仏典、聖書、ジョージ・アダムスキー氏により伝えられた宇宙精神文明(空=言葉=天の父=宇宙の英知=真如=法・ダルマ=灯明)

ワクチン薬害、祈りの科学的研究、人体構成分子によるオーソモレキュラー医学、医学の大罪、太陽系惑星文明の科学的証拠

どのように祈るべきか スピンドリフトの実験

2018年12月30日 08時53分31秒 | 祈りの科学的研究
アメリカの医師のラリー・ドッシー博士の意識と祈りの科学的研究に関する著書の日本語訳(上の3冊)
左下: Daniel J. Benor著の祈りの科学的研究のレビューの本 Spiritual Healing: Scientific Validation of a Healing Revolution (Healing Research, Volume 1) 2000/12
右下の2冊は、祈りの実験研究機関スピンドリフトの関係者の書籍
左側: ロバート・オーウェン『質的研究』 Robert Owen, Qualitative Research: The Early Years (Salem, OR: Grayhaven Books, 1988)
右側: Bill Sweet著, A Journey into Prayer: Pioneers of Prayer in the Laboratory Agents of Science of Satan? 2003/10/1


どのように祈るべきか?-スピンドリフトの実験

スピンドリフトと呼ばれる祈りの科学的研究を行っている実験機関がアメリカにあります。
ネットアドレス https://www.spindriftresearch.org/

スピンドリフトの実験成果は、Spindrift Papers(スピンドリフト報告書、英語、404ページ)として、ネットに無料公開されています。
ネットアドレス https://www.bloomingtononline.net/directory/docs/857.pdf

祈りを肯定的に研究されているアメリカの医師のラリー・ドッシー博士の著書から、スピンドリフトの祈りの研究に関するレビューをご紹介します。


著者について
ラリー・ドッシー (Larry Dossey, M.D.)
医学博士。テキサス大学卒業後、ダラスのサウスイースタン医学校で博士号を取得、内科医としてダラス市立病院の医長をつとめた経験をもつ。科学的調査データに基づいた、心と自然治癒の関係についての研究で世界的に知られ、ハーバード大学など、多くの代表的な大学で講演してきた。1995年からは代替医療の科学的研究誌『Alternative Therapies in Health and Medicine』(日本版『季刊 オルタナティブ・メディスン』) の編集主幹をつとめている。著書に『時間・空間・医療——プロセスとしての身体』(邦訳、めるくまーる社)、『魂の再発見——聖なる科学をめざして』『癒しのことば——よみがえる〈祈り〉の力』(邦訳、春秋社)など多数がある。
(アマゾンの『祈る心は、治る力 2003/3ラリー ドッシー (著), Larry Dossey (原著), 大塚 晃志郎 (翻訳)』の著者紹介)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


出典1: 魂の再発見―聖なる科学をめざして (ヒーリング・ライブラリー) 1992/12
ラリー ドッシー、 Larry Dossey
原著:Recovering the Soul: A Scientific and Spiritual Approach – 1989/11/1
Larry Dossey (著)

p.58
どのように祈るべきか? - スピンドリフトの実験

 もし人の意識が祈りを通してからだから伸び広がるとしたら、そして何かを起こすために祈るとしたら、一番いい祈り方というものがあるのだろうか。よりすぐれた祈りというものがあるのだろうか。さまざまな祈りの方法を客観的にテストし、それを突きとめることができるだろうか。

 多くの人は否というだろう。「神を実験室に連れこむ」のは誤っていると主張する人もいるはずだ。
ヒーラーの多くは実験室で観察者が立ち合っているような状況では結果が妨げられる、として客観的な実験を拒否してきた。そのため、祈りの効果はほとんど研究されないできた。だから、どのヒーラーも最も効果的と思う方法で、あるいは特定の宗教的伝統に認められたガイドラインに従って、自分のやり方で治療を行なっているのが実態なのである。

 本章のはじめで心臓学者ランドルフ・ビルドによるサンフランシスコ総合病院での実験をとり上げたが、この厳密な実験においてさえも、祈りの方法は指定していない。祈り方については特に指示を与えずに、さまざまな祈祷者の集団に単に祈るように依頼しただけである。祈る人たちのなかにはプロテスタントもカトリックもいたから、祈り方も同じではない。祈りの頻度と長さ、心に抱かれるイメージ、目的は各人の選択にまかせられた。

「スピンドリフト」と呼ばれるユニークな組織によって、さまざまな祈りの効果を客観的に評価するという独創的な試みが一〇年以上にもわたって行なわれている。
(「スピンドリフトSpindrift」は、風と波によって生じる波しぶきを意味する古スコットランド語の変形したもの。空気と海、微細なもの〔エーテル〕と粗大なもの、心とからだのインターフェイスの意味をこめている)。
スピンドリフトの研究者は最小限の実験機材を使って簡素な実験を行なうことを旨としているが、その実験の設計は実に大胆であり、その結果はあらゆる批判に対して開かれている。彼らの実験は、祈りの力についてのわれわれの知識の欠落を埋めてくれる。

 スピンドリフトの研究者たちが推測しているのは、人はすべて「神の属性と、神との一体性」(ロバート・オーウェン『質的研究』)を持っているということだ。この考え方はむろん、本書の中心的な論旨でもある。つまり、人間の意識は非局在的な性格を持っており、意識は神的存在と同じように無限な時空間における究極の統一体であるという考えだ。

参考資料:
ロバート・オーウェン『質的研究』
Robert Owen, Qualitative Research: The Early Years (Salem, OR: Grayhaven Books, 1988)
アマゾンのサイト
https://www.amazon.co.jp/Qualitative-Research-Early-Robert-Owen/dp/0962089117/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1546037959&sr=8-2&keywords=Qualitative+Research%3A+The+Early+Years

 スピンドリフトの研究者たちが抱いた疑問は本質的なものだった。「スピリチュアル・ヒーリング」は本当にありうるのか、祈りに治療効果があるのか、その効果は測定できるのか、その効果は再現可能かといった疑問だ。こうした疑問を解く最も簡単な方法は、ヒーラーあるいは祈祷者と、植物の種子のような単純な生命体との相互作用を検査することである。ヒーラーが二つの種子のグループの一方の種子に対して祈り、もう一方には祈らなかったら、発芽率に違いが出るだろうか?

 ライ麦の種子をそれぞれ同数の二つのグループに分けた。それらを、植木屋が使う軽土、バーミキュライトを満たした浅い容器に入れる。容器のまん中に紐を張り、種子をサイドAとサイドBに分け、一方のサイドについてのみ祈り、もう一方については祈らなかった。種子が育つと、ライ麦の細い発芽の数を数えた。結果的に、何度やっても祈った側のほうが対照群よりもはるかに発芽が多かった。多くの人によって何度もくり返し確認されたこの実験は、人間以外の生命体に対する人間の思考の影響が有意にあり、測定可能、再現可能なこと、そして人の意識が脳やからだに限局されないことを明らかにしている。

60
 だが、「実生活」においては、われわれは健康な人だけではなく、不健康な人のためにも祈る。研究者たちは、ライ麦の種子が悪環境にあったらどうなるのか、祈りはそれでも有効なのかと考えた。この疑問に答えるために、研究者たちは容器に塩水を加えてライ麦の種にストレスを与え、それ以外は今までと同じ手順で実験を試みた。塩水は拡散してバーミキュライトを通して種子に達したが、祈りの効果は前にも増して驚くべきものだった。祈られた種子と対照群の発芽率の差はさらに開き、祈りは生体がストレス下にあるときのほうがより効果的であると判明したのだ。

 それでは種子のストレスがさらに増したらどうなるだろう。祈りはそれでも効くのだろうか。スピンドリフトの研究者たちは、種の容器の底にある水に塩を加えていきながら同じ実験を数回行なってみた。塩の量が増えるにつれ、祈りの効果は増していった。種を浸す溶液に塩分が増えるにつれて、祈りによって発芽する量は増えた。これは物理的条件がよいときよりも悪いときのほうが祈りの効果が強くなることを示している(医療においてもこの発見ときわめて類似した関係が見出せる。たとえば、プラシーボ鎮痛薬、つまり「砂糖錠」はそれ自体なんの薬理効果もないのだが、おだやかな苦痛のときよりも激しい苦痛のときのほうがよく効くのだ)。

 研究者たちは実験システムを変えてみた。ライ麦の代わりに大豆を用い、ストレッサーとして塩水の代わりに温度と湿度を変えて過酷な環境下で試してみたが、同様の結果が得られた。生体にストレスがかかっているときのほうが、祈りはよく効いたのである。

 つぎに実験者たちは、祈りの量は効果に関係があるのだろうかと考えた。たとえば一〇分間祈るのと二〇分間祈るのとでは、その効果は同じなのか、異なるのか。この疑問に答えるために、今度は大豆を四つの容器に入れて実験を行なった。一つの容器は「対照群」とし、まったく祈らなかった。残りの三つの容器はそれぞれX、Y、Zとし、容器XおよびY、容器YおよびZをそれぞれ一つの単位として祈った。つまり容器YについてはXおよびZの二倍祈ったことになる。発芽の測定をすると、容器YがXおよびZよりも二倍の効果があったことが判明し、測定された効果は祈りの量に比例し、祈りの量が二倍になると効果も二倍になることが明らかになった。

 スピンドリフトの実験には、祈られる群と対照群とがあったが、「祈り」がどちらの種子を助けるかをどうして「知った」のかという疑問が当然出てくる。この疑問を解くために、祈る人たちに祈るべき種子を知らせないで実験を行なった。結果的に、祈りの効果は劇的に減った。実験者は、祈る人が祈りの対象を明確に意識しているほど祈りの効果が高まるという結論を出した。「祈りが効果を待つためには、誰に対して、あるいは何に対して祈っているのかを知る必要があります」。

 それでは、祈る人やヒーラーによって効果が異なることはあるのだろうか。その実験はきわめて容易だった。これまで述べてきた実験でも、酵母が生み出す二酸化炭素の量を測定する微細なテストにおいても、祈りの経験の長い人のほうが浅い人よりも大きな効果を生むことが判明した。

 研究者によるもう一つの驚くべき発見は、関与する物質の量が増えても効果は減らないということだった。たとえば種子を用いたテストでは、種子の数が多くても少なくても結果は同じだったのである。

こうしてスピンドリフトの研究者たちは何年もの研究の末に、「概念的全体の法則」を発見した。つまり、祈る人がかかわるシステムの全体的概念を心に抱くことができる限り、祈りは対象のあらゆる部分につねに効果を持つという法則である。

 スピンドリフトの研究者の最も重要な功績の一つは、「指示的な祈り」と「無指示的な祈り」とを区別したことである。指示的な祈りとは、祈る人が特定の目標やイメージを心に抱いて祈ることをいう。

祈る人は対象システムに指示を与え、正確な方向に舵をとろうとする。治療でいえば、がんが治癒することを、あるいは苦痛が消えることを祈る。発芽実験では、より早い発芽を祈る。対照的に、無指示的な祈りはこうしたアプローチはとらない。つまり特定の結果を想像せず、なんの制限もつけないアプローチだ。無指示的な祈りでは、祈る人はいわば宇宙に何をすべきかを告げようとしないわけだ。
指示的な祈りと無指示的な祈りとどちらが効果的なのだろうか。特定の目標を心に抱いたほうが祈りは強力なのか。あるいは単に「うまくいってくれ」式のアプローチのほうが効果的なのだろうか?

 スピンドリフトの実験はシンプルだから疑う余地がない。指示的な祈りと無指示的な祈りのどちらの方法も効果をあげることが明らかにされたが、無指示的な祈りは計量的にはより効果的であり、指示的な祈りにくらべて二倍以上の結果をもたらすこともしばしばあることが判明した。
この結果、現在ではよく知られるようになった指定イメージ法やヴィジュアライゼーションを実践している人たちにショックを与えるかもしれない。さまざまなイメージ法の講座では、たとえば、がんを治すには最終結果がどうなるかという特定のイメージを用いる必要があると教えている。実際、イメージが強く確固としているほど、よい結果になることを明らかにした実験もある。しかし、スピンドリフトの測定結果はそうでないことを示したのである。

 スピンドリフトでは、指示的な祈りと無指示的な祈りについてさまざまな実験を行なっている。ある実験では、細菌学者や菌学者がよく用いるコメ入り寒天の表面に育つカビを用いた。カビにストレスを与え、成長を遅らせるために、殺さない程度にアルコール液に浸した。ひもでカビをA群〈対照群)とB群(祈られる群)とに区分けし、B群に指示的な祈りを与えたがなんの効果もなく、成長は止まってしまった。しかし、ヒーラーの心に目標を抱かない無指示的な祈りを行なってみると、B群は成長をはじめ、さらに同心円状の成長リングを形成した。

 さまざまな生体に対する数々の実験結果から、スピンドリフトの研究者たちは、ヒーラーはヴィジュアライゼーションや連想、特定の目標を飽くといった技法をとるべきではないという。そして身体的・感情的・個別的な要素は思考からとり除き、「誰であろうと、どんな病をわずらっていようとかかわりなく、患者に対して純粋で聖的な意識」(『質的研究』)を抱くべきだと主張する。彼らが純粋の「スピリチュアル・ヒーリング」と呼ぶのはまさにこの方法のことにほかならない。それとは対照的に、指示的な祈りに頼る手法が、「心霊」治療、「信仰」治療、「メンタル」・ヒーリング、プラシーボ効果などである。

 スピンドリフトの研究者たちは、一連のすぐれた実験によって、祈りが自然界の事象に影響を与えられることを示している。その一つにつぎの実験がある。五〇〇粒の緑豆を塩水のなかに浸して、底に穴を開けた三つの紙コップに入れた。コップには「表」の頭文字H、「裏」の頭文字T、「対照群」の頭文字Cと印をつけた。そして一セント銅貨を一つ箱に入れ、よく振って、箱を閉じたままにしておく。HとTのコップには一週間の間、毎日祈りを与えた。Cのコップについては祈らない。この間、祈る人は硬貨の裏表に一致したマークのついたコップの種子に効果があらわれるように祈った。つまり、硬貨が実際には裏か表かを知らずに、硬貨が表だったらHの種子が、裏だったらTの種子がよく発芽するように祈ったのである。七日ほどたつと、「表」の印のついたコップの緑豆はほかのコップにくらべて二倍の発芽があった。そして箱を開けてみると、硬貨は「表」だったのである。偶然の一致だろうか? 
それを突きとめるために同様の一連のテストを行なったが、結果は同じだった。またスピンドリフトの研究者たちは六つか七つのコップを用いて、サイコロの数を正確に当てたり、トランプの数、封筒のなかの札の数字を予知することもできた(同前)。

 従来、指示的な祈りに伴う問題の一つは、祈る人や患者がどのようなイメージを用いるのが最適なのかがわからないということだった。特定の器官への血液の流れを増やすべきなのか、あるいは減らすべきなのか。特定の血液細胞を増やすべきなのか、減らすべきなのか。からだの状態を特定の方向に持っていきたいときに、こうした疑問に直面し、当惑する。スピンドリフトの実験はこの点で励ましになる。

実験はわれわれが身体がどちらの方向に進むべきかを知る必要のないこと示唆しているからである。
スピンドリフトによれば、「最も良い状態」になることを祈りさえすればよい。「最適」なことが起きること祈るのだ。いわば「すべてをまかせる」アプローチである。
スピンドリフトでは、種子にとって何が最適かを知らずに祈る一連の実験を行ない、そのアプローチの有効性を明らかにした。多すぎる水に浸されたA群の種子は普通の発芽状態より重くなり、もう一方の水の足りないB群では、種子は通常より軽くなった。発芽の初期段階で、種子の重さの変化を測定した(発芽する種子は通常初期段階に重さが増す)。理想的には、多すぎる水に浸された種子はよけいな水を排出して軽くなり、水の足りないほうの種子は水を吸収して、重くなるはずである。しかし、祈る人がどの群がどちらかわからない以上、そうした変化を祈ることはできない。祈る人たちは、みずからの生理を変えるのにどんなイメージを用いるべきかを知らない患者と同じ立場にいる。祈る人たちは「豆にどうすべきかを命令」せず、無指示的な祈りを与え、最もよい方向に向かうと信じた。無指示的なアプローチは確かに有効だった。過剰な水に浸された豆は、発芽の初期段階では水を排出し、重さが減っていた。そして水の足りない豆は水を吸い、重さを増やした。無指示的な祈りは豆をそれらに最もよい方向に動かしたこと、そして祈るほうは何が「最適」なのかを知る必要のないことをこれらの実験は示唆している。

スピンドリフトの研究者たちは、彼らの実験結果の科学的異端性に気づいていた。「科学的見地からみれば、どうすべきかすべて知っている「力」が存在するという事実は衝撃的です。しかしそれぞれのテストにおいて、祈りによって愛にあふれた知性とつながり、種子をその最適な状態に向けて動かしました。異なる状況にある種子に同時に同じ祈りを捧げたとき、つねに種子のそれぞれのニーズに最もかなう方向に向ける結果になったのです・・・・」(同前)

だが、実際に無指示的な祈りを行なうことは難しい。健康をそこねたとき、問題が起きたとき、われわれはみずからが望む結果を祈ってしまいがちだ。われわれは自分が最適な状態はどうあるべきかを知っていると信じている。だからすぐさま宇宙にどうすべきかを命令するのだ。腫瘍は消えるべきだし、苦痛は減るべきだ。われわれはもっと繁栄すべきだ。われわれは事前に結果を知ることを求めてしまうのだ。

 しかし少し考えれば、自然が果てしなくこうした方法を許容できるわけではないことがわかる。祈りがすべてかなえられて健康がとり戻せるとすれば、死ぬものなどいなくなるだろうし、地球はとうに人であふれ、とても住めた状況ではなくなっているだろう。死は自然のなかに織りこまれたものである。
われわれはすべての破局に対していちいち神の救済措置を祈るべきではないのだ。われわれの感覚は死が自然なものであり、それにふさわしいときがあることを教えてくれる。

 では、いつ祈るべきなのか。治癒のためには、いつ祈るのが適切なのか。人間の限界を考えれば、われわれがいつ祈るのがいいのかを知ることはないのかもしれない。それでは、危機の際の対応を、より高次の宇宙的な知性に決定をまかせて無指示的な祈りを捧げるべきなのか。無指示的な祈りが効果が高いという事実を踏まえればそういうことになる。

 宇宙に本来備わっており、決して誤ることのない調和的な「規範」に変わらぬ信念を抱いていた科学者の一人にアインシュタインがいる。彼のこの自覚は「宇宙的な宗教感情」を彼のなかに呼び起こしたという。アインシュタインによれば、「人間の欲望と目的に空虚さを感じる一方で、自然と思考の世界の双方にあらわれる崇高さと驚異的な秩序を人は感じる。光明を得た人は利己的な欲望の束縛から自由になり、超個人的な価値を持った思想、感情、熱望にとらわれる」 (強調は筆者、『思想と意見』より)。

無指示的な祈りのアプローチを促進するのは、まさにこうした人間の限界と誤りを免れないことに対する自覚、そして宇宙の調和的な機能に対する信頼である。



 インターンとして多忙をきわめる救急治療室で働いているとき、私はその「規範」に対する信頼に裏打ちされたアドバイスを受けたことがある。以来、私はそれが忘れられないでいる。瀕死の状態にある人の蘇生の試みは不成功に終わることが多い。胸部マッサージのあと除細動を施し、さまざまな薬を与える。それらがまったく役に立たず、私は無力感にうちひしがれた。私はレジデントの顔を見て、つぎに何をなすべきかを懇願するような気持ちで尋ねた。彼はいつも「正しいことをすればいい」と答え、私を驚かしたものだ。この種のブラックユーモアは多くの知恵を含んでいた。ときにわれわれは、何が正しいのかまるでわからないことがある。われわれは正しいこと、つまり規範が、単なる延命ではなく、病気の一時的な改善でもなく、ときには死ですらありうることをついには認めなければならないのだ。

 こうした信念を持つことは、われわれがみずからを一つの意識を持ち、直線的時間に閉じこめられ、消滅に向かって進んでいく孤立した個人だとみなしている限り、過酷で困難なことのように思われる。
しかし人間の局在的な定義を打ち破り、非局在的な自己を自覚できれば、事態は一変する。人が時空間の束縛から逃れられると自覚できれば、われわれは人がすべて持っている神性に気づくことになる。こうした自覚をもとに、われわれは規範という知恵を理解するようになる。たとえ、それが身体の消滅、もしくは不治の病の進行を意味しようとも。

 非局在的な性質を自覚することで、無指示的な祈りという知恵についても理解できるようになるだろう。「私の意思がかなえられる」ではなく、「すべてをおまかせする」と祈ったほうがいい。つまり、「正しい」ことのために祈るのだ。

(引用終わり)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


出典2: 癒しのことば―よみがえる「祈り」の力 (ヒーリング・ライブラリー)
ラリー ドッシー (著), Larry Dossey (原著), 森内 薫 (翻訳)
出版社: 春秋社 (1995/11)
原著: Healing Words: The Power of Prayer and the Practice of Medicine 1993/6/1
Larry Dossey


p.133
「あるがままに」と祈るべきか、「こうなるように」と祈るべきか ースピンドリフトの調査から

 オレゴン州セーラムにある研究機関スピンドリフトは過去十年にわたり、研究室でのごく単純な実験を通して祈りの効果を実証してきた。そして祈りの効果が確認されて以後は、どのような折り方がもっとも効果が高いかについてさらに研究を始めた。彼らの研究のなかでもっとも重要な功績のひとつは、「指示的な」祈りと「非指示的な」祈りの区別を行なった点だろう。指示的な祈りの実践者は、あらかじめ心のなかに特定の目標やイメージ、望ましい結果などを思い描いて祈る。彼らは世界を司るシステムに「指図」し、それを自分の望む方向に操作しようとする。たとえば、ガンが治るようにとか、心臓の具合が自然によくなるようにとか、痛みが消えるようにと祈るわけだ。それとは対照的に非指示的な祈りは、心にいかなる結果も想定しない、制限なしの折り方だ。こうした折り方をする人は「世界にどうこうせよと指図」しようとはしない。

 指示型と非指示型では、どちらの祈りがより効果的なのだろうか? その答えをいう前にぜひ心に留めおいていただきたいのは、スピンドリフトの実験によるもっとも重要な発見は、祈りが確かに働くこと、そしてどちらの折り方でも効果はあること、この二つだという点だ。結論をいえば、同実験においては非指示型の祈りのほうが数値的に効果が大きく、指示型の祈りに比べ二倍もしくはそれ以上の効果を生むことも少なくなかった。

 こんにちでは、何か特定のイメージを思い浮かべたり視覚化したりするいわば指示型の療法がたいへん人気を集めているが、そうしたやり方を好む人にとって先のスピンドリフトの実験結果は驚きであるかもしれない。各種のイメージ療法の権威は、ガンや心臓病を本気で治したいなら、どんな結果が実際に起こってほしいかについて明確で具体的なイメージを描かなければならないと力説する。より激しくより性急なイメージを描くほどよい結果が生じるという調査報告も確かにある。だが、スピンドリフトの実験はことがそう単純ではないことを物語っている。


 スピンドリフトの研究班は指示型の祈りと非指示型の祈りのそれぞれの効果を測るため、ある実験を考案した。まず、細菌学者や菌類の研究者がよく使うような細菌培養容器の表面に糸状菌を生やす。それをアルコール液にくぐらせて、菌にダメージを与える。目的は菌に損傷を与えて成長を遅らせることなので、長時間漬けすぎて菌を殺してしまってはいけない。アルコール液から引き上げたら菌のプレートの上に糸を一本わたし、片端をA (対照群)、もう片端をB (治療群、つまり祈りの標的群) とする。実験ではまず、Bの菌の生育を促すよう指示型の祈りが行なわれた。結果はゼロ。菌の成長率は対照群のそれとほとんど変わらなかった。だが、指示型の折りから非指示型の、目標を特定しない祈りに変えると、とたんにB群の菌は成長し始め、同心円を描いて広がっていったのだ。

 さまざまな生物組織を対象に数多くの実験を重ねた末、スピンドリフトの研究者は、祈りによるヒーリングの効果がもっとも高くなるのはヒーラーの心からあらゆる視覚イメージや連想、特定の目標などが一掃されたときらしいという結論に至った。つまり、もっとも高い効果を得るには、祈る相手の肉体的・感情的特徴や性格などをすべて脳裏から消し去り、かわって 「相手が誰であるか、何であるかという次元を超えた純粋で神聖な思い」で心を満たさねばならないということだ。こうしたアプローチをスピンドリフトの研究者は、真の霊的(スピリチュアル)ヒーリングと呼んでいる。これに対して指示型の祈りを用いるものは、心霊(サイキック)ヒーリング、信仰ヒーリング、メンタル・ヒーリング、もしくはプラシーボ(偽薬)効果などとよばれ、いずれも患者に自分は治ると思わせて病を癒す方法だと彼らはいう。

 ところで、非指示型の祈りについてある素朴な疑問が浮かんでこないだろうか。つまり、望ましい結果を想定して祈らないなら、どうして祈りが叶えられたかどうかわかるのかという疑問だ。これについてスピンドリフトの研究者らは厖大な数の実験結果から、「祈られた有機体にとってもっとも良い」方向に変化が起こったとき非指示型の祈りが叶えられたとみなすことにした。

 これを証明したのは、異なる状態の種子の発芽を促す一連の実験だ。どの種子に何がもっとも望ましい状態かは祈る人間には知らされない。ある一群の種子は水に長時間つけられ、正常な発芽が起こるには重すぎる状態にある。もう一群の種子は逆に水につける時間が短すぎて、発芽に最適な状態には重さが足りない。これら双方の種子の重量の変化を通して、発芽の初期過程の進行状態を調べるわけだ(正常な種子の場合、発芽の初期にやや重量が増える)。理想的には、水を吸いすぎた種子は過剰な水分を排出して重量を減らさねばならず、逆に水分不足の種子は水を吸収し、十分な重さにならなければいけない。

が、祈る人間はどちらの種子がどういう状態か知らされていないから、種子に「こうなるように」と指示することはできない。かくて必然的に、それぞれの種子が発芽に向けて各々ベストな状態になるようにという非指示型の祈りが行なわれた。効果はあった。祈りの結果、水を吸いすぎた種子は水分を排出して重さを減らし、水分不足だった種子は水を吸って重さを増やしていた。同様の実験を繰り返した結果からスピンドリフトの研究班は、非指示型の祈りが叶えられるとは、対象となった有機体が各々にとってもっとも健康的な状態へ形や機能を変化させたときだと考えたわけだ。

 この結論を人間にそのまま当てはめることには、私は若干の不安を感じる。「個々人にとって最善の」事態とは、時として生ではなく死をも意味しかねないからだ。たとえば、回復の見込みがないまま激痛に苦しんでいる場合や、疼痛緩和がまったくきかなくなった場合などがそうだ。そうした状況下でなされた非指示型の祈りは、先の論理にしたがうなら、患者が死んだとき叶えられたことになってしまう。

 非指示型の祈りを実際に行なうのはけっしてたやすいことではない。病に倒れると人間はたいてい、「ガンが消え去りますように」「痛みが静まってほしい」「高血圧を治してください」といった具合に指示型の祈りをしてしまうものだ。自分では非指示型の祈りをしようとしていても、心のどこかに「こうしてほしい」という願いが隠れているかもしれない。「何も結果を想定せず、ただひたすらに祈ろう。
だが、もし治るならもちろんそれにこしたことはないが……」と。

 こうした折り方についてアン&バリー・ウラノフ夫妻は、祈りに関する著書『原初の言葉』のなかで次のように述べている。「神は巨大なジュークボックスで、人はそこにコインでも入れるようなつもりで祈りを行なう」。だがこの「祈りのジュークボックス」はリクエストした曲を必ず流してくれるわけではない。「祈りはときに、より大きな苦難という形で帰ってくる。予想もしなかった苦境に投げ込まれ、かつて経験したこともない大きな危険を強いられることすらある」。

 ところで、祈る際、何をどう願ってよいか皆目わからないという場合があるが、スピンドリフトの実験はこの点についても重要な示唆を含んでいる。たとえば、何か健康上のトラブルがあって、それを治すために自分の生理機能をコントロールしたいとする。だが、体のどこの器官に血液がよく流れるように、あるいは流れないようにとイメージしたり願ったりすればよいのか? どの血球が増えるように、あるいは減るようにと祈ればよいのか? 血液濃度中のどの化学成分が増加または減少するようにと願えばよいのか? 医学の専門家さえ首をかしげかねないこんな質問に、一般の人間が答えを出せるわけがない。だが、スピンドリフトの実験を見るかぎり、この点について心配する必要はどうやらなさそうだ。実験結果は、病が癒されるために肉体がどう行動すべきかを、本人が必ずしも知らなくてよいことを示唆している。われわれはただ「もっとも善きはからい」のために祈ればよい - つまり「御心のままに」と願えばよいわけだ。

 こうした結果を講演会やセミナーで話していて気づいたことだが、祈りやイメージ療法などで指示的なアプローチを好む人はスピンドリフトの実験結果を聞くなり、一挙に次のような結論に飛びつくケースが少なくない。「自分の祈り方はまちがっていた。すぐに非指示的な祈りに切り替えなくては」と。だが、これは見当ちがいというものだ。先に述べたとおりスピンドリフトの実験の最大の功績は、どんな形であれ祈りが有効に作用することを実証した点にあるのであって、すべての人が今日から突如同じ方法で祈ったり同じやり方でイメージ療法をすべきであるとは示唆していないのだ。

 スピンドリフトの実験結果には微妙な要素が関与していた可能性もある。たとえば、この実験では祈る人間の性格は問題にされていない。だが、実験で祈りを行なった何人かとのちに個人的に知遇を得たところ、彼らは全般に極めて内向的な性格だという印象を私は受けた。もしもこの印象が当たっていれば、内向型の彼らは非指示的な祈りをもっとも自然なあるべき折り方と感じたろうから、実験の結果、非指示型の方法でいちばん良い結果が出たのもむべなるかなと思われる。もし同じ実験を外向的性格の人が行なったら、おそらく指示型の祈りのほうが良い結果をおさめるだろう。

要するに、これらの調査結果のもっとも誤った解釈の仕方は、「科学はついに〝唯一のベストな祈り方″を発見した」というものだ。われわれがそこから読みとるべきもっとも重要な教えは、祈りは確かに効果をもつが、いかに祈るべきかという定式はない、万人に共通の「唯一の正しい折り方」など存在しないということなのだ。

(引用終わり)


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

祈る心は、治る力
ラリー ドッシー (著), Larry Dossey (原著), 大塚 晃志郎 (翻訳)
出版社: 日本教文社 (2003/03)
原著: Prayer Is Good Medicine: How to Reap the Healing Benefits of Prayer 1997/7/1
Larry Dossey

166
 みこころ
 「御心が行なわれますように」と祈ること

「御心が行なわれますように」「最善なることがおこりますように」と祈るには、最善の結果が必ず訪れるという信頼と信念が必要である。また、このような祈りは、自分の好みや要求はわきへ置いておくことを意味する。これが非常にむずかしい場合もある。たいていの人間は、自分には何が最善かが前もってわかっている気がして、せっかちに神様になすべきことを命じてしまうからだ。

 内容を特定しない祈りをするときにも、私たちはこっそり自分なりの心づもりをもっていることが多い。もし病気の人が「御心が行なわれますように」と祈ったとすれば、その人は「まあ、病気が治ってくれてもいいんだけど」と心のどこかで思っていることが多い。
あるいは「御心が行なわれますように。ただし、そのついでに昇進させてください」と祈っていたりする。「御心が行なわれますように」という祈りが、私たちの個人的な要求や願望で汚染されていたら、その祈りは誠実なものとはいえない。

 内容を特定しない、非指向的な祈りを用いるべき理由のひとつは、私たちの知識は限られているからである。たとえ最善のことを求めて祈っていると思っていても、まちがっているかもしれない。

 祈りの研究機関スピンドリフトの前副所長デボラ・ローズは、例えとして、トマトの苗の健康を願って祈ることをあげている。私たちは、トマトの苗にとって一番望ましいのは、より大きくより赤いトマトを早く実らせることだと思い込んでいる。しかし、これが一番いいことなのだろうか? そうしたトマトは、苗を温室に入れれば作ることができる。しかしそのような育て方をしたトマトは味が落ち、実の数が減り、病気に対する抵抗力も弱くなるのである。つまり、自分ではトマトの健康のために祈っていると思っていたのに、実際にはトマトにとって不健康なことを祈っていたわけである。

 ただ「御心が行なわれますように」とだけ祈った方が、賢明だったということだろうか? もしそう祈って、トマトの成長が遅く、希望したより実が小さく、実の数も少なかったとしたら、私たちは祈りがかなえられなかったと文句をいうかもしれない。しかしトマトの立場からみれば、祈りはかなっていたのかもしれないのである。

 ローズによれば、スピンドリフトの研究は、祈りにはある種の独特な「制御力」があることを示しているという。これは祈りが生き物を、それ自身の健康にとって有益である以上に刺激するのを妨げる力である。スピンドリフトの実験で、酪農家たちが「御心が行なわれますように」と祈ったとき、彼らの牛はミルクをより多くではなく、より少なく出した。ローズはそれをこう説明している。

   その「制御力」は、牛の産乳量を減らしました。なぜなら、アメリカの乳牛は一
  般に、健康上適量である以上に多くのミルクを出すような条件に置かれ、またそのよ
  うに飼育されているからです。人は 「おや、私の祈りは効かなかったじゃないか。ミ
  ルクの出が少なくなったぞ」というかもしれません。しかし、祈りはかなえられたの
  です。その「制御力」は、その生き物にとって一番いいことをしているのです。必ず
  しもあなたが期待したことではないとしても。

 スピンドリフトの研究者たちが仮説として提示したこの「制御力」は、生き物のニーズだけでなく、ひとつの共同体全体のニーズを考慮してくれることもあるようだ。

   もしあなたが食うに困る状態にあり、農場を維持できそうになくて、農場を守り、
  家族を養う金をかせぐために、牛にもっとミルクを出してほしいと祈ったなら、「制
  御力」は牛がもっとミルクを出すようにはたらくかもしれません。ただし、それが牛
  に苦痛を与えないような方法で。「制御力」は、共同体全体にとって最も良いように
  はたらくのです。この力を操ったり、だましたりすることはできませんし、それはみ
 ずからの倫理観、つまり正義の体系をもっています。この力は、全体のニーズに対応
  するのです。



 スピンドリフトはこのような仮説についての実験を続けている。祈りはアメリカでは牛の産乳量の減少をもたらしたが、ハイチのヤギに対しては産乳量を増加させた。ハイチでは、ミルクはどうしても必要だった。アメリカではそうではなかったのである。スピンドリフトの研究者たちはこれを、「御心が行なわれますように」という祈りがもつ「制御力」が、盲目的に作用するのではなく、ある生き物と社会全体の両方のニーズを考慮していることを示す例だと考えている。


このような考え方にとまどう人もいるかもしれない。生き物のニーズとは何なのか?
共同体とか社会全体のニーズとは何なのか? そのバランスをどうとるのか? しかし「御心が行なわれますように」と祈るとき、私たちはその答えを知る必要はない。「制御力」は、私たちの助けなどなくても、ちゃんとその答えをもたらしてくれるのである。

 スピンドリフトのチームは、ハイチの田舎の人々の保健活動に関わるうちに、ミルクの保存の問題につきあたった。そこで彼らは、ミルクを新鮮に保つための、何か単純な冷却装置を与えてくださいと祈った。すると、装置は現れなかったものの、冷却しなくてもミルクが前より数日間、長もちするようになったのである。彼らはアメリカに帰ってから同じことを再現しようとしたが、うまくいかなかった。「どうして結果が違ってきたか私たちには確信はありませんが、ニーズの問題となんらかの関係があると考えています。アメリカの私の台所ではあまりミルクが長もちする必要はありませんが、ハイチでは、ミルクを新鮮に保つことはまさに命に関わることなのです」とローズは語っている。

 ローズの見解が正しいのなら ----- つまり実験を行なう場所と社会的な状況が重要な意味をもつなら ----- これは科学にとって重大な意味がある。現代科学の考え方では、実験が行なわれる場所はどこであってもいい。ある実験がボストンで成功するなら、それはブラジルでも成功するはずなのである。このことは、ある種の実験ではたしかに真実なのかもしれないが、祈りやそれに似た意識の活動についての研究では違うのかもしれない。科学理論は、祈りの作用のしかたを説明するために、現在の枠組みを拡大しなければならないのかもしれないのである。

 私は以前に、「御心が行なわれますように」というタイプの祈りは「逃げ」 の手だと非難する手紙を、ある男性から受け取ったことがある。「勇気のない人間がこういうやり方に惹かれるのです」と書いてあった。「『御心が行なわれますように』と祈れば、祈った人はいつも願いがかなったということができます。祈りが無意味だという事実と直面しないですむのです。勇気があれば、具体的なことを願って、祈りがかなえられない事実に直面する危険をおそれないでしょう」

 私はこの意見には反対である。「御心が行なわれますように」の類いの祈りは臆病者のためのものではなく、それが何であれ、絶対なるものの判断を受け入れる強さをもった人のためのものなのだ。特定の要求や願いごとをする方がずっと簡単である。より多くのミルクではなく、より少ないミルクで満足することの方が、ずっとたいへんなことなのだ。



172
 アイオワ州でとうもろこしに祈った例


 前にもふれた、「祈ってくれる人々のリスト作り」について考えてみよう。アイオワ州ガットンバーグのメソジスト派の牧師カール・E・グッドフェロー師のリストには、一万二〇〇〇の名前がのっている。これはアイオワ州北東部の彼の教区を構成する八つの郡の農家のほぼ総数にあたる。しかし、グッドフェロー師はもっと大きなことを考えている。
彼のリストに載る名前は、まもなく10万近くになるだろうというのだ。これは州全体のすべての農家の数である。

グッドフェロー師は、神学校で博士号をとるための研究の一環として、祈りについての調査を始めた。その当時彼は、祈りによっておこる教区内の社会的な変化に関心を抱いていた。やがて彼は、祈りが種子の発芽率と成長特性に影響を与えることを示す証拠を得た。
その後彼は、世界屈指の豊かな農地を誇るアイオワ州で農村地帯の牧師となり、祈りが植物に与える影響について実験するすばらしいチャンスをえたのである。
 グッドフェロー師の教区民たちは種子のために祈りはじめ、祝福された種子はより多くの実りをもたらした。続いて彼は、トウモロコシ畑の特定の区画への恵みを神に祈った。

実験に参加した農夫たちは、祝福を受けた区画はより多くのトウモロコシが実ったと報告してきた。農夫というのは現実的な人たちである。何かがうまくいくなら、それに注目する。マスコミもそうだった。グッドフェロー師のプロジェクトは全国的な出版物に取りあげられ、彼はいくつかのトーク番組にも招かれた。

 なぜこれほどの関心を巻きおこしたのだろう? 近年アメリカの中西部全域では、人々が不安を感じるほど穀物の不作が続いていた。地域経済は、ひとつの農場がつぶれるごとに約七万ドルの損失をこうむる。損失は経済的なことだけではない。アイオワ州では、農村に住んでいるいないにかかわらず、人々は農場との結びつきを強く感じている。農村人口の減少により、社会構造自体が危機に瀕しているのだ。隣人が姿を消し、学校や教会がさびれ、地域社会全体の存続が脅かされるのを、誰もが目のあたりにしているのである。

 グッドフェロー師は、自分の地域の他の聖職者たちと、この問題についての話し合いを始めた。話をした誰もが彼と同じように、農村の衰退がおよぼす影響を危倶していた。祈りが穀物に効いたのなら、農夫たちにも効かないはずはない、とグッドフェロー師は考えた。そして彼は、アイオワ中のすべての農夫のために、祈ってくれるパートナーたちを見つけようと決めたのである。パートナーたちには、一九九五年一〇月八日から一一月三〇日までのあいだ、つまり収穫の最盛期に、毎日祈ってもらうことにした。ところがアイオワ州全体で一〇万軒の農家があると知って、グッドフェロー師は驚いた。「ちょっと手に余ると思いました」と彼はいう。そこで計画を縮小し、彼の教区内にある八つの郡のおよそ一万二〇〇〇軒の農家だけを対象にしたのである。

 この企てに賛同した人たちは、めいめいが祈る対象となる一〇軒の農家の名簿と、農村の雰囲気を強く感じさせる敬慶なメッセージが載ったパンフレットを受け取った。名簿に載ったそれぞれの農家は、毎日、パートナーから名前をあげて祈ってもらった。

 祈る人の中には匿名を希望する人もいたが、教区民の中で祈る役を引き受けた人たちは、リストにある農家にしばしば手紙を書き、相手が希望すれば、このプロジェクトで使われている宗教的な内容のパンフレットも当人たちに送った。
「多くの農家にとっては、教会からの連絡といえば寄付金の依頼だけなんです」とグッドフェロー師はいう。「あなたたちのために祈っています、教会や地域社会や学校であなたたちが果たしている役割に感謝しています、なんていう便りをもらったのはたぶんこれが初めてでしょうね」

 教区民たちは、豊かな収穫のために祈ることとあわせて、農場での事故が減りますようにとも祈った。アメリカの農家ではこれが不幸の種になっているのである。農業はきつい仕事というだけでなく、非常に危険でもあるのだ。指や手や腕を失った人を、アメリカの農場ではよく見かけることがある。

 アイオワ州のプロジェクトで使用されたパンフレットは 『神の収穫-神の人々』と題されており、州の北東部に住む人々みずからが書いた、地元からの励ましに満ちたメッセージを集めたものである。メッセージはどれも感動的だ。

 オーロラとラモントにある合同メソジスト教会の牧師ジョアン・ハリー師は、みずからも農家の育ちで、彼女の父親が農作業中の事故で片腕を失ったときのこと、そしてその後のリハビリテーションについて書いている。彼女の父親は左手の代わりにつけた装具と「仲良くなり」、やはり怪我をした他の農夫たちのもとをよく訪れたという。そして神の恵みにより自分も立ち直れたのだから、君らにもできるさと励ましたのだそうだ。その数ページ後では、カルマーのリチャード・ショーという人が、農場を離れるしかなかったときの胸の痛みを語っている。このような信仰と喪失とのメッセージを読んで、私は深い感動をおぼえた。

 私自身もテキサス中部の小さな綿づくり農家で育ち、これまでずっと、農家には深い尊敬を抱いてきた。彼らはきびしい日々をすごしながらも、私がこれまで出会った中で最も精神性を重んじている人々だといっていい。彼らはたいてい、土地に対して神聖な、敬虔な気持ちを抱いている。アイオワの人たちの書いたメッセージを読んで、私はますますその思いを強くした。
「自然のしくみとサイクルを尊重しよう」 アイオワ州エッジウッドの合同メソジスト教会のメアリー・K・グリーン師は、一九九五年一〇月一〇日のメッセージで書いている。


私たちの周囲の環境を知り、何が必要かを知りましょう。正しい論理と、倫理と、
生命をはぐくむ愛の力を活用しましょう。羊飼いなら誰でもそうするように。
農地のもつ表土の喪失は、文明の基盤をゆるがす脅威です。農地がなくなれば、生
命の潜在力もなくなります。農民は毎年二四〇億トンの表土を消耗させることで、九
二〇〇万人以上の人々を養うことを要求されているのです!
私たちの未来は、いかに土地にダメージを与えずに農業をするかにかかっています。
地球上の大地と水の運命は、私たちがそれをどう使うかによって決まるのです。
すべての人間には行動するチャンスがあります。肉体的にも人格的にも精神的にも、私た
ちを支えてくれている土地とのきずなを実感しましょう。あなたがたの行ないが、神
の創りたもうた世界に実質的な善き変化をもたらすことを知り、それによって行動へ
の力を得ましょう。正しいことを始めましょう。善き羊飼いになりましょう。たとえ
それが困難で、不便で、代価のつくものであったとしてもです。


 カール・グッドフェロー氏の妻リズは、同年一〇月二八日付の次のようなメッセージを
書いている。彼女も農家の育ちで、子どもの頃、忙しい農家では痛みと苦労が決して縁遠
いものではないことを学んでいた。


   事故はあっというまにおこりました。私の兄がサイロの荷下ろし機のスイッチを入
  れたと思ったら、次の瞬間には父の腕から血が流れていました。上にいた父はその機
  械の調子を直そうとしていて何か叫んだのですが、私たちはその言葉を聞きまちがえ
  てしまったのです。「ああ、神様、助けてください。私たちは一体何をしてしまった
  のでしょう?」
   ありがたいことに父は冷静で、正気を保っていました。どうすればいいかを自分で
  素早く指示し、すぐに母といっしょに救急治療室へ向かいました。他の者は家に残り、
  仕事を片づけながらあれこれ思い悩んでいました。父さんは治るのかしら? どうし
  て、こんなことがおこらなくちゃいけないんだろう? もう、お手伝いができる日は
  こないのかしら? 私たちの心は絶望に沈んでいました。悪いことをするつもりなん
  かなかったのに。「ああ、神様。私の叫びを聞いてください。私の祈りを聞いてくだ
  さい……」父はその日のうちに帰ってきました。傷をすっかり縫い合わされ、微笑み
  ながら……。

 この祈りのプロジェクトが始まってからというもの、農夫たちは興味深い体験の報告をよせはじめた - 「災難になっていたかもしれないのに、そうならなかった出来事」の報告である。ある農夫は穀物といっしょに運搬車に吸い込まれてしまった。窒息する可能性もあったが、彼は無事ひきずり出されたという。ホークアイの近くに住む別の農夫は、一般道でコンバインを運転していたとき、突然大型トレーラーが目の前を横切った。彼が致命的な衝突事故を避けられたのは「奇跡」としか考えられないという。

 このような祈りの方法に反対する人たちもおり、穀物の豊かな実りを祈るなんて利己的だ、と彼らは主張する。しかし穀物のための祈りに反対するこの人たちは、その主張のつじつまを合わせるためなら、「わたしたちの日ごとの食物を、今日もお与えください」
(『マタイによる福音書』第六章第一一節) という「主への祈り」も拒否するのだろうか?
穀物で作られた糧、つまりパンのために祈ることを拒否するのだろうか?

 グッドフェロー師の祈りのプロジェクトは、単位面積あたりの収量を大きく増やした。
彼は、祈りは祈ってもらった人や状況のために作用するだけでなく、祈っている当人にとっても良い作用をおよぼすと信じている。

 彼は牧師として、誰かが他人の幸福のために祈れば、祈ったその人自身も思いやりのある人間になるという事実をずいぶん見てきた。そのような人は、人に電話をかける時間をつくったり、道で誰かに話しかけるために立ち止まったり、因っている人に食べ物をもっていったりするようになったのである。

 だから、グッドフェロー師の祈りのプロジェクトが農夫たちだけでなく、町の住人にも良い影響を与えたのも驚くにはあたらない。町の住人たちは農夫たちをよりよく理解するようになり、手紙や電話で彼らを気づかう気持ちを伝えるようになった。農夫たちはそれに感謝している。ある農夫は、実に多くの人が農家になんの好意ももっていないこのご時世に、応援してくれる人がいることを知るのはとてもうれしいといっている。メルヴィルのある農夫は電話してきてこういった。

「あなたは私をご存じないでしょうが、ひとことお礼がいいたかったんです。私たちは毎日いろいろなプレッシャーにさらされているから、誰かが私たちのことを気にかけていてくれると思うと、本当にうれしくなるんですよ」

 グッドフェロー師のもとへは、メッセージを載せたパンフレットを送ってほしいとか、祈りのネットワークをつくるのにアドバイスしてほしいとかいう要望が殺到している。彼は今アイオワ大学のチームと共同で、収穫高と農場での事故発生率について、祈りがあたえる影響の実際のデータを収集中である。彼はこのプログラムをアイオワの一〇万の農家すべてに拡大し、その次には中西部のすべての農家に拡大しようと計画している。そのための資金はどこからでるのかって? それもちゃんと彼の「祈り手のリスト」に載っている。



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新約聖書 「イエス本来の言葉... | トップ | 祈りとイメージ療法について... »
最新の画像もっと見る

祈りの科学的研究」カテゴリの最新記事