、だんだんその感覚に疑念をいだくようになってきた。「健常児」と「障がい児」の間の壁は、想像以上に大きい。親の気持ちにそれは表れている。
塾の親御さんは、多かれ少なかれ僕に多少なりとも期待をもってくださっていると思うが、不安の大きさは、「健常児」と「障がい児」とはやはり違う。そう考えたとき、「障がい児」を受け入れたことを後悔する様な気持ちにもなる。
僕が、じゃがいもじゅくでやることが一体何になるのか?とも考える。とても親の気持ちに応えることはできないし、先ず僕がつぶれてしまう。
今は、1ミリも解答のきざしを感じないが、ひょっとしたら「じゃがいもじゅく」を開いたことが誤りだったという結論も含め、考え始めている自分がいる。
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気楽にボランティアをやることのむずかしさ

2010年09月17日 09時08分18秒 | じゃがいもじゅく
先日じゃがいもじゅくの親御さんと気合入れて話し合った。その結果その夜、持病の心房細動(不整脈)が出て、4時間止まらなかった。心房細動というのは持続する不整脈で、脳梗塞の原因になる。僕はその予防のために、ワーファリンという血液の凝固を弱める薬を毎日飲んでいる。
そこで考えたのだが、もっと気楽にじゃがいもじゅくができないかということだ。それは、なかなか難しい。理由は簡単で、来ている子どもや親御さんが背負っている課題が重いからだ。しかし、だからと言ってじゃがいもじゅくを止めることは、当面はしたくないしどうしたものか。それは、かしこくなるしかない。好きで始めたことを続けたいと思うのは、僕の勝手である。かなり入れ込みそうになったら、適当なところでストップさせ「保留」にする。そんなことをしていれば、「保留」状態の事案が山積みになるのは仕方ない。もともと何かをやり遂げようとかで始めたことではないし、じゃがいもじゅくで何かが変わるとは毛頭思っていない。と、考えるとすっきりしてきた。そして、昨日、また親御さんに気合入れて話し込んでしまった。それほどの問題があると思ったからだ。仕方ないと諦めるしかない。それも「保留」のひとつ。
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ボランティアについて

2010年09月15日 09時24分49秒 | じゃがいもじゅく
 僕が退職してはじめた私塾「じゃがいもじゅく」、ほとんどボランティアで運営している。2006年7月に開校したので4年が経過した。最初は、本当に教員に未練があって始めた。一人でも二人でもいい、来てくれるだけでいいと思って始めた。始めのうちは、1日1コマ(1人)で週6~7人であったが、今は1日2コマ、在籍19名にふくらんだ。それだけ困っている親、苦しんでいる子が多いということに驚き、じゃがいもじゅくの当初の「道楽」的要素がほとんど無くなったといえる。
 これは、運営する側にとっては大変な覚悟がせまられているということだ。正直、このことで最近悩んでいる。というか、息切れが生じてきている。
 じゅくに要する時間は、準備の時間も含め1日5~8時間、土日、祝日も運営している。僕に子どもがいたらまずできないことだろうと思う。じゅくは生計の糧にはならないから(1回:1~2時間、1000円)、自営業(マンション経営)の仕事の時間(帳簿付け、工事、業者との折衝、マンション管理など)は、他の時間にやらざるをえない。そして、持病の心臓の不整脈との闘いという問題もある。
 本音を言えば、じゃがいもじゅくの親御さんの問題もある。じゅく当日に理由も言わずに「今日休ませてほしい」という連絡が入ったり、他にも「じゅくの時間をずらせてほしい」とか「あいている時にいれてほしい」という連絡が入ったりする。こんなことがしんどいと感じるようになったのは、やはり通ってくる子どもの人数が増えたことで、子どもや親のせいではもちろんない。原因は、学校がすみにくくなっているということに尽きる。しかし、そのことを連呼しても、状況が好転するわけではない。
 こんな悩み、学校に勤めていた頃は仲間にぶちまけていた。今は、妻にぶちまけているが、妻は聞いてくれているだけだ。それで充分なのだが、この悩み、背後にあるものを熟考することがもう少し必要なのだろうし、じゅくの親にも考えてもらう方向も検討したい。ためいきつきながら、やりたいことをやるということはもうやめたい。
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自己卑下感(被差別)と差別

2010年09月04日 09時28分08秒 | じゃがいもじゅく
先日じゃがいもじゅくの「普通学級」に通うある子(A君、小学生、高学年)が、「となりのクラスのすげえ馬鹿みたいな子」「その子、おりがみみたいなことしかできない」と言った。僕は、気になり、じゃがいもじゅくに通う「障がい」を持つ子の話をした。すると、A君は眼を丸くして聞いていた。
おそらく、A君は「障がい」というものに触れた経験が少ないのだろう。
別の子の親御さんの話だが、その方は、おこさんに「じゃがいもじゅくに行っていることは他の子にだまっていなさい」と言っているそうだ。その子(Bさん)も、じゃがいもじゅくに来ていることが少し恥ずかしいと言っている。
困り果ててじゃがいもじゅくに来た子や親御さんがほとんどだから、自己を卑下することは当然考えられる。だから、できるものなら「知られたくない」のだろう。しかし、いつまでもそこに留まっていることも、その子や親御さんにはいいことではないと思う。
一対一でずっとやってきているが、その方法の限界も常々感じている。「自分」から「自分たち」に抜け出る必要もあるのだろう。しかし、僕にも限界がある。
学校で、この問題に気づいてほしいと思う。でも、学校もどんどん競争が激化し、平等という感覚が薄れているようにも感じる。
今、一番難しい、けどものすごく大事な問題だ。
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体罰をめぐって

2010年09月01日 09時02分24秒 | 映像
先日の元東京都公立中学校教諭Hさんの体罰等を理由とした分限免職問題(2003年2月)について、検討し体罰問題についてもう少し考えたい。
体罰は確かにあった。問題にされた体罰は2件。うち1件についてくわしく調べていくと以下の点が明らかになった。
①体罰はあった。部活中に禁止されていた缶ジュースを飲んでいたA君に足払いをして、たおれたA君の頭に足を乗せた。
②A君は、「その問題でH先生を免職させてほしい」とは思っていないと発言。同趣旨のの陳述書を裁判所に提出した。
③Hさんは、訓告や戒告、減給などの懲戒処分ではなく前例の無い分限免職となり、解雇された。
都教委側は、「何度も注意を促しながら改めなかった」からとしている。
僕は、ここに問題の根っこがあると思う。
②から明らかなように、教員と生徒との人間関係はできていたし、この事件で関係が悪くなるきざしがあったとしてもA君のHさんへの気持ちからわかるように関係作りは修復できる可能性はあった。とすれば、校長を中心としてHさんとの話し合いを積み重ね、体罰を繰返さない学校づくりをししていく努力がされたのかが問題である。
少なくとも免職という形は、本人お生存権に多大な影響を与えるし、体罰撲滅に向けた問題解決には一切つながらないことは明らかである。
ここに、今の学校の職場体制の問題点が明確に出ていると思う。
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