学校を辞めます 

51歳、ある教員の選択

眼が覚めた 南京・台湾から帰国

2013年08月27日 21時24分41秒 | 映像
少し時間がたちましたが
8月13日~21日の南京・台湾の旅から帰りました。
9日間という、自分としてはかなり長い旅でした。
正直言って、今回は行こうかどうか悩みました。
9月にベラルーシに行くことを決めていましたし
お金がかかります。
それから、こんなに家をあけていいのかという不安もありましたし、
僕には、永遠の旅人は無理なのかもしれません。
そして、なぜ南京なのか、台湾なのか
はっきりしないままの出発でした。
台湾に、福島から避難した母親がいて
どうしても会って話をしておきたいことがあるということが
僕の背中を押しました。
確かにそれもありました。
しかしこれは、僕を「ある世界」に置いてくれた旅だったのです。
南京ももっとゆっくり歩きたかった。
僕の心をとらえたのは
台湾の「牡丹社事件」の犠牲者の墓。
行く前に本で読んではいましたが、
犠牲者の宮古島島民の亀甲墓の前に立つ
明治政府初の侵攻軍の立てた慰霊碑でした。
ここに明治天皇の意思がはっきりと感じられました。
人の墓の前に「国」の意思を建てるというのが
どれだけ恥ずかしいことか。
こんなに簡単なことがわからないのかということ。
そのほかにも感じたことはありました。
しかし、この旅は僕にもう一度火をつけました。
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学校と親とのいきちがい

2013年08月11日 13時34分22秒 | じゃがいもじゅく
8月11日(日)I君:小4
あさってから中国の旅、そして今年は来年のマンションの大規模修繕を前に
結構、仕事も忙しいです(この悩みは以前お話しました。)。
そんななか、I君のお父さんが、学校への悩みをぶつけてきました。
学校で使っている教科書(今回は、「身障学級」用のものです)
その国語の教科書の文がおかしい。
例えば、「わたしが」より「わたしは」のがよかったり
また「~から・・・・~から」と「から」が続く文。
確かに文法的には、少しおかしいです。
お父さんは、そのまちがったところをボールペンで直してきたのです。
私は、「お父さんがまちがっています」とはっきり言いました。
教材の間違いを、ボールペンで修正する「行為」のまちがいを指摘したのです。
つまり、それでは、担任とまったく「おりあい」がつかなくなります。
さらに、こちらの方が重要なのですが、
I君の課題は、このようは、「~は」「~が」「~から」という助詞の
使い方ではなく、もっと端的な動詞(売る、投げる、走る~)などの動詞を
文章の文脈の中で理解することだったのです。
つまり、子どもの成長ポイントからかなりずれたところで親と学校との
「論争」が行われている(あるいは行われかけていた)ということです。
私は、このようなことってたくさん起こっていて、
重要な「いじめ」問題では、そこが対処の間違いの発端になっていると
思っています。
だから、ついエネルギーを使ってお父さんに話したのですが、
なかなか通じなかったようです。
でも、ここが学校の問題のポイントなんだとさらに確信しました。
つまり、親も学校も自分をふりかえって
まとを得た話をかわすことができていないということです。
「私も努力している」の繰り返しで、
「そこは気づかなかった」という「妥協」がないのです。
「いじめ問題」では、一切「気づかなかった」が許されないことが
端的です。
気付いた人が指摘をする関係が築けていない。
「幼い」自分に、僕も気づかなければいけません。
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宮崎駿のいだいていた魅力とは?

2013年08月06日 22時14分48秒 | 映像
映画「風立ちぬ」の私の感想をめぐって
いろいろコメントがきています。
「そのとおりだ」という人もいれば、
「いや、宮崎監督には、もっと奥深い何かがある」とも。
僕は、この映画をめぐる問題は、
ものすごく簡単なところにあると思います。
というのも、アニメというのは、芸術の中でも特に
第1印象が決め手だからです。

僕は、ジブリの作品を特に好んでいるわけでは
ありませんでしたが、知らないうちに何作品か
観てしまいました。
「紅の豚」が、よかったです。
主人公に魅力があります。
まちがったことが嫌いで、正義感があって、
そして権力にへつらわない点が。

僕は、アニメでは主人公に魅力がないと
アウトだと思うのです。
今回の「風立ちぬ」の主人公、二郎に
僕はまったく魅力を感じませんでした。
その穴を、風景の美しさと、恋話が埋めているようで
今は(そのときはそこまで感じませんでしたが、時間たつにつれ)
すごく嫌な感覚が残っています。

僕が心配なのは、その「魔術」に踊らされている人が
かなりいるのではということです。
芸術や美は、人それぞれでいいと思います。
しかし、今回は、その垣根をこえたところで
宮崎駿の勘違いがあると思うのです。

それは、「夢」というキぃワードです。
私の知り合いはこう言いました。
「夢を追いかけることすら否定したかなしさ、はかなさを
宮崎監督はいいたかったのでは」と。
ぼくは、なぜそこまで宮崎監督の側につくのかと思いました。
僕には、少なくとも無理があります。

夢を追いかけることが許されないといいますが、
自分のやっていることに気づくこと、
客観的な立場に立つことが、夢の実現には不可欠なはずなのに、
子どもの夢じゃあるまいし、実現するということには
大人の判断力がひつようだということくらい
わからないのかと、この映画の「幼さ」を感じました。

戦争中だから、それは難しかったかもしれません。
しかし、今も、「その時代」に急速に近付いています。
私の例でいえば、教師こそ、戦争の片棒を担がない意識を
今こそ持つべきだと思うのです。

もし、この映画に酔いしれている教員がいるとすれば、
「目を覚ませ」といいたいです。
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