仏典、聖書、ジョージ・アダムスキー氏により伝えられた宇宙精神文明(空=言葉=天の父=宇宙の英知=真如=法・ダルマ=灯明)

ワクチン薬害、祈りの科学的研究、人体構成分子によるオーソモレキュラー医学、医学の大罪、太陽系惑星文明の科学的証拠

まとめ: 意識、無意識、宇宙意識。自己暗示=大明呪の願いを実現させるのは宇宙意識

2018年12月14日 21時55分45秒 | 想念の力、般若心経、仏教
私案: 人体、宇宙意識、無意識の個人的な部分(個人的潜在意識)、意識に関する要約

万物を創造して存在させているのは空です(空は根源体、万物の創造主、宇宙の英知、宇宙意識)。
人体と心(意識と無意識)は、本質相の空の言葉により創造され、縁起・現象相に存在させられています。

私の理解する範囲では、その人の気づいていないもう一人の自分である無意識(潜在意識)は、
①個人の想念・行動・習慣(癖)などを記録し身体と心に影響する「個人的な潜在的な心」の部分(以下「個人的潜在意識」と命名)と、
②宇宙の万物を作り・動かす「宇宙の心」の部分(以下「宇宙的潜在意識(宇宙意識)」と命名)
の2つの部分があるように思われます。

空は、無数の言葉により無数の万物を創造して存在させています。
Aさんという一人の人間も、万物の中の1つのものであり、Aさんは空の言葉により創造され、存在させられています。

空(宇宙意識)の思う言葉により創造されたAさんという一人の人も、空の言葉により創造され存在させられているため、個別化されたAさんの意識、Aさんの無意識の個人的な部分(個人的潜在意識)と、Aさんの無意識の宇宙意識の部分(空、宇宙・万物と一体)からなっています。

大般若経によれば、空=言葉(思い)であり、言葉には、
無意識の宇宙意識(空)の放つ言葉(思い)、
無意識の個人的な部分(個人的潜在意識)にある言葉(思い)、
意識の部分の言葉(思い)
の3種類があるように思われます。

これらの言葉(思い)は、いずれも空の性質を持つため時間と空間がなく、どんな遠距離でも言葉を思うと同時に存在します(非局在性(普遍性))。
つまり、空の言葉により創造された1人の人間であるAさんの意識と無意識の個人的な部分の思いは、非局在性(普遍性)を持っており、現象相に現象を生み出します。
人の意識の思いは、宇宙意識がやっているような地球や太陽や銀河系を作り動かす力はありませんから、人にできることは限られており、人は小さな創造主と言えると思います。



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まとめ: 意識、無意識、宇宙意識。自己暗示=大明呪の願いを実現させるのは宇宙意識

我々は、意識、無意識、宇宙意識について、混乱し、あやふやな考えになっていることが多いのが実情です。
ここで、私なりにまとめてみたいと思います。


(1)フロイトを否定した仏教的な考え

意識、無意識、宇宙意識の定義に関して、立命館大学文学部 林信弘教授が、立命館文学第625号に「大いなる宇宙意識」という論説を書いておられます:
『大いなる宇宙意識 立命館大学文学部 林信弘教授 立命館文学第625号』
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/625/625pdf/hayasi.pdf

ただし、この考えは、仏教的な考えであって、フロイトの考えを全面否定するものです。

フロイトは著名な学者であり、数多くの学者が彼の説を研究し支持していますが、もともと、フロイトの説は単なる1つの学説であり、それが真理であるという証拠はないのです。
フロイトの理論は、彼の独りよがりに過ぎないと言うことも可能です。


(2)フロイト及びフロイト派の悪業と大罪

フロイトは、心の苦悩が「性的本能の抑圧」の結果であることを強調する心理学を築き、フロイトに言わせれば、無意識とは病的な欲求と抑圧された夢想の貯蔵庫だそうです。

この考えを極端に応用して、「性の解放」を唱える一派が出現し、性と性行為を強調する文学、絵画、映画、ドラマ、アニメ、演劇、雑誌、書籍、ファッションが世界に氾濫し、特に、性を強調する言葉と映像がマスコミによりばら撒かれて、世界中の人を洗脳しています。
21世紀の今では、同性愛や性転換を強調する時代になっています。

しかし、人というものを性的本能という面だけからとらえるのは、あまりにも狭い極端でグロテスクで、人というものを矮小化したものの見方であり、人というものをほとんど説明できていないように思われ、私はフロイトを支持することはできません。

有名な心理学者のユングは、最初はフロイトと共同歩調をとっていましたが、後にその限界を知り、たもとを分かって独自の道を歩んでいます。


仏教では、人の心身の作用を次のような広範な要素により説明しており、フロイトの説明とは全く異なります。

(a)有為・縁起・現象相

五蘊: 色・受・想・行・識
六根: 眼・耳・鼻・舌・身・意
六境: 色・声・香・味・触・法
六識: 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識

十二因縁: 人間の心身を変化させる十二の要素および人間の心身を構成する十二の要素
出典: 仏陀が説かれた真理、沢辺悟明・沢辺恭一著、三学出版、p.148
・無明: 縁に依存しなければ存在できないと思っている無知なる本質
・行: 有為の存在を生じせしめ維持し変化させ消滅させる機能
・識: 一様の諸行を識別する機能、識別された性質、認識、遺伝
・名色: 仮に個人として存在させる個別機能、個性、利己作用
・六入: 心身に内在する五官の根、意識の根
・触: 心身に内在する外界との因縁和合作用
・受: 意識・無意識にわたる心身の記憶機能および記憶
・愛: 次々と欲望の対象を生み出す心身の機能
・取: 欲望の対象を取得しようとする心身の機能
・有: 有為法の世界に生存しようとする心身の機能
・生: 心身の無意識作用を顕在化する機能。誕生作用
・老死憂悲苦悩: 顕在化した心身の状態

苦集滅道: 「苦諦」・「集諦」・「滅諦」・「道諦」の四諦
・苦諦: 人生が苦である
・集諦: 苦の原因は無明である
・滅諦: 苦の根源の無明を滅すれば苦は滅する
・道諦: そのためには、その方法、道がある、八正道を実践せよ。
正見、正思、正語、正命、正業、正精進、正念(思念を正しく使う)、正定(正しい瞑想)

(b)無為・空・本質相
宇宙の万物は本質相では空という一つの統一体(根源体)であり、空の中には縁起・現象相の性質は全くなく、時間・空間もない。
空の中には、五蘊、六根、六境、六識、十二因縁、苦集滅道もない(これは般若心経の有名な一節に記載されている)。
空の放つ(思う)無数の個別化された言葉により縁起・現象相の万物は作られ動かされる。
言葉までは空の性質を持ち、時間・空間がなく、縁起・現象相に現象を生み出す。
人の心身も、空の言葉により創造された被造物である。
有為(縁起・現象相)と無為(空・本質相)は、別々の2つのものがあるのではなく、一つのものを2つの面から捉えて説明しているのであり、両者は2相一体である。
(この部分は、空を縁起・現象相で説明しようとする仏教界の常識・定説とは異なる少数派の見解のため、私のブログの調査報告を参照)


私には、フロイトの矮小で奇怪な性的本能説よりも、覚者であられるお釈迦様の説明の方が、真実であると思われます。


フロイト信者の方は驚かれると思いますが、医師としてのフロイトが、巨大製薬会社から金を受け取り、悲惨な大規模な薬害の原因を作り出した実状を記した文献をご紹介します。
この事実を読まれて、フロイトという医師を信頼するか否かを考えてみて下さい。
私には、金のためには手段を選ばない、悪魔メフィストに魂を売ったファウスト博士のように見えます。


出典: 新・医療ビジネスの闇:“病気産生”による日本崩壊の実態
学研パブリッシング (2013/5/21)
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
崎谷博征: 1968年、奈良県生まれ。奈良県立医科大学・大学院卒業。脳神経外科専門医、ガンの研究で医学博士取得。総合内科医。臨床心理士。国立大阪南医療センター、医真会八尾病院を経て、私立病院の副院長に就任。現在は「みどりの杜クリニック」を開業。(アマゾンの情報より抜粋)

p.122
『精神の以上に対する薬剤療法の歴史は、19世紀に遡ります。
ヨーロッパの精神異常者収容所では、興奮を鎮めるために「モルヒネ」や「アヘン」(ケシの果皮を乾燥させたもの。モルヒネやコデインなど20種類以上のアルカロイドを含む)などが使用されていました。
20世紀に入ると、精神分析の創始者であるジークムント・フロイト(1856-1939)は、「コカイン」を精神の病だけでなく、あらゆる病気に効き、しかも中毒性がない万能薬として賞賛する論文を多数書きました。
これによって100年前に、ヨーロッパ全土でコカイン中毒が蔓延することになりました。
フロイトは本当にコカインであらゆる病気が治癒すると考えたのでしょうか。
ここには利害の衝突がありました。
コカインから抽出した医薬品を製造したビッグファーマのメルク社とパーク・デーヴィス社から、フロイトは資金提供を受けていたのです。
まもなく、コカインには中毒性および毒性があることが分かり、医薬品としては廃れていきました。』



また、アメリカのフロイト派が、エミール・クーエ氏の自己暗示法に猛反対して潰したことが、次の本に紹介されています。

出典: 暗示で心と体を癒しなさい!
エミール・クーエ (著), 林陽 (翻訳)、かんき出版 (2009/2/16)
訳者(林陽)前書き p.12

『クーエは晩年にアメリカに2度渡り、東部と西部で講演旅行をしました。
百科事典の説明によれば、アメリカではクーエの庶民的手法はフロイト派に猛反対されて、あまり根付かずに終わったそうです。
しかし、実際にはアメリカの軍部は彼の手法を大衆コントロールに利用してきたのですから、アメリカ政府はこの秘密兵器が庶民の手に渡るのを好まなかったのではないかと私は個人的に思っています。』



フロイト派の精神分析は、何度も継続的に行う必要があり、1回に高額な料金をとりますから、フロイト派の医師は大儲けができます。
1970年代や80年代までのアメリカ映画やドラマには、フロイト派の精神分析の様子が登場するものが数多くありますから、アメリカ社会に定着して広く行われていたのは確実です。

クーエ氏の自己暗示は、一度習ってしまえば3歳の子供でも自分だけでできる非常に簡単な方法ですから、医師が関わる必要はないため、医師は金は儲かりません。
フロイト派にとって、クーエ氏の自己暗示が広まれば、誰もフロイト派の精神分析療法を受けなくなって、クリニックは潰れてしまうので、金儲けのために真実が広まるのを阻止して潰したと考えられます。


この悪質な陰謀のため、アメリカ医学からクーエ氏の自己暗示が消えてしまいました。
今、世界の医学はアメリカ医学ですから、アメリカ医学から自己暗示が消えてしまったことは、アメリカ国民や世界の人々にとって、非常に不幸なことです。
フロイト派の大罪は許しがたいものです。
金のためには手段を選ばないフロイトとフロイト派は、人の心や命に関与する資格はないと私は思います。


補足: 医学におけるエミール・クーエ氏の無意識に対する自己暗示
エミール・クーエ氏が開発した自己暗示は、心身医学の暗示療法として使用されていることが、心身医学の世界的な権威者である池見酉次郎 九州大学名誉教授の医学の専門書籍『医学における暗示療法 (1965年)』に記載されています。
しかし、日本の医療の現場で使用されていません。
これは、日本の医学がアメリカ医学(ロックフェラー医学)になっているため、かつてアメリカのフロイト派がクーエ氏の自己暗示を抹殺したことが影響していると考えられます。



(3)さて、私なりに林教授のこの論説の意識、無意識、宇宙意識に関する部分を要約すると、

(a)林信弘教授の見解: フロイト流の概念

近代では、フロイト以降に意識という言葉が使用されるようになった。
フロイトの言う意識とは自我意識であり、自我意識以外のものは無意識である。
フロイトは、自我意識 vs 無意識という対立構造を強調した。

ブログ著者の補足:
自我意識とは、「自分の生存・存在」を認識しているその人個人の意識(心)です。
自分と外界の他者(他人、動植物、物体など)の違いを区別し、「自己の独自性」を認識する意識です。
意識=自我意識=私という個人の心です。
これに対して、無意識とは、もう一人の自分であり、私という個人をはるかに超えた存在で、普段の生活では私が気付いていない心の部分です。つまり、私には2つの心がある、二人の私がいる、ということになります。



(b)私の理解する無意識の正体

私の理解する範囲では、その人の気づいていないもう一人の自分である無意識(潜在意識)は、
①個人の想念・行動・習慣(癖)などを記録し身体と心に影響する「個人的な潜在的な心」の部分(以下「個人的潜在意識」と命名)と、
②宇宙の万物を作り・動かす「宇宙の心」の部分(以下「宇宙的潜在意識(宇宙意識)」と命名)
の2つの部分があるように思われます。

人体は、基本的には宇宙意識により作り動かされていますが、個人的な意識(自我意識)と個人的潜在意識の部分も人体に影響を及ぼします。
例えば、個人的な意識(自我意識)の作用である怒りや恐怖は、交感神経を刺激し心拍と血圧を上げることは、医学的常識です。

フロイトは、西欧社会の政治的支配原理であるヘーゲル哲学の「正反合」の対立概念の公式を応用して、性的抑圧という極端に狭い点に異常に集中して、自我意識 vs 無意識という対立構造を強調し、無意識を敵対的に扱ったと考えられ、かなりいびつで異常な体系になっていると私は考えています。
私はフロイトとフロイト派に対する信頼性は持っていませんし、彼らが過去やって来た悪業を知っていますから、かなり強い嫌悪感を抱いています。



(c)林信弘教授の見解「大いなる宇宙意識」

林信弘教授は、次のような見解を記されています:

『仏教用語としての意識は、自我意識を指してはいるが、しかしそれは、「意識 対 無意識」の全体を包摂した「意識」(これを仏教では意識とは呼ばずに、「アラヤ識」と呼ぶ)の立場から自我意識を見ており、それゆえ「意識 対 無意識」という二元的対立にとらわれることがないのである。

「意識 対 無意識」、つまり「自我意識 対 無意識」を包摂した意識から出直さなければならないと思っている。
いまかりにこの意識を「大いなる宇宙意識」と呼ぶとして、大いなる宇宙意識の立場から見れば、無意識もまた意識である。大いなる宇宙意識としての意識なのである。

大いなる宇宙意識に従うならば、すべては大いなる宇宙意識の表現形態である。自我意識のみならず、他我も、自然的事物や社会的事物も、神や仏も、およそ存在するすべてのものは大いなる宇宙意識の表現形態である。そうしたすべてのものの生成・存続・消滅、あるいは分裂・矛盾・葛藤状態、そうしたことのすべてもまた大いなる宇宙意識の表現形態なのである。その意味で、この大いなる宇宙意識をインド教の根本用語を借りて、「ブラフマン(梵)」(brahman)と呼んでもいいであろう。しかもそれにはいかなる実体もなく、絶対の無(絶対の空)なのである。つまり大いなる宇宙意識は大いなる宇宙意識であって同時に無なる宇宙意識(空なる宇宙意識)であり、無なる宇宙意識(空なる宇宙意識)であって同時に大いなる宇宙意識だということである。換言すれば、大いなる宇宙意識は絶対の有であって同時に絶対の無(絶対の空)であり、絶対の無(絶対の空)であって同時に絶対の有だということである。しかも大いなる宇宙意識自身その無の意識(空の意識)においてあり、それゆえその大いなる宇宙意識の表現形態である我々に対してもまたその無の意識(空の意識)においてあるようたえず促し続けているのである。』



(d)ブログ著者の見解

林教授は、
全てのものは、大いなる宇宙意識=空なる宇宙意識=無なる宇宙意識=絶対の空=絶対の無であり、それにはいかなる実体もない
と書かれています。
つまり、林教授は、「空」は「無」であり「いかなる実体もない」、それが「宇宙意識」だと言われているように思われます。

私が調査した範囲内では、「空」という物理的実体のあるものが実際に存在し、それが本質相(無為)を形成しているが、空には縁起・現象相・物質界の性質は一切ない、時間・空間すらないと考えられます。
空がこのような性質を持っているため、人間の感覚器官(五感)では捉えることができず、空の存在を知り、理解することが難しいと考えられます。

林教授は空=無であり、何も存在しないとされています。この点は誤りだと思います。
私の調査は、仏陀は、空というものが物理的に実在することを教えていることを示しています。

何もない無から何かの物質や現象を生み出すことはできないと私には思われます。
私の調査では、空という物理的実体(根源体)が、言葉と呼ばれる物理量を発して(つまり空が言葉を思って)、時間・空間・万物を作り動かしていることを示しています。

「空の言葉=空の思い」であり、空は何らかの言葉を思って現象を起こしているのですから、空は意識(心)であると言うことも可能だと思います、つまり空=宇宙意識(宇宙心)と呼んでも差し支えないのではないでしょうか。

このように定義した上で、林教授の言われるように、
『大いなる宇宙意識に従うならば、すべては大いなる宇宙意識の表現形態である。自我意識のみならず、(ブログ著者補足:無意識も)、他我も、自然的事物や社会的事物も、神や仏も、およそ存在するすべてのものは大いなる宇宙意識の表現形態である。そうしたすべてのものの生成・存続・消滅、あるいは分裂・矛盾・葛藤状態、そうしたことのすべてもまた大いなる宇宙意識の表現形態なのである。』
であると私は考えています。

これを仏教的に一言で言い表せば、「一切法空、五蘊皆空」であり、万物は空=宇宙意識の表れである、ということになります。

無論、空=宇宙意識には、善、智慧、愛、慈悲、幸福、豊かさなどのような、我々が欲しいと望む善と呼ぶものが含まれていますが、同時に、悪、邪悪、悪逆、不幸、貧困などのような我々が望まない悪と呼ぶものも含まれています。



(e)自己暗示と大明呪で、願いをかなえるのは何者か?

20世紀始めにフランス、ヨーロッパ、アメリカなどで活躍されたエミール・クーエ氏の無意識(潜在意識)に対する自己暗示(想念の反復による祈り)により、非常に多くの病気が治る実績が報告されています。
(自己暗示、C.H.ブルックス, エミール・クーエ著, 河野徹訳, 法政大学出版局 を参照)

この中で、クーエ氏の自己暗示を詳細に調査したC.H.ブルックス氏は、p.108で次のように述べています。

『キリストが、治療の奇跡を行わせようとして使徒たちに与えた力は、数人の選ばれた個人に授けられた権能ではなく、全人類共有の遺産であると考えよう。
キリストが指し示した我々の内なる天国は、我々の日常生活を清めるとともに高め、よりすこやかな肉体と美しい精神を得るために、誰でも利用できるものと考えよう。
このように考えてくれば、クーエの一般公式に含まれた言葉は一種の祈りといえないだろうか。
自我の意識を超えたあるもの、われわれの背後に横たわる無限の力、何かこういうものに対する訴えとはいえないだろうか。』


ブルックス氏は、クーエ氏の自己暗示は「一種の祈り」であり、「無意識」=「自我の意識を超えたあるもの、われわれの背後に横たわる無限の力に対する訴え」と述べておられます。


クーエ氏とブルックス氏の解説には、宇宙意識(宇宙の英知)という言葉は出てきません。

クーエ氏とブルックス氏は、人間の脳により生み出される潜在意識(無意識)は肉体内に限定されるという19世紀末から20世紀初頭の当時の地球の科学的常識に基づいて、その効能の説明は人体内の現象に限定されたものであり、全宇宙の万物を作り動かす宇宙意識に関しては全く考慮されていませんので、肉体の外部にまで及ぶ縁起の現象界の全ての苦に対する効果は述べられていません。

クーエ氏とブルックス氏の解説では、自己暗示とは「無意識」=「自我の意識を超えたあるもの、われわれの背後に横たわる無限の力」に対する祈りとされていますから、ここで言う「無限の力」とは、キリスト教の神、天の父、近頃の言葉では宇宙意識のようなものと解釈することも可能です。

恐らく、クーエ氏とブルックス氏は、無意識は、キリスト教の神、天の父を意味している部分があることに気づいておられたが、宗教色を前面に出すと医学として扱いずらくなるため、自己暗示を医学として扱い一般に広めるために、このことを前面には出さなかったのではないかと推定しています。
また、欧米で強力な支配力を持っていたキリスト教の教義との対立や教会による反発・拒絶・攻撃を避ける目的もあったと推定しています。


私の理解する範囲では、その人の意識が気づいていないもう一人の自分である無意識(潜在意識)は、
① 個人の想念・行動・習慣(癖)などを記録し身体と心に影響する「個人的な無意識の心」の部分(個人的潜在意識)
② 宇宙全体の万物を作り動かしている「宇宙の心」の部分(「宇宙的無意識(宇宙意識、宇宙の英知)」、この部分が人体を制御)
の2つの部分があるように思われます。

ただし、クーエ氏が活躍された19世紀末から20世紀初頭のあの当時の科学も、21世紀の科学も、宇宙意識の存在を公式には認めていないのです。
しかし、一部の科学者は、宇宙意識のようなものの存在を研究しています。
ここでは、宇宙の万物を作り・動かす宇宙意識(空、真如、宇宙の英知、天の父、万物の創造主)が、物理的に実在して機能しているとして論を進めます。


人体を作り・動かしているのは宇宙意識ですから、クーエ氏の自己暗示により各種の疾患を治癒させているのは、意識(心)の言葉(思い)が、個人的無意識(潜在意識)と宇宙意識に作用していると考えられます。
恐らく、クーエ氏の自己暗示で実際に治癒を行っているのは、人体を作り・動かし、人体のことを全て熟知し、知的な判断能力を持っている宇宙意識という宇宙の知性体(Universal Intelligence)だと思われます。
ですから、クーエ氏の自己暗示は、別の言葉では、自我意識(意識)をはるかに越えた、宇宙意識に対する訴え・祈りであると考えられます。

クーエ氏の自己暗示の本を読む際には、「無意識・潜在意識に対する自己暗示」としてとらえるのではなく、「宇宙意識に対する祈り」としてとらえながら読むのが効果的であると思われます。


想念の力を使用して病気が治るメカニズムは、般若心経の大明呪もクーエ氏の自己暗示も同じであると考えられます。
なぜなら、大明呪もクーエ氏の自己暗示も、これら2つの方法では、治るという言葉=想念を繰り返すことにより、人間の人体の病気が治るからです。
2つの方法は同じことをやっているのですから、そのメカニズムも同じです。

クーエ氏は、想念の反復を、20世紀初めの科学的知識に基づいて、「潜在意識(無意識)に対する自己暗示」であると述べています。
しかし実は、クーエ氏は、約2600年前に観世音菩薩が般若心経で説かれた大明呪を独自に発見されていたのだと私は思います。

ただし、クーエ氏の場合は、人間の脳により生み出される潜在意識(無意識)は肉体内に限定されるという地球の科学的常識に基づいて、その効能の説明は人体内の現象に限定されたものであり、肉体の外部にまで及ぶ縁起の現象界の全ての苦に対する効果は述べられていません。
このため、クーエ氏の場合は、般若心経に説かれている能除一切苦(全ての苦しみを取り除く)の実現とは説かれていません。


宇宙意識は、無意識の個人的な部分を包含するものですから、クーエ氏の説く無意識に対する自己暗示と大明呪は、実は宇宙意識に対する祈りであり、その祈りの内容を実現させるのは宇宙意識(空、宇宙の英知、真如、法、ダルマ、天の父、万物の創造主)であると考えられます。

つまり、自己暗示=大明呪は、宇宙意識に対する訴え、祈りであり、祈りをかなえるのは宇宙意識です。
この宇宙意識は、人の意識(心)と人体(分子とイオンで構成)に存在して動かしており、同時に全宇宙の万物に存在して、これらを作り動かしています。
小さな自我に過ぎない「自分」が願いをかなえるのではなく、全宇宙の万物を作り・動かす宇宙意識が願いをかなえるのです。


人の祈り方の問題点としては、
一人の人の能力、現状把握能力、問題・課題解決能力、未来予測能力は、かなり限られたものであり、
その人の持っている具体的な願いが、本当に正しいものかどうかは、最も良いかどうかは、
その人には分からないという点があります。

しかし、宇宙意識(空、宇宙の英知、真如、法、ダルマ、天の父、万物の創造主)は、全てを把握し、問題・課題を解決し、未来を予測する能力もありますから、正しい判断ができると思われます。
ただし、縁起・現象相の存在物には限界(制限)がありますから、例えば2018年の日本という国の中のAという地方ならば、その時代とAという地方の制限がかかった状態で、最適な答えになるはずです。

現実に存在できないことや、荒唐無稽なことは、祈っても実現はできません。
例えば、今の日本で火星旅行を願っても技術的に不可能ですし、100年前の時代にパソコンやインターネットを祈っても技術的に不可能です。
普通の人には、死者を生き返らせることや、死なない肉体を手に入れることもできません。覚者であられるお釈迦様の肉体も80歳で機能を停止しました。


自分の持っている具体的・個別的な願いに固執して祈るのも一つの方法ですが、別の方法として、宇宙意識(空、宇宙の英知、真如、法、ダルマ、天の父、万物の創造主)の判断に任せるような形の祈りもあります。
例えば、Aさんという一人の人に限定して結婚したいと祈るのではなく、Aさんのような人と結婚したい(この場合はAさんだけではなく似たような他の人も含むので範囲が広い)、あるいは宇宙の英知に対して良縁結婚を祈り、特定の人を限定しないという祈り方もあります。

キリスト教では、キリストの「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイによる福音書第26章39節)という祈りのように、「主のみ心のままに」という形の祈りが、これに該当すると思われます。


(f)自己暗示=大明呪のコツは、無意識(宇宙意識)を信頼すること

『自己暗示』(C.H.ブルックス, エミール・クーエ著, 河野徹訳, 法政大学出版局)のp.73には次のように書かれています:

『信頼をこめて唱えることが大事だ。
唱え終わったら意識の役割は果たされたわけで、後は無条件で無意識に仕事をまかせる。
改善のきざしはまだかまだかとたえず気をもむなど無益である。
種子が芽をふいているかどうか調べるために、毎朝土を掘り起こす農婦などいないだろう。
いったん種を蒔いたら、若草が芽ぐむまでほうっておくよりほかない。
暗示の場合もこれと同じで、種子を蒔いたら、無意識がそれを実らせてくれることを確信して待つことだ。
あなたの意識が甘んじて無意識を放任するならば、結実の日はそれだけ早く訪れるだろう。

信頼を込めよ!
誘導自己暗示の力を奪うものはただ一つ
それは、こんなことをしても効き目はあるまいという不信の念である。
不信の念を抱くかぎり、まさにその事実によって、暗示の効果は消滅するであろう。
信頼が大きければ大きいほど、それだけ結果は根本的となり、かつ迅速に訪れてこよう。
もっとも、朝な夕なに、公式を20回ずつ唱えるだけの信頼をもてば、その結果は、やがてあなたの身の上に、御自分の望んで折られる証拠となってあらわれるだろう。
そうなれば、後は事実と信頼が互いに補強しあっていくであろう。』


クーエ氏とブルックス氏は、『信頼を込めよ!』と言われ、無意識(宇宙意識)に対して信頼を込めて自己暗示を実行することがコツであると述べています。
これは、言葉を変えれば、無意識(宇宙意識)に対する『信仰』を持つことがコツであると思われます。

大敵は、「そんなものはダメ、効果はない」と決めつけることで、このような決めつけが自己暗示=祈りとなって実現してしまい、願いがかなわなくなります。


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立命館文学第625号 大いなる宇宙意識
立命館大学文学部 林信弘教授
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/625/625pdf/hayasi.pdf

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第一節 大いなる宇宙意識
「意識」という日本語に該当する欧米語はたとえばフランス語では、〈conscience〉という言葉がそれに当たる。ただしフランス語では、この言葉には別に「良心」という意味があり、両義的でまぎらわしい。それに対して、英語やドイツ語では、この二つは明確に分けられ、前者の「意識」は、英語では〈consciousness〉、ドイツ語では〈Bewußtsein〉が、後者の「良心」は、英語では〈conscience〉、ドイツ語では〈Gewissen〉が当てられている。もちろんフランス語でも、〈inconscient〉(無意識)との対で、意識を意味する〈conscient〉という言葉が使われることもあるが、それで〈conscience〉の両義性が解消されるわけではない。いずれ解消されるかもしれないが、言葉というものは生きものなので、どうなるかわからない。
この意識という言葉は元来、欧米語の和訳語である。それゆえ日本語に該当する欧米語ではなく、むしろ欧米語に該当する日本語として「意識」という言葉が使われるようになったのである。しかし今では学術用語としてのみならず、ごく普通の日常語として通用している。しかし以前は、つまり明治期以前は、ほとんど使われることはなかった。「意」と「識」は使われても、その合成語としての「意識」が使われることはほとんどなかった。ただ仏教用語として多少使われてはいたが、その場合にも、煩悩に染まった「意識」(これをたとえば五〜六世紀に書かれたと言われる仏教論書『大乗起信論』では、「分離識」あるいは「分別事識」と呼ぶ)という負の意味を強く帯びて使われていたのである。
それはともかくとして、一般に「意識」というと、ただちに「意識対無意識」の二元的対立を思い起こすであろう。我々はこの対立に強くとらわれている。しかしこの二元的対立がいったい、いつから始まったのかは定かではない。おそらく人類が自我意識を有する存在であるかぎり、その出現当初からすでに始まっていたとも考えられる。だがこの二元的対立が強く我々をとらえるようになったのは、ごく最近のことであり、フロイトに始まる精神分析の普及以降ではないかと思う。
その精神分析のみならず、総じて「意識対無意識」という場合、その「意識」は言うまでもなく、「自我意識」を指しており、その自我意識ならざるものはすべて「無意識」とされる。それゆえこの二元的対立は明らかに自我意識の立場から見られた枠組みである。なるほど先ほど仏教用語としての意識に言及したが、その意識もまた自我意識を指してはいる。しかしそこでは、「意識対無意識」の全体を包摂した「意識」(これを仏教では意識とは呼ばずに、「アラヤ識」と呼ぶ)の立場から自我意識を見ており、それゆえ「意識対無意識」という二元的対立にとらわれることがないのである。

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筆者もまた、「意識対無意識」、つまり「自我意識対無意識」を包摂した意識から出直さなければならないと思っている。いまかりにこの意識を「大いなる宇宙意識」と呼ぶとして、この大いなる宇宙意識から見れば、無意識もまた意識である。もちろんフロイトはそれを言葉の濫用として絶対に認めないであろう。認めてしまえば、フロイトの精神分析はその根底から破綻してしまうからである。そこで彼は言う、「この「意識的」という言葉の意味を拡大して、所有者にすら分からないような意識までも、意識と名づける権利はわれわれにはないのである。哲学者たちには無意識的観念の存在を信ずることが容易ではないのであるが、私には無意識的意識の存在のほうがなお捉えがたいように思われる」(『自我論・不安本能論』フロイト著作集6、井村恒郎 小此木啓吾他訳、人文書院、四五頁)と。しかしそれは彼の精神分析があくまで自我心理学の立場に立っているからである。そうではなくて、大いなる宇宙意識の立場から見れば、無意識もまた意識である。大いなる宇宙意識としての意識なのである。
もとより「自我意識対無意識」の二元的対立は消えない。消えないままに、自我意識は自我意識であって、そのまま大いなる宇宙意識であり、大いなる宇宙意識もまた大いなる宇宙意識であって、そのまま自我意識である。それゆえたとえば「私は見る」というとき、その「私は見る」は「私は見る」であって、そのまま「大いなる宇宙意識は見る」であり、「大いなる宇宙意識は見る」は「大いなる宇宙意識は見る」であって、そのまま同時に「私は見る」なのである。あるいはまた、「私は欲する」というとき、その「私は欲する」は「私は欲する」であって、そのまま「大いなる宇宙意識は欲する」であり、「大いなる宇宙意識は欲する」は「大いなる宇宙意識は欲する」であって、そのまま同時に「私は欲する」なのである。そしてこれには例外はない。「私は知覚する」、「私は想像する」、「私は思考する」、「私は感じる」、「私は意志する」等々、ありとあらゆる自我意識において、自我意識は自我意識であって、同時に大いなる宇宙意識であり、大いなる宇宙意識もまた大いなる宇宙意識であって、同時に自我意識なのである。
そこには意識の二重性があるように見えるが、しかしそれは自我意識から見てのことであって、大いなる宇宙意識からすれば、二重でもなんでもなく、まったくの一重である。それも当然のことで、二元的対立自体、大いなる宇宙意識の表現形態だからである。
時に最近、「自我意識対無意識」にかわって、意識一元論的に「表層意識対深層意識」の二元的対立が使われることがあるが、この場合も、表層意識を自我意識、深層意識を無意識と解すれば、事態はまったく同じことであって、その二元的対立は二元的対立として消えないままに、表層意識は表層意識であって、そのまま深層意識であり、深層意識は深層意識であって、そのまま表層意識なのである。
しかし普通はそういうふうに受けとられることはない。この二元的対立の階層論はとかく図式的・機械的に受けとられ、その結果、両者はスタティックな仕方で、切断されてしまいがちである。それゆえ時に深層意識が表層意識に表出されることがあっても、それは深層意識がそのまま表層意識となるというふうにではなく、深層意識が表層意識を押しのけて、表出したのだと受けとられてしまうのである。それほどに二元的対立は根深く、大いなる宇宙意識に従うのは容易なことではないのである。

しかしもし大いなる宇宙意識に従うならば、すべては大いなる宇宙意識の表現形態である。自我意識のみならず、他我も、自然的事物や社会的事物も、神や仏も、およそ存在するすべてのものは大いなる宇宙意識の表現形態である。そうしたすべてのものの生成・存続・消滅、あるい

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は分裂・矛盾・葛藤状態、そうしたことのすべてもまた大いなる宇宙意識の表現形態なのである。その意味で、この大いなる宇宙意識をインド教の根本用語を借りて、「ブラフマン(梵)」(brahman)と呼んでもいいであろう。しかもそれにはいかなる実体もなく、絶対の無(絶対の空)なのである。つまり大いなる宇宙意識は大いなる宇宙意識であって同時に無なる宇宙意識(空なる宇宙意識)であり、無なる宇宙意識(空なる宇宙意識)であって同時に大いなる宇宙意識だということである。換言すれば、大いなる宇宙意識は絶対の有であって同時に絶対の無(絶対の空)であり、絶対の無(絶対の空)であって同時に絶対の有だということである。しかも大いなる宇宙意識自身その無の意識(空の意識)においてあり、それゆえその大いなる宇宙意識の表現形態である我々に対してもまたその無の意識(空の意識)においてあるようたえず促し続けているのである。
そうした大いなる宇宙意識に応答し、それに従うこと、それこそがとりもなおさず、あらゆる宗教(信仰)がそこから出て、そこにおいてあり、そこへとかえっていくところの、いわば「原宗教」(原信仰)に従うことにほかならないのである。
(以下略)


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