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small axe

たとえばこんな写真

宛先のない手紙

2021-01-05 | チラシノウラノシャシンロン

年末に映画を見る余裕の時間があり、レコーダーのリストを見てると何故かポツンとスターウォーズのエピソード6だけが残されていた。
最近ではスピンオフ作品なども含めて多くのSW関連作品があるが、繰り返し観るのはEP4・5・6だ。
監督のルーカスは「考え得る限り最高の作品を目指しているから」との理由で過去のシリーズ作品に修正を加えている。
写真でも過去の作品をプリントするときに前のものとは違うものにしたいということもあるだろう。
その時の制作者の考えがわかるという点でも過去の作品に手を加えるということは悪いことではないだろう。
第三者が手で改変されるのではなく監督本人がやってることなので問題はないが、手を加えられる前の作品が封印されている状況は納得がいかないような気も。

EP6も「そこが変わってしまうんだ」という部分がひっかかっていて、EP4/5を観て残してたんだとエンディングを見て思った。
SWシリーズの好きな設定で、ジェダイは死んだあとも霊体?になってパダワンと会話するというシーンがある。
これはルーカスが影響を受けた監督(人)と直接対話しなくても、自分内で会話できるという暗喩だと思う。
肉体的な死が絶対的な終わりではないというようなことにも繋がってるのかと。

写真を撮るときも過去の写真家の作品を思い浮かべてシャッターを切ることもある。それは霊体となったジェダイマスターとの会話のようなものだと。
自分の作品が良いものであるという価値観はそういった、過去の作品の価値観によって積み上げられたものの上に成り立っているものか。
伝統芸能は型をきめ長い時間をかけてそれをブラッシュアップしていく手法にいきついた結果「伝統」になったのではないか。

自分の作品も誰かに思ってもらえるような作品になって欲しかったが、写真展や写真集を出すような状況でもない。
インターネットの片隅で誰に向けるでもなく写真を見せるというのが関の山か。
それはあて名や宛先のない手紙を書いているようなもので、それもいいものかなと。
また良くわからないしまとまらない考えになってコーヒーをひと口飲んだ。
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良いのか悪いのかわからない写真

2007-05-29 | チラシノウラノシャシンロン
シャッターを切るとき「これは使える」という手応えのあるときや、「これはイマイチだけど一応撮っておこう」「良いところもあるけど、全体的には使えそうもない」などという事を考えながら、撮るものを選んでいる。

その良し悪しの判断基準は個人個人で異なると思うが、写真的な要素(対象物の素材感や形・色の面白さ)と、その組み合わせによる画面構成(グラフィカルな要素も含めて)、それにその対象物の社会的関係性などの組み合わせで判断されているだろう。さらにいうと撮影対象者のパーソナリティーの魅力(写真の後ろ側)というライフスタイル(生活様式)の価値観も反映される。

写真の上手い人はその好み(価値観)が一定していて、撮影対象が一見まとまっていないようなものでも、その選択する眼差しによって複数の写真による作品が一つにまとまる作品になる。まとめる方法としては撮る対象を具体的に統一したり、撮影期間や場所、撮影技法などを変えず作品をまとめるというやり方もあるだろう。しかし眼差しや撮影者が感じている世界観で写真をまとめるというやり方は難しいものではないか。

シャッターを切るときの気分で「これは良いのか悪いのかわからない、しかしとても好きだ」という気持ちで撮る写真がある。それは今まで経験してきた、自己と他者との間での価値観のすりあわせで「おそらく面白いと思ってもらえない」であろう写真でではないかという疑問の気持ちと、そのすりあわせで良しとする価値観を共有できているものもあり「おーなかなかいいね」と伝わるのではないかという期待がせめぎ合っている状態だから「わからない」ということなのか。

ポピュラリティーを得るということは、その自己と他者の価値観が合ったときに産まれると言うことか。それには人間の持つ煩悩に近いような原始的欲求のようなものもあるだろうし、思考的な喜びを見いだすような価値観もあるだろうし。それを良しとする割合によって一般的なポピュラリティーが決まるとするならば、ポピュラリティーというものを良しとする部分を、あえて自ら求めなくても良いということになるが。

写真的価値観としては、「わかったもの」をとるよりも「良いのか悪いのかわからない」というものを撮る方が面白い。それがうまく写真的作品になり、多くの共感を得て欲しいというのがシャッターを切る理由の一つであるように思う。ポピュラリティーを得られるに越したことはないが、価値観を曲げてまで作品の内容を変えることもない。

と、いつものまとまらない考えを巡らせながら「良いのか悪いのかわからないけど、これは良いんじゃないの?」という気分で、小学校の用具入れの写真を撮った。
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キッチリしない魅力

2007-02-18 | チラシノウラノシャシンロン
このあいだNHKで横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」閉店というニュースをやっていた。開店は1933(昭和8)年、日本で最古のジャズ喫茶とのこと。最後の一曲は店主が一番好きだったビルエバンスのワルツフォーデビー・My Foolish Heartだったそう。NHKニュースナインの両アナも通っていて、「昭和の文化がまたひとつ灯が消えました」と締めた。

日野皓正も「自分が聴きたい曲を勉強できた場所だった」とコメント、店内生演奏で亡き店主に捧げるとしてマイファニーバレンタインの一節が放送された。あとでそのニュースをみたジャズを全く聴かない知人が「ヒノテルのあの演奏はとても上手い人が吹いたような感じじゃなかった」と言っていた。たしかにきっちり綺麗に吹いたわけではなく、ジャズ的な崩しで演奏したものだったのでそんな感じに聞こえたのかも知れないが、気持ちのこもった感じで印象的な音だった。

写真もきっちり撮った写真から一歩崩して、あえて画面の構成等を崩したような作品があると思う。自分もそういう手法は好きで、あまりまとまりすぎる画面は作らないようにしているところがある。しかし「これだ」と思う「決まり」のポイントが外れてしまうと写真的にはその魅力を大幅に落としてしまうことになる。それはわずか数センチの事であったり、数秒の差であったりすることもある。

それは写真の内容を問題にするのとは違う価値観であり、音楽に例えると「歌詞」ではなく「メロディー」の部分で、写真を構成する要素としては「純写真的」な部分ではないか。それは明文化出来るものではなく、感覚の共有でしか理解出来ないものだろう。しかし多くの写真家が、ある共通の美的なものを感じて作品を作っていて、そこに上手さを感じて自分もそういった写真を撮りたいと思う感覚を持つ撮り手も多くいるはずだ。

「メロディー」を「演奏」することで感情を表現出来るのであれば、写真を「構成」する「撮影」でも「写真的な言葉」で「気分」を伝えることも可能だし、上手に語る事を嫌っても、自分らしく話すことで魅力的な作品も作れるのではないか。多くの人には通じない言葉かも知れないが、わかってくれる人には気に入ってもらいたいという気持ち。そんな「気分」は自分の好みの写真で上手く伝えることが出来るだろうか。それでどうなるわけでもない・かもしれないが。
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拝啓 Big U様

2006-07-04 | チラシノウラノシャシンロン
明日は娘の誕生日だ。2000年7月5日、その前日が植田正治・Big Uの亡くなられた日になる。

帝王切開での出産のため出産予定日が7月5日と決まっていて、出産帰省地の鹿児島に向かうべく前日の4日に広島を車で出た。天気も良くすごく暑い日だったように覚えている。車は山陽自動車道を通り「山の向こうは山陰か」なんて思いながら走っていた。

中国自動車道よりトンネルは少ないもののそれなりにトンネルがあり、夕方4時頃一つのトンネルを抜けた時にわかに天気が悪くなり、雷が鳴りハンドルをとられるほど突風が吹いて枯れ草が車に降ってきた。そして前が見えないほどの土砂降りになり、次のトンネルを抜けると何もなかったかのような晴天に戻っていた。

植田先生に最後にお会いしたのは98年だっただろうか。美術館でドイツとイタリアの6×6のモノクロ作品を見てもらった(みて戴いた、になると雰囲気が違うので)のが最後だった。植田先生に写真を見てもらうというのは、特にアドバイスが欲しいというわけでもなく、賞めてもらったりすることでもなく、レジェンドにみてもらっているということだけでとても嬉しいものだった。

すでにそのとき何となくではあったが、確かな感覚で「これが最後に作品を見てもらう機会だろうな」と密かに思っていた。植田先生の健康状態とかではなく、自分の作品製作の問題からだった。そんな気持ちもあったので、別れるときにみっともないが涙が出てしまった。それは実体としてではなく、ある種の自分中でのBig Uとの「お別れ」であったように思う。

鹿児島までは広島から休憩ありで8時間。熊本で高速を降りてしばらく走ったあたりで二重虹(ダブルレインボー)が架かっていた。ハワイではダブルレインボーは幸福の知らせとかなんとか言ってたなと思いつつ、消える前に急いで撮らねばと座席からウインドウ越しに一枚。車を脇に寄せて降りるとすでに虹は消えていた。これは明日出産予定だし良い知らせだな、と再び鹿児島に向かった。

その当時一般的な使用できる機材や感材で写真を撮り、特権階級的な作品ではないところで納得の出来るものは創れないか、という多少ひねくれた思いを持って作品を撮っていた。ミノルタα7700iにズームレンズという組み合わせでもやっていたが、あまりにも心許ないので機材を変更したりしていた。虹の写真は35mmカラーネガにNikonF3、55mmF1.2の組み合わせだった。

モノクロをやりたい気持ちは今でも消えていないが、現実的に「写真」をやるということで、物理的にも精神的にも何とか持ちこたえられそうな表現方法を模索していた時期だったように思う。フィニッシュのプリントは自分で行うという条件においても、かろうじてかなうものでもあった。

しかし納得できる時間を取ることも出来なかったし、モノクロバライタプリントと比べると満足できるものでもなかった。常に劣等感のようなものを持って作品をつくることは、どこか苦痛をともなう作業でもあった。作品制作に打ち込んでいた時期の充実感を味わっていただけに、その苦痛の矛先は自分に向き、それは自分が不甲斐ないせいだと思い(実際にその部分もある)、いっそ写真を辞めたほうが精神的に良いとも思ったし、今でも続けられているのかどうかも分からない。すでに続いてないといえばそうかもしれない。

到着の次の日、朝病院に寄って頼まれ物を取りに妻の実家に戻ると、友人から「植田先生が昨日の夕方、犬の散歩の途中に倒れて亡くなられた」と電話で連絡が入っていた。当時携帯電話を持っていなかったし、妻の実家はインターネットも使える環境ではなかった。その知らせを聞き再び病院に向かい、娘の出産を待った。植田先生の死の知らせはひどく悲しくもなかったが、娘が無事生まれた喜びもそれに打ち消されたかのように、飛び上がるように嬉しい気分でもなかった。悲しさでいうと最後に作品を見てもらったときの別れの方が強かったように思う。

ようやくデジタルカメラと周辺デバイスの発達によって、カラー作品もそこそこ納得のいくプリントが出来るような状況になりつつあるが、ゼラチンシルバープリントと比べると比較にならないほど満足のいくものではない。かといって暗室をつくってモノクロ施設を充実させれば解決する問題でもなく、相変わらず劣等感を持ったままやっていかなければならない。写真をやめていった多くの「幻の写真家」は、写真が嫌いで辞めていったわけではないと思いをよせる事もある。

それでもこんな状況でつくった「写真」を植田先生にみてもらう場面を想像すると、先生の前で心地よい緊張感を感じるところを思い浮かべる。娯楽や趣味・自分を高く見せる為のものではなく、自分内Big UやBig O・Big Mに見せて恥ずかしくない作品を創る。そんな気持ちを持って「写真」と向かいあっていきたい。
(敬具のかわりに二重虹の写真を)
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写真のオリジナリティー

2006-06-25 | チラシノウラノシャシンロン
雨も激しく降ってるし、ということで少しもの悲しい気分を癒すためにキースジャレットトリオ・星影のステラを聴く(スターライトって星影なの?)。最近ちょっと若者向け音楽を中心に聴いていたので、大人の音が気持ちよい(心地良いと気持ちいいの中間・笑)。

インプロビ物(即興演奏物)もいいけど、スタンダードを料理してっていうほうが聞き手にはやさしい。ハマりすぎず外れすぎないというか。写真にも同じ事が言えて、決まり文句過ぎず自己満足すぎないという塩梅が難しい。

聴きながらふと考えたことはインプロビゼーションと、何を撮ろうと考えず歩きながら写真を撮るのは似ているところがあるかなと。現場の景色に対応して絵を作り出すところなど即興感覚なのではないかと。

そんな即興の時点で他人と似たような物を撮ってしまうのはオリジナリティーの欠如ではないか。写真で言う表面的なナゾリは、音楽で言うとメロディーラインのパクりのようなもので、無意識であっても良くないものだと思う。ただ意識的にフレーズを引用してニヤリとさせるやり方もあるので、それはパクリとインスパイアの違いという部分か。

アマチュアのコンテストの写真の多くは(すべてではない)、過去見たことのあるお手本を元に撮影されたような物が多く、絵的には違っていても面白みを感じないし、面白い写真と思えないモノが多い。それを指導・選択する側もそのコミュニティーの維持のためという感覚なのだろうか。いや定型の良さという写真もあるか。それを良しとするかしないかで評価が分かれると。

引用の部分を個人的な言い回しで言うと、作品トータルの中でコントロールできる範囲で引用する分にはいいが、引用した要素を集めてまとめきれない物を作ってはいけないといった感じか。引用した物を一度自分の中に取り入れて、自分なりの答えをだせばいいというか。画面を構成する要素をまねるのではなく、その要素を構成して出来る作品全体から出る「気分」とか「テイスト」と呼ばれる「写真のキモ」を同じように出すという姿勢が大事であると。それにはその部分を読み取るセンスというか才能が必要だろう。

イタリア人画家の盗作が問題になっていたが、写真にも「それを引用しただけじゃ作品(群)にならないでしょ」というものもある。それは意識的である無しにかかわらず「面白くない写真」だと思う。しかしその作品が引用でしかないか、その要素を自らのオリジナリティーとして消化しあらたに展開しているかの明確な基準はなく、自らのセンス・プライドによって判断すべきものだ。

とかいって「おっ植田正治テイスト」とか「これはフリードランダー系」なんて遊んだりする感覚は悪くない・ニヤリ。
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写真の「気分」

2006-05-10 | チラシノウラノシャシンロン
写真には「気分」が写る。「現実」より「気分」の方が良く写るのではないかとすら思う。少なくとも自分が写している写真は、個人的な感情というか精神的なものを表現している自己表現のつもりだ。伝えたい「気分」に合う対象を探しながら撮影をしている、簡単にいうとそうだ。

写すものは場所は違っても似たような物を撮ってしまうことが多い。しかしそれは場所や光や時間が違えば、伝わる「気分」も違う物になる。その「気分」は撮影時に写し込むというよりも、写ってしまうと言ったほうがあっている。

そんな個人的な「気分」は自分で明確に言葉に出来るようなものでもなく、ましてや他者に上手く伝えることは難しいものだ。しかし映画や音楽や小説など、自分が面白いと思ったものが他者も似たような好みのグループだったり、写真においても確かに「わかった」ような気分にさせられるものもある。

確かなコミュニケーションではないかもしれないが、確実に同じような「気分」を共有していると言った感情が存在するといってもいいだろう。それは写真を撮るということ、作品を発表するということ、の根源的な欲求に結びついているのではないかと思う。

とても寂しい気分なのに誰にも会いたくない、そんな気分は写真で伝えることが出来るだろうか。
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「僕の自転車の後ろに乗りなよ」

2006-05-01 | チラシノウラノシャシンロン
夕方一仕事を終え(少し仕事をさぼり)散歩しながら写真を撮ることが好きだ。というかまとまった休みらしい休みがないので、現在写真を撮るという行為のすべてといっても過言ではない。

季節にもよるが、夕方の光は柔らかい。そして影が長く伸びたりして、写真の要素(エレメント)として面白い効果を出す。僕は好んで影というエレメントを使用する。

画面構成や要素同士の組み合わせで写真を構成するが、その要素自体はあくまでも一つのパーツで、それ自体が写真になるわけではない。ただ要素を強調するだけでは写真として弱いものになる。いろんな要素を組み合わせ、さらに複数の群写真(写真群)で一つの世界を作っていくのが、現在の写真作品のメインストリームだろう。

その「要素」は具体的な被写体であったり、画面構成であったり、色の組み合わせであったりする。それを組み合わせながらバリエーションをつけ、一つの世界感を崩さず、なおかつ複数の写真が似たようにならず、多くの人にうまく伝わるように作品をつくりたい。

テレンスマリックは日没後20~25分間の「マジック・アワー」と呼ぶ時間帯の撮影で、映画「天国の日々」のあの美しい映像を作ったそうだ。さ、仕事をさぼって気分良く、ユーガッタ…もとい夕方写真でも撮りに行こう。
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