学校を辞めます 

51歳、ある教員の選択

「美味しんぼ」騒動への解答~2011年を忘れてはいけない

2014年05月21日 09時31分18秒 | 福島原発関連
福島県の小学校教員鈴木浩行さんは、2011年3月11日当時福島県教職員組合郡山支部の書記長だった。
鈴木さんは、震災直後から郡山支部ファックス通信「どんとこい」を毎日、ある時は1日に2回発行し、放射線を巡る情報、教育委員会や行政の動向、今学校でやるべきことなどを発信した。その「どんとこい」の2011年版を鈴木さんは今、2011年と同じ月日にフェイスブックで流している。
先日鈴木さんに会う機会があったので、その辺のところを聞いてみた。鈴木さんは「あのときのことをわすれてはいけないと思うんですよ」と答えた。
私は何人かの教員から同じようなことを聞いた。「部活を何の心配もなしにどんどんすすめている」「職場は3,11以前の雰囲気にもどってしまった」

郡山支部は、震災当時果敢に取り組んだ。市の教育委員会にかけこんで「通常の始業式は無理だ」と要請し、当時30km圏外では唯一4月6日の始業式、入学式を4月11日に延期させた。また放射線測定器を組合で多数購入し、地域の住民に無料で貸し出し、同時にそのデータを蓄積し「どんとこい」で発信した。

鈴木さんは2011年にレイバーネットTVにも出演したことがある。そのとき「私は、いわゆる活動家ではありません。でも今、書記長やってます。」と言ったのを覚えている。鈴木さんは、教育委員会との交渉で市の職員にスポーツドリンクを差し入れして、「一緒にがんばりましょう」と言ったという。「働くもの」目線で柔らかい発想の人だと感じた

東京の場合、教職員組合は機関誌の発行回数を減らしている。郡山支部の取り組みはその逆を行っている。震災という困難な状況にありながらもだ。そこに組合のありかたを感じるし、また今の鈴木さんの姿勢に震災後3年目で問われていること、「あのときどれだけの放射線をあびたのか。そしてそれは今も続いている」ことに改めて気づかされる。ここに「美味しんぼ」騒動への解答もある。(湯本雅典)

フェイスブック 「福島県教職員組合 郡山支部」
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パソコンを替えたときに感じた「さみしさ」

2014年05月17日 21時51分10秒 | 映像
パソコンを買い替えた。
今回は、ハンドメイドのオーダーである。
今、新しいパソコンで初ブログを書いている。
理由は簡単で、大手家電メーカーの多くがパソコンから撤退していること。
それから、僕がパソコンを使うのは映像製作が主だが、DVテープからパソコンに読み込む端子(1394)がついているパソコンなど、もう中古しかないことからだ。

パソコン業界も大変な変化でついていけない。
5年に1回パソコンを買い替えるのは、僕の場合通例だけど、
この5年間にパソコン業界、カメラ業界は様変わりした。

今回我が家から引退したバイオ(評判は悪いが)は、VISTAでたちあがりがすこぶる遅かったがプレミアがバンドルしていた最終版であった。(プレミアCS4)
これで作ったのが、「ジョニーカムバック」僕の初めてのHDVの作品だ。そして「子どもたちを放射能から守れ」「わたしたちは、忘れない」が後に続いた。

初めてHDV、16:9で映画ができたときは本当にうれしかった。
もちろん、作品つくりは大変だった。いろんな意見に振り回されるようにもなった。しんどいときもあった。
そして、3・11を経験したのもこのパソコンだった。

僕がパソコンを始めたのは2000年。14年前だ。僕がパソコンなどやるなどありえない話だった。
「手書き」が信条だったからだ。その僕がパソコンをやっている。信じられない。

今回買い替えるにあたって、初めて「さみしい」と少し感じた。
先の3作品を制作したときのことを思い出したからだ。
よくがんばって作ったと思う。そのことだけは、まちがいなく言える。
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「美味しんぼ」(福島編)めぐって

2014年05月13日 10時45分26秒 | 福島原発関連
このことで、ほぼ100%のマスメディアが、「美味しんぼ」バッシングに回っているのが驚く。
「低線量被曝」の可能性があることは否定できないということを、亡き者にしたいのではないだろうか。

マスコミの論点は、「証拠があいまい」という点だ。
しかし、マスコミがとりあげた「鼻血が放射線とは無関係であるという結論は出ている」(石原環境大臣)、「がれきが体に影響あるなら行政は対処しますよ。証拠をだしてほしい」(橋下大阪市長)という主張こそが「根拠なき主張」ではないのか。
原作者の雁屋さんが言いたいのは、「低線量被曝が体に与える影響はゼロではない」ということだ。「鼻血」を取り上げたのは、不安にふたをするのはおかしいということの暗喩だ。

現に僕も2011年鼻血が何十年ぶりかに出た。その時は本当にびっくりした。そして怖くなった。僕は、11年の4月から6月まで、週1で福島に通っていた。4月には福島市で、3~5μSv/hあった。異常な数値の中で福島県民は暮らしていたのである。そのことは、事実なのだ。だから、放射線の影響がガン以外にも出る可能性があることを指摘しているのだ。
コメント (2)
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しぶとく、素朴にいきたい

2014年05月10日 22時32分40秒 | 映像
福島から戻ってくると世界が変わる。
本当は、わずか250キロしか離れていず、
原発事故の影響は確実にこの東京にも降り注いでいるのに、
①放射線
②原発の電気を使っていた
③県外避難者の数が日本一になった
④自分が教員時代何も原発のことは教えてこなかった、そして自分も無関心だった
等々
だから福島に行くと、大きな、大きな力をもらっていつも帰ってくるが
それが、東京に戻ると日々消えていく。これはなぜなのか?

僕は大きな渦に呑み込まれているような気がする。
だから逆の発想をしたい
東京で起きていることが、ねじまがっているのだと。
身の回りで起きていることが、小さいこと過ぎるのだと。
本当に目を向けなけれだいけないのは、やはりこの表層に隠された内側にあるものだと。

だから、しぶとく、素朴に生きたい。
怒るべき時に怒りたいし
怒るべき相手に怒りたい。
エネルギーを消耗したくない。
そして惑わされたくない。

自分の感性に従い
じっくり感じ、意識化したい。
簡単な答えがきっとそこにある。
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「浜通りを訪ねる」とは?

2014年05月08日 16時52分23秒 | 映像
次回作の製作に入った。
とはいえ、母のことはきがかりだ。
今日も静かに寝ていた。
覚悟はできてはいるが、取材に、福島に果たして行けるのだろうかと思いつつの取材をすすめている。
もし、そうなったら、取材をキャンセルしても仕方ないと思いながらだが、僕は取材をしたいという自分の気持ちを選択している(今のところは)。

気持ちは、浜通りに行っている。
今、先方との取材交渉をすすめている。これがとても緊張する。誤解を恐れず言えば、嫌な時間だ。
「お前に何がわかる?」と言われているようで、本当に緊張する。
図太くなれない。それでいいし、それなら緊張しても仕方ないとも思う。
わかって福島に行くのではない。わからないから、知りたいから行くのだ。
何を?
現場教員が、何を感じ、何を思って、福島で働いているのかをだ。
特に職場から文字通り「切り裂かれた」教員たちの思いを。

この企画は、おもしろくはないだろう。
教員の日常の労働は、おそらく一番面白くない部類だと思う。
しかし、僕は期待したいのだ。
福島の教育現場に、今の学校の問題点を洗い流すヒントが隠されていることを。
確証はないし、理論づけもできないが
僕の「勘」である。

それは、キーワードが「フラット」。
目の前の子どもたちの大きな、とてつもなく大きな課題と向かい合わざるを得ない中で、現場はフラットに近付きざるをえない。
フラットとは、上下関係を否定する。
ある意味そこで開き直った教員たちの思いは、特に今の東京の教員に伝えたい「思想」だ。
僕には、その匂いが感じる。
伝えるのは難しいが、他で伝えられていない側面であることは確かだ。
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富岡町を歩く

2014年05月07日 13時38分33秒 | 映像
4月30日~5月2日と今年2度目の福島取材に出かけた。
今回は、郡山市と富岡町。
富岡町と言っても、避難区域なので、避難先の学校(三春町)と
富岡町現地と2回に分けて訪問した。

三春町の工場跡地にある富岡幼稚園、一小、二小、一中、二中。
小中学校児童生徒は、全部で26名。今年の小学生入学児童はゼロであった。
子どもたちは、ばらばらのままである。見方を変えれば、避難先でがんばって
やっているということ。
しかし県外の僕たちにとって、この現実はこたえる。

一中のYさんに話を聞いた。
2011年3月11日、Yさんはテニス部のグランドにいた。そして震災に遭遇。
生徒たちと学校に戻る際、津波を観た。
実際にその現場に行ってみると、近くに川があり、橋げただけが残り
橋はそばにころがっていた。

Yさんは震災後、学校の生徒の通知表、記録簿の整理に追われたという。
通知表は、2011年の8月までに生徒たちに郵送した。
この事実を聞いて僕は唖然とした。どれだけの人がこのことを知っているだろうか。

そして富岡現地へ。
流された富岡駅を観た。よく写真で見かける、あの富岡駅だ。
しかし、駅舎が流され、正面の家にぶつかっていたという事実は知らなかった。
そのことをいわき市に避難しているHさんから説明を受けた。
そして駅の前にある慰霊碑に手を合わせる。
その慰霊碑はなんとHさんが建てたもの。行政が建てたものではない。
僕だったらできない。
震災は、底知れぬ人の力を引き出したとも言える。
この人たちの努力を無駄にしてはいけない。
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