【「蟄居の日々ーーおうち生活」が続く世に、おもう の巻】
■今春、同好会の世話役を仰せつかったこともあって
会の広報公聴活動の一助に と「ネット掲示板」を創設したり、
居心地の悪そうな級位者を対象に短期講座を開いたり。
灯が消えそうな雰囲気を取っ払おうと、ごちゃごちゃやっている。
むろん、こういうことはやっていて面白いから
まずは自分自身のために勝手にやっている。
それなのに……
「そんなことをやって何になる」風のことをチクリ
時折 軽くいわれては、少し凹んで、消耗する。
「先輩、なあんにも分かっちゃいないなあ」
◇
■文化の日に生まれた「エッセイの大名人」が
亡くなられて、はや1カ月余りーー。
「失敗もまたよし」と題する小品を思い出し、読み返した。
「名人」は当時、仕事生活も切り上げようかという高齢となり、
残りの人生のあれこれを云々する。軽妙な筆致が愉しい。
序破急のうち「破」から紹介すると、こんな具合だ。
昔は隠居と言った。
仕事を若いものにゆずると裏へ引っ込むのである。
しかし、
「蔵売って日当りのよき牡丹かな」(瓢水)と悟ることは
できないのが普通である。
そこで、多くの隠居さんは、何かすることを見つける。
趣味の稽古を始める。囲碁、将棋にこる。
金があれば、書画骨董にうつつをぬかす。
著者(=名人)は手始めに「焼きものづくり」に挑戦するも
「個人月刊雑誌の発行」「テニス」「囲碁」「ゴルフ」と転戦。
趣味世界の迷宮に漂流する。そしてーー。
どれも これも ビギナーで終わった、
と ちょっぴり嘆息するのである。
大学出のインテリ棋士について勉強をはじめ、
これはおもしろいと思って、
碁会所みたいなところへ通うようになった。
知らない人と打つのがうっとうしく、
「碁敵(ごがたき)はにくさもにくしなつかしさ」
というところまでいかず退散、
ことに相手の人品が上品でなく、
闘志むき出しでつっかかってくるようだと
気分がよくない。
大先生には悪かったが自主落第する。
(中略)
ものごとは思うようにならないが、
失敗、敗北というものは人間をきたえる力をもっている。
それは老人も例外ではない。
失敗は最高の教師である――
そう思うと、やめたことが、
みんなありがたいような気がするのである。
■さて、わたしはといえば、
リアル碁の長期休眠から覚醒し、5年目に入ろうとしている。
未明の棋譜並べが愉しく、余禄として右肩上がりも期待している。
牛歩ではあるが、このごろ手が見え、何か分かってきた?
勝ったり負けたりだが、そこそこ気をよくしている。
一方、この趣味もどこまで続くのやら、と思う。
ブログ執筆・閲読に時間を奪われているのも懸念材料。
インドア、アウトドアでいろんなことをやってきたが
ものになったと胸を張れるものはない。
その時は、その時だったし、ま、いいか。
外山滋比古(とやま・しげひこ、1923年11月3日~2020年7月30日) 英文学者、言語学者、評論家、エッセイスト。文学博士。お茶の水女子大学名誉教授。全日本家庭教育研究会元総裁。生まれは三河。博覧強記からは意外だが「外国の土を踏まなかった」らしい。90代になっても旺盛な執筆活動を続ける。
文化の日 国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条で「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。1946(昭和21)年に日本国憲法が公布された日であり、新憲法が平和と文化を重視していることから「文化の日」と定められた。
▲未明、わたしはひとり静かに石を並べ、彼は じっと散歩の時を待っている