今年の半年間は、高田健さん曰く「中学校の教科書に載るくらい」の意味があった。
日本でここ四半世紀無かった社会運動がまきおこった。それは、「野党共闘」
とにかく記録したいという気持ちがわいた。
そして僕には「共闘」に執着する理由がある。
原水爆禁止運動と日教組の分裂を経験しているからだ。
この2つは僕にとって、一種の「諦め」を覚えさせた大事件だった。
だから僕は、「野党共闘」を追った。
共闘への僕の概念イメージは、
「敵以外はみな味方」である。
日本にはこの伝統がない。そして僕にもこの資質が足りない。
「許す」こと「寛容」ができないのである。
そしてこの資質は僕だけではなかった。
運動が始まるにつれ、その運動に対する「文句」も生まれ、増えていった。
それがいわゆる「左翼」の中から、そして「無党派」の中からも。
例えば(具体的にはいいにくいが)、1人区の候補者に「オリジナリティがない」とか
そして極めつけは、都知事選の鳥越批判。「文春のゴシップは、たとえ事実でなくとも本人も
責任がある」など。
運動の統一は、何のためにあるのかを今一度確認しなければならないのではないか。
「統一」は、最大限の危機、つまり憲法改悪への動きを止めるためである。だから、何が何でも
鳥越さんが勝たなければならない。そして、今できつつある運動を育てなければならない。
日本でここ四半世紀無かった社会運動がまきおこった。それは、「野党共闘」
とにかく記録したいという気持ちがわいた。
そして僕には「共闘」に執着する理由がある。
原水爆禁止運動と日教組の分裂を経験しているからだ。
この2つは僕にとって、一種の「諦め」を覚えさせた大事件だった。
だから僕は、「野党共闘」を追った。
共闘への僕の概念イメージは、
「敵以外はみな味方」である。
日本にはこの伝統がない。そして僕にもこの資質が足りない。
「許す」こと「寛容」ができないのである。
そしてこの資質は僕だけではなかった。
運動が始まるにつれ、その運動に対する「文句」も生まれ、増えていった。
それがいわゆる「左翼」の中から、そして「無党派」の中からも。
例えば(具体的にはいいにくいが)、1人区の候補者に「オリジナリティがない」とか
そして極めつけは、都知事選の鳥越批判。「文春のゴシップは、たとえ事実でなくとも本人も
責任がある」など。
運動の統一は、何のためにあるのかを今一度確認しなければならないのではないか。
「統一」は、最大限の危機、つまり憲法改悪への動きを止めるためである。だから、何が何でも
鳥越さんが勝たなければならない。そして、今できつつある運動を育てなければならない。