とりあえずfuneの日記

瀬戸内海の島からこんにちは。

不便な島暮らし?いえいえ、結構楽しんでいます。海と花に囲まれてふう~って深呼吸。

中学校

2009年09月23日 | マイガーデン
解体されちゃいました。
当時の政治家の方々はあの世でどんな話をしてるかなぁ
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3 コメント

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Unknown (黄旗組)
2009-09-23 22:16:37
我が母校もとうとう無くなってしまいましたか。この前の櫂伝馬のときに見て、窓枠がなくなっていたので、解体するのだろうとは思っていたのですが。ただ、母校といっても、懐かしさも何にもありませんけどね。鉄筋コンクリートでも、元の場所に有れば母校と思って、懐かしく感じたでしょうけど。あんなわけの分からない場所に、醜い政争の果てに、大人の都合で造って、生徒たちにとっては、体育の授業にはとても迷惑だったことでしょう。雨の日でも、傘を差して体育館まで行かなければならないのですから。今まで、多くの木造校舎を写してきましたが、あんなに校舎から体育館や校庭が離れている学校を見たことがありません。昨年だったかに、夕張と同じく財政再建団体になりそうなほど、町の財政が逼迫しているとの新聞記事が出ていましたが、人も車も通らない、 神峰の山ろくにまで広い道をつけ、挙句の果てには、がけ崩れで何年も通行止めのまま放置です。土建屋のために要りもしない道路や箱物を造り、挙句の果てに財政破綻なんて、何をやっているのやらです。合併当事、東野は1億円の古里創生資金を、まるまま残していたそうですが、どうせ馬鹿なことに使ってしまったのでしょう。合併後の町議の報酬や、区長などの報酬も、3町での平均化をするのかと思いきや、一番高いところにあわせてしまったとか。今でも町政のおかしなやり方が耳に入ってきます。町民の生活を一番に考えた町政をしなさいといいたいですね。人様の掲示板で町政の悪口を言ってもしょうがないのですけど。<m(__)m>
母校 (fune)
2009-09-24 22:45:51
たしかに、懐かしさはないなあ。以前の木造の校舎が我が母校ですから。

今回の、解体された校舎には、保護者として入る機会があったけど、迷路というか、死角となる教室有りで、狭い敷地に建てたから仕方がないのだろうけど、好きではなかったですね。
子供たちはそれなりに思い出もあるだろうけど・・・・

とにかく、政争に巻き込まれた感じはぬぐえない。

反対に、小学校の方は木造の校舎も懐かしく思い出せるし、中庭の池も楽しかったよね。

次に建て替えられた鉄筋の校舎も引越し作業や、給食の運搬作業。低学年の教室に行くのも楽しかった。
中庭には交通公園。自転車テストがありましたね。思い出いっぱい!

今の校舎も(これも保護者として、行くのですが)明るくてフリースペースがあって、皆でのランチルーム。とにかく明るくてかわいい!
玄関を入って、事務室の所に仕掛け時計があって、それをながめる子供たちの笑顔がとても素敵ですと先生が言っていました。
職員室から、子供の登校の様子がわかるし、グラウンドの様子もわかるし。
保護者として安心な学校だったと思います。

同じ、学校施設なのに、建てる時期でずいぶん違うものですね。まあ、小学校と中学校を比べるのも無理があるか。
Unknown (黄旗組)
2009-09-27 09:55:13
小学校の中庭の池の島に、大きな木があったのを覚えています。
確か5年生か6年生の頃に、音楽の伊藤先生だったかが、アヒルの子供だったと思うのですが3羽泳がせていたのを思い出します。ただ、一晩でいなくなって、騒ぎになったのも覚えています。第一校舎と第二校舎間の渡り廊下が一段高くなっていて、そこが給食の配膳室になっていたのかな。第三校舎の一回が講堂で、当事は体育館が無かったですね。ジャングルジムの横のトイレの裏にブタ小屋があって、時々ウンチの掃除をしていました。小学校は、何もかも懐かしいです。私は1年から4年まで谷口和子先生でした。中学校も木造校舎で入学して、木造校舎で卒業ですから、その頃のことは、やはり何もかも懐かしいです。越智先生、谷口先生、若年先生、音楽の伊藤先生、美術の正田先生、そして図書室の望月先生。帰られるものなら1時間で良いから当時に帰ってみたいものです。

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