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不思議活性

ちょっとした幸せを感じられたらな

小倉百人一首 70

2024-11-08 07:32:31 | 小倉百人一首
  第七十首

さびしさに 宿をたち出でて ながむれば
いづこも同じ     秋の夕暮れ      

 良暹法師         
(生没年不詳) 詳しい伝記は不明。比叡山の僧で、祇園社の別当。洛北・大原に隠棲、晩年は雲林院に住んだという。

部位 四季(秋) 出典 後拾遺集 

主題
ものみなが秋の夕暮れの寂寥をたたえている感慨 

歌意
あまりの寂しさに、庵の外に出て辺りを物思いにふけりながら眺めてみると、私の心が悲しみに沈んでいるせいだろうか、どこもおなじように寂しい秋の夕暮れであるなあ。

おそらく定家は、この良暹の歌に、新古今的寂寥の美へとつながるものを感じとっていたのであろう。
 「この淋しさは、まだ純粋に西行的のものだと言えない」と言われるが、すでに『百人一首』の歌としては、「寂寥に澄み通ってゆく淋しさ」の方向に鑑賞されていたといえよう。

 天台宗祇園別当。長元から康平にかけて、源経頼・素意法師・橘俊綱らと交わる。山城大原に移り住んだ頃に詠んだ歌のようです。『後拾遺集』以下に三十二首入集。


小倉百人一首 69

2024-11-07 02:06:25 | 小倉百人一首
  第六十九首

あらし吹く 三室の山の もみぢ葉は
竜田の川の        錦なりけり        

能因法師           
(988-?) 俗名は橘永愷。もと文章生だったが、二十六歳の頃に出家した。各地を旅し、歌を多く詠んだ。

部位 四季(秋) 出典 後拾遺集 

主題
竜田川に浮かぶもみじ葉の錦織のような美しさ 

歌意
激しい風によって吹き散らされた三室の山のもみじ葉は、やがて竜田の川に散り、ほら、水面を錦織の布のように鮮やかに彩っているよ。

永承四年(1049)十一月九日の内奥歌合、村上朝以来の栄ある晴儀の内奥歌合のために、入念に想をこしらえてよんだまさに晴れの歌というべきもの。
 
歌を藤原長能に指示し、道済・公資・経衡らとまじわり、漂白の行脚に歌作した。家集に『能因法師集』。『後拾遺』以下に六十七首入集。中古三十六歌仙の一。


小倉百人一首 68

2024-11-05 03:29:42 | 小倉百人一首
  第六十八首

心にもあらで うき世に ながらへば
恋しかるべき     夜半の月かな  

三条院 
(976-1017) 冷泉天皇の第二皇子。わずか五年で道長の圧迫により退位。出家してほどなく没した。

部位 雑  出典 後拾遺集 

主題
不遇な現実も恋しく思えるだろうという絶望的嘆き 

歌意
自分の本心に反して、この思うままにならないつらい世の中に生き永らえていたならば、その時はきっと恋しく思い出すに違いない。今夜のこの美しい月のことを。

「心にもあらで」 思いのほかに。自分の望みとちがって。「で」は打消を含んだ接続助詞。

 悲しい述懐の歌である。しかも、美しい歌である。寛和二年十一歳で東宮に立ち、永い東宮生活の後、寛弘八年三十六歳でようやく即位された天皇が、内裏が二度も炎上する不祥事、緑内障かと思われる眼病、暗に退位を迫る道長の専横、在位五年にして、譲位を決意された沈痛な感情からほとばしり出た歌であった。

 寛仁元年四月出家。法名金剛浄。同年五月崩御。四十二歳。

『後拾遺集』以下の勅撰集に八首入集。



小倉百人一首 67

2024-11-02 00:10:24 | 小倉百人一首
  第六十七首

春の夜の 夢ばかりなる 手枕に
かひなく立たむ 名こそ惜しけれ          

周防内侍           
平安後期の女流歌人で生没年不詳。後冷泉、白河、堀河天皇らに仕えた。晩年、病にかかり出家した。

部位 雑 出典 千載集 

主題
たわむれに契っては浮き名が立つと、断る気持ち 

歌意
春の夜の夢のようにはかないあなたの腕枕のために、つまらなく立ってしまう浮き名を残念に思うことです。

春二月の月の明るい夜、二条院で女房たちが物語をしていたところ、彼女が物に寄りふして「枕があればよいが」とひそかに言ったのを聞いた忠家が御簾の下から「これを枕に」といって、腕をさし入れたので、すかさず「かひな」をよみこんで、軽くそらしたのである。

 「手枕にかひなく」 何のかいもなく。つまらなく。「かひなくと云ふに、かひなと云う字を読み入れたり」

 天仁元年以後、出家してまもなく没。家集に『周防内集』がある。『後拾遺集』以下勅撰入集三十五首。


小倉百人一首 66

2024-10-31 08:07:47 | 小倉百人一首
 第六十六首

もろともに あはれと思へ 山桜
花よりほかに     知る人もなし  

前大僧正行尊    
(1055-1135) 敦明親王の孫。園城寺で修行して諸国を遍歴した。加持祈祷で効験を現し、天皇の護持僧となり、後に天台座主となった。

部位 雑  出典 金葉集 

主題
修行のために入った深山での山桜に呼びかける孤独感 

歌意
私がお前に親しみを感じるように、お前も一緒に私のことを懐かしく思っておくれ。山桜よ。お前以外に私の心を本当に知ってくれるものはいないのだから。

 山桜よ。こんな山奥では、花のお前以外に心持ちのわかる人はいないのだ。

 深い山の大峯山に修行のために、わけ入って思いもかけず山桜を見てよんだ歌。その作歌態度、表現方法に西行に通ずるものがあり、新古今時代の歌人たちの心をうった。

 熊野三山検校頂で山伏修験の行者として無双とされた。白河・鳥羽・崇徳三天皇の護持僧。家集に『行尊大僧正集』があり、諸国の零場を遍歴した時の詠が見える。

『金葉集』以下、勅撰集入集四十七首。


小倉百人一首 65

2024-10-29 08:30:01 | 小倉百人一首
  第六十五首

恨みわび ほさぬ袖だに あるものを
恋にくちなむ     名こそ惜しけれ

相模      
(生没年不詳) 源頼光の娘との説も。夫・大江公資の任地から相模と呼ばれた。離婚して脩子内親王に仕えた。

部位 恋  出典 後拾遺集 

主題
恋の浮き名に朽ちてしまいそうな自分を惜しむ心 

歌意
つれない人を恨み悲しんで流す涙で、乾くときもないこの袖さえ朽ちずに残っているのに、恋の噂で朽ちてしまう私の名が惜しいことですよ。

 永承六年五月五日のいわゆる内裏根合の歌。即興の歌と違って、恨み嘆く女の恋の心を、ねりあげた技巧の粋をつくしてよみあげている。

 この歌、古来二・三句の解釈に両説がある。一つは「袖だに朽ちずあるを」ととる説。一つは「袖だに朽ちてあるを」ととる説。

 『後拾遺』以下に百八首。中古三十六歌仙の一


小倉百人一首 64

2024-10-24 11:24:11 | 小倉百人一首
 第六十四首

朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
あらはれわたる 瀬々の網代木              
   
権中納言定頼    
藤原定頼 (995-1045) 藤原公任の子。父譲りで和歌に秀で、能書家でもあった。中古三十六歌仙の一人。

部位 四季(冬) 出典 千載集 

主題
霧の絶え間に網代木が見える宇治川のすがすがしさ 

歌意
朝、だんだんと明るくなってくる頃、宇治川に立ち込めた川霧がとぎれとぎれに晴れていき、その霧の間から、しだいに現れてくるあちらこちらの川瀬に仕掛けた網代木よ。

「瀬々の網代木」 川の流れをせき、魚をとるための網代かける杭。
『源氏物語』の「宇治十帖」の世界ともなった宇治のあたり、山深く、貴族の山荘などのあった宇治の早朝のすがすがしい景色をよんだ叙景歌。

 四条中納言とよばれ父をつぐ典型的な貴族歌人であった。物名歌にすぐれ、能書家であり、誦経の名手であった。『後拾遺集』以下に四十六首入集。中古三十六歌仙の一。


小倉百人一首 63

2024-10-22 23:02:22 | 小倉百人一首
  第六十三首


今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで     言ふよしもがな            

左京大夫道雅   
藤原道雅 (992-1054) 内大臣伊周の子。幼時に家が没落、荒んだ半生を送ったが、晩年は歌会など風流を楽しむ。

部位 恋  出典 後拾遺集 

主題
あきらめると一言だけでも直接告げたい切なる思い 

歌意
今となってはただもうあなたのことはきっぱり思い切ってしまおう、というその一言だけを、他人に頼んでではなくて、直接あなたに言う方法があってほしいものだなあ。

「言ふよしもがな」言う方法があってくれればよいなあ。三条天皇の皇女、前斎宮当子内親王との逢う瀬を絶たれ、悲痛な思いを切々と訴えた歌。
 当子内親王は三条天皇の第1皇女で、伊勢神宮の斎王(天皇に代わって伊勢神宮に仕える役職で皇族女性から選ばれる)を務めた高貴な身分。道雅と恋に落ちたのは、斎王を退下し京都に戻った後のことだった。

 許されることのない恋で、当子内親王は道雅とは二度と会えなくなった悲しみから出家。その後23歳という若さでこの世を去ったといいます。

 勅撰集入集七首にすぎないが、八条山荘の障子絵歌合を催したりもしている。


小倉百人一首 62

2024-10-17 04:53:16 | 小倉百人一首
 第六十二首

夜をこめて  鳥のそらねは はかるとも
よに逢坂の        関はゆるさじ

清少納言          
(生没年不詳) 清原深養父の曾孫、元輔の娘。橘則光の妻となり一子を成すが離別。一条天皇の中宮定子に仕えて『枕草子』を著した。

部位 雑  出典 後拾遺集 

主題
夜深いうちに帰った男に対し、やり返す心 

歌意
まだ夜も明けきらないうちに、鶏の鳴きまねをして、だまして通ろうとしても、私と逢うこの逢坂の関だけは決して通しはしませんから。

 当代の才人藤原行成と、堂々と『史記』の故事をふまえて応酬した清少納言の才知をひらめかせた歌。
 頭弁行成がしきりにきて清女と物語をしていたが、内裏の物忌のために深夜に別れ、翌朝、鶏鳴に促されて帰り名残り惜しいと手紙がきたのを、鶏鳴をとらえ、史記をふまえて、その鳥の声は孟嘗君かといってやる。

関はゆるさじ の「じ」は否定の意味を示す助動詞。許しますまい。

 家集に『清少納言集』がある。『後拾遺集』以下に十五首入集。中古三十六歌仙の一。


小倉百人一首 61

2024-10-15 22:16:50 | 小倉百人一首
  第六十一首

いにしへの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな     

伊勢大輔           
(生没年不詳) 大中臣能宣の孫。一条天皇の中宮彰子に仕えた。晩年は白河天皇の養育係を務めた。

部位 四季(春) 出典 詞花集 

主題
旧都平城京の八重桜が、平安京の宮中に咲く美しさ 

歌意
昔、奈良の都で咲き誇っていた八重桜が、今日は平安京のこの宮中でいちだんと美しく咲き誇っていることであるよ。

 この歌のよまれた場も、即座の詠で、その当意即妙の才気がたたえられた歌である。

「にほひぬるかな」 色美しく咲いていることよ。
 
 長元五年(1032)上東門院彰子菊合以下天喜四年(1056)頭中将顕房歌合までたびたびの歌合に出詠。康永三年(1060)以後、七十数歳で没。
 中古三十六歌仙の一。『後拾遺集』以下に五十一首入集。